嘘つきな魔法使いの手のひらで踊るのは善人 2
ウィンザーテラスは、帝国十五神殿の一つ、風の神殿のある場所として知られる街である。ウィンザーテラスはその西側に、家畜の放牧が行なわれている広大な草原地帯を有しており、酪農の街としても知られている。
この街のバザールで、あちらこちらのテントから、牛乳やチーズといった乳製品を売り込む商人達の声が、絶え間なく聞こえるのも、ここでは珍しい光景ではない。それでも、初めてここを訪れる者が、ついつい足を止めてその店先を覗き込んでしまうのは、無理のない事であった。
「ミーサーキー」
シリウスは彼の連れが、売り込みの商人達に呼び止められる度に、足を止めてその話に聞き入ってしまうのに半ば呆れていた。陽は西の地平線近くまで傾いて、東の空から夕闇が迫っている。シリウスとしては早く宿を決めて、ゆっくりしたい所であった。
『日が暮れちゃうぞ』
『ああ、ごめん』
『どうせ、話、聞いたって、意味なんて分かんないんだろ?カリディア語の、しかも西部訛り。俺だって、ほとんど分かんないんだから』
『うん。言葉は、分かんないな。確かに。でも、言ってることは、分かるような気がする。俺って、順応力高いのかも』
ミサキが冗談めかして笑った。
ミサキを半ば強引に引っ張って、バザールから連れ出したシリウスが、宿屋に辿り着いて、ようやくほっとした頃には、すでに空には降るような星が輝き出していた。
『あれを見ると、遠くに来たんだなって……そう感じるな』
天空に月が二つ並んで浮かぶ様を見て、ミサキが独り言のように言った。
『昼間は忘れているのに……青い空と輝く太陽は同じなのに、日が暮れると、やっぱり違うんだって、思い知らされる。星の輝きは一緒でも、知ってる星座が一つもない』
ベットに片足を突っ込みかけていたシリウスは、顔を上げて、窓枠に腰掛けているミサキを見た。月の光を浴びて星空を仰ぐその姿に、シリウスは、ミサキが異邦人であるということを認めない訳にはいかなくなった。
どこか変わっている奴だけど、それはミサキの個性なのだろうと、シリウスはそう思っていた。……思って、というより願って、と言ったほうがいいのかも知れない。シリウスにとって、初めての対等に語りあえる友達。ミサキの存在は少年にとって、いつしかそういうものになっていた。
もし、彼が、このランドメイアの人間でないのであれば、いつかはこの島から去っていくに違いないのだ。いつか、別れなくてはならない時が来る。そう考えると、シリウスの心は重くなった。ミサキが朱里を見つけた時、それが彼らの別離の時になるのだろうか。
『……ミサキ。お前、どこから来たんだ?大陸から?アランシア?……それとも、ファーズあたりか?あっちの人間は、お前みたいな瞳の色が多いし……』
『東京だよ』
『トウ……キョウ……?聞いたことないな』
シリウスは、屋敷にあった大陸航路の地図を頭に思い描いて、首を傾げた。
『人を捜すには広くて、でも、人と人が偶然出会うには狭い。不思議なところだった。あんまり覚えてないけどな。それでも多分、俺がとても好きだった街だ』
『多分?』
『……俺、記憶喪失なんだ。頭の中にあるのは、ジグソーパズルのピースを床にぶちまけたみたいな、断片的で、どこがどう繋がるのか分からないような記憶ばかりで……その中から辛うじて、朱里のこと。それだけ拾い上げた』
ミサキの話を聞きながら、シリウスは、朱里という少女は恐らく、ミサキの記憶を取り戻す手掛かりだったのだろうと思った。それなのに、その朱里……本人は否定しているが、ミサキがそう信じ込んでいる少女インディラ……彼女もまた、記憶がないという。
シリウスはミサキの顔を見ながら、あの魔道師の言った事を思い返していた。あの魔道師、ランディス・フラームと言ったか。彼は何かを知っている。だけど、シリウス達がその答えを知る為には、北の果ての神殿へ行かなければならないのだ。
「気に入らないな」
自分が、魔道師の手の平で踊らされている様な気さえするのに、行く先を変えることが出来ない。ゲームの駒のように人に操られるなど、この自尊心の強い少年、シリウスにとっては我慢できない事である。にもかかわらず、好奇心という名の見えない手によって背を押されるように、シリウスは前に進まずにはいられないのだ。
『何か言ったか?』
窓枠から、ふわりと音もなく飛び降りたミサキが尋ねた。
『いや。何でもない。さあ、寝るぞ。明日は日の出と共に出発だ』
『……ああ』
ミサキのベットから、間も無く穏やかな寝息が聞こえてきた。それを聞きながら、シリウスは相棒の寝付きの良さに感心したが、そんな彼もいつしか、眠りの中に落ちていた。
どのぐらいの時間が経ったのか、誰かが自分を呼んだような気がして、シリウスは目を覚ました。目をやった窓の外はまだ漆黒の闇に包まれている。まだ、夜明けには程遠い様子である。窓を叩く風の音がやけに大きく聞こえる。耳障りなその音を消そうと、シリウスはブランケットを被って寝返りをうった。
「……や……めろ……」
その時ふいに、彼の耳にミサキの声が飛び込んできた。
「ミサキ?」
シリウスは驚いて起き上がった。
「やめろっ!マリディア……このランドメイアは……」
「カリディア語……」
ミサキが苦しそうに、何かから逃れるように、両腕で顔を覆い、激しく寝返りをうった。
