氷の神殿の巫女とフィリスの契約 2

 真っ白い巫女の衣を纏った少女が、さらさらという布の触れ合う音だけを立てて、ゆっくりとその中から姿を見せた。その濃い緑の色の瞳は空ろで、視点が定まっていない様子である。だが、少女の瞳にはミサキの姿が映し出され、彼女は何かに引き寄せられるかのように、真っ直ぐにミサキのもとにやってきた。

「カヤ……」

 ラシャが、ミサキの前に飛び出して、少女の肩を掴んだ。

「カヤっ!」

 ラシャが、彼女の肩を強く揺さ振った。

「私の待っている騎士は誰?……剣の騎士は何処にいるの?砂時計の砂はもう残り少ないのに……何時になったら現れるの?……あなたは、答えを知っている?」

 少女カヤは、歌うように言って微笑むと、静かに床に倒れこんだ。慌てて彼女を支えたラシャが、その頬を軽く叩いて、名を呼ぶと、カヤは閉じていた瞳を開いた。

「ラシャ……?」

 ラシャを映したその瞳は、緑ではなく、淡い空色だった。自分を抱き抱えているのが、誰なのか分かると、カヤは驚いて体を起こした。


「ラシャ!?ラシャね。ああ、もう……ちっとも来てくれないんだもの。私だけ、この世界に置いていかれちゃったのかもって、思い始めていた所よ」

 カヤがラシャの首に手を回して、その存在を確かめるように、しっかりと抱き付いた。

「カヤ、やっと見つけた。この三年ずっと、帝国の端から端まで捜してたんだ。無事で良かった。さぁ、ラフィッツへ帰ろう」

 そう言って、ラシャがカヤを抱き締めると、その腕をカヤがそっと押し退けた。

「まだ、だめよ。私達、やらなくちゃならないことがあるわ」

「え?」

「彼女の為に、捜してあげなきゃ。それが見付かるまでは……私、帰れないわ」

「捜すって、何を?彼女って……」

「剣の紋章の騎士。フィリスのために、捜してあげなきゃ」

「何ねぼけたこと言ってんだ。フィリスって、闇の……邪教の女神だろ」

「でも、私には、彼女の声が聞こえるんだもの。あなたが騎士として選ばれたように、私は巫女として選ばれたの。剣の紋章の剣を守る巫女。それが私の役目。剣を本当の持ち主に渡すまでは、帰れないわ」

「カヤ……」

『彼女が、カヤ?』

 ミサキが尋ねると、ラシャは無言のまま頷いた。



 ミサキが、剣の紋章の剣を手に入れるために、この神殿に来たのだと知ると、カヤは、ミサキの頭から足の先までを、吟味する様に眺め回した。その間、ミサキは居心地悪そうにその場に立っていた。二人を取り囲むように、ラシャとシリウス、それにファレンが立ち、黙ってそれを見守っていた。

 つと、カヤが手を伸ばして、ミサキの顎を持ち上げる。

 その指がすーっと下りて、ミサキ服の襟元を押し下げた。そこに見えたものに、カヤは眉をひそめる。


……これは、剣の紋章……なんじゃないの?……


 改めて、ミサキの顔を見る。黒い髪に黒い瞳。どう見ても、光族には見えない。その彼が、どうして帝国の後継者の証である紋章を持っているのだろう。もし、彼が本当に紋章の持ち主なら、あの剣を渡すべきではないのだけれど……でも。

……皇帝陛下は、すでに崩御されている。このタイミングで彼がここに現れたということには、何か大きな意味があるのかも知れない……

 暫くの沈黙の後、カヤは口を開いた。

『運命は、汝の手で定むべし。剣は、神殿の一番奥の間。女神の立像の前よ』

 カヤが、闇の向こうに続く回廊を示した。

 カヤに促されて、ミサキは頷くと、躊躇う素振りも見せずに、その闇の中へと足を踏み出していった。

 それがこの者の望みなら、それは誰にも止められないのだ。魔法が支配するこの国では、全ては予言のままに導かれるのだから。巫女である自分は、ただそれを見守る事しかできないのだ。



