七月危機

第十一話 七月危機 『白紙委任狀』

『個人的自我を絶滅させ、耐え難い孤独感に打ち勝とうとする試みは、マゾヒズム的努力の一面に過ぎない。もう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、いっそう力強い全体の部分となり、それに没入し、参加しようとする試みである。…マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。すなわち自分の運命に最後的な責任をもつということから、どのような決定をなすべきかという疑惑からも解放される。このような問題は、かれが結びついている力との関係によって答えられる。彼の生活の意味や彼の自我の同一性は、自身が屈服したより大きな全体によって決定されるのである』

                  ―エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』―



ゲーマルト帝国皇帝ヴィルヘルム二世陛下の仰るとおり、貴国は我が国を支持すると、そういうことですね?首相閣下」

「いかにも、その通りである」

ゲーマルト帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークはオーストリーからの特使にこう答えた。


「そうでありますか。貴国の後ろ盾が得られるのは真に心強い」

「列強としての面子めんつもあるだろう」

「はい、閣下。我が国は威信をかけて斯様かような『暴挙』を許すことはできません」

――『暴挙』。

それはサラエヴォでの悲劇をさしている。オーストリー=ハンガー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドとその妻ゾフィー・ホテクが不運なことにテロリストの凶弾に倒れたのだ。そして、これが歴史の恐ろしさなのだが……

犯人が自白するには、武器はだった、というのである。どこぞの馬の骨とも知らぬ狂人の『暴挙』なら世界はまだ平和だったかもしれない。しかし、サルビア政府の介入が疑われるこの事実を前に、列強オーストリーは場合によっては強硬手段に訴えざるを得なくなってしまったのである――


「……それにだ。この『暴挙』はただ貴国の面子めんつを傷つけるだけで終わるものではない。こんなことを許せば貴国、オーストリー・ハンガー帝国は空中分解だ。ここで生ぬるい手を打てば、『暴挙』によって刺激された民族主義者ナショナリスト共の独立運動を引き起こすだろう。貴国が有象無象うぞうむぞうの弱小国家に転落するのは勢力均衡バランス・オブ・パワー上許されることではない。我が帝国は約束する。ゲーマルトは貴国を全力で支持する」

そう、困るのだ。オーストリーが弱小国家に転落されては。

ベートマン首相は考えを巡らす。

二重帝国の存亡はゲーマルト帝国の存亡にも関わる。二重帝国の崩壊は即ち、我らが帝国ライヒの滅亡である。我らが帝国ライヒは包囲されている。ガリア共和国とルーシア帝国、そしてブリタニア連合王国に!ガリアとルーシアに対抗するためにはこちらも同盟国が必要。

故に、二重帝国の安定は帝国ライヒの安定となる。


同盟と同盟による勢力の均衡は両同盟の自制を促し、結果として平和をもたらす。勢力均衡バランス・オブ・パワー。それはトゥキディデスの『戦史』が著された古代から続く、国際関係を貫く一つの原理である。


「さすがは閣下、話がお早い」

特使は手を打って喜んだ。


「しかし…閣下。南スラヴ人国家のサルビアへ我が国が介入するということはスラヴ民族の盟主ルーシア帝国が出張ってきますよ。我々が貴国の後ろ盾を欲しがっているのはこの事情によるものですが……本当によろしいのですか?」

「無論、承知のうえだ。戦争はしたくない。だが、ルーシア帝国とガリア共和国を相手取ってでも貴国を支持する覚悟はある」

そう、仕方ないのだ。

栄光あるゲーマルト帝国の国際的地位をおとしめる訳にはいかない。例えそれがルーシアとガリアを相手取る危険を冒しても、だ。それに、ベートマンはゲーマルト帝国とオーストリーの毅然とした態度がルーシア帝国を思いとどまらせると期待していた。


「おぉ!そこまで言ってくださるとは。これは我が国が貴国から『白紙委任状』を受け取ったと形容するに相応しいですな!ここまで言って反故ほごにするのは無しですよ。では、お聞きしたい言葉が聞けたので、さっそくこの件を本国に持ち帰りたいと思います。失礼致します」

オーストリーの特使は軽い足取りで退出する。それと入れ替わりに二人が部屋に入る。一人は緋色のあでやかな髪が美しい麗人。もう一人は眼鏡を掛け、金色の綺羅びやかな髪が美しい美丈夫である。その二人を見てベートマン首相は深くしわたたえた目尻をピクリと動かす。


