國境の戰い
第二七話 プラン17発動
『戦前のフランス陸軍では「攻勢崇拝」がひじょうに奨励されていた結果、兵士たちは遮蔽物もない開けた地面を、弾倉式の連発ライフル銃や機関銃の銃火に身をさらして突撃したために、一九一四年八月一日~十二月一日の四ヶ月間に六四万人の死者を出した。この初戦の大出血だけで、第一次世界大戦を通じてのフランス軍の戦死者のほとんど半数に達した』
―ウィリアム・H・マクニール『戦争の世界史―技術と軍隊と社会―』―
ガリア国防最高軍事会議。ガリア軍の制服組トップが一堂に会するこの会議で、
ゲーマルト軍が北方から近づいているとの情報は早々に陽動として片付けられた。しかし、少なくともフランドルにはあのリエージュ要塞を圧倒できるだけの戦力が集まっている。本当にゲーマルトの主攻はアルザス・ロレーヌなのか?もし、やつらの主攻が北部なら我々は包囲されてしまうのではないか?プラン17は修正すべきではないか?
ランルザックの額に大粒の冷や汗が流れる。この場にいる指揮官の多くが自分と同じ可能性に突き当たっているはずだった。しかし、会議の進行を留めてまでも進言する人間は皆無。ここにいる人間は決して無能ではない。それぐらいの可能性は頭に浮かんでいるはずだ。にも関わらずその可能性が一顧だにされず陽動との一言で片付けられる。正しいことを正しいと言えない会議。しかし表面上は問題なく進む会議。その息苦しさと異常性にランルザックは恐れを抱いた。
まるで何かの宗教儀式ではないか。ランルザックは一拍ため息を付いた。プラン17は
「怖れながらも、申し上げます」
ランレザックは絞り出すようなかすれ声で会議の進行を中断させた。ガリアのトップ達の眼が一点に集まる。宗教じみた秩序が破られ、会議に重い緊張が走った。
「フランドル軍から寄せられた情報をもう一度精査すべきかと本官は愚考いたします」
「……話を蒸し返すのかね?」
参謀総長ジョフルがランレザックを睨めつける。鋭い眼光がランレザックの胸を締め付けた。胃がチクチクと痛む。ランレザックは一瞬胃液が逆流しそうになるのを押さえて次の言葉を絞り出した。
「しかし、情報部の分析によるとフランドルに侵入したゲーマルト軍は本隊である可能性があるとの報告が――」
「なにを弱気なことを言っているのか!!
ガリア軍第二〇軍団司令官フェルディナン・フォッシュはランレザックを叱責する。攻勢精神の生みの親、つまりは今のガリア軍の戦闘教義を生み出した男からの怒号にランレザックは更に縮こまる。胃酸がどんどん昇り、胃酸の酸っぱさが鼻を抜けていく。
「攻勢精神の大切さは十分理解しております!しかし、ゲーマルト国境に配備する戦力はあまりにも多すぎます!もし万一敵の主攻がフランドル方面であり、加えて我々の攻勢計画が頓挫した場合、我軍は包囲されます!!しかも敵のアルザス・ロレーヌ地方の備えは盤石であり、そのような強固な地域に攻勢をかけるのは――」
「黙れ、ランレザック」
一蹴。理を詰めた議論は宗教的秘儀の前では無意味であった。敵の主攻はアルザス・ロレーヌ。それを攻勢精神をもって一挙に撃滅する。全てはプラン17の思し召しがまま。事態はプラン17の想定のまま動いているという
「フランドルからの報告は偽報だ。フランドルが救援欲しさにゲーマルトを過大評価しているに過ぎん!フランドルに侵入したゲーマルトは陽動だ!!」
情報が間違っている。確かにその可能性はあるだろう。フランドルが救援の為にゲーマルト軍を過大に評価しているという可能性は一見すれば理に適っている。しかし、それにしても我軍が抱える情報部が出した結論に無視を決め込むのはとてもではないが理に適っているとは思えなかった。
「攻勢精神があればゲーマルトなどウジ汚い羽虫だ!簡単に踏み潰せる!!アルザス・ロレーヌを我軍が突破すればゲーマルトの戦略など意味をなさん!!」
自分に都合の悪い情報は握りつぶし、苦しい理由付けをする。理が通っているようで理が通ってない意見。
「他になにか言いたいものはいるか?」
ジョフルが舐め回すように辺りを睨めつける。無言。誰もが無言。賛成とも言わずに、反対とも言わない。沈黙は金、雄弁は銀。消極的肯定。皆が皆この寡黙なカタロニア人を怖れていた。
「……予定通り、プラン17を発動する。諸君の奮闘を祈る」
ジョフルが決定を下す。ランレザックの懸念はジョフルには伝わらなかった。ジョフルのこの決定をもって会議は解散となった。
ランレザックは重い足取りで会議室をあとにする。ランレザックはジョフルが出した結論には納得していなかった。だが、さりとてそれに代わる代案を提出できたわけではなかった。現計画の問題点は指摘できる。しかし、ランレザックは攻勢精神に代わる戦闘教義を見出し得なかった。ランレザックは自分を慰める。
どうしようもなかった。あそこで粘っても、自分は代案を提出できなかった。仕方がない。
――閉塞感。ガリア軍の上層部を覆っていたのはこの種の閉塞感であった。
何をどう考えても分からない。次の戦争の形態などわかるはずがない。そこで現れたのがフォッシュの
もしかしたら、もしかしたらアルザス・ロレーヌ地方を突破できるかもしれない。そうすればゲーマルトの主攻がフランドルだろうが、アルザス・ロレーヌ地方だろうが関係ない。ゲーマルトは我々の前に膝を屈するだろう。
ランレザックは楽観主義とは分かっていたが、そうやって自分を慰めるしかなかった。盲信の為には楽観主義が必要だった。司令部に楽観主義が
ランルザックはトイレに駆け込む。喉が焼けるように痛む。胃酸の酸っぱさが鼻につく。水面器に浮かぶ吐瀉物がグルグルと眼の前を回っていた。
敵の主攻が万一フランドル方面であれば自分の部下が矢面に立つことになる。これから起こるであろう悲劇に自分は耐えられるのだろうか?
鏡を見る。随分とやつれた自分の姿がそこにはあった。
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