第二九話 シャルルロアの戦い・モンスの戦い 1/5

『戦争の三分の一の要素は、士気である』

                         ―ナポレオン・ボナパルト―


「――ギリッ」

ガリア軍最左翼を預かる第五軍司令官シャルル・ランレザックは司令室で歯ぎしりをする。視界が一瞬暗転したかと思うと、次は光が走った。吐き気が波のように襲い掛かってくる。唾を飲み込んで胃酸をぶちまけないように耐える。もう既に胃袋の中は空っぽで、出るのは苦い胃酸のみであった。ハンカチで口を抑え、視線を机に落とす。

作戦図には自軍とブリタニア軍、そしてゲーマルト軍の位置が書き込まれていた。作戦図を見る限り、我が方が圧倒的に不利だった。塹壕を掘った右翼は唯一戦いを有利に進めており、右隣で攻勢計画に従事している第四軍との連絡は保たれていた。しかし、それ以外は手一杯の状態だった。中央は圧迫されており、左翼も相当の被害を受けている。左隣のブリタニア軍がモンスで遅滞戦闘に励んでいるが、どこまでもつかは不明であった。各方面から届く途絶え途絶えの通信から察するに、自軍の眼前には少なくとも数倍のゲーマルト軍が控えている。


言ったとおりじゃないか!ゲーマルトの主攻はフランドル方面だ!!この状況下で潰走せずに各部隊との連絡を維持しているだけでも大勲章ものだ。全く、褒めてほしい!!

ランレザックは気持ちをなんとか落ち着かせようとする。大波が如く押し寄せるゲーマルト軍に心が押しつぶされようとしていた。自分の不安は的中した。ここを突破されてしまえば、攻勢に出ている第四・第三軍の後背地が脅かされる。そうなれば、セダンの再来だ。中央部のガリア軍が殲滅されればガリアの敗北は必定だった。

「第一〇軍団司令部より伝令!!前面にて敵大攻勢!!果敢に防衛中とのことです!!」

「第三軍団司令部より伝令!!前面にて敵大攻勢!!陣地を死守中とのことです!!」

右翼を除く、全線にわたっての大攻勢。しかし、このタイミングでの撤退は許されない。余力ある限りはここを死守しなければならない。希望を抱けるとしたら、第四軍・第三軍の攻勢が成功することであった。彼らがゲーマルトの前線を突破できれば形成は逆転できる。我らの眼前にいる敵軍は自軍の左翼が脅かされるからだ。優勢な右翼を攻勢に転ずれば逆に奴らを半包囲ぐらいはできるだろう。


「第五軍総員に通達。撤退命令が出るまで己の陣地を死守せよ。同胞の運命がその双肩に懸かっていることを忘れるな」


ランレザックは死守命令を出した。ここを無残にも突破される訳にはいかない。最悪でも右隣にいる第四軍の連絡は維持しなければならない。覚悟を決めた男の姿がそこにはあった。ところが、ここで驚きの情報が転がり込んでくる。

ブリタニア海外派遣軍B E F司令官フレンチ元帥閣下より伝令!!モンスにてワラキア・ガリア連合軍と共同でゲーマルト軍を一時撃退することに成功!!」

「ワラキア!?噂で聞いていたが本当に来ていたのか!?いや、そんなことよりブリタニアは遅滞戦闘に励んでいたはず。反撃に出たのか!?」

「BEFと共同ですが、ワラキア・ガリア連合軍一個連隊がゲーマルト軍に対して勇猛果敢に突撃を敢行!!数個師団を足止めすることに成功したようです!!」

「なっ!一個連隊で数個師団の足止め!?莫迦な!!」

ランレザックは驚愕を隠せなかった。たった一個連隊で数個師団を撃退。本当なら軍事教練の戦史に載ってもおかしくはない。何をどうやったかはまったくわからなかったが、兎にも角にも、ランルザックはモンスが安定したとの報告を聞いて少しだけ余裕が出てきた。自軍の左翼が一時的にではあるが、脅かされることはなくなったからである。

