第1章

モラトリアム少年とニート志望の魔道士 1

 カーシアは、ランドメイアを支配するカリディア帝国に、唯一その自治権を認められている街である。街の広さも、そこに住む人々の数も、都市国家と呼ぶには程遠い規模の街である。それにもかかわらず、大国であるカリディアが、カーシアというちっぽけな街に自治を与えているのには、それなりの訳があった。


 一つには、古の時代に、この地を治める海竜族と、海を越えてランドメイアへ流れ着き、後にカリディア帝国を建てた光族が出会ってから、幾度もの戦いを経てお互いがお互いを同等と認めた結果、カーシア自治区が成立したという歴史的背景がある。それに加えて、カーシアが現在の帝国の経済を支えている商業都市であるという事実が、この街の地位を確固たるものにしていた。

 帝国の数十分の一にすぎない街が、すでに帝国以上の力を保有している。実は、カーシアを疎ましく思いながらも、それを潰すだけの力が、現在の帝国にはないのである。



 シリウィスト・アレクシス・リヴィウスは、十八才の誕生日を翌日に控えて、実に不本意な一日を過ごしていた。海竜族であるこの少年は、明日の十八才の誕生日に成人の儀式を終えると、商船に見習いとして乗船することになっている。

 海竜族の男は、その八割近くが他国との交易に従事しており、成人して商船の一員として働くのはそう特別なことではない。海竜族の拠点であるカーシアは商業都市であって、そこに住む人々は生まれた時から商人であり、また商人となるべく教育を受けていた。


 港の東側に広がるバザール(市場)の雑踏を歩きながら、海竜族の少年は、明日の今頃には船上の人となっている自分の姿を思い浮かべて、深い溜め息をついた。別に船に乗るのが嫌な訳ではない。十八年の間に得た知識を総動員して出て来る答えは確かに“このままで良い”である。しかし何かが違う気がするのだ。でも、心の中にある未来像が不鮮明なために、どうするべきなのか決められないでいる。明日はもう出発の日だというのに、自身に納得のいく答えが得られないまま、時間ばかりが空しく過ぎていく。彼の憂鬱の原因はそこにあった。


「シリウス様」

 後ろを歩いていた従者のカシムが、前方の人だかりを指して、シリウィストを呼び止めた。

「喧嘩でございましょうか……」

「らしいな」

 昨日付で解任になったとはいえ、カーシアの警備隊の隊長であったシリウスにしてみれば、このまま見過ごすこともできない。全く、この街は活発すぎて、人に落ち込む暇も与えない。そう思いながら、シリウスは肩をすくめて人だかりに分け入った。

「往来の真ん中で、何事か!」

 シリウスの一喝で、当事者達も、野次馬もたちまち静まり返った。

「これは、リヴィウス家の若様」

 人だかりの中から、一人の男が出て来て、うやうやしく頭を下げた。

「この騒ぎはどう言うことか」

「はっ。バザールに盗人が入り込みまして、たった今、取り押さえたところでございます」

 男はそう言って、自慢気に地面に倒れている若者を示した。


 一見、海竜族のように見えるが見慣れない服を着ていて、しかもそれがかなり汚れている。髪はぼさぼさで、体のあちこちにあざや傷がある。まるでこれでは、行き倒れではないか。何を盗んだのかは知らないが、皆でよってたかって袋叩きにしたのは明らかだった。


 ここでは盗みは重罪だから、仕方のない事とはいえ、その時の場面を思うとあまり気分の良いものではない。ただ、怒りに任せて、というのならばまだいい。だが、彼らは海竜族、商人である。あらゆる損得勘定の結果、行動する。

 “罪人を捕えたものには報償が出る”

 という法律がこの街にある以上、若者を捕えた訳は明白であった。

「後で警備隊の方へ被害届けを提出する様に。カシム、この男を担いでこい。どうやら気を失っているようだ」

 従者のカシムに若者を任せて、シリウスはその場から一刻も早く抜け出そうとした。が、その時、シリウスの耳に思いがけない言葉が届き、彼は、思わず足を止めた。


『大丈夫だ。離せ、一人で歩けるから』

 振り向いたシリウスは、例の若者がカシムの手を払い退けて、ゆっくり立ち上がるのをまじまじと見た。

『おい、お前。その言葉は……』

 シリウスに声を掛けられて、今度は若者の方が、驚いた顔をした。

『……言葉が通じるのか?こんなところで日本語話せる奴が居るなんて……嘘みたいだ』

 若者は驚いたというよりも、ほっとした表情を見せた。その無警戒で人なつこい顔を、シリウスは何となく好ましく思った。

 海竜族と同じ黒髪を持ちながら、その瞳は海竜族のそれとは違っていた。一方が、冷ややかなアイスブルーであるのに対し、シリウスの姿を映す今一つの瞳は、落ち着いたブラウンであった。

『お前、名は?一体どこから来た?どこで皇帝語を覚えたんだ?』

『俺はミサキ。皇帝語って……ここじゃ、日本語の事を、そう言うのか?』

 ミサキと名乗った若者は、不思議そうな顔をして、そう言った。



 リヴィウス家の屋敷はバザールを抜け、北へ向かうなだらかな傾斜の大路を登り切ったところにある。カーシアの一等地で、眼下に港を一望できる場所である。

 潮風が頬を掠めていくのを心地良く思いながら、バルコニーに身をもたせかけ、シリウスは夕暮れに次第に増えていく港の灯を眺めて、ぼんやりしていた。

 考えていたのは、ミサキという名の若者のことである。姿形は、ブラウンの瞳はあまり見掛けないにしても、それを除けば、とりたてて特徴もなく、何処にでも居る若者である。しかし、彼のかもしだす雰囲気はどこか現実離れしていて、目が離せない。そんな感じがするのだ。このランドメイアのことを、ほとんど知らないというのも気に掛かる。彼は皇帝語を話しているのだ。


