未来へ(3)



 店を飛び出した田坂は、素早く左右を見渡した。

「いない……か」

 その視界のどこにも、あの男の子の姿はなかった。

 落胆したような、それでいて少し安堵しているような、奇妙な気持ちになった田坂は、もう一度店内に入ることなく歩き出した。会社へ戻ろうかとも思ったが、考えとは裏腹に足はいつもの公園へと向かっていた。そして、駄菓子屋へ向かう前に座っていたベンチに再び腰を下ろす。

「ふう……」

 大きく深く長い溜息を吐き、空を仰ぐ。

 駄菓子屋と契約できなかったことは、田坂にとっては少しも残念ではなかった。もしも契約が取れていたとしても、客が全くと言っていいほど来ない店舗では意味が無い。

 それよりも、あの小さい男の子のことが気になっていた。

 不意に背後に現れたあの子。その姿を見た老人のただならぬ様子。最初からそこに居たような空気感。ともすれば、あの空間に不似合いなのは老店主のほうではないのかとさえ思わせる雰囲気。

 なにがどうというのではない。とにかくその存在が田坂には気にかかる。

「なんか……空が無駄に青いな」

 顎を上げたままぽつりと呟く。すると、背後から「ねえ、おにいちゃん」という、無邪気な声が聞こえてきた。

「ん?」

 首をさらに後ろに傾けて見ると、そこには先ほどの男の子がベンチの真後ろに立っていた。

「あっ! さっきの……ここに居たんだ」

 田坂は首を戻し、座ったまま体ごと後ろを向いた。

「ねえ、おじいちゃんと何の話ししてたの?」

 男の子はゆっくりとベンチを回り、田坂の目の前に立った。

「何って、たいした話はしてないよ。ラムネ飲んで契約の話しして断られて……ってとこかな」

「ふーん」

 聞いておきながら、男の子は興味なさそうに答えた。

 田坂は、先ほどまでこの男の子と会いたいと強く思っていたのが嘘のように、今はこの場から一刻も早く離れたいと思い始めていた。何故自分がこの子に会いたかったのかが全く分からず、会ってみたら逃げ出したくなった――自分の気持ちの変化に頭がついていかず、田坂は動転していた。