自軍の中央と左翼が敵前面からの攻勢に耐えることができれば、今日はなんとかなるのだが。

ランレザックは深く椅子に腰掛け、安堵のため息を付いた。


一方遡ること十数時間前。モンスではBEFとゲーマルトとの間で死闘が行われていた。

「同胞を見捨てる訳にはいかない。ランレザック殿との約束通り、二四時間はここの線を維持する」

ブリタニア海外派遣軍B E F司令官ジョン・デントン・ピンクストン・フレンチ元帥は部下達に指示を与えていく。ここで退いてしまってはどうにもしようがなくなる。同盟国ガリアを見捨てるわけにはいかなかった。元来海洋国であるブリタニアにはゲーマルトを押しとどめるだけの陸軍力は存在しない。ガリア陸軍が崩壊してしまえばゲーマルトはヨーロッパ大陸を席巻するだろう。それはブリタニアの国益に対する重大な脅威であった。頼みの綱であるガリアが危殆に瀕している以上、ここでブリタニアの貴重な陸軍兵力を磨り潰すのは価値ある行動だった。

幸いブリタニア陸軍の練度は高かった。全員が職業軍人であり、兵員数はゲーマルトに遥かに劣るとは言え、練度そのものは欧州最高のものであった。特にブリタニアのライフル銃兵はボルトアクションライフルを用いながらも分発二〇~三〇という驚異的な早打ちができた。戦場ではゲーマルト軍の突撃に対してライフル銃兵が容赦なく銃雨を浴びせた。あまりの弾幕にゲーマルト兵が機関銃で攻撃されていると勘違いしたほどである。

しかし、いくら練度が高いとはいえ損害は抑えられない。素人でもライフル銃を持てばブリタニアのライフル銃兵を簡単に殺すことが出来る。戦争において練度は重要であるとはいえ、決定的なものではない。結局物量の前では為す術がない。また、元々の人員が少ないブリタニア陸軍の一兵士とゲーマルトの一兵士とはその価値が違った。フレンチは限られた資源をやりくりせねばならならなかった。

二四時間。ランレザックとの約束。モンスをそれだけでもいいから守ってくれとの約束。否、それはもはや哀願であった。損害を出しつつもなんとか耐えられるであろうギリギリの時間。損害を最大限抑制して二四時間はモンスを防衛する。それがフレンチの期待されている役目であった。

フレンチは作戦地図を指でなぞる。遠くで砲撃が聞こえる。この地図の上で幾千、幾万の将兵が戦い、そして死んでいっている。分かっていることとはいえ、現実感を喪失しそうだった。

「頑張ってくれ。二四時間だ。二四時間だけ耐えてくれ」

フレンチはそう呟いて、地図をなぞることしかできなかった。


実際、フレンチの指先では一進一退の攻防が続いていた。突撃と突撃の応酬。ゲーマルトが突撃すればブリタニアのライフル銃と機関銃が火を噴く。ゲーマルトの突撃が止まれば、次はブリタニアが突撃する。しかし、その突撃はゲーマルトの機関銃でいとも簡単に阻まれる。流される両軍のおびただしい血で買うは時間である。時は金なり。一秒、一分、一時間。たったそれだけの時間を買うために多くの人命が費やされていく。

ブリタニアの防御陣地に砲弾が撃ち込まれる。数人が炸裂に巻き込まれる。一人は下半身がはじけ飛び、もう一人は胸に破片が突き刺さって赤い鮮血が吹き出る。声ある限り彼らは泣き叫ぶ。叫ぶのは母の名前だったり、或いは敵への怨嗟であったりした。人によっては自分の最期を感じ取り、懐に忍ばせた血塗れの遺書を戦友に託したりする者もいる。銃弾が飛び交い、土埃が戦場を覆う。理性的なものはここには存在しない。あるのは本能と復讐心だけだった。しかし、手にするそのライフルは理性と合理性の産物。

隣りにいた部下が言葉を失い、眼光は濁る。口は半開きになり、頬には肺から漏れ出た血が垂れていた。筋肉は弛緩し、表情はだらける。その顔から苦しみは感じられなかった。あるとすれば驚きだった。見開かれた眼。それは死が突然彼の身に降り掛かったことを証明していた。

死を死と認識せずに死を経験するのは一体どんな気分なのか。苦しんで死ぬのと、ぽっくり逝くのといったいどちらが幸せなのか。ブリタニアのある下士官はふとそんな物思いに耽る。心臓がバクバクと警鐘を鳴らすが、自分自身はいやに落ち着いていた。時間が引き伸ばされ、眼前の光景がどこか他人事のように思えた。ここにいるようでここに居ない感覚。浮遊感。