「外は吹雪ね」

 沈黙と静寂。その中で、唯一の音として耳につく風鳴りに、カヤが沈黙を破るように口を開いた。

「……遅いわね。ミサキ」

 誰にともなく、ファレンが呟いた。

「あいつ、見かけによらず無鉄砲なとこあるからな。無茶しなきゃいいけど」

 暖炉の側にいたシリウスが、そう言いしな、薪を火に放り込んだ。一瞬、火が大きくなって、シリウスの顔をオレンジ色に染めた。

「剣の紋章の剣は魔剣だって、聞いたことがあるけど……ミサキ、大丈夫なのかしら」

 ファレンがその答えを要求するように、カヤを見た。

「多分、ミサキは剣を手に入れるわ……あの剣は、騎士を選ばないのだから」

「選ばない?」

 カヤの漏らした言葉に、シリウスが反応した。

「帝国で最高位の騎士の持つ剣なんだろう?あれには、どんな剣も……どんな騎士もかなわないっていう、無敗の剣だって。それが、誰でもなれるみたいなそんな言い方……」

「誰でもなれるのよ。望めば誰でも、最強の騎士にね」

「そんなばかな」

「それが、恐らく、魔剣と呼ばれる所以なんだろうな」

 ラシャがそう言って、話に加わった。

「魔法で創られた剣に、神様が宿るというのは、あながち嘘ではないんだ。剣にはそれ自体に力がある。その力を使うのには、心身共にかなりの負荷がかかる。だから、剣が騎士を選ぶっていうのは、その力を使いこなせる者……要するに、その負荷に耐えられる者を選ぶってことなんだ」

「じゃぁ、剣の紋章の剣は……選んだ騎士が、もし、その負荷に耐えられなかったら、そうしたら、どうなるんだ?」

 シリウスは頭に浮かんだ結論を、ラシャが否定してくれることを望みながら、そう聞いた。

「最悪の場合、その騎士は命を失うことになるだろう」

 ラシャの静かな声が部屋に響いた。



 ミサキは薄暗い回廊を抜けて、広間に出た。そこには窓はなかったが、天井のどこかに明り取りがあるのか、広間全体が白く、ほんのりと明るかった。その正面の壁の前に、巨大な女神の石像が立っていて、彼を見下ろしていた。

 邪神とまで呼ばれるフィリスの石像は、予想に反して穏やかな笑みをたたえた、清楚な印象を受ける顔立ちの像だった。何と無く、朱里に似ている様な気がする。そう思うのは、ミサキが朱里の面影を追い続けているせいだろうか……


 その像の前の床に置かれた、大きな長方形の石塊に、一振りの剣がその柄まで深々と刺さっていた。

『これを、抜けって事か?』

 どこかの国の伝説に、こんなシーンがあったよな。あれは、アーサー王の話だったか……ミサキはそんな事を考えながら、その柄に手を掛けた。

『お待ちなさいな。普通、もう少し悩んでから剣を取るものよ』

 頭上で声がして、ミサキは剣に手を掛けたまま、上を向いた。ふいに、女神の立像の両脇にある、ランプに緑の灯が点り、ミサキを緑色に染めた。その緑の光の中に、映像が映し出されるように、一人の女の姿が浮かび上がった。

『あんた、誰?』

『そうね、剣の守護者ってとこかしら。強いて言えばね』

『……女神フィリス?』

『って、呼ぶ人もいるかしら……』

『これ、抜くけど、いい?』

『いいわよ。あなたに、その代償が払えるのならね』

『代償?』

『剣の紋章の剣。それを持つ者には帝国最高位の騎士の力を授ける。それが、私のお仕事。仕事には報酬が必要でしょ。ギブアンドテイク。それが、世の中の正しい在り方だと思うわけ。与えるばかりの神様なんて、人間を堕落させるばかり……何かを手に入れたいのなら、それなりの犠牲を覚悟すべき。というのが、私の持論なの。だから、奇跡を待っている光族には嫌われるんだけど……』

『理屈は合ってると思うけど』

『光族はね、大陸から爪弾きにされてこのランドメイアに流されてきたの。それは、それは、苦労した民族なのね。築き上げた帝国も、巨万の富も、何もかも無くした。だから、神様には自分達を救ってくれる義務がある。奇跡は、自分達のために起こるもの。そう考えてしまった。そこから、彼らの選民思想と堕落が始まったのね。そして、この魔法の島には、それを叶えてくれる神様がいたという訳』

