第一二話 七月危機 『墺太里の最後通牒』

『大変な状況になっております。主戦論が横溢しています。だれかがあなた(ウッドロウ・ウィルソン)に成り代わって何か別の了解事項を提出しないかぎり、いつの日か、大変動を来たします。ヨーロッパでこれが出来る人はいません。嫌悪と嫉妬の感情が酷すぎます。英国が同意を与えれば、フランスとロシアはドイツとオーストリアを包囲するでしょう』

                      ―エドワード・マンデル・ハウス―


「ゲーマルト帝国の『白紙委任状』が得られている以上、サルビアに対して弱腰になる必要はない!!」

オーストリー=ハンガー二重帝国の外相、レオポルト・ベルヒトルトは強い口調でこう述べた。


「しかし、あまりに急進的ラディカルな対応をすればルーシア帝国の介入は避けられまい。私は武力行使も辞さない姿勢で事態を解決しようとするのには反対だ」

ハンガー国の首相、ティサ・イシュトヴァーンはベルヒトルトに反駁はんばくする。


「ティサ閣下の言うことはもっともだ。それに介入してくるのはルーシア帝国だけではないかもしれぬ。深い意図は不明であるが、ワラキア大王国バルカンの梟雄も警告を発してきておる。だが…だがである。――それでもこの状況は座視できるものではない」

オーストリー国の首相、カール・シュテュルクはティサの方を見やりながら答える。


「シュテュルク閣下の言うとおりだ!!現在、我が帝国の状況は残念ながらかんばしくはない。民族主義者ナショナリスト共のテロが相次いでいる。ティサ閣下とてここで生ぬるい手を打つことの危険性は分かりきっているだろう!?それに世論は我が政府に強行的な手段に訴えることを望んでいる!!」

ベルヒトルト外相は唾を飛ばす。


ティサ首相は眉間にシワを寄せる。ティサは二重帝国の安定のためには、サルビア政府に十字架上のイエスになってもらうことが重要だということはいやというほど理解していた。だが、彼はそれと同じぐらい、列強全体を巻き込んだ戦争勃発の危険性についても理解していたのである。


我々がサルビアへ圧力をかければサルビアの保護者であるルーシアが必ず介入する。ルーシアが我々に圧力をかければ我々の後ろ盾であるゲーマルトが介入する。ゲーマルトがルーシアに圧力をかければルーシアと友好関係にあるガリアが介入する。下手をすればブリタニア、オスト=マルク、そしてあの吸血鬼国家も介入してくるかもしれない。

結果は――大戦争グレート・ウォーだ。


この時、ティサは解決不能の問題アポリアに突き当たっていた。


二重帝国の安定した存続のためにはサルビアへの介入が必要。だが、そうすれば列強による大戦争は避けられない。何をどうしようが手詰まりなのである。二重帝国が平和裏に事態を処理できる有効的な選択肢は存在しなかった。


ならば……やるしかないのではないか?

ティサの脳裏で悪魔がささやいた。


ルーシア帝国は私達のバックにはゲーマルトがいることはわかっているはず。それならルーシアは介入せずに譲歩するのではないか?大戦争を起こすぐらいならサルビアを見捨てるのではないか?そして、もし仮にルーシアと戦争が起きたとしても小国サルビアならばすぐに蹴りがつくはず。ならば、ゲーマルトと協同してルーシアとワラキアに対抗することは可能なはずだ。だいたい、ワラキアが介入してくることはあるまい。バルカン戦争で彼らは何ら介入しなかったではないか!!


ティサは願望にも近い楽観的観測をもって一つの決定を下した。我が帝国は安定的な存続のため、サルビアに介入すべきである、と。


だがしかし、介入することを決めたとしても問題がある。どうやって介入するか、それが問題であった。


「…分かった。ベルヒトルト君の主張を認めよう。だがしかし、問題がある。

どうやってサルビアに報復的な介入をするのだ?犯人はサルビアの公的機関との繋がりはあったが、結局、サルビア政府が犯人に暗殺を指示したという証拠は出ていない。サルビア政府の責任を追求し、報復的な介入をするには少々無理があるぞ」

ティサがベルヒトルト外相に向き合って述べる。


大義名分、それが必要であった。国民が徴兵され、戦場に送られる近代戦争においては、実際に血を流す国民が納得するだけの理由が必要なのである。


「はい、閣下。それにはいい方法があります。サルビアに最後通牒を送るのです!!それもサルビアにとって断るしかないような、厳しい条件を課すのです!!さすれば、彼らを戦争に引きずり込めます!!」

ベルヒトルト外相は興奮気味に答えた。


ティサはベルヒトルトから少年のような純真さすら感じた。ベルヒトルトの目はギラギラしており、頬は上気していた。ティサはそんなベルヒトルトの目には覚えがあった。

――狩猟家ハンターの目だ。

ティサはそう思った。

狩猟家が獲物に狙いをつけた時の、あの目であった。狙われたのは小国サルビア。

格好の獲物がいま眼の前にある。これを撃たない訳にはいかないのだろう。だが、彼は本当に気づいているのだろうか。指を掛けた引き金が、実は自分を狙っている他の銃とつながっているということに。此方が狩る側なのか?本当は此方が狩られる側ではないのか?

