第10話 飼い犬/1


「ん……」


 少女オルハが目を覚ますと、そこは自分の部屋ではない、別のベッドの上だった。鼻につく薬品の匂いで、オルハはそこが医療室だと判定した。


「ん……っ!」


 起き上がろうとするが、身体にうまく力が入らない。何とか起き上がろうともがいていると、その物音を聞きつけて老師ドーリヤンが仕切りを開けてやってくる。


「オルハ! 気が付いたか」


「お、おじいちゃん……ボクは……?」


「大丈夫、しばらく眠っていただけだ。急激に魔力を使ったからな、快復のために休眠したのだろう」


「そっか……」


 見知った顔を見て安心したのか、少女オルハはその身から力を抜き、息をついてベッドに身を預ける。


『――目覚めたようだな』


 ドーリヤンの背後、医療室の扉を開けてシルバがスルリと入ってくる。


「シル――」


 オルハがその名を呼ぶ前に、老師ドーリヤンがシルバの前に立ちふさがり、オルハを庇うように腕を伸ばす。


『……やれやれ』


 鋭い威光を灯す老人の眼に射貫かれ、シルバは目を伏せ苦笑する。


「おじいちゃん……?」


『誓ったろう、私は何もしないと』


「フン! 貴様は信用できん!」


 その手に持つ節くれた杖をシルバに衝き付け、ドーリヤンはその身に力を込める。


『フ――仕方がない。私は少し席を外そう。主よ、すぐに呼ぶのだぞ。……では、失礼する』


 大仰にドーリヤンへと礼をし、シルバは医療室を出て行ってしまう。

 その背を最後まで目を逸らさずに見つめ、扉が閉まり、足音が遠のくまでを待って、老師ドーリヤンはようやくその身から力を抜く。


「お、おじいちゃん……ボク……」

「ばか者!!」


 少女オルハに振り返ることなく、老師ドーリヤンは怒声を上げる。少女は初めて聞く養父の怒鳴り声に、ベッドの上でその身を竦めた。

 それから、深い溜め息のようなものを吐きながら、ゆっくりと振り向く老師の顔を恐る恐る窺った。そこには想像したような鬼の形相はなく、ただただ心配そうな顔があるだけだった。


