第二一話 リエージュ要塞攻防戦 2/4
『独軍前線の背後で、どんな事が起こりつつあるのだろう?リエージュの後方に集結しつつある勢力の規模は?相手は独軍だ。さだめし壮大な規模にちがいない』
―バーバラ・タックマン『八月の砲声(上)』
(仏軍ジョゼフ・シモン・ガリエニの発言)―
「ここまでか……」
フランドル王国軍第三師団師団長ジェラール・ルマンはそう呟いた。
各堡塁は善戦をしていたものの、度重なるゲーマルト軍の攻撃で遂に
『貎軍、エヴェネー・フルロン堡塁間ヲ突破。西方ヨリ、リエージュ市内ニ侵攻中。規模
伝令の報告は予想されていたとはいえ、いざそれを受け取る段になると一軍を預かる指揮官としては胃袋に響くものがあった。
ルマンは決断に迫られていた。
ゲーマルト軍は堡塁の間を縫ってここ、リエージュ中心部に肉薄してきている。
規模は凡そ一個旅団。それ程度ならばルマンの手持ちの兵力で持ちこたえることは十分可能だった。しかし、彼はこれが敵の罠だということに気づいていた。
敵が投入しうる兵力に比べて今回投入してきた兵力はあまりにも少なすぎた。つまり、これは先遣隊であって、そのあと後詰として本隊が突入する手筈になっていると彼は見きったのである。
勇んで出てくるフランドル軍を先遣隊が拘置し、もって後詰の本隊を投入し一挙にこれを撃破する。さらに北方と南方で待機している軍勢も突入すれば我々を完全に包囲できるだろう。
大方、ゲーマルトの狙いは我々の包囲殲滅だ、とルマンは結論づけた。
ならば仮にこれを迎撃したとしても意味は無い。包囲されてしまえば元も子もない。
よってルマンの出した答えは次のとおりだった。
「諸君、リエージュから撤退する。即座に撤退命令を下達せよ」
『撤退命令』
そう、ここでの抵抗は意味が無いのだ。
ここではアルベールが言うように『国家の危急に際して国軍とは、其れ即ち国家』であった。
フランドル軍が保有する六個師団の内、貴重な一個をむざむざ溝に捨てるような真似は何としてでも避け無くてはならなかったのである。
「では、閣下も撤退を」
副官が傍らから進言する。
しかし、ルマンはその進言を断った。
「いや、私はここに残る……残らねばならぬ。
陛下は損害を出さないようにと厳命された。しかし、敵を前に尻尾を巻いて逃げ出せとは言っていない。一人でも多く、一秒でも長く敵をここに拘置しなければならない。私はロンサン堡塁に行く。諸君らは東方から撤退せよ」
ルマンは覚悟を決めていた。
フランドルのため、そして陛下のために、骨をリエージュに埋めるつもりであったのである。
「しかし、閣下!ここで閣下を失うわけには!!」
副官はそれでも喰らいつく。
この眼前の老いた指揮官を失うわけにはいかなかったのだ。
この時ルマンは御年六十三。
現役で一軍を指揮するのはもうそろそろ厳しい頃合いだった。しかし、それでも第一線に、しかも最前線となるであろうリエージュに配属されているのには一重に、この眼前の枯れた老人が非凡なる指揮官であることを物語っていた。
戦時において優秀な、そして経験豊富な老兵ほど頼りになるものはない。
副官はなんとしてでも彼を脱出させたかったのである。
しかし、ルマンはそんな副官を手で制し、そして頬を緩ませながら自らの胸中を語り始めた。
「私は責任を果たさなければならない。
指揮官として、そして教師として」
その昔、彼は陸軍大学校の校長であった。
フランドル王国の軍人は言うに及ばず、アルベール国王陛下すら彼の用兵の師事を受けていた。彼こそがフランドル王国軍を一身に体現する者であると言っても差し支えないだろう。
「私は非常に優秀な生徒たちをもつことができて幸せものだ。
私を教えた以上のことを彼らはやりきっている。
教え子が立派になった姿を見るのは教師冥利に尽きる。
だが教え子がいくら立派になったとはいえ、教え子は教え子。
先生として手本を見せなければ。
だから私はここに残る。どうか我儘を聞いてくれんかね?
なに、ただでは死なん。それなりの頑張りは見せてやるさ。
この老いぼれ最期の授業だ。
古今東西、撤退戦において一番重要なのは
ルマンは口元をほころばせながら副官に頼み込んだ。
その顔はいつもの威厳に満ちたものではなく、気のいい爺さんが子供に見せるそれであった。副官はルマンの顔を見ると、それ以上の言葉を続けることができなかった。
かくして第三師団はリエージュから西方に撤退。
ルマンはロンサン堡塁へ移動。守備兵五百と共に最期の戦いに備えた。
一方、リエージュ市内に迫っていた一個旅団は第三師団撤退後に市内眼前で停止。そしてある人物がたった一人の副官を連れて、リエージュ市内に乗り込むこととなる。
歴史は英雄に舞台を用意する。
さて、舞台は整った。
どうか万雷の拍手を、英雄の登壇である。
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