「あ……俺、そろそろ戻んなきゃ」

 言いながらベンチから立ち上がると、男の子が田坂の進路を塞ぐようにしてスッと移動した。

「……過去に戻りたいとかどうとか、言ってなかった?」

 早くこの場から離れたいのだが、小さい子どもを無視して立ち去るのも大人気ない。田坂はそう思い直して、返事をした。

「ラムネの瓶が懐かしくて昔の話をしてたら、過去に戻りたいかって聞かれたんだよ。俺は戻りたくないから、そう答えたんだ」

「……おじいちゃんは、なんて?」

「なるほどって。逆に、ご主人は戻りたいかって聞いたんだけど、はっきりとは答えてくれなかったな」

「そうなんだ」

 そこまで聞いて、男の子はようやく笑顔を見せた。

 その様子から、この子の今までの重苦しいような何とも言えない雰囲気は、老店主を心配してのことだったのかと思い、田坂はなんとなく気を取り戻した。

「おじいちゃん思いなんだな。別にいじめたりしてないから安心してくれ。じゃ、またな」

 田坂は男の子の頭にポンと手をやり、その脇を通り抜けようとした。

 すると「ちょっと待って。これあげる」と、服の袖を引っ張られた。

「ん? なんだ?」

 見ると、小さな手の平の上に七色に光る綺麗な飴玉が一つ乗っている。

「おじいちゃんの相手してくれたお礼。この飴、とっても美味しいんだよ」

 にっこりと微笑んで、その手を田坂に差し出した。

「ラムネといい飴玉といい……今日はなんだか子どもの頃に戻った気分だな」

 ありがとうと礼を言い、田坂はその飴を受け取り、口の中へ放り入れた。

「でも昔には戻りたくないんでしょ?」

「まあな」

「じゃ……未来には?」

「未来?」

 男の子に聞かれて、田坂は暫し考えた。

「そうだな……」

 自分がこの仕事をずっと続けているのか、そして誰と結婚するのか、そんな近い未来を見てみるのも悪くない。田坂の口元から思わず笑みがこぼれる。

「それね、何でも願いゴトが一つだけ叶うキャンディーなんだよ」

 男の子が無邪気な声で言うと、田坂は「そうか、そりゃすごいな。まあ、未来なら行ってみたいかな。タイムマシンとかあればの話だけどな。あはは」と、笑いながら答え、男の子に別れを告げて公園を後にした。

 男の子は田坂の後姿が見えなくなってもなお、爪を噛みながらじっとその方向を見つめ続けていた。



「帰りました……っと、ん?」

 会社に戻った田坂は、いつものように部屋の入り口で声をかけたが、そこは蛻の殻だった。

「誰もいないなんて……変だな」

 訝しがりながら自分の席へ向かった田坂は、そこにあるメモに気がついた。


『至急屋上へ! 東野』


「……屋上?」

 その紙切れを手に取り、思わず天井を見る。

 そんなに大手会社ではないが、そこそこの規模を誇るこの会社は五階建ての自社ビルで、一階と二階は自社製品を扱う店舗となっている。田坂らが配属されている営業部は、その上の三階にあった。

 田坂は今まで屋上に上がったことがない。なぜなら入社時に、昔屋上で転落事故が起こり、危険なためそれ以来屋上への扉は封鎖していると聞いたからだ。

 実際封鎖されているか確かめたことはない。

 エレベーターも普通に屋上まで上がっているし、階段もある。それでも、どこか根が真面目な田坂は、封鎖といわれれば封鎖で、こっそりそこへ行く気にもならなかった。しかし、メモには屋上へと書かれている。それも至急。何か大事な用事があるのだろうか。田坂は鞄を椅子に置き、靴を履き替えて屋上へと急いだ。

 階段を駆け上がり、屋上へと抜ける扉の前に立つ。そのドアノブには『立ち入り禁止』の札がかけられていたが、田坂は構わず回した。ドアを押し開けた瞬間、生温い風が一筋吹き抜け、田坂は思わず仰け反った。

「おお、帰ったか。お疲れ」

 東野の声が遠くに聞こえ、田坂は前方に目をやった。

 そこには、銀色の丸い物体と東野課長、派遣社員の美佳と同僚一人が立っていた。

「ただいま戻りました。それ……なんっすか? 事務所空っぽで大丈夫ですか?」

 田坂は歩み寄りながら聞いた。

「空? 山口がいなかったか? 留守番頼んどいたんだが……トイレかな」

 東野は首を捻りながら答えた。

「誰も居ませんでしたよ」

「そうか……そりゃ、いくらなんでもまずいな。青木さん、申し訳ないが戻って留守番しといてくれないか?」

 頼まれた美佳は「承知しました」と笑顔で答えて、事務所へ戻るべく歩き出した。

 ちょうど田坂と美佳がすれ違うとき、美佳はお疲れ様ですと言い、「田坂さん、ちょうどいい時に帰ってきましたね。羨ましいな」と続けた。

「羨ましい? なにが?」

「あそこ行けば分かりますよ。それじゃ」

 そう言うと、美佳は足早にドアの向こうへ消えていった。

 戻るなら美佳じゃなくてあいつが戻ればよかったのに。田坂は同僚を横目で睨みつつ、課長の傍まで来た。

「お疲れ様です。で……これ、なんですか?」

 田坂の質問に、東野は真面目な顔をして答えた。

「これか? これはな、タイムマシンだ」

「タイム……マシン?」

 田坂は奇妙な感覚に襲われた。

「なんだ、その狐につままれたような顔は。まあ、信じられないのは尤もだけどな」

 東野は笑っている。同僚も笑っているが、田坂は笑っていなかった。タイムマシン――その言葉は、田坂の心の隅に何かを落とした。

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