――ピチャリ。一瞬の衝撃。何か熱いものを右目の辺りに感じる。手を右目の方に持っていくと、血がべっとりとつく。白い何かと真っ赤な鮮血。視界がゆがむ。意識が曖昧になる。あ。これが死―――


戦況は刻々と変化する。続々と届けられる報告にフレンチは目を通す。段々と悪化する戦況。寄せられる報告は全てかんばしくはなかった。しかし、そのなかでも最悪の報告は前線で第二師団麾下の一部部隊が包囲された、というものであった。その数およそ二個連隊。包囲を解かなければ貴重な二個連隊がまるまる消えてしまう。限られた人命資源しか有していないBEFにとって、これは危機的な状況であった。

「予備軍を投入してはいかがでしょうか?」

傍らに控える副官がフレンチに進言する。

「たしかに。二個連隊をむざむざ失う訳にはいかない。しかし我々が有する予備軍は二個旅団だけ。これで解囲できるかは非常に怪しい」

予備軍を何時投入するかは指揮官が果たしうる全ての決定の中でもっとも重要である。最適なタイミングで予備軍を投入すれば、場合によって不利な状況から有利な状況へと戦況をひっくり返すことすら不可能ではないのだ。古今東西、決定的な勝利の裏には予備軍の投入が行われていることが少なくない。四個歩兵師団と一個騎兵師団しか有していないBEFが捻出しうる最大限の予備軍二個旅団。これをどう活かすか。フレンチの指揮官としての才覚が問われる場面であった。

「……包囲を解囲する。予備軍を投入せよ。地点は――」

フレンチが予備軍を投入することを決定した矢先、緊急の報告が入る。

「――報告!!無線での報告です!送付元は連合国軍!!『我、友朋救援ノ為突撃ヲ敢行ス。攻勢精神ノ発露ヲ期待サレタシ。我二続ケ』とのことです!」

「なに!?連合軍だと??ガリア軍ではないのか!!一体どこの所属だ!!」

「不明です!!」

「そんな馬鹿なことあるか!平文か!?」

「暗号文です!!」

「なっ……んだと!!」

事態は急転する。ありえない。ありえないのだ。無線でしかもブリタニア用の暗号文。明らかにこちら側の軍だった。しかし、連合軍などというのは存在しない。敢えて言うならブリタニアとガリアが便宜的に連合軍と言えるだけだ。正式には存在しない。

電文が正しければ、連合軍などという所属不明の軍隊が存在することになる。そんなことはありえない。しかもこのタイミングで突撃だと?まるでこちら側の行動を見透かしているかのような行動ではないか。

「第二師団より報告!!所属不明の部隊が眼前で突撃を敢行!!急速に前面の圧力が弱まっている模様!!ゲーマルトに対して反撃の許可を請うています!!」

不明な電文が送られてきてから、事態は雪崩を打って目まぐるしく変化する。体勢を立て直したばかりの第二師団の眼前で所属不明の軍がゲーマルトに突撃を敢行したのだ。突撃したのは恐らく例の連合軍とか言う輩であるのは直ぐに推察された。しかし、今まさに何が起きているのかフレンチには全くわからなかった。戦場においては常に予想外のことが起きる。それは分かっている。しかし、ここまで予想外の事態に直面するとは思っていなかった。

「フレンチ閣下!ご指示を!!」

副官がフレンチに詰め寄る。一瞬、思案に暮れていたフレンチであったが、ここは戦場だ。刻々と変化する状況の中、限られた情報を寄せ集めて決断する。それが指揮官の務めである。ここが戦場である以上、フレンチは決断しなければならなかった。何がどうなっているかはわからなかったが、とにかく、眼前の敵の圧力は弱まっているのは事実であった。反撃の好機。とすればフレンチが下す決断は自明である。

「ブリタニア軍諸氏に告ぐ。反撃は今である!!予備軍を投入せよ!!総力を上げて同胞を救い出せ!!」


連合軍にとって初めての実戦が行われる。東欧の梟雄。異端にして守護者。十字教の尖兵。欧州最強の古参兵。西欧社会は吸血鬼の恐ろしさを初めて身をもって体験することとなる。

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