氷の神殿の巫女とフィリスの契約 4

 その朝、一番初めに目を覚ましたのは、カヤだった。カヤは巫女の習慣で、日の出と共に目を覚ますのだ。いつものようにベットを抜け出して巫女服に着替え、神殿の中央に造られている中庭に出た。女神に捧げるための聖水を、その中庭の井戸から汲んでくるのが、彼女の朝一番の日課だっだからだ。


 吹雪は収まっていた。東の空に広がる雲が薄いピンク色に染まっていたが、太陽の光は雲に閉ざされて、まだ地上には降りてこない。朝霧の白いもやが視界を遮って、歩きなれた中庭がやけに広く感じられた。カヤが抱えていた壷を井戸端に下ろした時、その白いもやの中に、何かが動く気配を感じた。刹那、朝の静けさを破る、甲高い悲鳴が神殿じゅうに響き渡った。その声に、神殿にいた誰もが、例外なく飛び起きた。


 そして寸刻の後 ……

「何があったんだ?」

 一番に飛んできたのはラシャだった。

「ご……めんなさい。だって、驚いちゃって」

 カヤが心底申し訳なさそうに言った。カヤの傍らには、若者が二人佇んでいた。そして、そのうちの一人が苦笑しながら言う。

「全く、神殿の騎士が帰って来たっていうのに、ひどいお出迎えだよな」

「こんな時間に来た俺達も悪いんだから、お互い様って事にしないか、クリス」

 もう一人の若者がにこやかに言った。騎士の出で立ちをした二人は、ラシャの知っている人物だった。

 氷の騎士、クリストファー・ラディリウス。そして、光の騎士、ラスフィール・マリオン。

 共に、皇帝騎士団の最高位、太陽の騎士の称号を持つ騎士である。

「カヤ、ラッカムの仮神殿に行っていたんじゃなかったのか?それに、この時期に巡礼者がいるとは珍しいな」

 ラシャの後方から遅れて姿を見せたシリウスとファレンを見て、クリスがうさんくさそうな顔をした。

「それに、ラシャストロフ・ディール。今更隠れなくてもいいだろう」

 そっと体を引いて、シリウスの影に隠れたラシャに、ラスが皮肉を込めて言った。

「君の噂は聞いているよ。水晶の騎士のクレアが、連絡がつかないって、怒っていたぞ。一体、今迄どこで、何をしていたんだ?」

「俺は、もう騎士団を抜けたんだ。関係ない話だ」

 ラシャがそっぽを向いて答えた。

「たくっ。どいつもこいつも……一体、剣の役目を何だと思ってるんだ。こんな事だから、いつまでたっても混乱がおさまらないんだよ」

 クリスが不機嫌そうに言った。


 反乱騒動が収まって三年。騎士団の自主退団組は、ラシャ一人ではなかったのだ。剣を持ったまま行方不明な者。あるいは、神殿に剣を置いて姿を消してしまった者など。騎士としての役目を放棄して、連絡を寄越さない者が、すでに片手で数え切れないほどに上っていた。

「カヤ、最近、ランディス様はこちらにいらしたか?」

 クリスの問いに、カヤが首を横に振った。

「そっか。やっぱり、あの口伝鳥にだまされたってことか……」

「手の込んだ事をしてくれるよ、全く。サラの言った通りだな。こうなれば、一刻も早く、都に戻らないと。クリス……」

「ああ、分かっている。魔法陣を使えばすぐだ。そのために、ここまで来たんだから」

 クリスが頷いてそう言うと、二人は神殿の中へ入っていった。



「カヤ、魔法陣て?」

 シリウスが小声で聞いた。

「魔法の抜穴っていうのかしら……それを使えるのは、太陽の騎士の特権なの。神殿と神殿を結ぶ穴。一瞬にして、こちらの神殿からあちらの神殿へ行かれるらしいわ」

「じゃ、ここから都の太陽の神殿へ?」

「ええ、多分」

「俺達、便乗できないかな」

「さぁ、どうかしら……」

 クリスとラスの後ろ姿をちらりと見て、カヤは思案するように言葉を切った。

「やってみる価値はありそうだな」

 ラシャが自分の剣を示した。

「こっちには、騎士の剣が三本。あっちは二本。数では勝ってる訳だし」

 シリウスが首をかしげた。

「三本?雪の騎士の、雪華の剣に、ミサキの、剣の紋章の剣と……?」

「お前の、双月星の剣」

 ラシャが、シリウスの剣を指した。

「その二つの三日月と明星の紋章は、天空の騎士のものだろう?」

「双月星の紋はリヴィウス家の紋章だけど……天空の騎士が、一族の者だなんて話、聞いたことないぞ」

「お前んとこの事情は知らないよ。皇帝騎士団の騎士をすべて把握しているのは、陛下と魔道師長様だけだからな。俺は、騎士の紋章のことしか知らない」

 シリウスは、自分の剣をしみじみと眺めた。


 この剣は、兄から、通行証と共に渡されたものだった。光族の家では、紋章入りの剣を持てるのは、家長かその後継者に限られていると聞く。しかし、商家で、海竜族であるリヴィウス家には、そういう風習はない。でも、言われてみれば、シリウスがリヴィウス家の、双月星の紋章の入った剣を見るのは、この剣が初めてだった。もしも、この双月星の剣が、世界でたった一つの剣であるならば、ラシャの言う天空の騎士が持っていた剣と、今彼の手の中にあるものは、同じものだということになる。