ティサは軽い嘲笑が漏れた。


「ははっ。そりゃあ傑作だ」

ティサ首相が答える。


「であろう?要求を飲んでも、飲まなくてもサルビアは我が帝国に膝を屈することになる」

ベルヒトルト外相は主張が認められたからだろうか、ティサの嗤いが実は嘲笑であるということには気づかずに、さらに一層目を輝かせた。


シュテュルク首相も賛同する。

「それは古典的な手法であるが、名案だ。早速、草案の作成に当たろう」


「頼みましたぞ、シュテュルク閣下。サルビアが到底受け入れることができないようなやつを頼みます」

ベルヒトルトは白い歯を見せて喜んだ。


幼稚な国家主義ナショナリズムだ。

ティサは唐突にそんな言葉が浮かんだ。


間違いなく、ベルヒトルトはそれに冒されていた。彼のサルビアに対する態度は、実のところ、合理的乃至ないし理性的な推論からではなく、ただただ単純に、サルビアに対する復讐心によって形成されていたのである(しくも、それはティサの理性的な推論による結論と一緒であったが)。

しかし、ベルヒトルトを嗤うことなか

幼稚な国家主義はあらゆるところに蔓延はびこっており、国民一般にも認められていたものであった。事実、オーストリー国内の世論は開戦もやむなし、というものであったのである。

群雄割拠の帝国主義インペリアリズムにより熟成された暴力の容認傾向は、幼稚な国家主義ナショナリズムと結びつき、国民に戦争への道程どうていを指し示したのだ。


余談ではあるが、戦争の原因を究明しようとした場合、だいたい当時の政治的指導者にその責任が帰せられる。国民世論という側面で、戦争の責任が追求されることはあまりないのである。だが、実際のところは民主主義が広がるに連れて、諸政府は国民世論を無視できなくなっていたのだ。

忘れてはいけない。民主主義国家の選択は、国民にその責があるということに(その点において、その昔、某極東で唱導された『一億総懺悔』というスローガンは的を得ていたとは言えるだろう。といっても、丸山眞男は責任の共有は実質的には責任の喪失に等しい、ともっともな批判をしたのであるが…。畢竟ひっきょうするに、某極東に残ったのは幼稚な懺悔であったのかもしれない)。



ハンガー国首相ティサは痛む右まぶたの上を指で押さえ、俯いて思う。


我々の不幸、いや、現代にとっての不幸は、幼稚な国家主義ナショナリズムに彩られた国民が、民主主義の浸透により、無知蒙昧なまま政治的に力を持ち始めたことにあるのだ、と。


後日、シュテュルク首相により示された最後通牒案は外交に少しでも通じる者ならば絶句するものであった。こと、⑤と⑥は明白な主権侵害であり、この最後通牒を引き受けることは国家の自殺と形容するに等しかった。


①帝国政府の君主制に対する憎悪・軽蔑を扇動するすべての出版を禁止すること。

②ナーロドナ・オドブラナ(サルビア国家主義者組織)と称する組織を解散させ宣伝その他の手段を没収し、帝国政府に対するプロパガンダを行う他の組織も同様にすること。

③帝国政府に対するプロパガンダを助長しているもしくは助長する恐れのある全てを(教師も教材を含めて)サルビアの公教育から遅滞なく削除すること。

④帝国政府に対するプロパガンダを行った罪で、帝国政府が一覧にした全ての軍関係者と政府職員を解雇すること。

⑤領土保全に反する破壊分子の運動の抑圧のために、帝国政府の一機関との協力を受け入れること。

⑥サルビア領で見つけられる可能性のある、サラエヴォ事件の共犯者を法廷尋問するとともに、帝国政府の一機関をこの手続きに参加させること。

⑦帝国政府が行った予備捜査によって浮かび上がった2人の指名手配犯を直ちに逮捕すること。

⑧武器と爆発物の違法売買の流通を効果的な方法によって防ぐこと。

⑨国内国外を問わず、帝国政府に敵意を示したサルビア政府高官の陳述書を届けること。

⑩全てについて実行する手段を、遅滞なく帝国政府に知らせること。


七月二三日。この最後通牒案はサルビア政府に伝えられた。サルビア政府は協議の上英断。⑤と⑥の留保を条件に最後通牒を受け入れた。しかし、オーストリー=ハンガー二重帝国は手筈通り、これを不服として七月二五日に国交断絶。

そして運命の日、七月二八日。オーストリー=ハンガー二重帝国はサルビアに宣戦を布告した。


くして、地獄の釜の蓋が開いたのである。


☆☆☆☆☆☆☆

コメンタリー

※この物語は歴史上の事実には基づいていますが、あくまでもフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。


・なんで最後通牒を出すことで大義名分が得られるの?

