常に忠誠を
「大河、ちょっと待ってくれ」
教官室を出た直後──自室に戻ろうとした大河は、ハルキに呼び止められた。
振り返ると、ハルキは申し訳なさそうに俯いていた。
「どうした?」
「……元はと言えば俺が原因だからあんま言いたくないけどよ、今回は相手が悪い。頭下げて許してもらおうぜ?」
「突然なんだよ」
「お前も見てただろ? あのナイフ捌きに、身のこなし。どう考えても専門の訓練を受けてる」
「俺だって専門の訓練なら受けてる。問題ない」
「それは知ってるよ。問題はな、奴が能力者だってことだ」
ハルキの懸念はもっともだった。
大河は逡巡する。
無能力者である自分が、どうして能力者を相手に戦うASAの一員でいられるのか──それは能力者に対する戦闘知識というアドバンテージがあるからだ。
そしてそれを実行に移す事が出来るのは、自衛隊の特殊部隊で叩きこまれた戦闘術が身体に染み付いているからに他ならない。
だがそうやって能力者に対抗するにはいくつかの条件が必要となる。
大切なのはこちらに優位な状況を作り出すことだと、大河はこれまでの経験から身に染みている。
例えるなら相撲取りをボクシングのリングに上げるようなものだ。
相撲取りがボクサーとボクシングの試合を行えば、ボクサーが間違えなく勝つだろう。
逆の場合もまた然り。
つまり、相手の力を封じ込め、自分に有利な状況を作り出すことが重要であるということだ。
大河はこれまでそうやって数多くの能力者と戦ってきた。だが、今回は勝手が違う。
相手は能力者だが、先程の身のこなしから考えても高度な軍事訓練を受けているであろうことは間違いない。あのナイフ捌きの元は
だから今回は自分に有利な状況を作り出せない。仮に彼女の能力を封じ、格闘戦に持ち込んだとしても勝てるかどうかは五分五分だ。下手をするともっと分が悪いかもしれない。
そのことをハルキは言っているのだろう。
しかし、だからといって大河に試合を放棄するつもりはなかった。
ASAのメンツが掛かっているのだ。
ロシア軍から派遣された兵士との模擬戦──そこから逃げれば、ASAは世界中の笑い物になる──何しろ、狭い業界だ。
無能力者である自分を拾って、一人前の兵士として育て上げてくれたこの組織に、大河は義理を感じていた。
自分に出来る恩返しは、彼女に勝つこと──それくらいしか無い。
「不利なのはわかってるさ」
「なら──」
「でも、やるよ。相棒にナイフを突きつけるような奴には、お灸を据えてやる」
「大河……」
ハルキの表情は晴れない。
「それにこいつもある」
大河はそう言って、懐からあるものを取り出してみせた。
注射器に入っている透明な液体。それが何であるかは、ASAに所属する者は誰でも知っている。
「お前、どうしてそこまで……」
そう言ったハルキの言葉を、大河は最後まで聞かなかった。
絶対に、負ける訳にはいかないのだから。
愛用のサブマシンガンを抱えて、大河は地下施設内の第三模擬戦場を訪れていた。
三木谷が設定した試合時刻まで、あと三十分──時計の針がゆっくりと進んでいく。もう後戻りは出来ない。
模擬戦場に足を踏み入れる。
模擬戦場は体育館ほどの広さがある部屋の中に、様々な戦場が再現されている施設だ。
だがこの第三模擬戦場は他の演習場と比べてシンプルな造りになっている。例えるなら中世のコロッセオ──まさに決闘場という表現が相応しいだろう。
脇に設置された観戦室には教官と、数名の観戦者──恐らく、どこからか話題を聞きつけてきたのだろう──が待っていた。
そしてフィールドには、もう既に彼女が待機している。
「逃げなかったんですね」
挑発的なイリーナの言葉に、大河は苦笑いを浮かべて返した。こんな安っぽい挑発に乗るほど馬鹿ではない。
「逃げる? どうして」
「死にかねないからですよ、如月大河。聞きましたよ。貴方、無能力者なんですよね?」
「それがどうかしたのか」
「どうもこうもありませんよ。無能力者が私に勝てるはずがない。土下座して許しをこうほうが利口だと思いますけどね」
「悪いけど俺、人に下げる頭を持ち合わせてなくてさ。それが世の中を知らなそうな小娘相手っていうんだから、尚更だよね」
「……残念です。忠告は意味がないようですね」
