第一三話 七月危機 『瑠羽紫亞帝國總動員』

『一国が他の独立国に送った文書としては、私がかつてみたなかでもっとも恐るべき文書』

        ―エドワード・グレイ(「オーストリアの最期通牒」を評して)―



オーストリーからサルビアへ最後通牒が発せられた件についての閣議の席中、ルーシア帝国外相セルゲイ・サゾノフは駐サルビア大使から送られてきた電報を見て、顔の色がみるみるうちに蒼くなった。手は震え、目は大きく開かれる。


「こ…この最後通牒は非常識だ!!………こっ、これではヨーロッパ戦争だ!!」

老獪ろうかいな外交官は己の常識を揺るがされんばかりの衝撃を受けた。


「愚か者どもめ…!!やっ…やつら…ヨーロッパを地獄にするつもりか!!??我がルーシア帝国はサルビアを見捨てるわけにはいかんのだぞ!!」


そう、ルーシア帝国スラブ民族の守護者サルビア王国南スラブ人国家を見捨てる訳にはいかなかった。なぜなら、南スラブ人国家のサルビアを見捨てるということは、南スラブ人の信頼を失い、よって彼らが多く住むバルカン半島における影響力の消失を意味するからである。

それはルーシア帝国の国是と言っても良い「南下政策」に抵触するものであった。ルーシア帝国は不凍港を欲していた。そのためにはコンスタンティノープルとダーダネルス海峡の確保が至上命題であったが、そこを確保するためには、なんとしてでもバルカン半島における影響力を保持しなくてはならないのである。


「サゾノフ外相。落ち着かれよ。皇帝ツァーリ御前ごぜんであるぞ」

ルーシア帝国軍最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公は狼狽うろたえるサゾノフ外相を制止した。


「う、うむ。皇帝陛下の御前で大変失礼した。……陛下、オーストリーはサルビアに対して一切譲歩するつもりはないようです。サルビアがいかに小国とはいえ独立国である以上、この最後通牒の条項全てを受け入れるわけにはいきませぬ。これは、どこからどう見ても、はなから拒否されることを前提とした文書であります。つまり――――」

サゾノフ外相はそこまで言うと、言葉が詰まった。老練老獪、熟達したその外交官はこれからきたる最悪の事態を考えるとどうしても言葉を続けることができなかった。

「―――サルビアがこれを拒否すれば、オーストリーはそれを口実として宣戦布告する、と?そういうことであるなサゾノフ君」

ルーシア帝国皇帝ツァーリニコライ二世がサゾノフ外相の言葉を続けた。

「はい、陛下。全くをもってそのとおりであります」

「……それは困った。非常に困った。サルビアを奴らに蹂躙されるのは良くない。

奴らを思いとどまらせる手段はないのかね?」


サゾノフ外相に冷や汗が流れる。バルカン戦争の裏で権謀術数を張り巡らせた狡獪こうかいな外相にはだけオーストリーを止めうる手段を知っていた。だが、彼はその手段の危険性も充分知っていた。

「はい、陛下。手段はあることにはあります。がしかし、この手段は危険であります。本当にヨーロッパが地獄に……」

「危険だとしても我々はやらねばならない。そうであろう?サゾノフ外相。栄光あるルーシア帝国の威信を失墜させる訳にはいかない」

ニコライ大公はサゾノフから次の言葉を促す。

「…………動員であります、陛下」

――

その言葉が持つ衝撃は、総力戦が遠い過去となった現代においては想像しにくいであろう。

そこで、現代において敢えて「動員」という言葉に比肩ひけんしうるものを挙げるとすれば、それは恐らく「核攻撃」である。

近代戦争において、「動員」という言葉はそこまで攻撃的な響きを持つものなのだ。敵国が「動員」を行えば、此方側もすぐに「動員」をしなくてはならない。なぜなら、すぐに敵国から無限と思われるような大軍隊が鉄道で国境線に輸送されてくるからだ。

「動員」は近代戦争において最高の破壊力と攻撃力を持つものなのである。故に、ルーシア帝国の動員はオーストリーに対して最高の威嚇となりうるのだった。しかし、動員には問題があった。というのも、「動員」は「動員」を呼び、国家間の緊張を高めてしまう代物だったのである――


部屋の中に嫌な空気が漂う。なにかピリピリしたものが臨席者に走る。実のところ、全員この手段は思いついていた。だが、思いついていても口にすることははばかられた。なぜならその手段は愈々いよいよ、益々をもって『やばい』のである。この一手はオーストリーとサルビア間の局地戦を大戦争へと一気に燃え広がらせる可能性があった。


「それしかないのかね?サゾノフ君」

「はい、陛下。それが唯一の効果的な手段であります」

「いや、しかし……それは駄目だ。ゲーマルトが反応する。ゲーマルトが反応してしまえばガリアも反応する。連鎖的に戦争が起きてしまう」

ニコライ二世は懸念を表明する。非弱で温和なこの皇帝ツァーリは戦争が起きるのを全く望んでいなかった。


「はい、陛下。ですが、ここで何もしなければ我々はバルカン半島での影響力を失うでしょう。さすれば我が帝国の基本戦略である南下政策は頓挫とんざ致します。ここで座視するわけにはいきません」

