『蜜柑』
矢口晃
第1話
九月に入って少したったある日のことです。あきら君のいる二年三組に、転入生がやってきました。
転入生の名前はモハメド君と言いました。モハメド君は異国からやって来たばかりで、まだあまり日本語が上手ではありませんでした。朝礼の時に桜井先生がみんなの前で、
「今日からみんなのお友達になるモハメド君です。パキスタンという国から日本にやってきたばかりで、まだあまり日本語が上手ではありません。ですからみなさん、何かモハメド君が困っている時には、進んで手伝ったり助けてあげたりして下さいね」
と紹介をしている間も、モハメド君は気まずそうに下を見つめて、ただもじもじしているばかりでした。
遠い国から来た新しい友達に、二年三組のみんなは興味津々でした。目が大きくぱっちり二重で、鼻がとても高いのです。背も日本の二年生にくらべるとだいぶ大きく、大人びて見えました。
あきら君はその日家に帰ると、家族と夕飯を食べながら、さっそくその話をしました。
「それでね、髪がもじゃもじゃっとしていて、日焼けしたみたいに肌の色が黒いんだよ。箸を持ったことがないんだって、給食は一人だけフォークなんだよ。でも全然食べなかった。たぶん日本の食事になれていないんだろうって、桜井先生が言ってた」
「仲良くしてあげるのよ」
お母さんが心配そうな顔つきであきら君に言います。
「変なこと言ってからかったり、みんなで仲間外れにしちゃだめよ」
「そうだよ」
お父さんも読みかけていた新聞を畳んでテーブルの脇に置くと、
「あきらがもし外国の学校に一人で行ったとしたら、どんな気持ちになると思う? それを考えながらちゃんとしなきゃいけないよ」
と言いました。
「平気だよ」
あきら君は胸を張って威張りました。
「おれが友達になってあげるんだ」
そう言うとあきら君はお皿に残っていたレタスのサラダをむしゃむしゃと一気に食べてしまいました。
翌日から、あきら君や他のクラスメートたちは、積極的にモハメド君に話しかけるようにしました。あまり言葉が通じませんが、分からないところは顔の表情で伝えたり、身振り手振りで表現したり、絵に描いて説明したりして、何とかお互いにやりとりをしました。最初はどうなることかと心配そうだった桜井先生も、二年三組のみんながモハメド君に温かく接している姿をみて、ほっと胸をなで下ろしたようでした。
モハメド君は、あきら君たちにとってまるで英語の先生のようになっていました。クラスメートたちが「英語を教えて」と、毎日モハメド君の周りに人垣を作ります。
「ねえねえ、じゃあこれは英語でなんて言うの?」
クラスメートのさえかちゃんが机の上の消しゴムを指差しながらモハメド君に尋ねました。モハメド君はそれをみながら、
「イレイサー」
と発音のよい英語で言うと、クラスメートたちは口々に、
「イレイサー、イレイサー」
と繰り返します。ひょうきん者のさとし君が身振りをつけた大袈裟な発音で、
「イ、レイサー」
とおどけてみせると、クラスメートたちが一斉にけらけらと笑いました。モハメド君もそんなみんなに囲まれて、少し恥ずかしそうに口元を隠しながらも、はにかんだ笑顔を見せていたました。
あきら君は毎日家に帰っては、モハメド君に習った英語を家族の前で得意気に披露しました。お父さんもお母さんも、にこにことあきら君の話を聞いていました。
さて、モハメド君が転入してきて二週間ばかりたった、あるよく晴れた午後のことです。あきら君や他の三、四人は、いつものようにモハメド君と一緒に下校していました。
ちょうど通学路の途中にある、大きな野菜市場の前を通りかかった時のことです。野菜を置く台の上に、黄色い大きなみかんが、山のように積んであるのに気が付きました。
モハメド君はみかんの山を見つけると、急に立ち止まって指をさしました。あきら君たちも、モハメド君に合わせて立ち止まりました。
みかんを指差したまましばらく何も言わないモハメド君のことを、みんなは不思議そうに見つめていました。
「いったいどうしたの?」
「みかんがどうかした?」
みんながそうモハメド君に聞くと、モハメド君は自信のなさそうな小さな声で、ぽつりと言いました。
「……ツキです」
「えっ?」
