第二八話 ブリタニア海外派遣軍(BEF)派遣決定

『「会議は踊る。されど進まず」。……どうもこの言葉は、きわめて表面的にしか理解されていないように思われる。……この言葉を発したのは、当時八十歳を過ぎていたリーニュの老公爵であった。そして、このリーニュ公は、踊っているだけでいっこうに進行しない会議を、しかめ面で見ていたのではなく、率先して踊り、恋をし、それを楽しみつづけて、会議が終わる前に、幸福に死んで行ったのであった。それどころか、彼は踊る会議について次のように述べている。「奇妙なことだし、私にしても初めての経験だが、ここでは快楽の追求が平和を実現しつつある」。……人々は会議が停滞し、踊るばかりであることに満足はしていなかったけれども、それが深刻な危機の表れであるとは、決して考えていなかった。彼らは踊る会議を揶揄しながら、それを楽しんでいたのである』

                   ―高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊Ⅰ』―


ブリタニア連合王国閣議の席中、陸相ホレイショ・ハーバート・キッチナー伯は首相アスキス伯に向かって断定した。

「アスキス首相。この戦争は三年。いや、もっと長く続くでしょう。に備えて早急に対策を」

の例外を除いて閣僚たちから哄笑が巻き起こる。莫迦な。合理的に考えてありえない。素人でもわかる。閣僚たちはまさにそう言わんばかりだった。


「ふふ。そんなわけ無いだろう?キッチナー伯らしくないな」

アスキスが緩む口元を抑えながら言う。彼はボーア戦争の英雄がそんなことを言うとは思ってもなかった。ブリタニアで知らぬものはいない英雄。ブリタニアにとってキッチナーなしでの戦争は考えられなかった。それほどの傑物が素人でも分かる世迷い言を顔色変えずに言ってのけるのが可笑しかった。

そんな訳がないのだ。三年以上の戦争?長期戦?そんなこと起こりようがない。

「長期戦など起こりようがないだろう。そんな戦争をしてしまったらヨーロッパは破産だ。経済がボロボロになるし、まずそれ以上に戦費を賄えない。扶桑ふそうが扶瑠戦争でどれだけ国債を刷ったと思っているのだ。扶桑は破産一歩手前だったのだぞ?一年半でそれだ。三年も列強同士が全力で殴り合いをしてみろ。列強全てが破産だ」

経済相がキッチナーに反駁する。普通、合理的に考えれば正にその通りだった。近代戦争は莫大なカネがかかる。その戦費を三年も賄うのは不可能に思われた。経済相が続ける。

「それにだ。長期戦ということは、その間延々と軍需品を生産し続けなくてはならんだろう?そんなこと出来るとは思えん。大量の軍隊を前線に出しつつ軍需品を滞りなく生産する。それは国家の能力を超えている。そんな無茶を管理できるだけの能力は神にでもならないと無理だ」

経済相の懸念は当時の常識からすれば的を射ている。しかし、彼らの常識はもう過去の遺物と化していた。人類は社会を高度に組織化する技術をもう殆ど完成させていた。官僚制度は全能の域にまで達していたのである。そのことに気づかなかったのは、ただ人類が己の能力に無自覚だったからに過ぎない。しかし、この場でその能力に自覚的だった人間が幾人かいる。


「あら、そうかしらぁ。キッチナー陸相の言は正しいと思うわぁ」

海軍大臣ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル卿はキッチナーを擁護した。彼女のストレートの銀髪は上質なシルクを思わせる。長いまつげに大きな目。憂いをたたえた瞳の奥は鋭い意志を感じさせる。頬に射す薄い紅が若さを主張し、意味深長な微笑は知性を漂わていた。身にまとう黒と白を基調としたドレスと肌の青さは、その生まれが高貴であることを言外に証明する。目立ちたがり屋の英雄狂、果ては戦争狂などと揶揄されている彼女ではあったが、その出で立ちはそのような醜聞を露程にも感じさせなかった(もっとも、それは見た目だけの話であったのだが)。チャーチルを微笑を崩さずに続ける。

