第4章
氷の神殿の巫女とフィリスの契約 1
一行が氷の神殿のあるフリーゼウァルトに着いたのは、カディスに“リート・ラカランダ”が現われてから、五日目のことだった。
途中、盗賊に襲われること数度。正体不明の刺客に狙われたのが二度。そして、ミサキが誘拐されかかったのが一度。いずれも、ラシャとシリウスの力によって切り抜けることが出来たが、その代償としてシリウスは腕を負傷していた。
フリーゼウァルトは、帝国の北の果てにある寒村である。険しい峰の連なる山々。その山あいの、僅かにゆるやかな斜面の土地に、古びた佇まいの氷の神殿が建っている。そして、それをとり囲むようにして寂れた村があった。だが、その村に人影はなかった。ここでは、春はまだその気配も見せない。長い冬の間に降り積もった雪が、溶けもせずに、まだ村をその下に埋めたままだった。
ここの村人は冬期、山を降りて、その麓の街ラッカムに移り住むのだ。この村に村人が戻ってくるのには、数ヶ月先の短い夏の訪れを待たなくてはならないのである。
重たい毛皮の外套を纏って、雪深い山道を歩くのは、南のカーシア生まれのシリウスにとっては、酷く難儀なことだった。加えて、片腕を吊っているせいでバランスが取りにくく、踏み出す足の一歩一歩に結構な神経を使わなければならなかった。
…… それにしても。
自分の前方を行くファレンの背中で、緩やかに編まれた薄い金色の髪が左右に揺れるのを目にしながら思う。雪の騎士であるラシャは当然だとしても、ミサキやそれにファレンまでが、結構平気な顔をして歩いているのが信じられない。どう考えても、自分の方が体力が上であるはずなのに、この体たらくは何なのだと、少し惨めな思いを抱く。またそんな気持ちのせいで、休憩を言い出すなど自分的にはありえない事であり、大きな呼吸の度に体内に吸い込まれる冷気の痛さに耐えながら、シリウスは一行から遅れないように、ただひたすら歩き続けるしかなかった。だから、神殿に着いたとき、一番疲れていたのがシリウスだったとしても、それは至極当然のことだったかもしれない。
シリウスは氷の神殿に着く早々、その場に座り込んで動けなくなってしまった。するとそこへ、ファレンが嬉々としながら薬箱を抱えてやってきて、たちまちその場でお医者さんごっこが始まる。
「包帯、きつくありません?」
言いながら、ファレンがシリウスの顔を見上げた。ファレンは薬箱を広げて、彼の包帯を取り替えていた。何となく、その、白くて長くて器用に動く指に見入っていて返事が遅れた。
「シリウスさま?」
再度確認するように名前を呼ばれて、慌てて応えを返す。
「ええ、大丈夫です。ああ……もう吊らなくてもいいですから……」
傷はそう深くはなかったのだが、ファレンが大袈裟に包帯を巻き付け、その怪我をした右腕を肩から吊ってしまったので、シリウスは現状、利き手で剣を持つことが出来ない状態なのである。
「あらっ、駄目ですわ。殿方はすぐ無理をなさるから。もう二、三日辛抱していてくださいね」
「まあ、あなたがそう言うのなら……そのように……」
結局はいつもの様にシリウスが押し切られる形で、決着が付いたようだ。
ラシャは少し離れた場所で、二人のそんな遣り取りを半ば呆れながら黙って見ていた。
どう見ても手当を楽しんでいる感のあるファレンと、その過剰な手当を喜んでいるようにしか見えないシリウスと……端で見ている方が、気恥ずかしく思わされることこの上ない。
……何なんだよ全く、この緊張感のなさは……
ラシャは軽く溜息を落とす。そして彼にとってさらに頭の痛いことには、そのファレンが今ではすっかりファレンであるということだった。
彼女にはもはやダーク・ブランカの面影など欠片もないし、ラシャの前でさえ、ダーク・ブランカだという素振りも見せない。本当に、彼女はダーク・ブランカなのか……ラシャは時々考えてしまう。
記憶の中のダーク・ブランカの姿は、次第にぼやけてあやふやになり始めている。
あの時会ったダーク・ブランカは、幻だったのではないか……
そんな気分にさえさせられる。
今では、ミサキが何者かに狙われているという事実だけが、彼女がラシャに言った言葉が幻ではなく、現実のものだったと告げているだけだ。
『静かだな。人気がないし……』
ふと、ミサキが珍しく、ラシャに話しかけた。
シリウスとファレンが、お医者さんごっこを始めてしまったせいで、そちらには声を掛けづらかったのだろう。ラシャが皇帝語をあまり知らないせいもあって、ミサキはこれまでラシャとはあまり言葉を交わしていなかった。にもかかわらず自分に声を掛けたのは、多分そんな所なのだろう。ラシャはそんなことを思いながら、どこか冷めた目でその顔を見据える。
自分のせいでシリウスに怪我を負わせてしまった事を気に病んでやや落ち込んではいたが、ミサキは相変わらず……シリウス風に言えば、能天気なミサキのままだった。そして、その記憶の戻る気配もなかった。
そもそも記憶がないのでは、話にならないのだ。それはつまり、こいつには自分を元の世界に戻してくれる方法が分からないということに他ならないのだから。
全く、魔法使いの言う事は当てにならないぜ、と心の中で愚痴る。
それでも、それはミサキのせいと言う訳でもなく、愛想よく声を掛けてきた相手をそのまま無視をするなんて子供じみた真似をするほど機嫌が悪い訳でもなかったので、応えを返した。
『ここは今じゃ……フィリスの神殿なんて、厄介な別称が……ついた場所だからな。光族でこの……神殿に来ようなんて……物好きは、彼女ぐらいなもんだよ。このフリーゼウァルトは、
ラシャが皇帝語で、つっかえつっかえしながら、ファレンを目で示して、ミサキに答えた。
『フィリスって?』
『……ああ。っと……光族に闇の邪神って恐れられている女神……らしいな。良くは知らないけど。俺は外から……引っ張られた……口だから』
『外から?引っ張られる?』
ミサキが良く解らないという顔をした。ラシャは言葉遣いが可笑しかったのかと、自分の言った言葉をもう一度、頭の中で繰り返してみた。
「何て言ったらいいのかな……えぇと……『つまり、魔法で、別の世界から……』
『ああ。召喚された?じゃ、君も、東京から?それとも……』
『トウキョウ?……確かレオンが、そっから飛ばされたって……言ってたかな。俺は、ラフィッツの月の西。サンドエンドの東側。カヤと一緒に、引っ張られて……俺は皇帝騎士団の雪の騎士になった』
『ラフィッツ?地球じゃないな。多分、それ。聞いたことないし』
そこまで言った時、耳にかすかな衣擦れの音が聞こえた気がして、ミサキは神殿の奥の暗闇を見据えた。ミサキが何かを見つけたように目を凝らしているのに気付いて、ラシャもそちらの方へ顔を向けた。
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