第二二話 リエージュ要塞攻防戦 3/4
『ルーデンドルフは時に四九歳。一七九三年当時のポナパルトのちょうど二倍の年齢である。そしてルーデンドルフにとってリエージュは、ポナパルトのトゥーロンと同じだった』
―バーバラ・タックマン『八月の砲声(上)』―
黒塗りの自動車に揺られるは一人の女とその副官である。
女は目が少し切り上がっていたものの端正な顔立ちをしており、その色白の肌は未だ瑞々しかった。御年既に四九歳であったが、その外見はとてもそうは見えず、三十路を前にした女性のそれであった。それもそのはずである。彼女は参謀畑の出身ではあったが、同時に魔法使いでもあったのである。
――ここで魔法使いとは何か、そして魔力とは何であるかを答えなければならないだろう。魔法使いとは魔力を有するものを指す。そして魔力を有するものはなぜか女性がほとんどであり、そしてこれまた不思議な事に老いが通常の人間よりも遅いとされている。なぜそうなるのかは明確な答えが未だに出ていない。ただ経験則として斯くあるものとして受け止められていたのである。魔力は未だに神秘のベールに包まれており、科学万能の世にあっても解明されざる迷信としてその威容を保ち続けていた――
細い指で自分の頬をなぞりながら彼女は怪しく嗤う。彼女が発する雰囲気は冷徹で、そしてどこか意地の悪さを感じさせるものであった。頬をなぞり終えるとそのまま手首を折り曲げ、右手の甲で頬を支えて前を見据えた。一連の動作には勝利を確信し、悦に浸っている王者の風格を帯びていた。コロコロとした末恐ろしい笑みが今にも漏れてきそうであった。
こういう時は大抵ろくな事にならないんだ。
傍らの副官は視界の端に映る自分の上司の姿をみて嘆息した。彼の経験則上、こういうときの彼女は頼りにはなるが、だからといって見ていて気持ちのいいものではなかった。なぜなら、だいたい悪いことを考えているからである。
そう、断言できる。彼女は何かいいことを思いついたに違いない。
そして彼女が採るであろう次の行動もわかっている。
「おい、レオン」
はい、来た。いつもこういう時は私に話を振ってくるのだ。やめて頂きたい。
「どうやらチョコレートの兵隊さんは私の予想通り蒸発したらしい」
「はぁ、閣下の面目躍如というところではありますな」
「ということはだ。ということはだレオンくん。今、リエージュにいるのは一般市民と市長ぐらいだということだよレオンくん」
「はぁ、まぁそうでしょうね。一般市民まで一緒に撤退することはできませんから」
「これが何を意味するのかわかるかね?レオンくん??」
「はぁ、私には皆目見当つきませんが」
「まったく。これだから兵卒上がりの人間は。想像力が足りない。いや、体面に無頓着というべきかな?」
「話の内容が見えてこないのですが……」
「なぜ私が君だけを連れて敵地のど真ん中に乗り込もうとしたかわかるかね?」
「全くわかりませんな。そもそもこんなことは正気の沙汰ではありません。いくら閣下は名誉の戦死をなされたヴッソー旅団長の代わりとはいえ、実質第十四旅団の最高指揮官ですよ。何かあったらどうするというのですか?」
「何かあったときのリスクを背負っても、これには意味がある。」
一旦、話を区切り、彼女は副官の顔を覗き込むんで顔を歪ませた。白い歯が赤い唇に映えて艶っぽく見える。
「なぜなら私が単身リエージュに乗り込んで市長と話をつければ、リエージュ陥落の手柄は私のものだからだよ」
そう言うと、彼女の目は酷く歪んだ。艶やかな口元と醜悪な目元の対比は一種の媚態といっても良いだろう。どこか魅力的な、引き寄せられるものを副官は感じたが、こんなことは日常茶飯事なので軽く流して……
「はぁ、これまた悪い考えで……思いつきませんでしたな」
とだけ答えた。
彼女はその答えを聞くと、顔を正面に戻し、先程の不遜な態度をとって一言。
「それが分かってないのに君は私に
「……はい、まぁ、そのとおりですはい」
副官は言い返したい気分でいっぱいであったが、冷徹な合理主義とヒステリーがちゃんぽんのように混ざり合った複雑怪奇なお方に反論するのは憚られた。致し方無いので適当に認めておく。
いや、あなた……私のいうこと聞いたことないし……下手に反論したら怒るじゃん。これだから元参謀本部の人間は!上司と仲違いして左遷させられたのも納得だこの年増女め!!