「だって、これ。王の戦争じゃなくて、国民の戦争ですもの」

チャーチルは天性の才を持っていた。それは文才である。チャーチルの鋭い洞察力とそれを十全に伝える文才。彼女の政治家に必要なそれらの才覚は古今東西、あらゆる政治家と比しても傑出していた。チャーチルのこの言葉は時代に対して鋭敏な感受性を有している者に対して鋭く刺さった。外相エドワード・グレイはチャーチルの言葉を聞いて、ただでさえ陰鬱な瞳が更に濁った。

「簡単な話よ。昔の戦争は国王や貴族の私利私欲で行われたわぁ。だからこそ妥協が成立した。これ以上戦うのは双方得にならないからやめようってね。でも、今は違うわぁ。一度開戦したら最期。。我々政治家は国民を無視できないからよ。圧倒的な勝利か、無残な敗北か。この二つの結末しか国民は受け入れない。妥協は成立しない」

グレイはチャーチルの言葉を認めざるを得なかった。自分たち外交官が好き勝手にやれる時代は終わったのだ。外交官の行動の自由は民主主義の要請によって狭まれた。外交がますます国民の利益に従属することで国際関係は血生臭い現実政治リアルポリティックスへと変貌した。国際関係は単純な図式に還元された。三国同盟と三国協商の対立。国益と国益の対立という図式。それを調停するのは我々の能力を超えていた。そして実際、戦争は勃発した。「会議は踊る。されど進まず」。そのような古き良きヨーロッパの外交は出来なくなっていた。外交をゲームのように捉えていた時代は、そのお陰で衝突を避けることができた。皆必死ではなかったのだ。しかし、今は皆が必死だ。そして必死になればなるほどどうしようもなくなっていった。同盟関係が二極化していった。雁字搦めにされていった。三国同盟か三国協商か。二者択一。ヨーロッパは分断された。吹き荒れる国家主義ナショナリズムに感化された国民自身の手によって分断されたのだ。ヨーロッパの上流階級に存在したヨーロッパ文明という同一性。そして、それへの敬意は足元から崩れ去った。

皮肉なものだ。戦争で苦しむのは国民だと言うのに。高貴な外交を続けられていたら戦争は避けられたであろうに。貴族精神ノブレス・オブリージュ。それが平和を維持していたというのに……

「その理屈は分からないでもない。しかし、普我戦争は短期間で終わったではないか!!今回も直ぐに終わるのではないか?」

それでも納得できない経済相がチャーチルに詰め寄る。しかし、答えたのはキッチナーであった。

「いや、普我戦争が短期戦に終わったのはセダンでガリア軍が包囲殲滅されたからに過ぎない。しかし、今回の戦争は違う。絶対にそうはならない。機関銃が敵の進撃を阻み、鉄道が戦線の穴を埋めるからだ。戦線は必ず膠着する。そうなればチャーチル卿の言うとおり徹底的にやるしかない。力尽きるまでやるしかないのだ。出せるものは全て出さなければならない。鉄も鉛も硝石も食料も衣服も。ありとあらゆる全ての資源を戦争に注力しなくてはならない。血もしかりだ」

キッチナーから語られる恐ろしい未来。経済相は軍事面には素人だったので、キッチナーの言がどこまで正しいかは判断しかねた。しかし、キッチナーの言葉は自信で満ち溢れており、あながち間違いではないように思われた。

戦争のために国の資源をすべて動員する。このような試みは世界史上類がない。経済相は不意に大きな不安に襲われた。自分の予想より遥かに破滅的な結果をこの戦争はもたらすのではないかと。

