未来へ(2)

 翌日、午前中は得意先回りに専念することにした。

 新規の顧客ではないにしろそれなりに商品の注文をもらい、田坂にしては上々の出足だった。

「今日はついてるな」

 いつもの公園で昼食を簡単に済ませる。

 今日は菓子パン二つと缶コーヒー。一人暮らしの田坂には、弁当を作ってくれる相手もいなければ、自分で作る気力も無い。コンビニの弁当か菓子パンが常だった。

 昨日の喧騒とは打って変わって、今日の公園は人影もなく静まり返っている。心地よい風に吹かれてぼんやりしていると、満腹感も手伝って眠気が襲ってくる。

「……っと、このまま座ってたら確実に昼寝だな」

 田坂は立ち上がり、思い切り背伸びをした。次に頭を大きく左右に振って、眠気を吹き飛ばす。

 公園の出入り口にあるゴミ箱に空き缶とパンの袋を投げ入れて、田坂はいよいよあの駄菓子屋へ向かうことにした。そこからは、まだ店が見えない。公園を出て道路を横断し、向かいの歩道へと渡る。そこから右に曲がり暫く真っ直ぐ歩くと、左手に古ぼけた軒先が見えてきた。

「おっ! あった、あった。しかし……こんなに公園から離れてたっけ?」

 自分の記憶に首を傾げながらも田坂は足を進めた。すぐに辿り着いて店の正面に立ち、改めてその外観を眺める。

「……すげー古いよな。築何年だろ」

 文字が薄れていて読み取り不可能な看板。軒先から地面へと続く樋は、節々に穴が開いていてその機能を果たしていない。

 店の周囲を一通り見て回り、そっと店内へと目を向けるも、そこは昨日と同じく真っ暗で何も見えない。

「開いてないのか? もしかして」

 ついてない。そう思いながら田坂はガラスの引き戸に手をかけた。すると、外観に見合わず建てつけがいいのか、その戸は音もなくスッと左へと動いた。

「……っわ!」

 力を込めなければ開かないだろうと思っていた田坂は、勢い余ってバランスを崩した。その弾みで半ば倒れこむようにして、店内へ足を踏み入れた。

「ごっ、ごめんください」

 反応はなかった。

 少し落ち着いて店内を見回す。真っ暗というよりは薄暗いといった感じで、目が慣れてくると外観よりは古びた印象のない様子が分かる。

「すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」

 先ほどより少し声を張り、店の奥目掛けて尋ねた。

 すると「……はいはい、居りますよ。少々お待ちを」という、のんびりとした声が聞こえてきた。

 店の奥、といっても入り口からさほど遠くはない。広くない店の中ほど、右側にあるカウンターの左斜め後ろに見える障子がゆっくりと開く。

「なにか、用ですかな?」

 老人はそこから顔だけ覗かせて、またしてものんびりと言った。

 店を構えていて、そこに人が来たら普通は客に決まっている。それなのに何か用かと言われて、田坂は戸惑った。

「あ……えっと――」

 考えてみれば、自分は客ではない。しかしこの雰囲気、すぐには商談を切り出しにくかった。

 老人は何も言わずに、田坂の次の言葉を待っている。

「えっと……あの……その……ら、ラムネください」

 田坂は咄嗟に、レジの右横のケースに入っているラムネを指差して言った。

「ラムネ、ね。はいよ」

 老人は、年の割には身軽に店舗に降り立ち、よく冷えたラムネを一本取り出した。

「自分で開けるかね?」

 そう言って、飲み口のビー玉を押し下げる蓋のようなものを田坂へと差し出した。

「あ……はい」

 別に飲みたくもなかったが、昔やったことのある開け方には興味があった。老人からラムネを受け取りカウンターに置き、飲み口にあるビー玉に突起のついた部分を当て、その平らな方に右手のひらを押し当て左手で上から押す。ポンっという軽快な音と共に、シュワシュワと泡の弾ける音が沸き立つ。と、見る見る中身が溢れ出し、田坂は急いでその瓶に口を当てた。

「兄ちゃん、下手くそだな」

 カウンターを雑巾で拭きながら言う老人の声に苦笑しつつ、その懐かしい甘さを暫し楽しんだ。

 半分飲んだところで、一旦手を止める。瓶をカウンターに置き、濡れた手をハンカチで拭きながら、薄暗い店内をもう一度見回す。

 狭い店内は掃除が行き届いており、昔懐かしい駄菓子が整然と並べられている。入って右手には木製のカウンターがあり、年代ものらしきレジスターが置いてある。その奥は居住間だろうか、先ほど老人が出てきた部屋があるらしい。

