Action.13【 My name is 】
朝起きたら、自分の名前が思い出せなくなっていた――。
毎朝、スマホでメールを確認するのだが、返信しようとして俺は戸惑った。なんと自分の名前が出てこないのだ。名字は分かるがファーストネームが分からない。 まさか若年性アルツハイマーか? だが妻や子供の名前はちゃんと覚えているし、自分の生年月日や血液型、星座、勤務先の電話番号もちゃんと言える。
それなのに……どうしても自分の名前だけが思い出せない。
「パパ、今朝はトーストにします? それともご飯がいい?」
いつものようにハムエッグとサラダとみそ汁が並んでいる。俺の返事を聴く前に妻はトーストを置いた。これもいつものことだ。
「昨夜は帰りが遅かったのね」
「ああ、取引先の接待で午前さまになった」
トーストをかじりながら新聞に目を通す。そうだ、妻に訊いてみよう。
「なあ、たまには俺の名前を呼んでくれないか」
「はぁ~?」
きょとんとした妻の顔、照れ笑いしながら、「イヤーね。新婚じゃあるまいし」といった。
そこへ高校生の息子が起きてきて、結局、名前は呼んで貰えなかった。
家を出る時、表札を見たが『SAKAMOTO』と名字しか書いていない。
名前くらい思い出せなくても不自由はないだろうと出社したら、部下が出張の申請書を持ってきた。
「課長、
書類に目を通し署名しようとして……困った。やっぱり自分の名前が思い出せない。ペンを持ったまま動きが止まった俺を、部下が
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと……」
仕方なく名字だけ書いて判子を押して渡したら、「これじゃダメですよ。他の部署にも同じ名字の課長がいるし、フルネームでお願いします」と返された。
言われなくても分かっているが、自分の名前が書けない。
「俺の名前しってるか?」
「課長、冗談いってないで早く!」
いくら焦っても思い出せず、仕方なく「腹が痛い」とその場から逃げた。
トイレに行く振りして、屋上に上がって考える。
そうだ。運転免許証には名前が載っているはず、財布から取り出し絶句した。名前の部分だけが空欄になっている。他のカード類もすべて名前だけが空欄だった。
頼む、誰か俺の名前を教えてくれ!
……そういえば、今でも俺を名前で呼んでくれるのはお袋だけだった。そうだ、実家に電話しよう。
『もしもし、母さん』
『どなた様ですか?』
『何いってんだよ。俺だよ、俺!』
『俺? そんな人知りません。きちん自分の名前を言いなさい』
『母さん、俺だ! 俺だってぇ~』
『オレオレ詐欺に騙されるほど、あたしゃ耄碌しちゃいません!』
無情にも電話は切られた。
仕方ない、自分の名前に関する記憶を
俺の名前を祖父が付けたと聞いたことがある。両親は反対したが、祖父が勝手に役所に届けてしまったらしい。
小学校の頃はヘンな名前だとからかわれた記憶がある。大人になってからは『それ本名ですか? カッコイイ名前ですね』と言われたこともあった。俺の名前はヘンなのか、カッコイイのか、どっちなんだ?
――いくら考えても名前が出てこない。
今朝から名前を喪失したということは、昨夜の俺に何かあったようだ。
上司と二人で取引先の接待で飲みに行ったが、名刺交換の時「名前負けしてる」と嫌みを言われて、不愉快だった。終わった後、一人で飲み直そうと繁華街をぶらぶらしていたら、路地の奥に小さな酒場があった。
カウンターに五人も座れば満席の店で、初老のマスターが一人でやっていた。
「マスター、何か変わったお酒ある?」
「お客さんの悩みに効くお酒がありますよ」
「俺の悩み? そうだなあ~、自分の名前が嫌いだ。できれば消したい!」
「分かりました」
マスターはシェイカーを振って、青いカクテルが俺の前に置かれた。
「これが悩みに効くお酒か」
ひと口飲んだらミントの爽やかな味がした。
「やっぱり俺の名前を消すんじゃなくて、同じ名前の奴がいなくなった方がいいや」
「そうですか、では、これを……」
真っ赤なチェリーを青いカクテルの中に入れたら、「おっ、紫に変わった!」まるでマジックだ。
「カクテルの名前はMy name is」
紫色のカクテルはとろりと甘く不思議な味がした。
しばらく舌が
「課長! こんな所に居たんですか」
さっきの書類を持って部下が屋上までやってきた。
「早くサインしてください。明日は祝日なので明後日の出張に間に合わない」
ふいに
「祝日って?」
「明日は『将軍誕生日』ですよ」
「将軍?」
「十九代徳川将軍が生まれた日」
こいつ何いってるんだ!? 徳川幕府は二百年も前に滅亡したはずじゃないか。……ひょっとして徳川幕府がまだ続いているってことか? 大政奉還はなく、明治維新もなく、日本は開国したのか、そんなバカな……。
「坂本龍馬って知ってるか?」
「は? それ課長の名前じゃないですか」
――日本の歴史が大きく変わっている。
あのカクテルを飲んだせいで、俺の『龍馬』が残って、明治維新に影響を与えた歴史上の偉人『坂本龍馬』が喪失してしまった――。
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