 フィリスが、その射る様な瞳を、ミサキに向けた。

『あなたは、私が、恐くはないの?』

『どうして?』

 当たり前の様に聞き返されて、フィリスは苦笑した。


 全てを失って、何も持たない事が、この若者の強みなのだろうか。だがそれは、逆に言えば、一つの過酷な運命を乗り越える為に、全てを捨てなければならなかったという事だ。

『それで、この剣を手に入れるための、代償って?俺に払えるものならいいけど……』

 この若者は、果たして選ぶのだろうか。彼が失ったものを取り戻す為には、剣を持って戦わなければならない。そしてそれは、絶望と悲しみとの戦いになる……そんな運命を。このまま、何も望まなければ、何も手には入れられないが、もうこれ以上、傷を負うことも無い。

『無理なものじゃないわ。誰でも持ってるものだから。あなたの、命。それが代償』

『いの……ち?』

 フィリスが、余りにあっさりとそう言ったので、ミサキは思わず聞き返してしまった。

『そう、命』

 フィリスが念を押すように、繰り返して言った。ミサキは剣の柄から手を離して、しばし考え込んだ。


 正直な所、もう、何も無くすものはない……と思っていた。

 自分はもう、何も持っていないと思っていたから……


 ミサキの口元に、笑みが浮かぶ。

『分かった』

 ただ一言、そう言って、ミサキはフィリスの顔を見上げた。ミサキの表情は心持ち緊張したものだったが、その中に悲壮感はなかった。

 随分と、真っ直ぐにものを見る。ミサキの澄んだ瞳を、フィリスは感慨深そうに見詰めた。ミサキのブラウンの瞳が、ランプの光を受けて、緑色に揺らめいている。その瞳は、どんな邪気も入り込めない様に、純粋な輝きで守られていた。

……魔法の封印に守られて、ここまで来たか……

 このまま、ミサキに剣を渡してしまっても、本当にいいのか。フィリスの心に迷いが生じる。

 剣の魔力は、恐らく、彼の中に眠る封印を解く。封印が解かれれば、彼の記憶は戻るだろう。それは、己の罪の重さに、絶望の淵に身を沈めてしまった、忌まわしい記憶だ。あの記憶が戻っても、彼はこの輝きを失わずにいられるのだろうか。そして、何よりも、運命の重みに耐えられるのだろうか ……この国を滅ぼしてしまうという、宿命を負った自分を認められるのか……

 ミサキがに負った傷は、癒えた訳ではなく、ただ、痛みを忘れているだけだ。まだ、何も終っていないのだ。魔法の封印は、ただ、時を止めていただけなのだから。時が動き出した時、また三年前と同じ過ちが、繰り返されるのか……

『フィリス?』

 ミサキがフィリスの表情を伺うように、彼女を見上げていた。フィリスは、迷いを打ち消すように、きっぱりとした口調で言った。

『いいわ。契約成立ね。この剣はあなたのものよ』

 フィリスの答えに、ミサキは無言で頷いて、剣に手を掛けた。剣は、拍子抜けするほど、あっさりと抜けた。

『……意外と、軽いんだな』

 ミサキが剣を振って見せた。

『剣が最大の力を出した時が、約束の時。それを忘れない様にね。……本当にいいのね?』

 確認するように、ミサキの目を見たフィリスに、ミサキは笑って頷いた。

『噂どおりの冷酷非情な女神、って訳じゃないんだな。後悔はしないよ。ここで剣を手に入れなければ、俺は先へは進めないんだから……』

 ただ、その時までに、一目朱里に会えればいい。自分の捜す、本当の朱里に……今のミサキが望むのは、ただそれだけだった。



 ミサキが剣を鞘に納めて広間から出ていくのを、フィリスは静かに見送った。出口でミサキはちらりと後ろを振り返ったが、その時、すでに女神の姿は消えていた。広間は再び静まり返って、薄明かりの中に、女神の石像だけがぼんやりと浮かび上がっていた。

「……剣の紋章の騎士リート・ラカランダ……信じていいわよね、あなたの力を……このランドメイアの未来を……」

 次第に遠ざかるミサキの足音に、呟くような、かすかな声が重なった。そして、その音が途切れると、広間は再び完全な静寂に包まれた。



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