第一五話 七月危機 『シェリーフェン・プラン』

『ベートマンは部屋の真ん中に立っていた。私は、この時の彼の顔、彼の眼差しを忘れることができない。たしか有名なイギリス人の画家の絵に、言い表せないほどの苦悩をたたえた眼差しの、あわれな贖罪の山羊[ハントの絵を指すか?]を描いたものがあったが、あの苦悩をいま私はベートマンに見たのだ。しばらくどちらも話さなかった。たまりかねて私が言った。「ところで、一体どうしてこうなったのか。それだけ言ってくれ」。長くて細い両腕を天に向けて、彼は、気落ちし疲れきった声でこう言った。「それがわかっていればねえ」と。それ以後の戦争責任をめぐる数々の論争の中で、どれだけこの言葉を言った時のベートマン=ホルヴェークの立った姿のスナップ写真を見せられればと思ったことだろう。そんな写真がありさえすれば、この哀れな男が戦争など望んでいなかったことの、何よりの証拠となっただろうからだ』

       ―元ドイツ宰相(1900‐09)ベルンハルト・フォン・ビューロー―



薄暗い部屋の中。宮殿の一番奥の部屋で、ある会議が開かれていた。

参列者は、ゲーマルト帝国皇帝カイザーヴィルヘルム二世と宰相ベートマン・ホルヴェークそして、、、帝国陸軍大参謀本部参謀総長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(通称小モルトケ)である。

一同の面持ちは、この世の終わりを見てきたような沈痛なものであった。


目の下に大きな隈を作っているベートマンが述べる。

「陛下、状況は既に逼迫ひっぱくしております。ルーシアに送った最後通牒は黙殺されました。彼らはもはや事態の安定化を諦めたというべきでしょう」

状況は既にどうしようもないほど逼迫していた。オーストリーのサルビアに対する宣戦布告にルーシア帝国が反応したのだ。ルーシアは総動員の下令こそギリギリまで待ったものの、オーストリーがサルビアに侵入したのを見るやいなや総動員を下令した。

ルーシア帝国の総動員。それはゲーマルト帝国の安全保障上の重大な障害であった。

そこでベートマンは一縷いちるの望みをかけ、ルーシア帝国に対して総動員の中止を求める最後通牒を発したのである。

結果は黙殺。ルーシア帝国は総動員を中止する気はなかった。

その行動が大戦争グレート・ウォーを招き寄せるにも関わらず、である。


小モルトケが述べる。

「ルーシアが総動員を解かない以上、我々も早急に総動員を行わなければなりません。ルーシアの総動員が完了してしまえば我が帝国は身動きが取れなくなります。ガリアとルーシアを同時に相手することはできません。ガリアを下し、もって軍隊を反転。ルーシアに侵攻するは時間との勝負であります。計画の発動は早ければ早いほど良い…

陛下!総動員の勅令を!帝国の未来は陛下のご英断にかかっております!!」

――『シェリーフェン・プラン』

其れはゲーマルトの地理的要請によって立案された対ガリア・ルーシアの軍事計画である。

ゲーマルトは一対一の戦争であれば負けることはない欧州最強の陸軍国家であった。しかし、ゲーマルトはガリア・ルーシアという大国に東西を挟まれていた。いかにゲーマルトといえどもガリア・ルーシアの二国を同時に相手をするのは国力、軍事力的に見て不可能だった。

そこでゲーマルトが誇る陸軍参謀本部は一計を案じる。ルーシアが総動員完了までにかかる時間を利用してガリアを急襲。フランドル王国を迂回し、ゲーマルト・ガリア国境線に配備されたガリア軍を包囲殲滅。その後即刻、東に軍を反転。ルーシアに侵攻し、これを撃滅する、という計画を立案したのである。

大凡おおよそ、戦略上は考えうる限りで最も合理的な作戦計画であったということが出来るだろう(もっとも、その計画にはいくつかの楽観的推測とある問題を抱えていたのであるが…)。

故に、ルーシアが総動員を下令してしまえば、自動的にゲーマルトは総動員を下令し、即座にガリアに攻めこまなければならなかったのである。さもなくば、時間的な優位は失われ、ゲーマルトは完全に包囲されてしまう。純軍事学的見地に立って言えば、ルーシアが総動員を下令したこの時点で、もはや一刻の猶予も存在しなかった。

賽は既に投げられてしまっていたのである――


皇帝カイザーの口髭が歪む。

「なっ…!そこまでせねばならぬのか!?外交ルートで和平を模索するという案はないのか!?」

半ば憔悴しきったベートマン首相が答える。

「畏れ多くも皇帝陛下。事態は既に我々文民の手を離れました。

和平の時機は既に逸したのです。ブリタニアの和平交渉も、時ここに至らば我々に対するただの時間稼ぎでしかありません。

事態は既に軍人の掌中にあるのです、陛下」

皇帝の左まぶたがピクピクと痙攣を起こす。

「しっしかし、部分動員では駄目なのか?部分動員ならまだ事態の安定化への道が……」

小モルトケが鋭い眼光を皇帝に向けた。

「陛下。それは不可能であります。総動員計画は綿密に組み立てあげられています。部分動員から総動員への切り替えは技術的に不可能です。それに部分動員をしたところで、シェリーフェン・プランはフランドル王国を通過してガリアに侵攻するという計画ですから結局のところ、その行動に意味はありません。それに―――」