「面会の予定はないはずだが?」

如何にも不満そうに、不躾ぶしつけに言う。


「閣下。そんなに邪険に扱わないでくださいな。わたくしは内閣が一員。それも連立政党の党首でしてよ。首相閣下を訪ねても、なんら不思議ではないでしょう?」

袖で口元を隠しながら麗人が答える。


「ならばせめてその横にいる男を外してはもらえんか?生憎あいにく、部外者は立入禁止でな」

「それはできませんわ、首相閣下。彼はわたくしのボディーガードでして」

金髪碧眼の美丈夫が一礼する。それをみてベートマン首相は目を細めた。


「ふんっ…貴殿の私兵武装親衛隊を官邸府に置くのは気が進まん……が、まぁ良い。それで何のようだ?手短に済ませよ」

「はい、閣下。――オーストリーの特使との会談は如何でありましたか?」

腕をおろし、歪んだ口元を露わにして彼女は答えた。その口元を見てベートマンは左下唇を噛む。ベートマンは気に喰わないのだ。彼女の口元が、彼女の髪の色が、彼女の政治姿勢が、彼女の存在自体が!!ベートマンは内心穏やかではなかった。


「……知ってどうするつもりだ?」

ベートマンは彼女に深い疑念を抱いている。しかし、帝国議会ライヒ・スタークで三分の一を占める右派政党の首魁しゅかいを遠ざけておくことは不可能だった。というのも、ベートマンの支持基盤は地方地主や軍人などの保守派であり、議会内では三分の一を占めるにすぎず、そして残りの三分の一は保守派とは全く相容れない革新政党である社会党が握っていたからである。

彼は支持基盤を失わないために、社会民主党とは連立を組むことができなかった。

ゆえに、彼女との連立なしで政権を運営することは、皇帝の信任あついベートマン首相でも不可能だったのである。

ベートマン首相が、いくら彼女の政党――Nationalsozialistische Germalt Arbeiterpartei、つまりは国家社会主義ゲーマルト労働者党(通称ナチス)――を毛嫌いしていたとしても、議会状況から見て彼は連立を組まざるをえなかった。


「いえ、特には。ただの確認ですわ」

「特に何事も無く終わったよ。我が帝国は皇帝陛下のご意向通り、オーストリーを支持する」

「懸命なご判断です。我が政党も賛成致しますわ」

彼女――男性名ではあるが、アドルフ・ヒトラーという名前であった――はベートマンの答えを聞くと満足したのか、更に口元を歪ませる。

天魔嗤う。ベートマンは喉元を締め付けられているような息苦しさを感じた。


「満足か?」

「えぇ……とっても。

失礼いたしましたわ。ヒムラー、帰りますわよ」

「はい、総統閣下マイン・フューラー

きびすを返し二人は退出する。一人になったベートマンは深く椅子に腰掛け、思案を巡らす。

奴らめ。社会民主党アカどもと違って皇帝陛下を第一に考えるのは良い。だからこそ我輩は奴らと連立を結べ得たのだ。

国体の固持、それがベートマンにとっての最大の関心事であった。

だが、だがである――ベートマンは一呼吸を置く。

――貧困に喘ぐ地方の小作人と都市部の下層労働者の不満を集めるために『あの民族』への差別感情を利用するのは許されん。無知なる大衆を煽るのはそれ自体罪である!政治家としての矜持きょうじに劣る!!先鋭化した世論はいつか破滅的な結果を招き寄せるだろう!!


新興の政党である国家社会主義ゲーマルト労働者党が帝国議会ライヒ・スタークの三分の一を占取できたのは一重に、社会の多数を占める下層民の支持を集めることができたことによる。ナチスは如何にして大衆的な支持を集めたのか?

そう、『あの民族』を出汁だしにしたのである。ナチスは意図的に不満を『あの民族』にそらし、また『あの民族』を排斥することで自己の同質性を高めようとしたのである(我々の世界で全体主義と呼ばれるものがこれである)。

排外、拡張主義者共め……『あの民族』を強制的に隔離する?東方生存圏?莫迦な!!正気とは思えない!!