そう言ったイリーナの全身から殺気が放たれる。これは──大河は表情を曇らせる。
これは幾多の修羅場を乗り越えてきた者だけが放つ死の臭い──彼女の周りから空気が徐々に重くなっていく。
「一応、もう一度名乗っておきましょう。私の名前はイリーナ・フォン・リソフスカヤ。もう聞くことはないでしょうが」
まだ何処かにあどけなさを残している少女──イリーナは、一切笑うこともなくそんなことを口にした。
その全身から放たれる殺気に、大河は身震いする。
尋常ではない──直感がそう告げていた。
こいつはそこらの能力者とは格が違う。
ロシアといえば、言わずとしれた能力研究の先進国だ。分野によっては、日本やアメリカ、EU諸国をも凌駕する。
能力者の積極的な活用によって、停滞していた経済は復活。今やロシアの国力は、崩壊する以前のソビエト連邦に匹敵する。
吹き出してきた嫌な汗を、大河は袖で拭った。思わず息を飲む。
こんな化物を相手にして、本当に勝てるのか? そんな疑問が湧き上がってくる。
こいつは強い。多分、あの「委員会」の連中よりも。
「勝負には何を賭けるんだ?」
大河の問に、イリーナは答える。
「そうですね……では、何も要りません」
「何?」
「私が勝つに決まっていますから。必要ないです。貴方に要求することはありませんよ」
イリーナはそう言って、僅かに笑みを浮かべた。
大河は全身の血管が沸騰していくような怒りを覚えた。顔が焼けるように熱い。
こんな屈辱があるだろうか。あろうことか、こいつは何も要らないと言い放った。
それはこの勝負には何も意味が無いと言っているのと同じことだ。
大河はイリーナを睨みつけた。
「……俺が勝ったら、お前には俺の指示に従ってもらう」
「別に構いませんよ。私が負けるなんてことは万に一つもあり得ませんから」
ふざけるな──喉まで出掛かった言葉を大河は必死に押さえ込んだ。
こいつの挑発に乗るべきではない。
大河は目を瞑り、自分の目的を思い返す。
何故自分はここにいるのか。
周囲の殆どは能力者で、戦闘員にも関わらず無能力者であるのは大河一人のみ。
今まで散々苦労してきた。無能力者に何が出来ると蔑まれ、馬鹿にされたことも一度や二度ですまない。
そうなることはわかっていた。
それでも自分がASAに入ったのは、この手で奴らに復讐する為だ。
能力が無い自分にあるのは、諦めの悪さだけだ。だから──
大河は目の前の少女を睨んだ。
「俺は、投降するつもりはない」
「忠告はしました。でしたら、私は貴方を全力で叩き潰すまでです」
「そうだろうな」
大河は頷いた。
「覚悟は、ずっと昔に決めている」
そう言って、大河は懐から注射器を取り出す。
「それは!?」
その注射器を見た途端、イリーナの表情が強張っていくのが見えた。
大河はその注射器を、迷うことなく自らの首筋に押し当てる。
「っ……!」
首に奔った僅かな痛みと共に、注射器の中に入れられていた薬剤が注入され、すぐに体中が熱を帯びていく。
「ブースター……何故たかが模擬戦に、そこまで……」
イリーナが正気を疑うかのような視線を大河に向けた。
ブースター。本来は、能力者の力を強める目的で開発された薬物だ。
無能力者に使用すれば、運動機能や反応速度を一時的に増大させる効果を持つ。
いわば人が持つリミッターを強制的に解除し、常に火事場の馬鹿力を発揮させるようなものだ。
しかしその代償として、使った者の身体を蝕む。限界を超えて動作した筋肉はズタズタになるし、酷使された神経はしばらくは使い物にならない。
イリーナが驚くのも無理はなかった。
本来模擬戦で使われるような物ではない。
大河自身、それを使ってしまえば自分がどうなってしまうるのか、なんていうことはよくわかっている。
だが──
「この、戦いには……俺の……俺の全てが懸かってるんだ」
息を荒げながら、大河は注射器を放り捨てた。地面にぶつかった注射器はパリンという音と共に砕け散る。
「両者、そのまま前へ」
天井に設置されたスピーカーから、教官の声が響く。
「これより、模擬戦を開始する!」
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