「おじいちゃん……」


「あのモノから、全て聞いた。あれが何物で、どうして現れたのか……全てな」


 老人はベッドの脇にある丸椅子に、力なく腰を下ろし、深いため息をもう一度吐く。


「ワシが過ったのだ……お前に禁書の読み方を教え、悪魔を呼び出すなどといって古の呪法を憶えさせてしまったワシが……」


 すまなかった――養父の口から出る自戒の言葉が、少女の心をかつてないほどに締め付ける。


「ち、違う! 違うよ! 確かに、やり方を教えてくれたのはおじいちゃんだけど……でも、実際にやったのはボクなんだから!」


 起き上がれない自分の身が恨めしい。伸ばせない手がもどかしい。謝るべきは自分のほうなのに。


「ッ――!?」


 力を望む少女に応えるように、瞳が熱を持つ。背筋にも熱が走り、背中全体に焼かれるような痛みがくる。


「オルハ!」


 少女の異変に気付いたドーリヤンが、立ち上がり手を伸ばす。その手が触れる寸前、少女の身から影が伸び、その手を喰らおうと口を開ける。


「くっ!?」


 ガチン、と鋭い音を立て、咄嗟に引いた老師の手を掠めて影の牙が閉じる。


「オルハ……!」


「大、丈夫……大丈夫、だから……っ!」


 少女は目を閉じ、己の身を焼くような熱を鎮めようと努める。


「この……ッ! くぁひ!?」


 影が少女の肌上を、熱によって浮いた汗を舐めるように滑る。

 ざらりとしたその感触が、少女の身体を震わせる。


「ちょ……っく、んんっ!」


 ぎゅっと瞑った瞳から零れる涙さえ、影に舐め取られていく。

 影は更に蠢動し、少女の身体を包み込んでいく。


「オルハ! く……ッ!」


 手の届くところにいるのに、手を伸ばすことも叶わない。ドーリヤンは己の無力さにただただ歯噛みするしかない。


「シル、バ……シルバッ!」


 少女がその名を呼ぶのを待っていたかのように、ドーリヤンの影が伸び、少女に取り付く影を打ち払う。


『やれやれ……すぐに呼べと言ったのに。躾けがまだだったかな?』


 ドーリヤンの影から姿を現し、魔王シルバはその顔に酷薄な笑みを張り付ける。


『駄犬が……誰がの主人かを分からせてやろう』


 少女の身体から打ち払われた影が、今度はシルバのほうへと飛び掛ってくる。

 シルバはスッと右手を伸ばすと、飛び込んできた影をその鋭い爪先で容易に掴み取る。


『グギャアアア―――!!?』


 ミシミシと音を立てて握り潰されそうになっている影が、悲痛な声を上げる。


『フフフ……中々いい声で啼く。そぉら、お前の主人は誰だ? 言ってみろ』


『シ、しししシルバぁぁぁぁ―――!!』


『ふむ……“様”が抜けているようだが、まぁいい。……それから?』


『オ、おお、お、オルハ様ですぅぅぅぅ―――!!』


『フン――まぁ、いいだろう』


『ギャアアアア!!』


 一際強く握り締めた後、影を地面に叩きつけるように放す。

 影は床、壁、天井を跳ね、その身を小さく砕きながらベッドに眠る少女の身に寄り添うように縮こまる。


『恐ろしい……恐ろしい御方だぁ……』


『許可なく口を開くな、駄犬』


『ヒィィィィ――!!』


「わっ、ちょっと!?」


 小さくなった影は少女の背とベッドの間にぐいぐいと身を押し込み、その隙間に隠れようとするが、少女が半身を起してしまい、その背に隠れるしかなくなった。

 ぴったりと少女の背にくっつく影からは、先ほど感じた熱と、震えが伝わってくる。


「し、シルバ、これはなに?」


『主よ、君に力を貸すもののひとつだ。私と契約を交わしたとき、共に書から現れたモノたちがいただろう?』


「あ……」


 確かにいた。丸い体に蝙蝠のような翼を持った下級の悪魔たち、青い火の玉、そして、黒い影の体をした小さい狼。


「じゃあ、あのときの……?」


『そう。奴らはそのとき私と〈契約〉をしたのだ。そして、君との〈契約〉の際も、君の力として使役されるよう、〈契約〉を更新した』


「ふぅん……そうだったんだ」


『だが……どうやら自由にさせすぎたようだ。それとも、君が精製する魔力に自我を忘れたのか? フフ……ケモノを乱れさせるとは、主もやるようだね』


「は、はぁ!? し、知らないよそんなのっ」


 顔を赤らめてフン!とそっぽを向く少女の姿に、魔王は笑みを深くする。

 オルハは己の背に隠れる小さな影の塊を、その両手に抱きかかえる。それは、光を照り返さない漆黒の毛並みを持つ犬のようだった。今は縮こまってしまっていて、まるで毛玉のようになってしまっている。


「これは?」


『それは地獄猟犬ヘルハウンドの幼生だ。魔界生まれの魔獣のようだが、生存競争から毀れ落ちたのだろ。こちらの世界に生きる糧を求めて彷徨い込んだが、逆に捕らえられてしまったか』


『グゥゥゥ……!』


 少女の手の上で震える黒い毛玉が、怨嗟の唸り声を上げる。何か言いたいことがあるようだが、「許可なく口を開くな」という主人の命令に、忠実に従っているようだ。


「落ち毀れ……」


 少女は、己の手の内にある熱源に、ある種の共感を覚えた。自分も魔導士としては落ち毀れに等しいものだったからか。

 そんな少女の内心を見透かす魔王は、笑みを深くし、苦言を呈する。


駄犬それに同情するのは止めておけ。調子に乗って何をしでかすか、分かったものではない。今もそれで苦しんでいたんだろが?』


「むぅ……そうだね」


 少女は丸まっている小犬のふかふかとした首根っこを摘み上げ、腕を伸ばして顔前に掲げ持つ。そして、


「……えぇっと。この子、名前はないの?」


『知らん。興味がない』


 えぇぇぇ……と声を漏らし、少女は口を横に広げ、半目で魔王を見やる。


「うーん……なら、クロ、でいいかな?」


 少女はコホンとひとつ咳払いをして、左手で摘み上げた犬に右手の人差し指を突きつけて言う。


「こらクロっ! 今度やんちゃしたら承知しないからねっ!」


『ふははは、それはまた随分と可愛らしい咎め立てだね』


「だ、だってなんかかわいそうなんだもん」


 魔王は笑っているが、少女は真剣だ。


「とにかく! 今後は大人しくしててよね、クロ。でないと、またシルバにお仕置きされちゃうんだからね!」


『は、はいぃ! 承知しましたぁぁ!』


 怯えた声を上げて、地獄猟犬ヘルハウンドは霧となって消えた。


「あれ、いなくなっちゃった……」


『君の中に戻ったのだろ。君を主として認めたということだ。よかったな』


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