 小奇麗にしているからだろうか、そんなに古い店という感じはなく、古くからあるものを置いている店という印象を受ける。

「……で、何しに来たんだい?」

 キョロキョロと首を動かしていた田坂に、老人は改めて聞いた。

「あ……」

 ラムネを買いにきたのではないことは、とっくにばれていたようだ。田坂は咳払いをして背筋を伸ばし、ポケットから名刺を取り出した。

「えっと、実は文房具の会社の営業で……」

 そして、申し訳なさそうにその名刺を差し出した。

「なるほど、文房具ねえ……うちに、ねえ……」

 予想通りの展開だったが、思いのほか田坂は落胆しなかった。

「無理、ですよねえ……」

「まあな。大体、客なんて滅多に来ない」

 老人は田坂に丸椅子に腰掛けるよう勧め、自分もラムネを開けた。釣られるように田坂も残りを飲み干し、瓶を逆さまにした。

「このビー玉、子どもの頃どうしても取り出したくて、瓶割って母親に叱られたなあ」

「昔は瓶を返せば金がいくらか返ってきてたからな。そりゃ怒るだろうさ」

「金? そうだったんだ。最近のはプラスティックで、飲み口が外せてこれ取り出せるんですよね。なんか……昔のがよかったな」

 入り口の方を向き、外の陽に透かすように瓶を掲げて懐かしむ田坂の背中に、老人はポツリと呟いた。

「にいちゃん、昔に……戻りたいのか?」

「……昔?」

「ああ、瓶のラムネを飲んでた頃に戻ってみたいのか?」

 子どもの頃に戻りたいか――急にそう聞かれ、田坂は少しだけ考えた。

「うーん……どうだろうな。戻ったところで何も変わらなさそうだし、俺。それに瓶のラムネとか昔のお菓子とか玩具とか、ここに来れば懐かしいものがあるって分かったから、今さら戻りたくもないかな」

 そして、「もう一回勉強なんてしたくないし」と付け加えた。

「なるほど、一理ある」

 頷きながら、老人は初めて笑顔を見せた。

「ご主人は? 昔に戻りたいと思いますか?」

 営業で来たはずなのに、全く関係の無い話ばかりしている。見込みがない今、ここにこれ以上いても時間の無駄。分かっているのに、まるで椅子に吸い寄せられているかのように田坂の腰はなかなか上がらなかった。

「儂か? そう……さなあ……」

 遠くを見つめて何かを考えている老人の顔が、僅かに歪んだ。

 田坂はそれに気付かず、「何年前に戻りたいですか?」と引き続き聞いた。

 老人はすぐには答えず、ラムネをゆっくりと飲んだ。それがとても美味しそうに見えた田坂は、二本目のラムネをケースから取り出し「後で三本分払いますから」と言い、今度はこぼさずに開けた。

 炭酸の効いた、冷たい甘さが喉を通り抜ける。このくぼみに上手くビー玉を乗せて飲むのが、子どもの頃には難しかった。

「何年前……だったかな」

 一息ついて老人が口を開く。その過去形を聞き、田坂は疑問を投げかける。

「何年か前に、何かあったんですか?」

「……ああ、実はこの駄菓子屋――」

 老人が何かを言いかけて、ハッと言葉を飲んだ。そして目を見開き、驚きと怯えを混ぜたような視線で、田坂の後ろを見つめている。

 何事かと田坂が振り向くと、そこには小さな男の子が立っていた。

「…………」

 初めからそこにいたのかと思うほど、その男の子のどこにも違和感を覚えなかった。しかし、何故か田坂は言葉を失っていた。

「…………」

 それは、老店主も同じだった。

 彼も、口を噤んだまま、その場に立ち尽くしている。

「おにいちゃん、過去に戻りたいの?」

 そんな大人たちの様子に構うことなく、男の子は田坂に話しかけた。

「あ……いや……戻りたくない……よ」

 たどたどしく答えながら、一体いつからこの子はここにいたのだろうと、田坂はそのことばかり考えていた。

「……ふーん」

 男の子はつまらなさそうに鼻を鳴らし、くるりと体の向きを変えて、店の外へと歩き出した。

「あ……ちょっと待っ――」

 思わず田坂は立ち上がり、男の子の背中に手を差し延べながら後を追うべく足を踏み出した。すると、不意に後ろから左腕を引っ張られ「行くんじゃない」と小声で呼び止められた。

「えっ?」

 慌てて田坂が振り向くと、老人はその腕を掴んだまま、もう一度小声で繰り返した。

「……行っては駄目だ」

「あ、ラムネ代っすね? 払いますよ。いくらですか?」

 このまま代金を払わず外に出られては敵わないと引き止めたのだろう。田坂は急いで財布を手に取った。

 そうしている間にも、目だけはしっかりとあの子の姿を追っていた。

「……金はいらん。そうじゃない。今、外へ出てはいかん」

 その声は小声だがとても厳しく、ただならぬ雰囲気を放っていた。

 しかし田坂はその声よりも、あの男の子のことが気になって仕方が無かった。今追いかけなければ、もう二度と会えない。会わないわけにはいかない――あの子に。

 何故なのかは分からないが、田坂は焦っていた。

「とりあえず五百円置いていきます。足りなかったら、明日また来ますからその時に――」

 最後まで言うのももどかしく、田坂は五百円玉をカウンターに置くと、急いで踵を返して店を飛び出した。

「……明日はもう、来ないんだよ」

 椅子に崩れ落ちるようにして呟いた老人の悲痛なその声は、田坂の耳には届かなかった。

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