「天空の騎士の剣か……へぇ……ちょっと、感動しちゃうな」

「何を言ってるんだ。お前が、天空の騎士なんだろうが」

「え?」

「お前がそれを持っているってことは、お前が剣に選ばれたってことじゃないか」

「えぇーっ」

 シリウスが心から驚いた様子なのを、ラシャは、しっかりしてくれよな、というふうにシリウスの肩を叩いた。


 皇帝騎士団といえば、子供の頃からの憧れだった。シリウスにとっては遠い夢の世界だったのだ。これから、都に行って、皇帝軍に入って、運良く手柄を立てて、そして実力を認められたら……そうしたら、騎士団に入れるかも知れない。幾つもの試練を潜り抜けた後に、厳粛な入団の儀式か何かをしてもらって、ようやく騎士なれる。そういうものだと思っていた。

「……酷い」

 拍子抜けもいいところだ。何もしないうちから、ご褒美を貰ったような、もの凄い後ろめたさに苛まれる。拭いようもない分不相応感……

「お前が皇帝騎士団って奴を、どう思っていたのかは知らないけどな、騎士団は救国の騎士だの、正義の味方だのって表看板揚げてるけど、実際は寄せ集めの傭兵集団にすぎないんだよ。魔法であちこちから、腕の立つ奴等を集めて、騎士に仕立てて、諜報活動をさせてるんだ」

「でも、実際に帝国を救ったのは、歴史が……」

「帝国を幾度も救ってるのは、魔道師の魔法。でも、魔道師に救われたのだというよりも、神の申し子である騎士に救われたんだという方が、光族にとっては受入れやすいんだろう。騎士は、いわば魔法のカモフラージュなんだよ」

 夢が音を立てて崩れていくというのは、こういう気分を言うのだろう。シリウスは深く溜め息をついて、思い出の中の騎士達に別れを告げた。シリウスは半ばやけになって、右腕に巻いてあった包帯を乱暴に解いた。傷の痛みはもうなかった。ただ、剣を握る手が、頼りなく感じられた。でも、それもほんの少しの間だけで、すぐにいつもの感覚が戻ってきた。

「太陽の騎士相手に、一暴れするか。こっちには、無敗の剣もあることだし、負けはしないさ」

「あの……ミサキの姿が見えませんけど……」

 ファレンが、シリウスに告げた。

「え……あれ?」

 いつから、いない?そう考えてみて、シリウスは自分がミサキを一度も見ていない事に気が付いた。ミサキはここに、まだ来ていない ………


 その同じ頃、ミサキは剣を手に、神殿の回廊を歩いていた。先刻の、カヤの悲鳴に彼も目を覚まし、部屋を飛び出してはいたのだ。しかし、その時、突然ひどい頭痛に襲われて、歩く事もままならない状態になってしまった。それでも、壁に寄り掛かりながら、そして壁に手をつきながら、ミサキはみんなの声のする方へ行こうとしていた。

 そんな彼の耳に、近付いてくる靴音が聞こえた。苦しい息の中で、回廊を近付いてくるその音に、ミサキは顔を上げる。

『……』

 そして相手もミサキに気付いたのか、その音が止んだ。

「リート……か?」

 二人連れの一人、ラスが驚いたようにミサキの顔を見て言った。

「どうした?ラス」

「こいつは、リート・ラカランダだ。闇の魔法に掛かったままの……あの、リートだ。まさか生きていたなんて……」

 ラスがミサキを見据えたまま、剣を抜き放った。

「何で……何でお前がっ、こんな所にいる」

 ラスのあからさまな憎悪と殺気が、ミサキに伝わった。


…… 何故。

 自分がそんな感情を向けられたことに戸惑いながら、ミサキの手は剣を抜いていた。

……何故。

 自分が剣を抜いた。その理由が自分にも分らない。言わば、その主の意思とは別のところで、体が勝手に動いたのだ。

……これが、剣の紋章の剣か。

 そう思った所で、無敗といわれる剣の、銀色の光がきらめいた。


 遠いところで、誰かが自分を呼ぶ声がした。自分の名を “リート” と……彼のよく知っている声が、そう呼んだ。


「アカリ……」

 縋るように呟いた名前。

 しかしそれも、大きな力に飲み込まれていく自分を救う力にはならなかった。

 手の中の剣は、彼の意思とは関係なく、まるで別の生き物である様に動き、目の前の騎士の剣と火花を散らし合う。まるで、それを喜んでいるかのような ……そんな高揚感がミサキの体を満たして行く。

……これが、剣の紋章の剣。

 その底知れない大きな力に魔剣の意味を悟り、ミサキは初めて恐怖というものを感じた。

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