第三話 暴走する理性
『なにゆえに人間は、真に人間らしい状態へ進む代わりに、一種の新しい野蛮状態へ陥っていくのか』
―テオドール・アドルノ、マックス・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』(序文)―
「私のかわいい生徒諸君、楽しい世界史の時間だ」
田村先生の授業はいつもこの台詞で始まる。(そしてお決まりのいやらしい、右の口角が引きつった笑みを顔に張り付かせるのだ。)
「前回は第一次世界大戦の勃発を説明しようとしてタイムリミットだったな…」
いつも通り、田村先生は前回の授業でどこまで進んだかを確認する。
いつもと変わらない動作、いつもと変わらない日常。
思うに、学校生活(いや、人生と言ってもいいかもしれない)は変わらない日常からできている。
でも、その日常をひょいと飛び出た出来事は稀にだが起きる。(そして、それこそが老人の淡い青春の記憶になるのだろう。若い俺が知ったことではないが。)
人にとってそれは突然の告白だったりするのだろうか。
まぁ、俺にとってそれは会長との会話になるが、、、
だから今、正直言って田村先生の授業なんてどうでもよい。
あの非日常的な出来事をきっかけとして俺の妄想力は爆発を続けている。
つまり、会長の妄想をするので精一杯なのだ。
俺の演算能力は全力を上げて会長の裸体を計算し、描写しようとしている。
会長の身長は高い。すごい高い。といっても一七〇cm程度だと思うが…
(こらっ、そこ、俺の身長が低いだけとか言わない。俺の身長は四捨五入すれば一七〇はある。)
胸は大きくはない。どちらかと言えばスレンダー体型だ。
モデル体型とでも言うのだろうか?スタイルはそういう意味では抜群だ。
どんな匂いがするのだろうか?きっといい匂いがするに違いない。
あぁ!あの柔らかい、
髪の毛を
そしてその指の匂いを精一杯嗅ぎたい!!
…大変、失敬。少々俺の性癖がバレてしまった。
とにかく、俺は妄想で忙しいのだ。
先生の話を聞くだけの集中力も、能力も俺は持ち合わせていない。
今度会長と会ったら、もうちょっと長く話がしたい、、、
機会があるかわからないけど…
話しかけるぐらいだったら俺だってできるはず、、、
なんだって一回は話したんだから。
(「――君は
唐突にあの会長の言葉が突き刺さる。
さり際のあの言葉。
…無理、無理だな。あの時の会話は会話とすら呼べない。
言ってしまえばただの業務連絡。
言ってたじゃないか、「選挙活動」だって。
(「感謝している」)
……悪い女だなぁ、、、
本当に会長は悪い女だ。
冴えない俺にそんな一言を言えばどうなるかぐらいわかってほしいものだ。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
ハリウッド映画もなかなかいい言葉を言うではないか。
会長にはそこら辺わかってほしいものだ!!
いや、それは責任転嫁か。
行動を起こせない、この俺が悪いんだろうな。
少しだけブルーだ。
……よし決めた、決めたぞ俺は。
俺は来期、生徒会に入って会長の下で働く。
会長の犬奴隷に俺はなる!!
会長のまわりを回ってワンと鳴いてやろう。
右手を差し出してお手をしてやろう。
地面に寝っ転がって、無防備に腹を見せてやろう。
つながれる首輪を、忠誠の証としよう。
「以上の推移をもって第一次世界大戦は始まった。どうだ?面白いだろ?
サラエヴォ事件から怒涛の歴史の進行!ノンストップで事態が推移するこの面白さ!!どうだ?わかってくれるか?」
定年間近の田村おじいちゃんはいつにも増してはしゃいでいる。
歴史が好きなんだろうな。
先生は歴史を愛している。
でも田村おじいちゃんのこの呼びかけに反応する人はいない。
可哀想なおじいちゃん…
「むぅ……この面白さが皆にはわかってもらえんか…
これから『なぜ第一次世界大戦が始まったのか?』を考えるのが本番なのになぁ…」
ごめんなさい、話しを聞いてなかっただけなんですよ。
きっと面白いことには面白いんでしょう。
ていうか、今までの全部前座だったんですね。
いまさらっと教科書読みましたが、受験的にはこれで十分だと思うんですけど…
教科書外のことやってると範囲終わりませんよ?
ほら、田村おじいちゃんには学習指導要領とかいうノルマあるじゃないですか。
仕事しなくていいんですか。
仕事しないから定年間近なのにほとんど平の歴史先生なんですよ。
「では松本裕太。
問題、『なぜ第一次世界大戦が始まったのか?』説明せよ」
うっわー、嫌な笑顔だ!ここ最近でも群を抜く酷い笑顔だ!!
「えっ…えぇ、、うーん」
答えに窮する。いろいろ考える。
仏露協約のせい?露が動員したから?
ヴィルヘルム二世が戦争したかったから?サラエヴォ事件が起こったから?
いや、
誰かが戦争でお金儲けをしたかったからか?
どれが正解だ!?
いや、全部正解か?だとしてもどうする?どうやって述べる?
そもそもこれらは正解なのか?間違っているんじゃないか?
