第7話 魔界契約/2


 闇色の球体立ち込める学び舎の中心。吹き荒れる風が、建屋の窓を、森の木々を震えさせる。

 少女レーアンもまた、学舎の中から広場を見ていたひとりだ。風に煽られて暴れるように靡く髪を抑えつけながら、レーアンは中央の広場で、何が起きているかを知ろうと懸命だった。


「あの中で、何が起きているのです……!?」


 あそこでは、少女オルハが最後の〈契約の儀コントラクト〉を行っているはずだった。彼女がいったい何を召喚できたのか、レーアンは知る由もなかったが、〈契約の儀〉が執行されたということは、何かしらの召喚についに成功したということだ。

 だが、その〈契約の儀〉にしては、今目の前で起きている現象はだった。


「ぐぬ……ッ!」


 契約の見届け人である老師ドーリヤンもまた、異常な光景を前に両足を踏ん張るので精一杯だった。


“闇の精霊”ダークマターだと……!? これはそのようなモノの力では……!」


 と、一際強い閃光を放ち、蟠っていた闇が霧散していった。

 渦巻いていた風は繋がれた鎖を解かれたように四方へ散り、一陣の風となって黒き森ゲルムントへと駆け抜けていく。

 轟々と鳴いていた木々たちも、徐々にいつもの静かさに戻っていった。


「オルハ……!」


 ドーリヤンの叫びの先、闇に巻かれていた少女オルハは、常と変わらぬ姿で立ち尽くしているように見える。その両の手を召喚者ソーサラーシルバの手に重ねるようにして、少女は息もなく立っていた。

 シルバは、そんな少女の前に、傅くように片膝を付き、俯く少女の顔を見上げるようにして、静かに告げる。


『――〈契約の儀コンティアーク〉、これにて完了だ』


 力なく頽れる少女の体を、シルバは優しく抱きとめた。


「オルハ!」


 駆け寄る老紳士に、シルバは少女の身を任せ、片膝立ちの姿勢を正す。


『心配はない、少し気を失っているだけだ。数刻もすれば目を覚ます』


「おぉ、オルハ……これは一体!」


 ドーリヤンの腕の中で小さな寝息を立てる、少女のその両腕には、黒い炎を象ったような紋様が刻まれていた。否、両腕だけではない。それは背や首元、目の周りに至るまで、全身を覆うように存在していた。


「一体、どうしたというんだ……このような紋様は見たことがない……」


 精霊との契約において、その証を身に刻む者は少なくはない。しかし、それは手の甲であったり、背や腹の一部であったりと、全身を覆うような大掛かりなものでは本来ない。


「“闇の精霊”……シルバと言ったな? これは貴殿との〈契約〉の結果なのか」


 少女の体を抱いて、老人は若人を睨め上げる。その視線を真正面から受け、シルバは睨め下ろすような視線を返しながら告げた。


『然様。これが私との〈契約〉に基づく“身立て”だ。これによって、私と少女には〈追従の契約〉が果たされた。少女オルハは魔導士となったのだ、少女の師よ』


 その口元は僅かに笑んでおり、この者が愉悦を得ていることをドーリヤンに伝えてくる。老師はただ顔を苦くするばかりだ。と、


「ぅ……ん……」


 ドーリヤンの腕の中で、少女が身じろぎをする。


「おぉオルハ! 気が付いた――……!」


 そして開かれる瞳を見て、ドーリヤンは言葉を呑んだ。


「あ、れ……おじいちゃん……? ボクは……」


 常であれば、新緑の若芽のように明るい緑を湛える少女の瞳は、淡い紫色の魔光を湛えていた。紫に煌めく瞳の中で、黒い炎のような影が揺らめいている。


『――オルハ。私が分かるか?』


 彼女の頭がゆっくりと回り、視線をシルバのほうへと向ける。


「シル、バ……」


『〈契約〉は完了した。君は魔導士となったのだよ』


「〈契、約〉……? そうだ、ボクは――」


 ぼんやりとした表情を一気に覚醒させて、少女は己を抱く師へと向き直る。

 その瞳は、若芽の如き新緑の輝きを取り戻していた。


「おじいちゃん、ボクやったんだね!」


 その身を覆う闇の刻印もまた、その印しを無として、姿を隠している。

 少女オルハは、再び少女オルハとしてそこにいた。


「おじいちゃん? どうしたの?」


 その様子を、目を見開いて見ているだけだったドーリヤンは、少女の心配そうな声にようやく我に返った。


「あ、ああ……」


 それから、少女を立たせ、己もまた立ち上がり、咳払いをひとつして、両手を掲げて宣言する。


「導士オルハ、召喚者ソーサラーシルバの召喚主マスターとして、此処に契約を完了する!」


 その祝辞に、賛同するものはいない。皆、ただ異様な光景の残滓を見つめ、戸惑いの視線を寄越しあうだけだ。

 しかし、少女オルハはそのことに何の感慨も抱かない。これが、己の歩む道なのだと、その心の痛みを抑えつける。

 自分は“普通”とは違う。違ってしまった。でも、ここでは“普通じゃない”ことこそが“普通”なのだ。“常識”の壁を超えて、少女は今“非常”の世界へと足を踏み入れた。


「――よくやったぞ、オルハ!」


 己の師、己の養父、少女が唯一心を許せる相手が、自分の行幸を讃えてくれる。自分の頭を力強く撫で、力強い笑みを浮かべてくれる。それだけで、オルハは自分の心の痛みが随分と和らいでいくのを感じた。


 そして、を。


「ひゃわっ!?」


「ど、どうした!? どこか痛むのか!?」


「う、ううん、なんでもないよっ! なん、でも……ぅうっ!」


 身体を震わせ、己の身を襲うむず痒さにも似た刺激の波に、少女は背中を丸めて縮こまるようにして耐えた。

 そんな様子に、魔王シルバは愉快そうに笑い出す。


「ちょっと……! 何笑って、くぅ……止めてよっ!!」


『ははは、なに、少しからかっただけではないか。はははは』


 顔を朱に染めて胸元に掴みかかる少女と、それをあしらう魔王を前に、老師ドーリヤンはただただ呆然とするのだった。

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