ベートマンに『あの民族』への差別感情がないといえば嘘になる。しかし、だからといってナチスのように隔離をしようとは思っていない。その点で、彼はナチスの政治家と較べてであるが、まだまともな政治家であった。それに、ルーシア帝国との対立をいたずらあおる東方生存圏構想は正気の沙汰とは彼には思えなかったのである。


「気狂い共め……」

ベートマンは小さくつぶやいいた。博覧強記はくらんきょうき碩学せきがくなるを讃えられ、「灰色の猊下Gray Cardinal」、「哲人宰相」とまで呼ばれた不運な一人の教養人は肩を大きく落とした。


「何故あのような気狂い共が神聖なる国政に携わることになるのか!!はぁ、なぜ我輩が斯様かような損な役回りに……」

損な役回り、それがベートマンの率直な感想であった。

「そもそもだ――」

灰色の猊下はそこまで言って口を止めた。その後の言葉を続けてもどうしようもないからである。


そもそも無知なる大衆が、愚かなるもナチスに投票したせいだ、と言って何になろうか?

衆愚政治、多数者による暴政。直接民主制が敷かれた古代ギリシャ以降、様々な知識人や教養人が頭を悩ませ、そして警句を発したあの現象が今まさに眼前に広がっていた。


「いや、ナチス以外の代替案を提案できなかった我々の落ち度なのかねぇ」

哲人宰相は自嘲じみた笑みを浮かべ、深く刻まれた皺はその濃度を増した。


「さてと…」

深く腰掛けていた椅子を立ち上がり、ベートマンは自室へ向かう。自室には一台のアップライトピアノが置いてあった。ベートマンは椅子に座り、ピアノを弾き始める。ベートーヴェン、ピアノソナタ第14番。俗に『月光』とよばれるものである。ベートマンの寂寞せきばくたる心に『月光』の物寂しいメロディが染み渡る。

その時、ベートマンの脳裏に不思議な空想が浮かび上がる。


月光が映る水面みなも揺蕩たゆたう小舟。小舟の船頭は帝国宰相、ベートマン・ホルヴェーク。水面みなもに小さな一石が投じられ、波紋が広がる。そして、その波紋はやがて大きくなり、水面に映る月を掻き消した。それだけではない。

波紋はやがて小さな波となり、次第に津波の如き大波となった。自分は帆を張ったり、舵を変えたりしてどうにかそれから逃れようとする。しかし、大波には抗い難く、呆気無く小舟は沈没してしまった。


「Regierungen sind Segel,das Volk ist Wind,der Staat ist Schiff,die Zeit ist See.

(政府は帆、国民は風、国家は船、時代は海)か。ハハハ。我ながらなんとも安直な妄想だな」

小さな教養人は更にどんよりとした心持ちになった。軍靴ぐんかの音は静かに、なれど着実に近づいていた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆

コメンタリ―

※この物語は歴史上の事実には基づいていますが、あくまでもフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。


※これからは話が少しややこしいことになると思いますので、適宜に解説を挟んでいきたいと思います。


・ベートマン首相はなぜオーストリー(オーストリア)を支持したのか?

 本編でもベートマン閣下が述べているように、ゲーマルト帝国(ドイツ帝国)の国際的地位を保つためです。

 当時、欧州大陸の列強は二つの陣営に分かれていました。

 一つが『三国協商』、もう一つが『三国同盟』です。

 『三国協商』にはルーシア帝国(ロシア)、ガリア共和国(フランス)、ブリタリア連合王国(イギリス)が、

 『三国同盟』にはゲーマルト帝国(ドイツ)、オーストリー=ハンガー二重帝国(オーストリア=ハンガリー)、イルドア王国(イタリア)が所属していました。


 当時、この二つの同盟が世界の覇権を巡ってしのぎを削っていたのです。

 しのぎを削ると言っても、二つの同盟の力関係が等しければ(普通は、ですが)戦争は起こりませんし、いい具合に牽制しあってどの国も不利益を被らないようになります。(これを勢力均衡バランス・オブ・パワーといいます。)

 ですが!!『三国同盟』には(存在が消滅しそうという意味で)危ない国家がありました。

 そう、オーストリア=ハンガリー帝国です。

 オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家で民族主義ナショナリズム吹き荒れるこの時代、帝国内に火種をいくつも抱えていました。

