氷の神殿の巫女とフィリスの契約 3

 ミサキが剣を手に戻ると、シリウスが真っ先に心配そうに駆け寄ってきた。

『ほら、これだろ。剣の紋章の剣って』

 ミサキがカヤに確認するように、剣を振ってみせた。

『お前、大丈夫なのか?何ともないか?』

『何だよ。別に何処も変わり無いけど』

『なら、いいけど……』

 シリウスには、フィリスとの契約の事は言わない方が良いかも知れない。ミサキはそう考えて、あまり詳しい話はしなかった。ただ、この神殿の巫女であるカヤが、彼の話に口を挟まず、終始黙っていたのは、多分彼女は、本当のことを知っているからだろうと、ミサキは思った。


「今夜は、ここに泊まったほうが良さそうだな。この天気では、あの山道を通るのは無理だろう」

 ラシャが提案して、シリウスが同意した。ミサキはすぐにでも、都へ向かいたい様だったが、荒れ狂う外の様子を目の当りに見て、さすがに断念せざるをえなかった。

 久し振りに神殿に来客があったのを喜んだカヤが、料理の腕を振るったこともあって、その日の夕食はかなり豪勢なものになった。


 食事の後で、調理場で後片付けをしていたカヤとファレンの所に、シリウスが琴を手に顔を出した。

「カヤ、これ弾ける?」

「ええ。五弦の琴は巫女の必修ですもの。時々、女神に奉納する歌を歌う時に、使ってるわ」

「景気付けに、何か弾いて欲しいんだけど。なんか、あっち、盛り下がっちゃってさ」

「あら、どうしたの?」

「ミサキがね、ちょっと……元気なくて。ラシャは、元から無口だけど」

 シリウスが言ってから、しまったという顔をした。カヤは笑って構わないという風に手を振った。

「いいわよ。あの人、昔からあまり愛想よくないのよね……ああ、でも、ここをファレン一人に出来ないし」

「あら、構いませんわ。もう大方終わりですし」

「ここは、俺が手伝いますよ」

 シリウスがそう言って、カヤに琴を渡した。シリウスの顔を見て、カヤは彼の意図を察した。

「じゃ、お願いするわ」

 カヤはあっさり言って、琴を手にその場から退散した。シリウスはファレンと二人きりになりたかったのだ。カヤは二人の顔を思い浮かべて、微笑んだ。


 何曲目かに、ミサキのリクエストで、バラードを弾き終えた時、カヤは暖炉の火が弱くなっているのに気が付いた。地下室から、薪を持ってこなくては……そう思ってラシャを見ると、彼は壁ぎわにもたれ掛かったまま、何時の間にか眠ってしまっていた。全く、当てにならない。気持ちよさそうに眠り込んでいるラシャを憎らしく思いながら、カヤは琴を置いた。

『火が小さくなってきたわ。私、薪を取ってくるから……』

『ああ、じゃ、お供するよ。荷物持ち、居た方がいいだろ?』

 ミサキがそう言って、立ち上がった。

『落ち着かないのね。じっとしているのが、たまらない?』

『そうだね。今すぐにでも、都に飛んでいきたい所だよ』

『朱里さんの為に……?』

『それもあるけど……何かが、呼んでいる気がするんだ。早く、カディスに来いって。この剣のせいかな』

 そう言ったミサキの表情を、カヤは怪訝そうに見ていた。何と言うのか……ミサキは嬉しそうなのだ。浮かれている。まるで、ピクニックの前の晩に、子供が興奮して眠れないといった感じだ。

 巫女として、この剣を守ってきたカヤは、剣の紋章の騎士の辿る運命が、どんなものかを知っている。その力と引き換えに、失うものの大きさを……

 考えながら、カヤはミサキの腰に下げられた剣に目をやった。彼はフィリスの待っていた、本物の騎士なのか、それともただの考え無しの楽天家なのか……見届けたい。ふと、そんな気持ちになった。

『……決めた。私も、都へついて行くわ』

『神殿を空けていいのか?』

『私は、剣を守る巫女よ。あなたが、無茶な使い方をしないように、監督するのも、仕事のうちだわ』

『まあ、旅は賑やかなほうが楽しいから、構わないけどね』

『じゃ、決まりね』

 カヤはにっこり笑って、ランプを取った。

 二人が部屋を出ていってから間もなく、人の気配がなくなったのを確認するように、ラシャが静かに身を起こし、辺りを見回した。

「カヤの奴、まさか都まで付いていくつもりか……冗談じゃないぞ」

 ラシャはそっと部屋を出ると、調理場へ向かった。


 調理場に顔を出したラシャを、シリウスが迷惑そうな顔で見た。だが、ラシャはそんなことは気にもせずに、カヤがシリウスを呼んでいると言って、彼をその場から追い出した。そして……

