Action.14【 アドニスのためのパヴァーヌ 】
フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが1899年に作曲した『亡き王女のためのパヴァーヌ』は抒情的で美しいメロディである。この曲の亡き王女とは、ハプスブルク家のマルガリータ王女をモデルに作られたといわれているが、その王女は21歳の若さで亡くなっている。
この曲を聴く度に、こんな映像が頭の中に浮かぶ、雲の切れ間から放つ一条の光に導かれて、小さな女の子がゆらゆらと舞いながら天国へ昇っていくのだ――。
三年前、心臓の弱い妻は新しい命を産み出そうとしたが、自分自身の命と引き換えになった。そして誕生した娘は未熟児で母の後を追うように小さな命の灯を消した。
新しい命を妻と待ちわびて、その両方を喪い独りぼっちになった僕は、悲しみに暮れて、あれからずっと死んだように生きている。
妻が妊娠さえしなければ、今でもふたりは一緒に暮らしていたことだろう。
僕らの子供が欲しい。親になりたいと新しい家族を願ったのは僕のエゴだったのかもしれないと自問自答しながら毎日を送っていた。
凱旋門を眺めるパリのシャンゼリゼ通りは、世界一美しい大通りと称されている。
その街角のオープンカフェでランチを食べ終え、僕は本を読んでいた。親の遺産と少しの脚本書きの仕事で十分に暮らしていける。
今後、結婚する気もないので大きな屋敷は処分して、シャンゼリゼの目抜き通りから裏通りに入った、こじんまりしたアパートメントに今はひとりで住んでいる。
趣味といえば、音楽、読書、たまに観劇とコンサートだった。僕は三十代半ばですでに
通りの
本の活字を目で追う僕の耳に、後ろの席の男女の諍いの声が聴こえてきた。
一方的に女が激昂して相手をなじっているようだったが、他人のことには興味がない。
ビックリして振り返ったら、女がヒールの音を響かせて立ち去るところだった。残された男は頭から水浸しになっていた。
ギリシャ神話のアドニスのような金髪碧眼の美しい青年で、絹のシャツが濡れて白い肌が透けて見えた。
「どうしたの大丈夫?」
思わず声をかけてしまった。
「彼女の自尊心を傷つけたからね。オカンムリなのさ」
そういって、アドニスがニヒルに笑った。
「そのままじゃ、風邪ひくよ。すぐ近くなんだ。着替えを貸そうか?」
あの時、なぜ? そんなお節介な言葉を発したのか自分でも不思議で仕方ない。でも、それが『運命』というものなのだろう。
アドニスは
クローゼットを探って彼のサイズに合うシャツを探すが、どれも華奢なアドニスにはデカ過ぎる。妻の遺したコットンのシャツがあったので、それを差し出す。
「女物で申し訳ないけれど……」
「構わないよ。僕は細いから女性の服もよく買うんだ」
妻が着ていたコトン・ドゥのシャツは彼にピッタリだった。
その後、僕らはお茶を飲んで取り留めのない会話をした。アドニスは四歳からバレエをやっていて、常に女性より美しく見せることに腐心してきたと語った。
お気に入りの曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』を二人で鑑賞していたら、僕の目をじっと見て、「深い悲しみを湛えている」とアドニスがいった。そのひと言で心の底まで覗かれたような気がした。――彼の碧眼はまるで千里眼だった。
「知ってる? ラヴェルはゲイだったんだよ」
ふいに、アドニスがいった。
「ランボーとヴェルレーヌもさ」
「多いよね」
「うん。愛に性別はないのだろう」
「僕もゲイだよ」
「えっ?」
「……だから、女性には友情しか抱けないから、さっきみたいにキレられるんだ」
アドニスはさらりとカミングアウトした。
その言葉に一瞬息をのんだが、僕自身はゲイに対する偏見はなかった。
「僕の名前はロベール。この部屋にまた来てもいいかなあ?」
美しい碧眼で問う彼に、すげなく「non!」とは言えなかった。
その日から、僕の部屋にロベールが度々訪れるようになった。
二人は趣味が合ったし、一緒に過ごす時間は楽しく、すぐに気の置けない間柄になった。――そして、自然と僕らは秘密の時間を共有する関係になっていった。
僕の部屋のベッドルームのひとつを今ではロベールが使っている。料理上手な彼が焼いたガレットは極上の味で僕の舌を満足させた。人生を諦めて、ひっそりと
もう一度、新しい人生をやり直すロベールとふたりで! これから役所に婚姻届けを出しに行こう。
悲しみのパヴァーヌはもう聴こえてこない。
[フランスでは同性婚解禁法案を賛成多数で可決、2013年5月18日同法律が施行されました]
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