第2章
嘘つきな魔法使いの手のひらで踊るのは善人 1
その男の風貌と、通行証を代わる代わるに見て、ウィンザーテラスの通行管理官は、しばし言うべき言葉を失った。
その男の姿はどう見ても、軍の下士官か傭兵といったところであり、この役人が、通行証に記された男の身分と、その容姿とをすぐに結び付けることができなかった為である。
「おいっ、通っていいのか?」
男が不機嫌そうな声で言って、役人を睨みつけた。
「あ、はい。そりゃぁ……もう。ご自由に。騎士様の行く手を遮るなど、滅相もございません」
役人がおどおどした調子で言いながら、男の通行証を差し出した。男はそれを奪い取るようにして受け取ると、ふんと鼻を鳴らして、大股で歩き去った。
「皇帝騎士団の騎士様……にも、変わった御方がいるもんだ。あれが、雪の騎士様かぁ」
その役人は、街の雑踏に消えていく男の後ろ姿をしばし見送って、良いものを見たという様に満足げな顔をし、再び自分の仕事に戻っていった。
さて、その男。ラシャストロフ・ディールは、正確には、元、雪の騎士であった。
彼は、先年、皇帝騎士団を自主退団し、旅に出ていた。ただ、細かいことを言えば、彼の出した退団届けは、正式には受理されていなかったから、彼はまだ雪の騎士であった。
しかし、カディスからの召還を、すでに三度に渡って無視しており、彼が、騎士としての義務を放棄したとき、彼の中で雪の騎士という称号は消滅していた。それでも、彼が騎士の身分の通行証を捨てずに所持しているのは、ただ単に、それが便利だからにすぎない。
この帝国では、国内に身分の不確かな者が入り込む事と同じぐらい、人民が自分の村や街を離れる事にはうるさかった。農民や技師、職人という身分の者は、生まれた土地から外に出ることを、ごく特別な場合を除いて、ほとんど認められておらず、帝国国内を歩くのに必要な通行証を手にできるのは、商人、騎士、貴族といった一部の人々に限られていた。
そして、帝国の特権階級である貴族を別にすれば、ほとんど無条件で国内を行き来出来るのは、皇帝騎士団の騎士だけであった。それというのも、皇帝騎士団という組織が、帝国内の情報収集、即ち、諜報活動をその主な仕事として持っていたからである。
ラシャが足を止めたのは、ウィンザーテラスのバザールの片隅にある、薄汚れたテントの前であった。入り口には、薄い布の仕切りが掛かっており、その中は薄暗く人の気配もない。だが、ラシャはそこに彼の訪ねる人物がいると確信して、その中に足を踏み入れた。
「……いらっしゃい」
中に居た女占い師が顔を上げた。
若いな、というのが、彼の第一印象だった。見たところは二十前後という感じである。もしそうなら、彼とそう変わらない。占い師といえば、老婆を連想していたラシャである。彼女が、自分の想像よりもはるかに若かったことに彼は内心驚いたが、表情には見せず、黙ったまま占い師の勧めた椅子に腰を下ろした。
「お聞きになりたいことは?」
手元の水晶球に軽く手を滑らせて、その占い師が尋ねた。
「カヤの居場所と、この馬鹿げた世界から抜け出す方法」
ラシャの横柄な口調に、占い師は肩をすくめた。
「……なんだか、最近は人捜しが流行ってんのね。居るべき人が、居るべき場所にいないというのは、良くないことだわ。世界が混乱している証拠だもの。それに、あなたは外の世界から召喚されたって訳ね。剣の騎士……即ち、皇帝騎士団の騎士になるために」
「やけに事情通だな」
ラシャが訝しげな顔をした。
「占い師ですもの」
女が意味ありげな微笑を浮かべる。
「それにその腰の剣……」
占い師が、ラシャの剣に付いている紋章を指し示す。
「それは“雪華の紋”でしょう?だから、あなたは、雪の騎士」
にっこり笑ってそう言った占い師の表情に、ラシャは急に何かを思い出したように、勢いよく椅子から立ち上がった。
「……あんた、誰だ?前にどっかで……会ってる。占い師だなんて、何故そんな……」
目の前の女が占い師だと、何故自分はそう思い込んでいたのか。ラシャは彼を見上げる女の顔をまじまじと見ながら、狐につままれたような顔をした。
「……あなたは、ここに凄腕の占い師がいると、そう信じて、こんな帝国の外れまでやって来た。そう、確かに間違ってはいないわ。おおまかな所はね。そんな所に突っ立ってないで、お座りなさいな、ラシャストロフ・ディール」
半ば放心状態のまま、ラシャは、すとんと椅子に腰を下ろした。
「私が、あなたをここに呼んだのよ。用があったのは、あなたじゃなくて、私の方」
「なんでまた……」
「そりゃ、あなたに会いたかったからよ。都からの召還を、ことごとく無視してくれたから、“私”がわざわざ出向く羽目になったんじゃないの」
「あなた、もしかして、ダーク……」
「しっ!名を呼んではだめ。大魔法使いはまだ、ランドメイアには戻っていないことになっているんだから」
彼女が声を立てずに笑った。
ランドメイアの大魔法使い、ダーク・ブランカ。目の前にいるこの女が、まさかそうだというのか。ラシャは目の前にいる人物を、緊張した面持ちで見詰めた。
「雪の騎士、ラシャストロフ・ディール。あなたに任務を与えます」
「ちょっと待ってください。俺は……」
