第6話 魔界契約/1


 魔導士の学び舎、その中央。前後左右を木造の建屋で囲まれた広場と呼べる空間に、オルハたちは立っていた。

 背後に清らかな森の水を湛えた石造りの池を置き、オルハは正面、建屋から歩いてくる老紳士を見る。

 その横で、魔王シルバは常と変わらぬ姿で、微笑を浮かべて立っている。


「ドーリヤン先生」


 少女の呼びかけに、ドーリヤンは手を上げて応える。


「――したのだな?」


 笑みとともに訊かれ、オルハもまた笑みで返す。


「はい。これがボクの召喚者ソーサラー……“闇の精霊”ダークマターのシルバです」


“闇の精霊”ダークマター? ふむ……」


 ドーリヤンは僅かに目を見開き、シルバを上から下まで眺め回す。


『……なにか?』


 微笑を愉快に綻ばせながら、シルバもまた同じように己の姿を見回す。


「あぁいや、“闇の精霊”ダークマターの召喚例は極めて数が少ないのでな。珍しいのだよ」


『そうなのか?』


 シルバは少女のほうを見るが、オルハは正直それどころではなかった。


(おじいちゃん、ごめんなさい……ボクはを吐いています……!)


 緊張と罪悪感が、少女の小さな体に重圧として襲い来る。

 それを、儀礼を前にした緊張と勘違いしたドーリヤンは、笑い、少女の頭をポンポンと優しく叩く。


「よくやったぞ、オルハ。これでお前も立派に魔導士の仲間入りだ」


 老紳士の優しさが、少女の緊張を解していく。が、罪悪感は強くなるばかりで、少女はただ笑みを返すのが精一杯だった。

 そんな少女の内心を知るシルバは、ただただ愉快そうに笑むのだった。


「さぁ、では〈契約の儀コントラクト〉を始めよう。やり方はもう分かるな? オルハ」


 少女は力強く頷く。実際、儀式自体は何度もやり方を教わってきた。ただ、その相手をずっと呼び出すことができなかっただけで。


「シルバ、やるよ」


 そして、ついに呼び出したその相手へと、オルハは向き直る。


『ああ、いいとも』


 シルバもまた、少女へと向き直り、二人は広場の中心に向かい合わせに立った。

 オルハがその手に魔書の一片を持つと、ドーリヤンもまた頷き、数歩を退いて、足でもって二人の立つ円石を叩いた。


「これより、我がドーリヤンの名の下に〈契約の儀〉を執り行う!」


 朗々と響く掛け声によって、円石に刻まれた陣が高い音を立てて駆動を開始する。

 青白い発光が、二人を足元から照らし出す。風が渦巻き、黒き森ゲルムントの木々たちが漣の音を立てる。


『ほう……』


 己の周囲を囲む光と風に、シルバは吐息を漏らす。

 そしてその光に手を伸ばしたとき、そのは起こった。


「なに……ッ!?」


 二人を囲むようにゆっくりと渦を巻いていた光と風が、突如として伸ばされたシルバの手の先に集い始めたのだ。


「ちょっ……シルバ! 何してるの!?」


 初めてのことに、少女は動揺を隠せず、その表情は困惑を窮めた。

 だがシルバは、己の手先に集う光風に、然して驚いた様子もない。


『開催の宣言がのだろ。オルハ、ここから先はで行く。いいな?』


 少女の答えを待たず、魔王はその手を外へと振るった。


『我が――――の名において、ここに〈契約の儀コンティアーク〉を断行する』


 青白く渦巻いていた光風は、その言により性質を異とした。

 弾けるように暴風が駆け巡り、青白い光を雷光のような紫が焼き尽くしていく。

 そして空を裂く雷光より、黒い影が次々と飛び出してくる。


『イヤッハァァァァァ!!』『イヒャヒャヒャヒャヒャ!!』『フォォォォォォゥ!!』


 影たちは口々に騒ぎ立てながら、暴風に乗って二人を包み込んでいった。


「オルハ……!」


 渦の外で、暴風から身を庇いながら老紳士が叫ぶが、その声もまた、暴風によって掻き消され、届かない。


「これは、なにが起きてるの……!?」


 オルハは周囲を蠢く影に埋め尽くされ、言いようのない焦燥が己の内から沸きあがるのを感じた。

 そんな少女の視線の先で、魔王はその両の手を少女へと差し出していた。


「シルバ!」


 その手を取る少女の呼びかけに、魔王は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。雷光を照らし、暗く闇色に輝く瞳が、少女の視線を釘付けにする。


『少女、オルハよ――』


 厳かに少女の名を告げ、少女が固唾を呑んで見守る先で、魔王はお茶目にも片目を閉じて見せた。


『――少し、くすぐったいぞ』


「え……」


 少女が何かを応える前に、魔王の口が動く。


『――――――』


 少女には届かない異界の声音で、魔王が何事かを詠み上げていく。


「シルバ――ひっ!?」


 少女の体が跳ねる。魔王に捉えられた両の腕を伝い、じわりじわりと影が上ってきていた。その舐めるような感触が、少女の背筋をゾクゾクと痺れさせる。


「う、ぁ――……っ!」


 口を開けていると、今にも声を上げてしまいそうで、少女はきゅ、と唇を噛み締める。その間にも影は勢力を伸ばし、二の腕までを覆うと、背中、胸、首の三方向に分かれて侵攻を開始した。


「―――!!!?」


 少女は今度こそ雷に打たれたような痺れを全身に帯びた。背中を反らし、勢い離れそうになる手を、魔王は捉え切る。


『もう少しだ、頑張れ』


 愉悦以外の感情を全く感じさせない声音で励まされ、少女は得体の知れない感覚で焼き切れそうになっている感情の中で、憤怒の感情を呼び覚ます。今や全身を覆う影に身動きを制限されながら、少女は眉を立てた怒りの表情で魔王を見据えた。


「あ、んたに……あんたにそれを言う資格はにゃあああああああ!!?」


 全てを言い切る前に、影たちの流動が速度を上げる。少女の最後の抵抗は空しく散り、憤怒の感情さえも塗り潰した。そんな哀れな子羊の様子に、魔王は愉しげに笑みを漏らすだけだ。


『抗うな、それらは悪いものではない。受け容れるのだ、全てを――』


 最早、魔王の言葉も届いているのかどうか。少女の視界が、思考が、白く染まっていった。

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