Action.2【 東山公園 】

 東京から名古屋へ出張で来た。予定していた会議が相手の会社の都合で急遽取

止めになり、明日の早朝に変更された。日帰りのつもりだったが、また明日出直すのもロスなので、栄にビジネスホテルを予約して一泊することにした。その旨を会社に報告して、自宅にも電話を入れ、出張が延びたことを妻に告げるとなぜか嬉しそうな声になった。

《亭主達者で留守が良い》ってやつか? たぶん、今からヒマな主婦でも誘ってホテルのランチでも行くつもりだろう。専業主婦は亭主がいなけりゃニートと同じじゃないかと腹の中で毒づく。


 エアポケットみたいにぽっかりと時間の穴が空いた。

 明日の朝の会議までやることもないので、今日は仕事を忘れて観光でもしようかと思いたった。私営地下鉄に乗って、俺はある場所を目指した。

 十数年前、院生だった頃に名古屋で二年ほど暮らしたことがあった。

関西出身の俺は大学まで地元だったが、院生試験を受けて名古屋の大学へ編入したのだ。大学院で続けたい研究があったわけではなく、単に独り暮らしを体験してみたかったまでのこと――。院生試験にパスした俺は、引っ越しの下見に立ち寄った「東山動植物園」の桜があまりに見事な満開だったので、その美しさにあてられて、いっぺんでここが気に入った。

 そして市営地下鉄東山線「東山公園」駅周辺で家を探した。

 

 平日ということで「東山動植物園」の入園者はさほど多くはなかった。

 動物園では園児たちの遠足で賑わっていたが、俺はお気に入りだった植物園の大温室へと向かった。ここは現存する温室として日本最古である。

 温室内はある一定の湿度を保っているせいか、ムゥーとした空気が流れていた。「ちょこっと、待ってちょう!」後ろを歩いていた若い女が呼び掛けたので、自分のことかと振り返ると、前を歩いていた彼氏に言ったみたいで――。男は立ち止まって女の来るのを待っていた、ヒールが高くて早く歩けないようだ。

《ちょこっと、待ってちょう!》懐かしい方言だった。――ふいに、ある女性のことが俺の脳裏をよぎった。


 当時、知らない土地で暮らし始めた俺は、関西と名古屋の違いに戸惑うことばかり。まず味噌汁がダメだった。名古屋は八丁味噌の赤だしで口に合わなかった。方言も独特でユーモラスに感じた。一番不思議と感じたのは市内の近代的な高層ビルとちょっと引っ込むと田舎くさい、その落差だった。

 アルバイト先で知り合った女性と付き合っていた。三つ年上で生粋の名古屋っ子の彼女は、他所からきた俺に何かと親切にしてくれていた。名古屋の名物の味噌カツや味噌煮込みうどん、ひつまぶしなどの美味しい店を紹介してくれて、彼女の奢りで食べに行った。休日には学生の俺は金がないので、入園料が安い「東山動植物園」でよくデートをした。

 ある日、池のボートに乗らないかと彼女を誘ったことがある。彼女は「ボートに乗ったカップルは別れる」という東山公園の伝説があるから絶対に嫌だと真顔で断った。その時、俺はただ笑っていた。

 その内、親に紹介したいからと岡崎にある彼女の実家に連れていかれた。名古屋の家庭料理を振舞われて居心地は悪くなかったが……何か、ヤバイ方向へ進んでいることを俺は察知していた。


 卒業が近づいて来て、俺は就職や進路について岐路に立っていた。そんなある日、東山公園の芝生の上で彼女の手作り弁当を食べていた。

 二人の将来について、俺が何も話さないので彼女はかなり焦っていたようだ。

「就職どうするの?」

「まだ決まっていない……」

 実は東京の企業の内定を貰っていた。

「私のことどう思ってるの? 名古屋は嫌い?」

「嫌いじゃあないけど……」

 俺は言葉を濁すと項垂れて、青い芝生に目をやった。

「私たちどうなるの?」

「……分かんない」

「ねぇ、何とか言ってよ」

「ごめん……」

 煮え切らない返答に、彼女は怒ったように立ち上がると俺を残して帰ってしまった。


《温かいけど、溶け込めない。好きだけど、執着するほどでもない》

 ――彼女も名古屋も俺にとってはそんな存在だった。

 結局、東山公園での件がわだかまりとなって、二人の関係は自然消滅してしまった。自分を選んで、名古屋に残ってくれるとばかり思っていた彼女は、俺の態度に深く傷ついたようだった。

 名古屋という土地には強い地元意識があって、よそ者の俺には馴染めなかったのだ。


 東山公園の伝説「ボートに乗ったカップルは別れる」と言ったが、あの時、彼女は嫌がってボートに乗らなかったけど、結局、別れる羽目になってしまった二人。

もしも名古屋に残って彼女と結婚していたら、俺はどんな人生を送っていたのだろうか?

 たぶん、彼女だって亭主の出張を喜ぶような妻になっていたのに違いない。俺の人生なんて、どう転んでも大差はなかったことだろう。

 もう彼女の顔も声も忘れてしまったけど、東山公園の満開の桜の風景だけが、俺の心に今も深く焼きついて離れない。

 明日になれば、旅人の顔に戻ってビジネスの話を済ませたら、俺は名古屋を去っていく。お土産には妻の嫌いなういろでも買って帰るとするか――。

                

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