副官は心のなかだけで悪態づいて自分の気持ちを慰めた。
「ははは!ポナパルドはトゥーロンで名を上げたが、私が名を挙げるのはリエージュという訳だ!!」
これまた不吉な例えを……その例えでは最終的に待っているのは破滅ではないか!!
どうか、どうかゲーマルトが彼女……そうエーリヒ・ルーデンドルフと共に破滅へ向かいませんように!!
副官は精一杯願った。しかし、その願いは叶えられることはないだろう。ルーデンドルフはこの後、リエージュ市長と会談。リエージュは即降伏する。ルーデンドルフが単身リエージュに乗りこんだこのエピソードは新聞に持て囃され、彼女の名声を一挙に高めることとなる。
歴史は英雄に舞台を用意する。そう、彼女は今や舞台に登った。彼女は遂に
リエージュ市長との会談を終えて、ルーデンドルフが市庁舎から出てくると外は既に黄昏時であった。夕日が古き好きヨーロッパの町並みに沈もうとしている。茜色の空に夕日が輝き、そしてその光を遮る雲が空に濃い影を作っていた。微かに香る硝煙の匂いが鼻腔に立ち込め、そして遠くで響く大砲の音が不思議にもより響いて聞こえてくるような気がした。
この古い街は硝煙の匂いをもしかしたらずっと匂わせていたのではないだろうか。
ルーデンドルフはそんな面白い妄想にとりつかれた。そうだ、そうなのだ。この街はいやというほど硝煙の匂いを吸ってきたのだ。いや、この街だけではない。ヨーロッパの町並みは大なり小なり硝煙の匂いが染み付いている。今、戦争が起きているからそれに気づいただけであって、実はずっとこの匂いは微かに漂っていたのではないか。
街は自分の歴史が硝煙と血で塗れていることを密かに主張し続けていたのではないか。そう考えればこの反響する大砲の音も街自身が出している音なのかも知れない。リエージュは、人類が硝煙と大砲とを相携えて共に歩んできたことを我々に教えようとしてくれているのではないだろうか。ルーデンドルフはそこまで考えると、急に嗤いだし、誰に語り聞かせるでもなくこう呟いた。
「嗚呼、リエージュよ。そうか、君は親切だな。そうだ。歴史は常に銃口から生まれてきた。よろしいリエージュよ。ならば私も老婆心ながら教えてやる。どうか刮目して欲しい。人類はここまで到達したぞ」
ルーデンドルフが呟き終わった後、断続的に続いていた砲声が消えた。否、掻き消された。一際大きな砲声が他の全ての砲声を掻き消したのである。遠く西の方角に夕日を遮って、大通りのその先に大きなきのこ雲が黙々と立ち込める。
「どうだ、リエージュよ。見たかあの威力を。正気の沙汰ではないだろ?でも、しょうがないんだ。今からの歴史は今までの銃口では狭すぎる。次に戦争が起きたらきっとこれの比じゃないぞ。きっと君を一発で瓦礫の山にしてしまうような、そんな兵器が必ず生まれる。銃口は際限なく拡大を続けていくだろう。君がこれより大きなきのこ雲を目にするようなことがないことを望むよ」
この時のきのこ雲の正体はゲーマルトが用意していた対要塞砲が堡塁に着弾した際に巻き起こったものであった。クルップ社製四百二十ミリ榴弾砲ディッケ・ベルタが遂に火を吹いたのである。堡塁による防御戦術はこの時をもって時代遅れとなった。時代が一つ進んだ瞬間であった。
この対要塞砲が登場したことにより、フランドル王国軍はさらなる厳しい戦い、否、一方的な攻撃にさらされることとなるのである。
リエージュ要塞陥落の時は近い。
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