「なら、できるだけゲーマルトを刺激しないように総動員ではなく部分動員を……」

「畏れ多くも皇帝陛下。残念ながら部分動員を行うのは不可能であります」

ルーシア帝国軍の総責任者であるニコライ大公は皇帝ツァーリの提案を一蹴した。


「部分動員を行えば総動員を行うのは不可能であります。動員計画は緻密に組み立てられており、部分動員から総動員への変更は技術的に不可能です。従って、もし…仮にですが……ゲーマルトとオーストリーがこちらに宣戦布告した場合、我がルーシア帝国は為す術もなく、奴らの軍隊の群れに呑まれるでありましょう」

そう、部分動員は安全保障上できなかったのである。国家の指導者は往々にして、最悪の事態を想定して国家の政策を決定する(これを最悪事態原理という)。そして、最悪の事態を想定すれば、部分動員など考えるまでもなかった。故に、この当時の諸国家は動員を発令する際は、部分動員ではなく、常に総動員を選択したのである。


「しかし……」

しかし、それでもニコライ二世は総動員を躊躇した。当時の欧州では珍しく、温和で柔和にゅうわで誠実な皇帝ツァーリは後世に、自らが世界大戦の引き金を引いた人物だと記録されたくはなかった。


「陛下!!総動員の勅許を!!」

ニコライ大公は、写真撮影が趣味であり家庭では優しき父であったニコライ二世に迫る。

ニコライ二世はたくしいひげを歪ませた。愛する家族の顔が次々と浮かぶ。愛する妻や子供達にとって、国民にとって、そしてルーシア帝国の未来にとって、いったいなにが最善なのか。ニコライ二世は悩んだ。悩んで悩んで悩みぬく。暫しの重苦しい沈黙が流れる。


総動員をかければ確かにオーストリーは引くかもしれない。だが、オーストリーが引かなかった場合どうなる?総動員をわざわざかけて我が帝国がサルビアを見捨てて手を引くことはありえない!それでは我が帝国の威信に傷がつくではないか!!我が帝国とオーストリーの間で戦争が起きればゲーマルトが出てくる。そうすれば我が帝国の友好国であるガリアが出てくる。そうなればヨーロッパは地獄だ!!

だが、総動員をかけなければどうなる?オーストリーは難なくサルビア滅ぼすだろう。そうすれば我が帝国はバルカンへの影響力を失う。それは我が国民の未来に対する大きな損失だ!!

総動員を発令しようが、発令しなかろうが、どちらも我が帝国の出血は避けられん。


ここでハンガー国首相ティサに囁いた悪魔がニコライ二世に囁く。


ならば……やるしかないのではないか?


勝利できればバルカンからオーストリーを駆逐できるはずだ。敗北すればバルカンへの影響力を失うだろうが、それは我々がオーストリーと戦わなければ訪れてしまう結末と一緒だ。ならば可能性がまだある方、つまり一戦交える方を選ぶべきだ。

……総動員を発令しよう。

だが――それでも人びとが苦しむような戦争はしたくない。ギリギリまで総動員の発令は待つ。


動員はする、だが動員は事態がどうしようもなくなった時下令する。それが心優しき父であり、ルーシア帝国の指導者でもある、ニコライ二世の最大限の譲歩であった。


「わかった。総動員の準備をせよ。但し、総動員下令は延期する。オーストリー及びゲーマルト帝国に警告を発せ。我が帝国は冷血な北熊ミドヴェエーチではない、同胞を救うためならば躊躇なく牙をむく、と」


しかし、歴史は残酷である。オーストリーはルーシア帝国の警告を無視し、七月二十八日にサルビアへ宣戦布告。もはや事態の収拾を諦めたルーシア帝国は七月三一日に総動員令を下令。

そして、ニコライ二世、サゾノフ外相の懸念通り、ルーシア帝国の総動員下令により、加速度的に事態は悪化する。



八月の砲声はすぐそこに迫っていた。


☆☆☆☆☆☆☆

コメンタリー


※この物語は歴史上の事実には基づいていますが、あくまでもフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。


・ニコライ二世って実際はどういう人物だったの?

 ニコライ二世は戦乱の世にあっては無能、平時にあっては可もなく不可もない君主だと思います。指導者にはあまり向かない人物であったとは思います。

 優しいのは確かです。史実でもフランスとの約束を律儀に守ったりします。でも国民のことを第一に考えていたというわけではないと思います。

 なぜか、こういう指導者は家族とかには優しいのに国民には優しくない人が多いです。このニコライ二世もそのタイプの人で、家族愛はあるのに国民に対して残念な振る舞いをします。

 まぁ、ここで出ているニコライ二世さんは少しばかりの有能さと慎重さ、あと国民への愛をプラスしています。


 はい、というわけで遂にロシアの総動員が出てきました。

実は第一次世界大戦の原因は学者によってはこのロシアの総動員にあったのではないかといわれるぐらい重要なポイントです。

 事実、この総動員の後、事態は急激にもう引き返せないところまで悪化します。


 あ、因みにこの小説。話数を経るごとに、説明を簡明にするために時系列と事実をだいぶ弄っちゃってます。実際は、なんだこれは!わからんわ!!って思うぐらい各国の思惑が交差してますし、事実ももっと入り組んでいます。

とてもじゃありませんが小説(ライトノベル)向けとはいえない代物になってしまうので分かりやすくした結果、史実とはだいぶかけ離れています。

ごめんだけど、これを読んで第一次世界大戦が分かったとは思わないでね!!


手軽に第一次世界大戦を知りたい方は

「やる夫で学ぶ第一次世界大戦」というのがありますので、ググッてみてください。おすすめです。私のこの小説もこの作品によるところが大きいです。


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