「それが正しいとすれば、私は莫大な戦費を集め無くてはならないじゃない。増税なんかではどうにもならないわね。どこまで国債を発行すればすむことやら……」

蔵相デビッド・ロイド・ジョージ伯爵が恨み言のように呟く。透き通るような純白の肌に品が良い緋色の衣服。燦めく金髪が憂いを帯びた青い眼にかかり、高潔さと気品を感じさせた。外見はチャーチルと同じように高貴な生まれであるように見えるが、雰囲気は少し違っていた。ロイド・ジョージは尊大で貴族主義のチャーチルよりも、どちらかと言えば庶民寄りの人間であり、砕けた雰囲気を身に纏っていた。実際、彼女の政治的立場は弱者保護を第一に考えていた。彼女は年金や国民保険、失業保険などの創設を唱え、高福祉国家化への先鞭をつけることとなる。

「『現在の問題は演説や多数決ではなく、ただ鉄と血によってのみ解決される』。まったく。鉄と血を出させるために銀行の株主たちの前でどれだけ演説をしなくちゃいけないかわかってほしいものね」

ロイド・ジョージがビスマルクの言葉を引用して冷笑を浮かべた。グレイはその言葉を聞いてビスマルクに思いを馳せる。ビスマルクは変質するヨーロッパの外交情勢に唯一対応できた男であった。彼は複雑かつ流動的な外交を展開することでゲーマルトの国益を確保しつつヨーロッパの平和を維持した。血生臭い現実政治リアルポリティックスを御し得た稀代の外交家。国益を最大限追求しつつ、平和を維持し得た天才。ヨーロッパにとって惜しむらくは第二のビスマルクが現れなかったことにある。

……いや、これは間違いだろう。根本的な問題の所在は、今までの我々の外交古典外交がその構造内部に大戦争勃発を避けることができるような機構を有していなかったことにあるのだ。第二のビスマルクが現れなかったことが根本的な問題というわけではない。遅かれ早かれ、戦争勃発は避けられたなかったのだ。

一個人が歴史という大河に翻弄される。その時、歴史の大河は運命と形容される。グレイは自分が、否、正しくはがその運命に囚われていることに気づいて溜息をついた。

全知全能の神ならいざしらず。不完全な我々にどうしろというのか。どうすればよかったのだ!!どうすれば戦争は避けれたのか!!どうしようもなかったではないか!!

「戦争は嫌だ、嫌だ」

グレイは唸ることしかできなかった。会議の文脈を無視したグレイの呻きは無視され、会議は淡々と進む。踊らない会議。進む会議。

「さぁ、皆さん。戦争を初めましょう。ガリアに軍隊を送り込みましょう。国王の海軍ロイヤル・ネイビーは既に総動員を終えていますから」

チャーチルがクスクス嗤う。有史以来最悪の戦争に誰も彼もが巻き込まれていく。

「ゲーマルトにガリアが蹂躙されるのは許されない。我が国の国益上、それは許されることではない。ガリアに派兵しなければならない。陸軍はガリアに派兵する」

陸相キッチナーと海相チャーチルの双方がヨーロッパ大陸への派兵を提案する。会議の大勢は決した。


斯くてブリタニア海外派遣軍(Britania Expeditionary Force、通称BEF)が編成され、四個歩兵師団、一個騎兵師団がヨーロッパ大陸へ派遣されることが決定する。志願兵制度を採っていたブリタニア軍は初期こそ兵員数は少なかったものの、キッチナーの呼びかけにより志願兵が殺到。その兵員数が激増することとなる。

ブリタニア軍がヨーロッパ大陸に派遣されるのはクリミア戦争以来、実に半世紀ぶりである。ガリアとブリタニアとルーシア、そしてゲーマルトにオーストリー。ヨーロッパの列強全てがヨーロッパ大陸を舞台に苛烈な戦争に突き進んでいく。平和は遂に破られたのだ。殺戮の舞台は用意された。人命が機関銃よりも安い戦争が始まったのである。膨大な人命が後に戦場にべられることとなる。

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