奇妙な合言葉

 ピザ店の二階。ピザを解凍し、店名がプリントされた正方形の紙の箱に入れ、全ての準備を終えると、珠子はバイクにまたがった。店長がリモコン(限りなくエアコンのリモコンに似ている)を操作すると、壁に据えつけられている、地味な古臭いドアのノブが回転し、外側に向かって開いていく。珠子はもう一度かぶったヘルメットを確認した。これがないと真空で窒息してしまう。問題ないようだ。エンジンをふかす。手慣れた手つきで前進させる。ドアは全開。

「いってらっしゃい!」見送る店長に、会釈する。加速して、一気に飛び出した。

 空中に踊り出たピザ店の三輪バイクは、勢いをつけてそのまま急速に上昇していく。対流圏を抜け、間もなく成層圏、続いて中間圏へ。ここまではいつも一息だ。遥か下方にはいつもながらの地方都市の地図のような街並みが広がり、ほとんど見分けがつかなくなって、やがて緑と青と白の油絵のようになっていく。熱圏。ここは宇宙服越しでもほんの少し蒸し暑い。もっともこれによってアルバイトをやめたくなるほどではない。バイクは更に上へ。母なる地球を飛び出し、遂には宇宙空間へ。フロントガラスの向こう側に、広大な闇が広がる。左右も上下も方角もない無限の空間に、光ったり、あるいは反射したりする星々が気の遠くなるほどの距離を隔てて浮かんでいる。珠子も五、六年前はこの風景に息を呑んだものだ。が、今では見慣れたものにすぎず、事務的に職務をこなすだけである。

 行き先の確認のためにメモを見ると、今までに何度か配達したことのある住所である。それでメモを丸めて捨てた。(配達員がしばしばこういった行いをするので、メモ用紙や鼻紙は新たなスペース・デブリとして国際問題になっている)。

 〈ピザーヤ〉のキャッチフレーズその一。「銀河系どこでも、三十分以内にお届けします!」。

 珠子はバイクのメーターの隣についているワープ装置を稼働した。

 十分後、バイクはアルファ・ケンタウリに到着した。ワープの仕組みなどは珠子にとってどうでもいいことである。スマートフォンの仕組みを知ってEメールを打つ人がいるだろうか? それと同じことである。とにかくそのスイッチを押すと、時間内に目的の惑星に着くのだ。

 それから多少うんざりした気持ちで、スペースポートに着陸する。この惑星は苦手なのである。どこもかしこも粘着質で、建物、道路、街路樹などにいたるまでピンク色の粘液が覆っている。それというのも、この惑星の住人が粘液を分泌しながら歩くからだ。体つきは似ていないものの、この惑星の住人を見ると珠子はいつもナメクジを思い出す。辟易するがひるんでいる時間はない。宣伝文句である三十分まで、あと十分を残すのみだ。

 ドライブスルーになっている入星カウンターに向かった。

「地球からです」

「はい、どうぞ」

 粘液質の職員は言い、いつものごとくすんなり通ることができた。

 地上に降り立つと、宇宙船バイクは通常のバイクとして稼働する。珠子は普段通りの手つきでハンドルを握り、迷うこともなく猛スピードで目的の住所にたどり着いた。あと五分。今回もビジネスクオリティは保てたようだ。

 アパートの一室の粘着質の呼び鈴を押すと、中から声が聞こえた。

「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?」

「はあ?」

 思わず間の抜けた声を出すと、中の声は少し高くなった。

「両手の鳴る音は知る! 片手の鳴る音はいかに?!」

「ええと、〈ピザーヤ〉です」

「両手の鳴る音は知る!! 片手の鳴る音はいかに?!!」

「ご注文のピザをお届けに上がりました」

「片手の鳴る音はいかに?!!!」

 珠子は口をつぐみ、今一度表札を確認した。確かにこの部屋で間違いない。ということは、お客は大分きこしめしてるらしいわ。うんざりした。ただでさえ苦手な粘液系惑星なのに、客は酔っ払いなんて。あと一分。

「お客様、ピザをお持ちしました……開けて!」話の通じない相手にやけになって負けじと大声で言い返した。すると功を奏したのか、少し沈黙が続いた後、やや落ち着いたらしい声が返ってきた。

「ピザ屋? 本当か?」

「本当ですとも」あんたが頼んだんでしょ、とは心の中だけで毒づいた。

「ふうん、そうか。実を言うと、最近ドアに簡単なパスワードをつけたんだ」

「パスワード?」

「うん、質問に答えられた者だけが入れるように」

「それってパスワードじゃなくてただの合言葉では?」

「どっちでもいい。とにかく最近物騒なんでね」

「あー……わかりました。ピザをお持ちしました」

 珠子の怒りが爆発する一秒前にドアはおずおずと細く開かれ、中からピンク色の粘液生物が顔をのぞかせた。

「ああ本当だ。ピザ屋さんだね」

 言うやいなやドアが閉まった。珠子がピザの箱を手のひらの上に載せたまま絶望に陥っていると、もう一度今度は大きく開いた。閉まったのはドアチェーンを外すためだったのだ。

「はい、お金。千二百円だったよね」

「毎度ありがとうございます。それでは」

「ありがとう。あんたんとこのピザは相当おいしいよ。いつも救われてる」

 珠子は背中を向けるところだったが、この言葉に思わず嬉しくなって言葉を返した。が、それが運の尽きだったとも言える。

「そう言ってもらえると嬉しいです」照れくさそうに言ってから、会話をつなぐためなんとなしにつけ加えた。「ところで最近物騒とは? なんだか心配ですね」

 粘液生物は粘液生物なりのもじもじとした動作を始めたが、珠子が唖然としていると、やがて意を決したように言い出した。

「ピザ屋さんはほかの惑星の人だから話してもいいかな。実はつい先日恐ろしい法律が施行されたんだ」

「えっ?」珠子は思わぬ展開に多少身構えてしまった。単に空き巣か何かで治安が良くないというレベルの話題だと思ったのに。

「知らない? 銀河系では結構話題になってたんだけどな。『ギャラクシー・ステーション』でも特集してたし。他惑星生成物輸出入禁止法」

 珠子は目を白黒させる。コメントしようがないし、話の展開についていけなかった。

「だからナーバスになってるんだよね。僕だけじゃなくて、一般市民はみんな。だって、他惑星の品物はどんなものでも買ったり売ったりしたらダメって話なんだぜ。反対運動も随分あったけど結局国会ではすんなり通っちゃってさ。本当に知らないの? 最近なんでもそんな感じ。輸出入の禁止は手始めだって噂だよ。この惑星の政府は僕ら市民を抑えつけたくてしょうがないのさ。『一九八四年』の世界だよ。あの小説も面白かったなあ。他人には理解されないが、僕は地球の小説が大好きなんだ。特にあの作品は傑作だったよ。でもこんな事態になったんじゃあ、まだ読んでない小さな子供たちはもう読むことができないんだろうね」

「ちょっ……ちょっと待って!」珠子は粘液生物のおしゃべりにどうにか割って入っていった。「それじゃピザの配達も禁止されてるんですか?」

「もちろん。だからこれは密輸入」粘液生物はにやっと笑った。

 珠子は今度こそ背中を向けようとした。振り返った途端、何者かにぶつかった。そいつも同じピンク色の粘液生物だが、ピザを買った粘液生物とは全く違う威圧感があった。珠子は尻もちをつく。初登場の粘液生物は地上の珠子に不快な顔を近づけた。

「ピザ密輸出で逮捕する」

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