モハメド君の言葉を聞いて、初めのうちあきら君たちはいったい何のことか分からずにきょとんとしていましたが、次第にモハメド君の言い間違いに気が付くと、おかしさがこみ上げて来て、こらえきれずに声を出して笑いました。
「月だって」
「月じゃないよ、みかんだよ」
「あはははは」
みんながお腹を抱えながら笑う様子を見て、モハメド君も顔を赤くして照れ笑いをしていました。
家に帰って夕飯の時間になると、あきら君はさっそく今日あったことを家族に話し始めました。
「でね、モハメド君たらば、みかんを指差しながら『月です』、っていうんだよ」
思い出しただけでもおかしくてたまりません。あきら君は笑い声を弾ませながら話しをしました。お父さんもお母さんも、あきら君の話をおかしそうに聞いていました。
「でも、本当は何て言いたかったのかしらね?」
あきら君の話が一段落した後、お母さんが思い出したように言いました。
「みかんをみながら、『月です』って」
「ああ、あれか」
お母さんに聞かれて、お父さんもぼんやり宙に目をやりながら想像するように言いました。
「もしかしたら、『好きです』って言いたかったんじゃないかな」
「『好きです』、『月です』……」
お母さんは小さな声で繰り返し言いました。お父さんはお母さんの方を見て、続けて言いました。
「モハメド君は、あきらたちに自分のことを知ってもらおうと思って、覚えたばかりの日本語を使って、『自分はみかんが好きです』ということを言いたかったんじゃないかな?」
「うん。そうかも知れないわね。確かに『好き』と『月』はよく似ているわね」
お父さんとお母さんがそんな話をしている間、気が付くとあきらくんは、ぼんやりとどこか別の方を向きながら考えこんだように黙っていました。
あきら君のじっと見つめているのは、電気の消えて真っ暗になった台所の方でした。
急にあきら君が静かになってしまったのに気がついて、お父さんが、
「ん? どうした、あきら?」
と声をかけました。するとあきら君は、やっぱりぼんやりと暗い台所の方を見つめたまま、
「違うと思うよ」
と呟くように言いました。
「違うって?」
お父さんが聞き返します。するとあきら君は、
「ほら、あれ」
と台所の方を見つめたまま指をさしました。
お父さんとお母さんが、不思議そうに指差された方を見ます。しかしそこは真っ暗なばかりで、何も見えません。
「どうしたの? 何もないじゃない」
というお母さんの言葉に、
「ほら、あそこだよ」
とあきら君は言葉に力を入れて言いました。
「なあに?」
「あそこのみかんだよ」
確かに、あきら君の指差していた先には、お母さんが昼間八百屋さんで買ってきたみかんが一つ、暗い机の上に置かれていました。
みかんは居間から漏れる薄い光を浴びて、机の上でぼんやりと黄色く輝いていました。
「みかんじゃない。みかんがどうかしたの?」
あきら君の言おうとしていることがまだ分からないお母さんは、もう一度あきら君にそう聞き返しました。するとあきら君はきらきらと輝かせた目をお母さんの方に向けながら、少し興奮したように言いました。
「モハメド君、言い間違えたんじゃないよ。『月です』って言ったんだよ。みかんがまるで月のようだって、そう言ったんだよ。だって、ほら――」
そこまで言うとあきら君は勢いよく席を立って、居間の窓にかかっていたカーテンをざっと音を立てて開きました。
窓の外には、まん丸い中秋の名月が、黄色く淡い光を放ちながら、少しの雲もかぶらずにぽっかりときれいに浮かんでいました。
「まん丸いお月さまみたいじゃない。あのみかんも」
あきら君にそう言われて、お父さんとお母さんはもう一度、台所の隅の暗いテーブルの上に、居間からの薄光を浴びて転がっている一個のみかんに目を移しました。
すると、どうでしょう。あきら君の言う通り、それはまるで、夜空に浮かぶまん丸いお月さまのように見えるではありませんか。
「本当だね」
「ええ。モハメド君の言う通りだわ。」
お父さんとお母さんは、感心したように言いました。
三人の見つめる中で、テーブルの上のみかんは、黄色く淡い光を放ち続けていました。テーブルの上の小さな丸い月を見ながら、あきら君の胸は、しばらくどきどきと鳴りやみませんでした。
『蜜柑』 矢口晃 @yaguti
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