 けど、そんな仲間でもドイツにとっては大切な仲間。

 ドイツが『三国協商』に圧倒されないためにはオーストリアさんの安定が必要不可欠だったのです。

 そこで運命の日、

 サラエボ事件が勃発。

 帝国内の独立運動をいかにも刺激しそうなこの事件は、オーストリアからすれば許されません。というか、サルビア政府(セルビア)の関与が疑われるのだから益々を持って許されないわけです。

 強行的な手段に訴える覚悟がなければ帝国が瓦解する危険性もあったわけです(まぁ、見せしめとしての公開処刑といえば話が早い)。 

 それで、致し方なく(実は暗殺された皇太子は人気がイマイチで案外どうでも良かった)強気に出ようとするオーストリアですが、ここでめんどくさいことにロシア帝国が出しゃばってきようとするのです。

 なぜ出しゃばってくるのかというと、セルビアは南スラブ人国家でして、スラブ人国家の守護者を自称するロシア帝国からすれば保護対象なんですね(それに、当時一般には知られていなかったんですが、少し前に、オーストリアがボスニアを併合する代わりにセルビアはロシアの勢力圏に置くという秘密協定が二国間で存在していたのです。こんな秘密協定が当時の欧州では張り巡らされてまして、みんなおっかなびっくり、相互不信に陥りながら外交してたのです。第一次世界大戦後、ウッドロウ・ウィルソンによって秘密外交の禁止が謳われたのはこういった事情があります)。

 セルビア相手にはイケイケドンドンなオーストリアでしたが、ロシア様は流石に怖いのでドイツに「なんかあったら、助けてね」とお願いしたわけです。

 その場面が上の本編になります。

 それを受けたドイツ。

 オーストリアの危ない事情は知ってますから、「当然、やり給え」というしかないわけです(白紙委任状と呼ばれる)。ここで軟弱な腰抜け姿をオーストリアが示してしまったら、オーストリアのバルカン半島への影響力が衰退するどころか、二重帝国の瓦解を招いてしまうかもしれません。

 二重帝国の衰退、或いは瓦解は勢力均衡バランス・オブ・パワー上、そして栄光あるドイツの国際的地位を保つためには許されないわけです。

 たとえ、それがロシア、フランスとの戦争の危険を冒そうとも、ね。

 それに、断固とした態度はルーシア帝国を思いとどまらせるという打算もありました、


 といっても、史実のベートマンがどこまでの計算と覚悟を持って決断したのか非常に謎です(ベートマンは、実は無能な教養人とか言われてます。あ、因みにベートーベンのピアノ・ソナタ好きだったらしい。就寝前に弾いていたようで)。

 ベートマン、もっと言えば列強の殆どの指導者はたぶん、いや確実に戦争を舐めていましたから、「案外どうにかなるんじゃね?」とか楽観的に思っていたと思います。

 彼らは戦争が起きたとしてもすぐ終わると思っていたんですねぇ。

 普仏戦争とかすぐ終わったしね。

 

 そして、その楽観(あとセルビアへの憎しみ)があのご高名な「オーストリアの最後通牒」を生み出すわけです。

 戦争怖かったらあんなの絶対生み出せないと儂は思いますが。

 

 因みに、重要な事なのですが、ここまでご高説をぶっておきながら大変情けないことに、以上の解説みたいなものは実際の史実を儂なりに解釈しているに過ぎません。

 ですので正しさは残念ながら保証できません。

 

 正しさが欲しい暇人は以下の書籍を参照すると良いでしょう。

・ジェームズ・ジョル『第一次世界大戦の起源 改訂版』

 最もオーソドックスな本。おそらく学問的には一番の王道的扱いを受けるはず。

但し、分かりにくい。なので読後感は悪い。

・ジョセフ・S.ナイ ジュニア 、 デイヴィッド・A. ウェルチ 『国際紛争 原書第9版 -- 理論と歴史』

 第一次世界大戦の本と言うよりは国際関係論の教科書的な本(国際関係学系統の学部では結構教科書に指定されるぐらい有名な本)。

 教科書ということもあってわかりやすく、第一次世界大戦や第二次世界大戦の原因を説明している部分は感動するほど秀逸。

 


 はい。

 そういうわけで今回、やっとやっと戦争への歯車は動き始めたわけであります。

 つまらない日常回パートを今までだらだらと見せてすまない。


「期待したまえ、私の可愛い生徒諸君。

理性自身がおのれで制御不能の化物を生み出すその瞬間を楽しみにしてるが良い」(某世界史の先生)

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