「ふっふっふ…
この問題は弁論に長けた生徒会長でも一〇点満点中三点しかとれなかった難問だ。
彼女は前回テストのウォーラーステインの「世界システム論」についての問題は驚きの七点をもぎ取ったが、どうやらこういった国際関係学的なものはお苦手のようであるな。
まぁ、口頭でいきなりこんな問題は我ながらに大人げないと感じなくもない。
ハハハ」
あ、そうなんですか。先生が言ってた、「ある一人の女の子」って会長だったんですね。会長にご執心なのはなぜかと思ってたけれども、道理で…
どれにしても、
くっそむかつくなぁ!!
仕方ないので適当に長々と喋って授業を妨害してやろう。
サボタージュだ!牛タン戦術だ!!
「…第一次世界大戦はドイツの位置によるも――」
プッツン――――
あ、、れ、、、?
視界がブラックアウトする。
だがしかし、思考は健在。
さっきのはなんだかあれだな、アナログテレビが急に切れる時のあの音だな。
懐かしいなぁ。アナログテレビなんてもう見ないもんな。
俺が小さい時はぎりぎり残ってたなぁ。
それで夏休み、じいちゃんとばぁちゃんの家で朝のアニメ見てたな。
なんか童話を題材としたやつだった。
そうそう犬が出てた。
いやぁー懐かしい!!
さて、困った。
死んだのかな?俺は。
しかし、しかしながらだ。まだ死ぬには早い。
俺には会長の犬になるという崇高かつ神聖な使命が待っている!!
誰だ、俺の邪魔をする奴は!!許さんぞ!!
……視界が明らみ始めてくる。
ふぅ、どうやら死んだわけではないようだ。
頭の血管が破裂したのかもしれない。
それで救急車に運ばれて入院でもしてるのだろう。
ということは、このまま視界が開けば見えるのは病院の天井だ。
ここでユーモアセンスがそこそこあって、そしてオタクの俺には呟くべき言葉がある。
さぁ、タイミングを合わせて…
「知らない天井だ」
「……何を言っているのだこの痴れ者が!己の置かれた状況を推察しろ!!何を考えたらそんな言葉が出るんだ!!自分で自分のことを考えないこの
え?誰この赤髪少女。
すごい怖い。すごい怒気。すごい圧迫感。
世界の半分支配できそうな威圧感があるんですけど?
うわ、、、あの目…絶対人殺してるよ……狂気の目だ。間違いない。
だいたいルンペンプロレタリアートってなんだよ。
そんな用語聞いたことないぞ?
これはあれかな、語感からしてカタカナだし、外来語ということは知識人がよく使う罵倒文句なのかな?
とにかく
そして、、、ここは病院でも何でもないようだ。
あえて言うなら――法廷。
椅子に座らされている俺。
前には随分と荘厳な机と背がバカ高い三つの椅子。
俺に罵詈雑言を浴びせている赤髪少女は真ん中よりも一段低い左の席に座っている。
一段高い真ん中には聡明そうな茶髪の幼女。
右には大層儀礼的な服を着込んだ長老みたいな髭を伸ばしたおじいちゃん。
その三人が俺の方を見つめている。
なんだ、これは、、、
俺は何か悪い事したのだろうか?
何か悪いことしても意識混濁の時だろう。
責任能力の有無が争われることになる。
「まぁまぁ、そんな怒らないであげてよ。彼、困ってるじゃない」
真ん中の茶髪の幼女が俺の援護をしてくれる。
そうだ!そうだ!!一番左の赤髪幼女は裁判官として問題がありますぞ!!
裁判長殿は然るべき処置を取るべきです!!
それにしても裁判長殿、お若すぎやしませんか?
「そうであるぞ、マルクス殿。我ら
「黙れ魔法使い。
この不思議びっくり嘘つきペテン師のキチガイ宗教家が!!失せろ!!
私、何回も言ってると思うけど宗教とか嫌いなんだよねぇ!!
宗教とかアヘンです、ア・ヘ・ン!!大衆をだまくらしおって!!」
…驚きの口の悪さだな。マルクスというこの赤髪少女の親の顔が見てみたい。
それにしてもこのマルクスちゃん。この齢にしてマルクス主義者か…
名前から視察するに、そういった、、、ちょっと左に偏った家庭で生まれ育ったのかもしれない。
キニシナイデオコウ。
「ペテンとは何事か!!神聖なる自然の御業をなんと心得る!!
これだから貴様ら第二世界の住人は世界を滅ぼすことになるんだ!
世界の理をその傲慢な精神で捻じ曲げようとしたのが世界滅亡の発端ではないか!!
自然への畏敬を忘れ、それを自らの手中に収めようとするその精神!!反省しろ!」
うんうん、そうだよねぇ…
最近の科学技術の発達は眼を見張るものがあるけど、眼を背けたくなることも多いよね。
遺伝子工学とか核兵器とか、地球温暖化とか問題だもんね。
その気持わかるぞ、髭のおじいちゃん。
さて、困った。髭のおじいちゃん曰く、どうやら世界は滅亡してしまったらしい。
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