小モルトケは一旦言葉を区切る。

一度息を大きく吸い、後世に語り継がれることとなる次の言葉を述べた。

『一度決定されたことは変更することはできません』

皇帝の眉間に皺が寄る。額に青筋が走る。

「なぜだ!!なぜこうなった!!たった…たった一週間そこらでここまで事態が悪化するだと!!??ルーシアめ!!ヨーロッパを地獄にしたいのか!!」

各国の行動が行動を呼び、遂には災厄大戦争へと至る。

その時その時は理性的・合理的な判断が、積み重なると非理性的・非合理的な結果を招く。

――『合成の誤謬』

まさに世界大戦はこの合成の誤謬によって引き起こされたのである。


帝国ライヒが!!世界に冠たる諸帝国が!!人類の指導者たるヨーロッパ諸国が!!人間理性の啓蒙者達が!!!!たった…!たった一人のトチ狂ったテロリストの凶行に振り回されるだと!?莫迦を言うな!!二発の弾丸でなぜゲーマルトの若者を死地に送り込まねばならぬのか!!」

生来の性格が短期な皇帝は喚き散らす。しかし、この皇帝の暴言は正鵠せいこくを得ているというべきものだろう。当事者たちからすれば分からないのだ。なぜこうなってしまったのかが。彼らはただ眼前に現れる障害を取り除こうと最適の回答を出しただけであって、戦争をわざわざしてやろうとは、指導者に限って言えば殆ど誰も思っていなかったのである。

大衆の指導者、理性の啓蒙者を自認する列強の指導者達。

ヨーロッパ諸国の指導者達は、まさにその自認が故に大戦争を招き寄せてしまったのである。

ベートマンが皇帝に諫言かんげんする。

「親愛なる皇帝陛下!!お気を確かに!!

もはや状況は予断を許さないのですぞ!!勅令に署名を!!」

小モルトケも追随する。

「陛下!!もはや戦争は不回避です!!

総動員しなければ我が帝国の地位は失墜いたします!!一刻も早く署名を!!」

皇帝の目蓋まぶたは大きく見開かれ、眼球には血筋が走る。

奥歯が擦れる音がする。拳に力が入る。

白い頬は紅潮し、脂汗が額から流れる。

――今、この一言が歴史を創るのだ。

ゲーマルト帝国皇帝ヴィルヘルム二世は直感的にそう思った。

後世の歴史書に、おのれが暗愚とけなされるのか、それとも英明な君主と讃えられるのか……ここが分水嶺であった。

長い沈黙の後、皇帝は憮然ぶぜんとした態度を改め、屹然とした態度で眼前に控える二人の側近に勅令を発した。

「ゲーマルト帝国皇帝カイザーヴィルヘルム二世の名において発す。

これは勅令である!総動員を開始せよ!!シェリーフェン・プランを発動せよ!!我が帝国は自衛のために剣を執る!!我らの敵を完膚なきまでに討ち滅ぼせ!!」


この会談の後、ヴィルヘルム二世とベートマンは御前会議を招集。総動員の下令とルーシア帝国に対する宣戦布告が決定された。会議の席中、閣僚たちの言葉数は少なかったが、宰相ベートマンは彼らしい言葉で次のように発言したという。

『人間の力を超える強大な運命が、ヨーロッパとゲーマルト国民の上を覆っているのが、私には見える……石は転がりはじめた』


八月一日、ゲーマルトはルーシア帝国に宣戦布告。

八月二日、ゲーマルトはフランドル王国に自由通過を要求。

八月三日、フランドル王国が最後通牒を拒否、ゲーマルトがガリアに宣戦布告。

八月四日、ゲーマルト軍がフランドル王国に侵攻、ブリタニアがゲーマルトに宣戦布告。

斯くして、八月の砲声は欧州に響き渡ることになったのである。


☆☆☆☆☆☆☆

コメンタリー


※この物語は歴史上の事実には基づいていますが、あくまでもフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。


・シェリーフェン・プランとは何か?

本編中でも述べたように、それはフランスとロシアに挟まれたドイツが苦肉の策として生み出した軍事計画です。

ロシアの国土は広大でインフラは未発達ですからフランスと比べて総動員が遅いとドイツ参謀本部は見ていました。

そこでその時間差を利用してフランスを先に撃滅すればロシアと闘えると思ったわけです。一対一ではドイツは絶対に負けませんから、できるだけ一対一に持ち込もうと思ったのです(事実、計画が頓挫して数か国を相手にしても、ドイツは互角以上の活躍を見せます。まじドイツ強い)。

それで具体的にはどんな計画であったかというと、

ベルギーを通過して、大きく弧を描くようにフランスに侵入。フランス・ドイツ国境に配備されているであろうフランス軍の後背を脅かし、包囲殲滅する、という遠大な計画でした。

しかし、この作戦には不安要素がありました。

果たして補給線を維持できるか、という問題です。

作戦地図を見る分では確かに素晴らしい計画ですが、軍隊が移動する以上は補給というものが必要です。作戦地図がWikipediaにあるので見ていただきたいのですが、何をどう考えても補給線が伸びています。最右翼なんてどんだけ移動しているんだよ!なんておもいます。第二次世界大戦時ならイザ知らず、第一次世界大戦は殆ど徒歩ですからね。補給が持つわけがないのです。それにベルギー国王アルベール一世のナイス判断(アルベールまじ賢王)でドイツ軍は補給で苦しまされることになります。


さて、次回は遂に大戦勃発!in西部戦線です。

お楽しみに。

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