第2話 ハル

 春。

 ソメイヨシノ。


 それはうたかたの夢の季節。


 心臓破りの坂を駆け上がり本当に心臓が破れるんじゃないかと莉緖那の心臓は二重のドキドキを味わっていた。

 これは現実。

 ぜえぜえと息を切らしてなお足を止めることが許されない。遅刻はこの苦しみをさらに倍増したものになる。


 (始業式の日にまで朝練とかするか……?)

 (なんで坂の上になんて学校作んだよ……)


 限界が来て坂の途中、あとちょっとというところで足を止める。

 膝に手を付き、肩で息をする。

 

 ふと顔を上げると穏やかな風に乗って降り注ぐ桜の花びらが視界に入った。

 坂道の両側をびっしりと埋め尽くした桜の木の粋な演出。

 毎年この季節にはこの光景にうっとりする学生は多い。

 

 ひらひら舞う桜の花びらは、儚く美しい。

 すぐに散るからこそ美しく咲き誇ることができる。


 辺り一面が桜のピンクと白の花びらでいっぱいになる。坂の上には朝日を背にして誰かが立ってこちらを見ている。

 花びらを大きく舞い上げるほどの強い風に顔をそむけると、次にはもう坂の上には誰もいなかった。

 これは夢。

 ぼんやりしてる場合じゃない。

 莉緖那は再びギアを入れ替えアクセル全開で体育館を目指す。


 「莉緖那、おはよ。珍しくギリギリだね」

 柚子は今日もかわいい。ピンクのシュシュがいつも決まってる。

 「うん。始業式だからさ、前日まで朝練あるのわかってたのに起きたらすっかり忘れてて」

 顧問のゴリラが季節にそぐわないけたたましい声を放つ。

 「コート10周、走れ!」

 公立高校にもかかわらずバスケの強豪校として名を馳せていたため、毎日練習に熱が入る。

 莉緖那は二年だがレギュラー候補になるなど、バスケをこよなく愛していた。

 バスケさえあれば他になにもいらない。

 本気でそう思い、女子力など知ったことかと恋にも縁がない。


 「朝練があってよくそんな完璧な女子であれるね、柚子はすごい」

 莉緖那には部活がある日に化粧なんてとても考えられなかった。

 「今日は午後デートなんだもん」

 「そっか、そりゃかわいくしなきゃだね」

 柚子は中学のときからもう彼氏がいた。今付き合っているのはその彼氏ではないだろうが、とにかくモテる。

 「私はバスケが恋人」

 「そんなこと言ってたら青春あっという間に終わっちゃうよ。部活も青春だけどさ、高校生の恋は高校生にしかできないんだから」

 そうは言われても恋愛経験のない莉緖那には未知の世界だ。


 坂の上から見下ろす桜並木は映画のワンシーンのよう。

 大きく右から左に花びらが舞う。

 莉緖那がふと隣を見ると同じように桜を眺めている男の子がいた。直感的に今朝の光の中の男の子だと思った。

 数千枚の桜の花びらが地面に辿り着くまでの間ずっと見つめていたのかもしれない。足元にはおびただしい数の桜の花びらがカーペットを成していた。

 向こうも流石に視線に気が付き、目と目が合う。

 

 (あれ……?なんだろう……)


 「ごめーん、お待たせー」

 後ろから小走りでちょこちょことやってきた女の子が男の子の腕に抱きついた。


 (あれ……あれ……?変な感じ……)


 次の日、柚子にこっそりと昨日のエピソードを披露した。

 柚子は恋だなんだと一人盛り上がっていたけれど、もしあれが恋なら一瞬も一瞬で勝手に自分一人で完結してしまっているなんともひどく惨めで切なすぎるものではないか。


 恋という感情が咲き誇るも束の間すぐに散るなんて。


 ソメイヨシノは毎年失恋でもしてるのかな。

 儚さの中に美しさを秘めて。


 (今の私はもしかして美しい……?)

 「なんてね」


 夕日に照らされ輝くソメイヨシノは夢の中のようだった。

 きっと、うたかたの夢を届けてくれたんだ。



 

 





 

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