 皇帝語というのは、カリディア帝国の宮廷語で、帝国の貴族達が教養の一つとして身に付けるものである。カーシアのリヴィウス家は、この地方の豪族であって、貴族ではなかったが、シリウスの母親が都の貴族階級の出であったから、この家の礼儀作法はすべて都風であった。シリウスが皇帝語を話すのもそのためである。


 だが、幾ら貴族でも皇帝語を使うのは宮廷内においてだけであり、日常は帝国の公用語であるカリディア語を使うのが普通である。皇帝語を操る異邦人がいてもおかしくはないが、皇帝語しか解さないとなるとまた話は別である。

「まさか、皇族でもあるまいしな……」

 シリウスがあれこれ思考を巡らせていると、従者のカシムが姿を見せた。

「どうだ?様子は」

「はい。だいぶ衰弱しているようですが、大事はないかと。二、三日休養をとれば回復するでしょう。今は眠っています」

「……そうか」

 安心する気持ちと同時に、がっかりしている自分に気付いて、シリウスはふと微笑を浮かべた。いつの間にか、あのミサキという若者を、航海に一緒に連れていけないだろうかと考えていたのである。



 ランドメイアは大洋に浮かぶ島である。太古の昔に、大陸がまるでいらない部分を切り放して出来たのではないかと思えるほど、この島は資源というものに、あまりにも恵まれていなかった。ランドメイアの住人である海竜族が航海術に長けていたのは、そういった事情があったからなのかもしれない。


 大陸から、一族の存亡を掛けて戦い、敗れた光族の難民が漂着し、大陸文化をこの島にもたらしてから、海竜族の外への憧れは一層強くなった。“大陸にはすべてのものがある“という言葉を合言葉に、海竜族は海の民として成長していった。

 ただ、海竜族が賢明だったのは、大陸での領土拡大を巡る争いに対して、常に傍観者であったと言うことである。大陸で繰り広げられる、幾つもの大国の興亡を横目に見ながら、各地に商業基地を建設し、その勢力圏を拡大していったのである。


 欲しいものを手に入れる事が出来るのなら、それぞれの地で異邦人でいることなど、海竜族にとって何でもないことだった。何も持っていないということが、彼等の強みであったのである。海竜族がその拠点としていたランドメイア島でさえも、いつしか多くの商業基地の一つに過ぎなくなっていた。彼等にとっては船こそが“家”であり、大袈裟に言えば“国”であった。


 海竜族は、春になると一斉に航海に出る。数十隻の商船が船団を組み、それに護衛の軍船が数隻ついて航海に出るのだが、それらの出港する様はまさに壮観であった。

 秋から冬の間、大陸から吹いていた風が、春の訪れと共に逆に吹く。その風に乗り大陸のアランシアへ、更に大陸沿いに東へ向かい、航海は、メルブランカ、シャディア、そして大陸の果ての大帝国ファーズへと続く。

 各地の特産物を集めながら、別の帰港地でそれを売る。“何も持たない海竜族”は、仲買の商人として大陸を飛び回るのである。途中に設けられた商業基地に立ち寄りながら、大陸航路を往復して、再びカーシアに戻るのはその年の晩秋、ランドメイアに冬の訪れを告げる大陸からの風が吹く頃であった。

 これが海竜族の一般的な航海であったが、中にはカーシアまで戻らずに、大陸で冬を越すものもあった。



 出港前の慌ただしい甲板に立って、シリウスはこれから約半年の別れとなるカーシアの街をしみじみと眺めていた。

 別に感傷的になっていた訳ではない。ただ気掛かりなことがあったのだ。ありていに言えば、ミサキのことがだったのである。

 今朝、シリウスが家を出てくる時、ミサキはまだ眠ったままだった。要するに、シリウスにとって、ミサキは未だ謎の人物のままで、おそらく半年して、彼が航海から戻るまでその謎は解けないのである。好奇心旺盛な少年にとって、おあずけを食った形のこの状態は、かなり辛いものであるのは間違いない。

「あーあ、このままで半年か……」

「半年なんてすぐですよ。初めての航海で、きっと退屈している暇なんてありませんから」

 シリウスがもらした言葉の本意を察したのか、従者のカシムが慰めるように言う。

「……」

「シリウス様?」

 考え込むように黙り込んでしまったシリウスの様子を心配して、カシムがそっとその表情を伺った。


 丁度その時、船団をまとめる提督の乗る旗艦の、出港の汽笛が港に響き渡った。十数隻の船が次々にそれに呼応して汽笛を鳴らす。その汽笛の中で、シリウスは身じろぎもせずに港の一点を見詰めていた。何事だろうかと、カシムもそちらに視線を移す。

「……あいつ。何してんだ、あんなところで」

 シリウスのつぶやきに、カシムが視線を戻した時には、彼の主人の姿は、すでに甲板から消えていた。

「シッ、シリウスさまっ!」

 シリウスが海に飛び込んだのに気付いて、カシムが慌てて甲板から身を乗り出すと、遙か下の海面で、シリウスが頭だけ出して浮いていた。

「シリウスさまぁー!」

「……ごめんって…親父に…謝っといてくれ……」

 汽笛の合間に途切れ途切れにそう言うと、シリウスは、陸に向かって泳ぎ始めた。

「お待ちください!シリウスさまっ!」

 カシムもシリウスの後を追って、海に飛び込もうとしたが、船縁を乗り越えようとしたところで背後から肩に手を掛けられて、制止された。


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