召喚された皇帝と行方不明の巫女姫 2

 帝室図書館の本棚の壁に掛けた梯子に腰掛けて、彼は膝の上に重たい歴史書を広げていた。図書館の中は静まり返っていた。

 天窓から、春の穏やかな日差しが彼の膝の書物に斜めに差し掛かっている。時折、鳥のさえずりが聞こえる以外は、音が世界から消えてしまったかのように、何も聞こえなかった。


「ダーク・ブランカ……ラリサ・フラーム……マリディア・ティリア……ルト・フォレル……」

 宮廷録の魔法使い達を辿って行くうちに、彼は昨日から幾度も聞かされた名前を、その中に見つけた。

「リート・ラカランダ・ラ・マリウス・ディ・カディス。うげー……なっがい名前だな」


 それが、彼がこの世界で与えられた名前だった。


「……皇族なのに、魔法も使うのか……三年前に、皇立学問所内で……行方不明?どうしたんだろ、こいつ」

 他人事のように、少年は呟いた。

「調べ物ですの?殿下」

 梯子の下から声がした。そこに少女が立っていた。

「……ああ、何だ。そういうことか……」

 その顔を見て、何か納得したように呟くと、彼は本を閉じて、棚に押しこんだ。

「君の名前、当ててみようか。天王寺朱里さん、だろ?」

「アカリ……?」

「昨日、俺が魔法でここに呼ばれた時に、俺を見て、ミサキって呼んだろ?……だから、あれって思って……やっぱ、間違いないや、あの時会った、天王寺さんだ。良かった、また会えて。実はもう一度、会いたいって思ってたんだ。入学式で会えるかなって、思ってたのに、姿が見えなかったから、別の高校にいっちゃったのかなって、かなりがっかりしてたんだよな。それが、こんなところで会えるなんて、うん。良かった」


 少年が梯子の上からそう言って、インディラに笑いかけた。インディラはその笑顔に、急に鼓動が早まって、息が止まるような気がした。

「……あの、あたし……記憶が、ないの」

 少年の顔をまともに見ていられなくて、目を反らしながら、インディラは呼吸を落ち着けるようにゆっくりと言った。

「記憶喪失?」

「あなたは、カーシアのミサキではないの?」

「カーシアのミサキ?」

「あなたと同じ黒髪で、黒い瞳で……あたしをアカリって呼んだわ」

「カーシアのミサキ……もう一人のミサキか。じゃ、多分そっちが本物だ。リートって奴。俺じゃないことだけは、確かだもんな」

「あなたは……誰?」

 梯子の下から、インディラが少年を見上げて言った。

「君が、天王寺さんじゃないのなら、初対面てことになるのかな」

 少年が梯子から、身軽にひらりと飛び降りた。皇族の衣装を纏った彼の、羽織っていたマントが大きく翻った。一瞬その中に、少年の体が消えたように見えた。そして次の瞬間には、彼はインディラの目の前に立っていた。


「俺は、美崎みさき和也かずや桜花おうか学院高校、三年A組。一応、生徒会の会長さんなんかをやってる」

「あたしは……インディラ。ここではそう呼ばれてるわ。ねえ、朱里さんて、どんな人?あたしに似てるの?」

「まあね。似てるっていうより、俺には、まんま同じにしか、見えないんだけども。君が違うって言うんなら、違うのかな……」

 言って、和也はインディラの顔を覗き込む。

「あたしは……」

 和也の黒い瞳から逃れる様に、インディラは瞳を伏せた。

「ま、記憶がないんじゃ、君が彼女だっていう可能性が、ぜんぜんない訳じゃないっていう事だよな……俺としては、その方が嬉しいけど」

 和也がそう言って、また笑顔を見せた。

「初めて会った時にね、ピッと感じたんだ」

「え?」

「この子は、俺の運命を握る子だって」

……何か、これって……

 告白をされているような気分だ。そう思うと、インディラは、顔が熱くなるのを感じた。

……私じゃなくて、それは、朱里さんの話じゃないの……

 そう考えると、インディラは急に胸が締め付けられる様な気がした。

「朱里ちゃんって、呼んでもいいかな」

 和也の言葉に、インディラの鼓動は、速まっていく。

「でも……あたしは」

「大丈夫。きっと、君は朱里ちゃんだよ」

 和也の言葉が呪文の様に、インディラの心に入り込んでくる。どうしてだろう……彼を見ていると、胸が痛くなるのは。

……あなたは、誰?……

 インディラはこの時、記憶を消してしまった事を、初めて後悔した。


 宰相ラーラ・マルクスは、部屋の中を行き来しながら、考え事をしていた。先刻、太陽の神殿の地図球には異状がないと、神官が知らせてきたばかりであった。

 この帝国の守護者である皇帝の力が存在しなくなった時、神殿の地図球に異変が現れる。そしてそれが、このランドメイアの、崩壊の始まりの時である。

 そう予言書にある。

 崩壊……即ち、全ての魔法がこの世から消えるのだという。


 魔法という特別な力によって守られているからこそ、現在、この帝国は成り立っているといっても過言ではない。果たして魔法が消えた後、この帝国は存続できるのか。それは恐らく、難しいだろうとラーラは思っている。だからこそ、禁忌を犯してまで、召喚魔法を使ったのだ。