『ミサキっ!どうした?』
慌ててベットから飛び降りたシリウスが、眠っているミサキの肩を掴んでゆすると、ミサキがようやく目を開けた。
『……シリウス……』
ほっとした様にミサキは呟いて、溜め息をついた。そして手を額にやり、汗を拭うと、疲れたように枕にもたれ掛かった。
『悪い夢でも見たのか?』
『夢?ああ、夢だったのか……』
それを思い返すかの様に、天井を見詰め、ミサキは黙り込んでしまった。
『お前、さっき、うなされてた時、カリディア語、使ってた』
『カリディア語?俺が?まさか』
『覚えてないのか?』
ミサキが頷いた。
『……その夢って、どんな……?』
『……ええと……俺は広い神殿か、宮殿みたいな所にいて。女が……あれは、もしかしたら、魔法使いだったかもな。美人なんだけど、禍々しい感じのする女で……彼女が俺に魔法を掛けようとして……で、そこでお前に起こされた』
『魔法?』
『……だったんじゃないかと思う。何か呪文みたいの、唱えてたから。ああそうだ。面白いのは、俺、夢の中じゃ金髪なんだ』
ミサキが、自分の前髪を確認するように摘んでみせた。
『金髪……って。目は?瞳の色は……緑か?』
『よく分かったな。あれはライトグリーンっていう色だったか。一瞬、自分で自分が分からなかったんだ。笑っちゃうだろ?』
『ミサキ……もしかしたら、お前の見たのはただの夢なんかじゃなくて、お前の過去なのかもしれない。金髪緑眼って、ランドメイアじゃ、生粋の光族にしかいないんだ。お前は……』
『だって、俺の名前は、ミサキで……そりゃ、記憶は曖昧だけど、確かに東京にいて……それで、ダーク・ブランカに頼んで、このランドメイアへ送ってもらったんだ。この世界に来たのは初めてなんだぞ。前に、ここに居たなんて、そんなことは……』
そんなことはない。
今のミサキには、そう言い切る事が出来なかった。
記憶の底になにか大事なものが、まるで、触れられるのを恐れているかの様に息を潜めて隠れている。ここに来てから、ミサキはずっとそんな気がしていたのだ。記憶が戻ることを望みながらも、それだけは、思い出したくないという記憶。それは、先刻の夢と関係があるのだろうか……
夜が明けた。
夜半過ぎから吹き始めていた風が、雨雲を運んできたようで、朝だというのにあたりは薄暗い。
『嵐になるかもな……』
シリウスが低く垂れ込めた灰色の雲のじゅうたんを、憂うつそうに眺めて、そう言った。身に纏ったマントが湿気の多い風に煽られるのを、ミサキが四苦八苦しながら、手で押さえいる。
『ほら、マントの結び目が甘いんだよ』
シリウスが、ミサキの襟元の止め具をきつく閉め直した。
『それから、襟だけじゃなくて、ここと、ここ。これも、こう、ちゃんと止める』
シリウスが、手際良くマントの止め具をはめた。
『ああ、成程な』
ミサキが感心したように笑った。
『風の神殿の側に、北へ向かう街道が伸びてる。それに入って、山を越え、谷を越え、帝国の北の果て……氷の神殿はそこにある。ま、道は一本だから、迷うことはないだろう』
『随分、遠そうだな』
『十日はかからないよ。途中で何もなければな。じゃ、行くぞ』
ミサキは黙ったまま頷いた。
他愛のない会話のやりとり。その中でも、シリウスにはミサキの言葉数が減っているのが分かる。恐らく、昨晩の夢のせいだろう。
でも、そんなミサキに対して、慰めるでもなく励ますでもなく、シリウスは昨日の事を ” 無かった事 "にしてしまった。だが、口にはしなくても、シリウスの中では、それは厳然たる事実として、どうしても消すことができなかった。ミサキが光族かも知れないという、憶測。それが、実はシリウスの心の中に小さな黒雲を発生させたのだ。そして、ミサキに対して、今までより少し、距離を置いている自分がいる。シリウスは、軽く溜め息をついた。
海竜族の、光族に対する劣等感。それは少年が、その成長してきた環境の中で、いつの間にかその心に根付かせていたものだった。
光族はこの島に漂着して以来、魔法という力に守られながら、大陸で失ったものを次々に復興し、ついには帝国を建て、ランドメイアの大半をその支配下に納めた。そして、海竜族が決して手に入れることの出来なかったもの……強大な権力に守られた、豊かな国家を形成したのである。
ランドメイアの事実上の支配者となった光族の支配階級による、他民族排除の矛先は、主にこのランドメイアのかつての支配者であった、海竜族に対して向けられたのだった。
カーシアという、小さな街に押し込められた海竜族が、その後、再び島の中央へ戻ることはなかった。時が流れ、カリディア帝国が衰退の時期を迎えている現在においても、過去に植え付けられた劣等感と、民族の負った屈辱の思いは未だ消えることなく、海竜族の心の奥に残っていたのである。
そして更に、シリウスが光族と海竜族とのハーフであるということが、その劣等感を大きなものにしていた。幼い頃訪れた都で、光族の従兄弟たちから受けた蔑みが、彼の心の中で、トラウマとして残っていたせいである。
「ミサキは……光族なんかじゃない……」
そう呟いたシリウスの声は、誰の耳に届くこともなく、すぐに風の音に掻き消された。
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