恋の季節
unia
第1話 春
春。
それは涙の季節。
今朝も三輪透子はうっすらとその瞳を潤ませていた。
その角を曲がれば目の前に広がる光景は心臓破りの坂。
坂の頂上には高校があり、その道すじを咲き誇った桜の木々が示していた。ファンファーレが聞こえてきそうな桜の花びらによる春の暖かい演出。数日間はこの美しさに多くの学生が目を奪われ、心も奪われる。
学生に比べて透子に豊かな感受性はない。20代最後の一年、感受性などすでに乾いている。あるのは感傷的になりやすいという打たれ弱くなった性質だ。
たかだか桜を見ただけで。
何も感じないし、何も思い出さない。この気持ちは感傷でもなんでもない。
「おはようございます。あれ、三輪さんほんのり目が赤いけど?」
事務のリーダーである竹下さんは毎朝誰よりも早く出勤している。
透子も朝は早い。
登校ラッシュを学生とともに歩くのなんてのは御免だ。特にこんな桜が迎えるストリートでフレッシュの権化たる学生たちと同じ空気を吸うなんて、身も心も病んでいくに決まってる。
「おはようございます。春ですからね」
透子は竹下さんの「は?」と聞こえてきそうなリアクションを一切スルーして自分の机に向かいすぐさま今日のやるべきことをリストアップしていく。
4月。
新入生の入学から始まり、あらゆることがリスタートされる季節。
さぞかし学生たちは新たな生活に心弾むことだろう。
透子の日常にはなんの変化もない。
むしろ周囲の変化による圧力がかかるだけで高校の事務という透子の地味な仕事は忙しくなる。
春はいつだってそうだ。
悲しいわけではない。
つらいことがあったわけでもない。
出会いと別れの季節なはずなのに。
そもそも出会いがないため別れもない。そんな失恋の悲しみを味わう土俵にすら上っていないという事実は客観的に見ても十分悲しい事実だろうが。
「三輪さん、今日から新しい事務員がひとり配属になることは前に言いましたよね。春崎さんという男性なんですけど、一通りの仕事の流れを教えてもらえる?」
春の日差しがこんなにも暖かで窓の外の景色はこんなにも輝いているというのに、透子の現実は恐ろしいほどくすんでいる。
(なんで私が……?)
(リーダーの仕事じゃないの?)
(しかも春崎っていうの?よりにもよって名前に春がついてるよ……)
「はい。わかりました。何時ごろ来るんですか?」
心の声を素直に表現できるほど透子は強くない。
「早く来てもらうことになってるから、たぶんもう来ると思いますよ」
ほどなくして現れたのは普通という描写以外のなんたる言葉も思いつかない至って普通の男性だった。
「春崎です。よろしくお願いします」
透子は少なからずラブコメの王道たる出会いを期待していた。30目前に気持ちが焦ってるのかもしれない。そんなドラマ展開あるわけないんだなと急に鼻の頭の辺りがツンとする。
(春崎さん。春崎くん。春崎)
かっこよくもかっこ悪くもない見た目。痩せても太ってもない体型。背が高いわけでもなく低いわけでもない。爽やかでもなければじとじとしてるわけでもない。
第一印象から得られる情報は皆無。恋への発展もなしとみえる。
気がつくともう日が陰り始めていた。
桜の淡いピンクが夕日とコラボするという、よりセンチメンタルを誘う時間に突入していく。
「とまあ、仕事の流れはこんな感じです。大体は個々に割り振られる業務はみんな同じパターンになるので、今日の流れを抑えてくれれば問題ないかと。この時期は少しやることが多いので、慣れてしまえば通常業務なんてかなり楽に感じると思います」
誰にでもできる仕事。
特別な力などなくてもこなせる仕事。
もはや惰性でしかない仕事。
「はい。今日はありがとうございました。頑張っていきます。しばらくはご迷惑もおかけするかと思いますが、よろしくお願いします」
丁寧に挨拶をする春崎くん(君付けが一番しっくりくる)にそんな大袈裟なと思うも愛想笑いを浮かべてさよならを言う。
「三輪さん、春は涙の季節ですよね。僕も花粉症には悩まされていて。薬が効く時と効かない時があって、効かない時はずっと泣いてます」
桜の花びらが目にしみる。
机が隣で花粉症の薬を見られたのかもしれない。
春は涙の季節だなんて。
夕日に染まる桜の花びらを見て透子は目を真っ赤に染めながら坂をゆっくりと下った。
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