 地図球は無事。つまり、このランドメイアには、まだこの国を守る力……皇帝の力が存在するという事だ。つまり、彼が封印の地から呼んだ、あの少年、リートには新たな皇帝となる資格があるということ。だからこそ、地図球には何事も無く、ランドメイアは崩壊の危機を脱した。そういう事なのだ。


 自分にそう言い聞かせながら、しかし、ラーラは何か腑に落ちないものを感じていた。全てが上手くいっているのに、心の中の不安感が消えないのは、何故なのだろう。大きな手で目隠しをされている様に、ものの輪郭がことごとくぼやけている。そんな感じを拭い去れない。

 実は、魔道師長の位をランディスに譲って、宰相になってから、彼の魔法の力は少しずつ弱くなっていた。加えて時折、記憶が途切れることがある。その理由も分からない。

……ダーク・ブランカ様が、居てくださったら……


“……あれは、もう、戻って来ない。戻れるものか。滅びを呼び寄せし魔女が……”


 嘲笑するような声が、彼の頭の中に響く。

……お前は、一体……

 ドアにノックの音がして、ラーラは我に返った。

「失礼いたします、宰相閣下」

 ドアを開けて入ってきたのは、カイだった。ラーラは、ぼんやりとしたまま、カイを見ている。

「閣下?……もしもし?お師匠様?」

「あ、ああ。お前か」

「大丈夫ですか。お疲れみたいですけど」

「いや、大事ない。……それで、ランディスと連絡はついたのか?」

「いえ、それが一向に捕まりませんで。氷の神殿からは、魔道師長様は行かれていないとの返信がありました。魔道球で捜しても見当たりませんし……魔道師長様ぐらいの方になると、魔法で気配を消すなんて、朝飯前ですからね。こちらから連絡を取るのは、至難の技ですよ」

「ラリサ様の施した封印は、ダーク・ブランカ様か、ラリサ様の孫であるランディスにしか解けない。殿下に早く元の姿になっていただかないと、載冠式もできぬ」

 イライラとした口調で、ラーラは吐き捨てる様に言った。


 師の苛立ちの理由は、カイにも察しがつく。あの少年は、確かにリート・ラカランダなのだろうと思う。その姿形は、三年という月日の分だけ、大人になってはいたが、かつての面影は、はっきりと残っていた。

 リートを保護するという理由で掛けられた、ラリサ・フラームの魔法は、しかし、その当時の深刻さを思わせるように、余人が思うよりも遥かに、強固に掛けられていた。それが、今、新たな問題を生み出しているのだ。


 そもそもあの少年には、リートとしての記憶がない。恐らく、魔法で封じられているのだろう。そして、何より問題なのは、皇位を継ぐ者の証である紋章を、あの少年は持っていないということだった。皇位を継ぐ者には、その体のどこかに、剣をかたどった刻印が現れるのだという。それは、ランドメイアの魔法の力を守る者の証なのだ。


 ”剣の紋章”……その刻印の形から、その紋章は、そう呼ばれている。


 カイの記憶に間違いがなければ、リートには、胸の辺りにその紋章があったはずだ。それが、あの少年にはなかったのだ。ラリサの施した封印のせいなのかどうかは分からない。だが、その紋章が無ければ、例え皇帝になったとしても、このランドメイアの守護者にはなれない。紋章は力を持つ者の証であり、紋章が消えているということは、その力を失ったのだという事に他ならないのだから。


 とりあえず、魔法でリートが知っているべき知識と、このランドメイアの言葉は与えた。だが、彼の黒髪と黒い瞳は、ラーラの魔法では消すことは出来なかったのだ。紋章のことは、とりあえずどうにか取り繕うにせよ、あの姿では、あの少年は皇帝にはなれない。彼が、闇の魔法と引き換えに失った、金色の髪と緑の瞳……光族である証だけは、何としてでも取り戻す必要があるのだ。


「一刻も早く、捜し出すのだ!」

 そう叫んだラーラは、突然激しい頭痛を感じて、椅子に座りこんだ。

「大丈夫ですか?閣下」

「大丈夫だ。何時ものことだ」

「何時ものって……どこかお悪いのでは……」

 気遣うカイを振り払う様に、ラーラは彼を押しのける。

「……いいから、早く行け……」

 ラーラは手でカイに退室を促した。言われるままにカイは部屋の外に出、後ろ手でドアを閉め、思案する様に、そこに寄り掛かった。

「何か、変なんだよな。この宮殿の中」

 何か、良くない事が起こり始めている。カイには、そんな気がしてならない。以前とは、何か違う。カイはそんな違和感を、この所ずっと感じている。

 ランディスは、もしも、自分が居なくなっても捜すなと、そう言っていた。だが、事態はどうやら自分の手には余る。カイはそう結論を出した。

……どうにかして、戻っていただかないと……

 カイは、糸の切れた凧を捜す算段を思案しながら、魔法の塔へ足を向けた。


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