 これは大衆というものが無知だからです。

 おそらく、大衆の殆どが最後通牒の中身を見たとしてもこれがいかようなものなのか理解できないでしょう。これを読んで驚天動地の衝撃をうけるのは大学などの高等教育を受けてきた人だけだと思います(教育水準が高い現代日本の普通の高校生に見せてもこの文書のヤバさが理解できないとおもいます。え?大学生でも理解できない可能性があるって?残念ながら否定できませんね)。

 そんな状態でセルビアに最後通牒が断られた!!と政府や御用新聞社が騒ぎ立てればどうなってしまうでしょうか?

 そうです。

 『断られた』という事実のみが一人歩きを初めてしまうのです。

 その拒絶がいかに正当であろうが、無知蒙昧むちもうまいなる大衆には関係ありません。

 国家主義ナショナリズムだけは初等教育で一丁前に、無意識的かも知れませんが刷り込まれていますからね。

 そんな舐めたことをするセルビアはけしからん!!となっちゃうわけです。

 『断られた』という事実だけで大義名分が得られるのです。

 結局、大義名分の歴史的な正しさ、つまりは正義は重要ではないのです。

 国民が納得することが重要なのですから。

 


 本編でも述べたように、この時代の不幸は、国家主義ナショナリズムに彩られた国民が民主主義の浸透で、無知蒙昧なまま政治的に力を持ち始めたことにあると儂は思うのです。

 まぁ、国民が賢くてもこの戦争を防ぎ得たかどうかは疑問ですが。

実はこの時代、中・東欧諸国は増加する人口の圧力に悩まされていました。

人口は増加するが耕地面積は変わらない。そこで農家の次男、三男は大きな不満を持っていました(ドイツとかは工業が成長したことでこの種の不満はある程度ですが軽減されました)。そういった不満がここぞとばかりに噴出したのです。

いろいろな悪い要因が重なったのが第一次世界大戦の特徴といっても良いでしょう。


 

 余談ですが、民主主義体制は一般的に正義の体制だと思われていますが、内情が重要です。

 だから、皆、よくよく考えて投票しようね。

 幼稚な国家主義ナショナリズムに陥らないようにね

(ヘイトスピーチとか駄目だよ!!現代の民主主義は対話の政治体制だぞ!!

話し合って解決をつけようという姿勢を忘れてはいけません。多数決ですべてが決まるという考えは余りにも貧しい民主主義観です。貴方がもしそのような民主主義観しか持っていないのでしたら、政治学系等の教科書を読むといいでしょう。現代政治学は民主主義という怪物との苦闘の歴史ですから。なにか得られるものがあるはずです。まぁ私は教科書を読むので四苦八苦してますが)。

 

 まぁ、最近の情勢を見ていると国家主義ナショナリズムは危殆に瀕しているように思いますねぇ。

 国家主義ナショナリズムの母胎とも言うべき主権国家体制がぐらつきつつあるように思います。

採れる経済政策はますます狭まり(社会主義が滅び去ったいま、新自由主義的な政策しか採れないないのです。税率とが上げたら租税回避地タックスヘイブンに逃げられますからね)、グローバル化によって様々な差異は消滅しつつあります。

その中で政治的な力を持つのは全体主義的、排外主義的な右派なんですねぇ…

過激な言動、とくに排外主義的な言動というのは非常に分かりやすくて支持を集めやすいのです。

事実、世界各地の民主主義国家で極右政党が力を握りつつあります。

まぁ、彼らとて政権獲得が視野に入れば少しは穏健化するのですが…

だからといって煽られた民意が沈静化するとは限らず、右へ右へと少しづつ国が傾く可能性は否定できません(右傾化についてのメカニズムを鋭くついたのは中野晃一『右傾化する日本政治』です。まぁ、私はこの本にあまり賛同しませんが、かといってゴミ箱に投げ入れられる様な酷い本ではないのでオススメはしときます)。


 今、私たちは第一次世界大戦のような戦争とは違う形ですが、それに匹敵する歴史の岐路に立っているのかもしれません。

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