Action.9【 風紋 】
神楽坂にあるカクテルバー『すなば』は、坂下の路地の奥にあり気づく人も少ない。
うなぎの寝床のような細長い店内は七人掛けのカウンターだけ、BGMにはジャズの帝王マイルス・デイビスのクールジャズが流れていて、大人の雰囲気を
マンハッタンでバーテンダーの修業をしたというマスターは四十代の渋いイケメンだ。若い頃に妻を亡して、それからずっと独身だったという。――
都会の隠れ家のようなカクテルバー『すなば』、だが週末にもなると常連客でカウンターはいつも埋まってしまう。
彼女が撮影した料理の写真は本物以上に美味しく見えると評判で、料理本や宣伝用のパンフレットなどによく使われている。
山陰地方から東京の大学に進学した花純だが、卒業後、郷里に帰らず写真の専門学校に通い、プロカメラマンの助手として働いてきた。五年前、カメラマンの先生に連れてきて貰ったのが、このカクテルバー『すなば』だった。
店内には砂漠や砂丘を撮影した写真がいっぱい壁に飾られている。マスターはアマチュアカメラマンだが、写真コンテストで何度も入賞している実力派なのだ。
砂丘の風紋を写した作品は
「風紋は風から愛の告白だよ」
……なんて痛いことをいうマスターだが、飄々とした人柄はみんなから好かれていた。
『すなば』という店の名前が気になって、その理由を訊ねたら、なんとマスターと花純は同郷人だった。――そんな近親感もあって、たちまち花純は『すなば』の常連客になった。
「モスコミュールお代わり!」
グラスを
「花純ちゃん、ちょっとピッチ早くないか?」
心配そうにマスターがいうと、「ヘーキ! ヘーキ!」かなり
モスコミュールはウォッカをベースにして、ジンジャーエールで割り、ライムジュースを加えて作る。口当たりが良いので女性に人気のカクテルだが、アルコール度は意外と高い。そのモスコミュールを立て続けに五杯も飲んでいるのだ。
どうやら誰かと『すなば』で待ち合わせしているようだが、相手が来ないので
その時、ドアのカウベル鳴って男がひとり入ってきた。
花純の隣に座ると、迷わず「マティーニ」を注文した。この男は半年ほど前から『すなば』に花純と一緒に訪れる客だった。三十代半ば、エリートサラリーマンといった風貌で、左の薬指には指輪をしていた。――二人がどういう関係なのか推して知るべし。
「急に話があるって何だよ?」
マティーニをひと口飲んで、不機嫌そうな声で男が花純に訊ねた。
「……私、デキタかも知れない」
「えっ!」
ビックリした男は思わず大声を出したが、マスターの方を見て声を潜めた。
「デキタって……マジかよ?」
「たぶん……」
「……たぶんって? 俺には妻子がいる。金は出すからおろしてくれ」
「――そう、要らないの? 二人の赤ちゃんなのに……」
「絶対要らない! 病院には俺も付添うから早急に頼む」
「やだ、やだ!」
花純は大きくかぶりを振った。
「酔っ払ってるのか? おまえ……」
「違う!」
「とにかく俺は困る。慰謝料も払うから処理してくれ」
「な、なに笑ってるんだ!?」
「嘘よ。嘘! あなたの反応を試したのよ」
「なに……」
「これで終わりにしましょう。私は自由になりたいの。あなたを家庭に返してあげる」
「なんだよ。その言い草は……」
「もう、うんざりなのよ」
そういって、花純はそっぽを向いた。
「酷い女だなあ! よし分かった」
怒った男は乱暴にドアを開けて出ていった。
――店の中がしらけた。花純はカウンターにうっぷして深い溜息をついた。
「モスコミュールお代わり」
「もう今日は止めときな。お腹の子に悪いよ」
「……えっ、知ってたの?」
「ああ、ひと月ほど前から煙草を止めてただろう。ヒールも低いのを履くようになってたし……」
「マスターにはお見通しなのね」
「長い付き合いだからさ」
「デキタって言った時の彼の冷たい反応で、私、腹をくくった!」
「花純ちゃんは産む気なんだね」
その問いに彼女は深く頷いた。
「私、東京の暮らしに疲れた」
「そうか」
「故郷に帰って子どもを産むつもりよ」
「その方がいい」
「うん、砂丘から海に沈む夕日が見たいから……」
花純は遠い目をした。
「あんなぁ、一緒に
突然マスターがいった、懐かしい方言に花純の口元に笑みが零れた。見たら、マスターも微笑んでいる。
「本気なの?」
「花純ちゃん……これは君の弱味につけ込んだ訳じゃない。私の存在が君の役に立てると確信したからだ。四十になったら郷里に帰って、小さなカフェバーをやりながら毎日砂丘の写真を撮るつもりだった」
「けど、どうして? 急にそんなことを……」
「カウンターの中で、君に告白のチャンスをいつもうかがっていたんだよ」
「マスター……」
「お腹の子どもを二人で育てよう」
思いがけない告白に花純の瞳が潤んだ。
「風紋は風から愛の告白だよ」
一人で歩くと決めた砂の上を、一緒に歩いてくれるという人ができた。
やがて二人の間には、小さな足跡も付いてくるだろう――。
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