「あなたは、まだ雪の騎士。それはあなたが一番良く分かっているはずね。その剣が、誰でもない、あなたのものである限り……」
「俺には、このランドメイアの未来に対して、責任を負わされる義務はない。剣に選ばれた騎士だ?ふざけるな。そうやって、異世界のよそ者の手を借りなきゃ守れないようなものなら、いっそ滅んでしまえばいいんだ」
ラシャが吐き出すように言い放つと、とたんにダーク・ブランカの表情が曇った。そして彼女はそのまま俯いて、押し黙ってしまった。
その場に、言いようのない気まずい空気が流れる……
「……いや、その……ごめん。ちょっと言いすぎた……かも……」
大魔法使いという名に、ふさわしからぬ反応を示したダーク・ブランカに、ラシャは驚いて、慌ててそう言った。
皇帝さえもその意志の下に置くと言われる、大魔法使い。
この世界では、神にも等しい存在。
それが “ダーク・ブランカ” である筈なのだ。
少なくとも、ラシャがランドメイアに来てから得た、彼女に関する知識を総合するとそういう事になる。それなのに、今、彼の目の前にいるのは……
ダーク・ブランカが深いため息を付いて、顔を上げた。その瞳が微かに潤んでいるのに気づいて、今度はラシャの方が、気まずさから下を向いた。
「……いいのよ。あなたの言い分は、正しいわ。この世界がどうなろうと、例え滅んだとしても、あなたには関係のない話よね。……でも、ここで生まれ育った者にとっては、ここは大切な故郷。それが今滅びようとしている。そして、あなたには、それを救う力がある。……でも、救いを求める者に、手を差し伸べないからといって、あなたを責める様なことはしないから……気にしなくていいわ」
そういう言われ方をされると、ものすご~く、気になるじゃないか、と思う。
「……俺で、役に立つ事なんか、あるのかよ?」
腕にはそこそこの自信はある。だが、魔法というものが幅を利かせているこの世界では、そんなものは、大した利点にはならないのだ。それは、三年前の反乱騒ぎの時に、身にしみて感じたことだ。自分の無力さを突きつけられて、ここは自分のいるべき世界ではないのだと、思い知った。だから、全てを放り出して、逃げ出したのだ。
「やっていただけるのですね?」
ダーク・ブランカが、嬉々とした顔で、身を乗り出した。
「いや、そういう事じゃなくて……」
渋るラシャの言葉を遮って、ダーク・ブランカが畳み掛ける。
「任務の報酬は、あなたの望むものを……例えば、カヤと、あなたの世界への帰還。それで、やっては貰えないかしら」
今度は、ラシャの方が身を乗り出す。
「あんた、カヤの居場所知ってんのか?」
「任務を受けて下さいます?」
ダーク・ブランカが、にっこり笑う。
……交換条件って、ことか……
何となく、乗せられた気がしないでもない。だが、これで帰れるんなら悪い話ではない、と思う。
……しかし、この女の言う事は、信じられるのか……?話が……上手すぎる気もするよな。いやいやでも……仮にもダーク・ブランカだぜ。このランドメイアで、一番偉い奴だ。カヤに会える可能性が少しでもあるなら……
ラシャは心の中で思案するように間を置いてから、口を開いた。
「……いいだろう。で、任務の内容は?」
「ありがとう。感謝します、ラシャ。任務はある人物の護衛。この先の、宿屋に泊まる二人連れ。その一人で、名はミサキ。彼をフィリスの神殿へ、無事に送り届けること。カヤはその神殿にいるわ。そして、そのミサキが、あなた達を元の世界に戻してくれるはずよ」
「フィリスの神殿って……あそこは、氷の騎士の領域じゃないか。どうして、この任務、俺に?太陽の四騎士でもなく、月の三騎士でもない俺を選んだのは、何故だ?」
「あなたは、騎士でありながら、異邦人のまま……それが一番の理由。それに太陽や月の称号を持つ騎士では、光の力が強すぎる……強い光は、強い影を生むものだから」
「……え?」
「……あ」
突然、ダーク・ブランカが両腕で、自分の体を抱え込む様にして、座ったまま、うずくまる。
「おいっ、大丈夫か?」
ラシャが声を掛ける目の前で、眩い光と共に、唐突にその姿が変化した。
「お前……」
自分を見据えるラシャの驚いた顔を見て、ダーク・ブランカは一瞬、決まりの悪そうな表情をした。
「わたし……何か、変わりました?」
「ああ……何か、顔が……今のは、魔法?」
「え……ええ。そうなんですけど……」
ダーク・ブランカが、何かを探すように、辺りを見回す。目的の物……どうやら鏡を見つけて、慌てた様子でそれを覗き込む。
……時間の問題か……魔法が切れるのは……
「あの~、もしもし?」
「え?……ああ、私は、ファレンシア・クララバート」
「ファレンシア?まさか、今のが、変身魔法って奴か……すげー初めて見たぜ……」
「え……ええそう……そうなの、変身魔法。で、たった今から、そういうことだから。私の正体は、誰にも言わないこと。いいわね?」
ダーク・ブランカほどの有名人になると、素顔のままで気楽にその辺を歩く……という訳にはいかないのだろう。
と、ラシャは、単純にそう思った。
彼が、魔法使いの言動というものは、そのまま信じるものではない、という事に気付くのは、もっとずっと後のことである。
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