Action.9【 風紋 】

 神楽坂にあるカクテルバー『すなば』は、坂下の路地の奥にあり気づく人も少ない。

 うなぎの寝床のような細長い店内は七人掛けのカウンターだけ、BGMにはジャズの帝王マイルス・デイビスのクールジャズが流れていて、大人の雰囲気をかもし出している。

 マンハッタンでバーテンダーの修業をしたというマスターは四十代の渋いイケメンだ。若い頃に妻を亡して、それからずっと独身だったという。――寡黙かもくだが、マスターの気配りの利いたアットホームなお店である。

 都会の隠れ家のようなカクテルバー『すなば』、だが週末にもなると常連客でカウンターはいつも埋まってしまう。


 青山花純あおやま かすみは、フード専門カメラマンとして売り出し中で、今年三十二になるが、溌剌はつらつとして若く見えるボーイッシュな美人である。

 彼女が撮影した料理の写真は本物以上に美味しく見えると評判で、料理本や宣伝用のパンフレットなどによく使われている。

 山陰地方から東京の大学に進学した花純だが、卒業後、郷里に帰らず写真の専門学校に通い、プロカメラマンの助手として働いてきた。五年前、カメラマンの先生に連れてきて貰ったのが、このカクテルバー『すなば』だった。

 店内には砂漠や砂丘を撮影した写真がいっぱい壁に飾られている。マスターはアマチュアカメラマンだが、写真コンテストで何度も入賞している実力派なのだ。

砂丘の風紋を写した作品は秀逸しゅういつで、その美しさに思わず見入ってしまう。風と砂が織りなす自然の文様もんようは神秘的だった。


「風紋は風から愛の告白だよ」


 ……なんて痛いことをいうマスターだが、飄々とした人柄はみんなから好かれていた。

『すなば』という店の名前が気になって、その理由を訊ねたら、なんとマスターと花純は同郷人だった。――そんな近親感もあって、たちまち花純は『すなば』の常連客になった。


「モスコミュールお代わり!」

 グラスをかかげて、次のお酒を注文する。

「花純ちゃん、ちょっとピッチ早くないか?」

 心配そうにマスターがいうと、「ヘーキ! ヘーキ!」かなり酩酊状態めいていじょうたいだ。

 モスコミュールはウォッカをベースにして、ジンジャーエールで割り、ライムジュースを加えて作る。口当たりが良いので女性に人気のカクテルだが、アルコール度は意外と高い。そのモスコミュールを立て続けに五杯も飲んでいるのだ。

 どうやら誰かと『すなば』で待ち合わせしているようだが、相手が来ないので苛立いらだっている様子だった。

 その時、ドアのカウベル鳴って男がひとり入ってきた。

 花純の隣に座ると、迷わず「マティーニ」を注文した。この男は半年ほど前から『すなば』に花純と一緒に訪れる客だった。三十代半ば、エリートサラリーマンといった風貌で、左の薬指には指輪をしていた。――二人がどういう関係なのか推して知るべし。


「急に話があるって何だよ?」

 マティーニをひと口飲んで、不機嫌そうな声で男が花純に訊ねた。

「……私、デキタかも知れない」

「えっ!」

 ビックリした男は思わず大声を出したが、マスターの方を見て声を潜めた。

「デキタって……マジかよ?」

「たぶん……」

「……たぶんって? 俺には妻子がいる。金は出すからおろしてくれ」

「――そう、要らないの? 二人の赤ちゃんなのに……」

「絶対要らない! 病院には俺も付添うから早急に頼む」

「やだ、やだ!」

 花純は大きくかぶりを振った。

「酔っ払ってるのか? おまえ……」

「違う!」

「とにかく俺は困る。慰謝料も払うから処理してくれ」

 かたくなに拒否する男の顔をまじまじと凝視していたが、だしぬけに花純が笑いだした。

「な、なに笑ってるんだ!?」

 怒気どきを含んだ声で男が抗議する。

「嘘よ。嘘! あなたの反応を試したのよ」

「なに……」

「これで終わりにしましょう。私は自由になりたいの。あなたを家庭に返してあげる」

「なんだよ。その言い草は……」

「もう、うんざりなのよ」

 そういって、花純はそっぽを向いた。

「酷い女だなあ! よし分かった」

 怒った男は乱暴にドアを開けて出ていった。

 

 ――店の中がしらけた。花純はカウンターにうっぷして深い溜息をついた。


「モスコミュールお代わり」

「もう今日は止めときな。お腹の子に悪いよ」

「……えっ、知ってたの?」

「ああ、ひと月ほど前から煙草を止めてただろう。ヒールも低いのを履くようになってたし……」

「マスターにはお見通しなのね」

「長い付き合いだからさ」

「デキタって言った時の彼の冷たい反応で、私、腹をくくった!」

「花純ちゃんは産む気なんだね」

 その問いに彼女は深く頷いた。

「私、東京の暮らしに疲れた」

「そうか」

「故郷に帰って子どもを産むつもりよ」

「その方がいい」

「うん、砂丘から海に沈む夕日が見たいから……」

 花純は遠い目をした。

「あんなぁ、一緒に鳥取とっとりに帰らい」

 突然マスターがいった、懐かしい方言に花純の口元に笑みが零れた。見たら、マスターも微笑んでいる。

「本気なの?」

「花純ちゃん……これは君の弱味につけ込んだ訳じゃない。私の存在が君の役に立てると確信したからだ。四十になったら郷里に帰って、小さなカフェバーをやりながら毎日砂丘の写真を撮るつもりだった」

「けど、どうして? 急にそんなことを……」

「カウンターの中で、君に告白のチャンスをいつもうかがっていたんだよ」

「マスター……」

「お腹の子どもを二人で育てよう」

 思いがけない告白に花純の瞳が潤んだ。


「風紋は風から愛の告白だよ」


一人で歩くと決めた砂の上を、一緒に歩いてくれるという人ができた。

やがて二人の間には、小さな足跡も付いてくるだろう――。

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