Action.4【 バッテリー 】

「本当に辞めてしまうんですか?」

 部下だった下村が、まだ疑わしそうに俺の顔を覗きこんで訊く。

 今日で俺は三十年間務めた会社を退職した。断わったのだが元部下たちが集まって送別会をやってくれた。一次、二次、三次と……最後の四次会は下村と二人になってしまった。彼とは長年仕事を一緒にやってきた仲だ。

「部長が辞めたら……俺はどうしたらいいんだろう?」

 下村は目頭を押さえて、こうべを垂れた。

 送別会の〆は俺と下村が平社員だった頃に、よく営業に使った小料理屋の座敷だ。古い店だが、旬の旨い料理を食べさせるので客の評判が好い。しかも、客がいれば朝まで営業してくれる有難い店だった。

 ずっと不義理をしていた、最近では俺も下村も出世して銀座の高級料亭に通うことが多くなって申し訳ない。それでも女将はにこやかに出迎えてくれた。


「俺は先輩が好きで……ずっと後を付いて来たんです」

 下村は高校、大学と俺の後輩だった。二歳年下の彼とは高校の野球部で知り合った。

 高校最後の夏、俺たちの野球部は甲子園行きの切符を手に入れた。元々、強い野球部ではなかったが地元選抜試合をとんとん拍子に勝ち抜いた。学校、いや地元を挙げて大騒ぎ、一躍、野球部は時の人となった。当時、俺はキャッチャーで四番バッター、ファンの女の子も多かった。

 意気揚々と甲子園入りした我が野球部だが……一回選の相手チームを見て、ガッカリした。甲子園の常連校、優勝、準優勝、数知れず。プロ野球にもその学校出身者が多いという強豪チームだった。実力は雲泥の差がある『一回選敗退決定!』相手チームの名前を見た瞬間、監督始め部員全員がそう思っていた。

 

 果たして強豪チームとの一回選、俺たちは手も足の出ず、ピッチャーを何人替えても攻め込まれて、12-0とワンサイドゲームのまま終盤を迎えた……ああ、もう甲子園の砂を持って帰るしかないなあー、そんな諦めの境地だった――。

 九回のツーアウトで俺の打順が回ってきた。

 地元からはバスで多くの人たちが甲子園へ応援に駆けつけて来てくれている。俺たちは甲子園出場をかけて猛練習をしたではないか。こんな見せ場のない試合のまんまで終わってもいいのか。

 このまま、むざむざと負けたくない!

 俺は悔しくて仕方なかった。打席に立った時、どんな球が来たってフルスイングしてやるぞ! 一度もバットが相手の球に触れないで帰るのだけは嫌だ。それだけを思って、構えていたら……信じられない甘い球がきた。よっしゃー! 雄叫びと共に俺は満身の力でバットを振り切った。

 カキーン! 甲子園の空に快音が轟いた。

 俺の打った球が空高く飛んでいく、もしかしたら場外ホームランかも知れない。そう思いながらスリーベースを回った。あの時のピッチャーの憮然ぶぜんとした顔が忘れられない。――たぶんあれは、大差が開いて油断したための失投なのだろう。

 ホームベースを踏んだ時、チームの仲間と地元応援団からの拍手喝采だった。野球部マネージャーだった佐和子は感動のあまり泣いていた。

 結局負けたけど、最後に見せ場をつくった俺はヒーローだった。


「あの時の先輩はかっこ良くて、今でも忘れられません」

 下村もあの時のことを思い出していたのか、ふいにそんなことを言い出した。当時一年生だった彼はベンチで俺の活躍を見ていたのだ。 その後、うちの野球部が二度と甲子園に行くことはなかった。一生の大事な思い出を先輩に貰ったと、いつも酒を飲むと俺にそう話す。

「ああ、先輩が辞めたら、俺はどうしたらいいんだろう?」

 そう言って深い溜息をついた。

「何を弱気なことを言ってるんだ。次期、部長はおまえだろう。みんなを引っ張って行けよ」

「俺には先輩みたいなカリスマ性がないからなあー」

「あははっ」

「――どうして、辞める理由を俺にも教えてくれないんですか?」

「……だから、一身上の都合だよ」

「それじゃあ、納得できない」


 元野球部のマネージャーだった佐和子と俺は結婚した。彼女は良い妻だった――。俺たち夫婦に子どもは出来なかったが、佐和子は俺の両親の介護をよくやってくれた。

 仕事人間の俺は、休日も深夜も関係なく仕事に没頭して家庭を顧みない、海外赴任中は現地に愛人まで作った不良亭主だった。それでも文句も言わずに佐和子は俺に付いてきてくれた。

 三年前、俺の母が亡くなってから介護の世話がなくなり気が楽になったせいか、妻の様子がおかしくなった。

 物忘れがひどい、料理や家事ができない、感情の起伏が激しい、妄想をみる。病院で『アルツハイマー型認知症』だと診断された。このまま進行したら失外套症候群しつがいとうしょうこうぐんなると医者に言われた。

 日中、佐和子を独りには出来ない。……かと言って介護施設に妻を放り込んで、素知らぬ振りは俺には出来ない。

 ――その時、思った。

 仕事よりも長年連れ添った妻の方が大事だ。会社よりも妻の介護を選んで会社を退職した。本当の退職理由は会社にも部下にも秘密にする。


 長い夜が明けて、下村と駅前で別れた。

 元ピッチャーだった彼はボールを持って来ていた。別れ際に、「先輩、受け取ってください!」と投げてきた。俺はそれを受け止めて「頑張れよ!」と声援を贈った。

 これから俺は妻とバッテリーを組むのだ。彼女の投げるワイルドピッチを身体を張って受け止めていこう!



 ※ 失外套症候群しつがいとうしょうこうぐん

 大脳皮質の大規模 な機能障害によって大脳皮質の機能が完全に失われてしまった 状態。眼は動かすが、 身動きひとつせず、言葉も発さない状態となる。            

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