「ファレン。ウィンザーテラスで言ってた事だけど、あの約束、忘れているわけじゃないよな」

「約束……って。あの……どういうことでしょう……」

「とぼけてんのか?あんた、俺とカヤを元の世界に戻してくれるって言ったよな?……」

 ファレンのきょとんとした顔に、ラシャは不意に嫌な予感を覚える。

「あんたは、ダーク・ブランカなんだよな?頼むから、そうだって、言ってくれよ。俺をウィンザーテラスに呼び寄せて、ミサキの護衛を頼んだろ?」

「ええと……おっしゃってる事が、良く分からないのですけど……ウィンザーテラスで、私が追剥に襲われたところを、助けていただきましたよね?それで、怪我をした従者の代わりに、あなたが護衛を買って出てくださって……」

「ちょっと、待ってくれ」

 今度はファレンの話が、ラシャにはさっぱりである。完璧に話が食い違っている。

「あんた、一体誰なんだ?」

「私はファレンシア・クララバートですわ。からかっているんですの?」

 ファレンが怒ったように言った。

「シリウスをよこして、何してるかと思えば、まあ。こんなところで、ナンパですの?」

 何時の間にか、カヤが戸口に立っていた。

「いや、これにはちょっと……その。込み入った訳が……」

「その訳とやら、伺いましょうか」

 カヤが落ち着き払った声で言った。この声が、彼女が怒る一歩手前のものであるという事を、幸か不孝か、ラシャはよく知っていた。



 神殿の書庫は四方を書架に囲まれた、小さな部屋だった。窓はなく、カヤが手のランプから移した火が、部屋の照明具に点ると、ようやく室内が明るくなった。

「内緒話には、もってこいの場所だな」

 ファレンが本当にファレンで、ダーク・ブランカでないのなら、多分聞かれてはまずい話だと、ラシャはそう考えた。それで、カヤと二人で、こんな場所にやってきたのだ。


 ラシャがダーク・ブランカに会った事と、彼の与えられた任務について話すと、カヤはしばらく考えをまとめるように手を頬に当ててうつむいていた。

「そっか、ダーク・ブランカ、伝説の大魔法使い……って、そういうことなのかしら」

 カヤが部屋の隅の梯子を引っ張ってきて、書架に立てかけた。

「たしか……この辺に……」

 梯子を半ばまで上って、書架に並ぶ本の背を指でなぞりながら目当ての一冊を捜す。

「そういうことって?」

「……ああ、ほら、これよ」

 古びた表紙の本を手に、カヤは梯子から飛び降りた。

「何?」

「ランドメイアの魔道師語録。言ってみれば、魔道師の伝記ってところね。時々、予言めいた記述もあって、中々面白いんだけど……」

 言いながら、カヤが本を開いた。

「これ見て。あと、ここね。それから……ここも」

 カヤの指が、軽やかに弾みながら本の文字を指す。そして、ページを繰りながら、同じことを何度も繰り返した。

「ダーク・ブランカ?……こんなに?」

「そう。ダーク・ブランカよ。海洋歴十年が初めで、今年が四四七年でしょ?この間に、一体、何人のダーク・ブランカが出てくると思う?あるときは、金髪の光族で、黒髪の海竜族っていう記述もあるわ。瞳の色も、緑やら青やら琥珀やら。出てくる度に、みんな違うし。私はね、ダーク・ブランカって、大魔法使いの代名詞だと思ってたの。魔道師の頂点に立つ魔法使いが、代々継ぐ名前なんだって」

「ダーク・ブランカは一人じゃないってことか?」

「そう思ったの。でも今は違うわ。ねぇ、ラシャ。ダーク・ブランカは、初めから、存在しないんじゃないかしら」

「なんだって?」

「フィリスの魔法に、心盗りというのがあるの。ある人の心を眠らせて、その上に自分の心を被せてしまうっていうものなんだけど。要はその人に憑衣して、その体を乗っ取っちゃう訳」

 ダーク・ブランカは、その魔法の憑衣現象によって造り出された、虚像なのではないか。それが、カヤの考えだった。


「ファレンはファレンシア・クララバートって言ったわよね?クララバートって言えば、代々、光の巫女を出している家系よ。彼女が直系でないにしたって……巫女だの神官だの魔道師だのってね、乗っ取られやすいって聞くし……」

「それじゃ、誰が乗っ取ってたんだ?俺が約束を果たして貰うには、誰のところに行けばいいんだ?あれが、魔法だったっていうなら、どっかに魔法を使った奴がいるんだろう?」

「分からないわ。でも、フィリスの高等魔法を扱う程の魔道師なら、人数は限られてくる。宰相のラーラ様とか、魔道師長のランディス様とか……ともかく、宮殿にいる偉い人?」

「なるほど。都行き、決定ってことか」

 ラシャは不本意そうに呟いた。



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