ロシアからの来訪者

 目の前を煙が覆っている。

「けむい……副流煙ヤバイんじゃないっすか、これ」

 ハルキが咳き込みながら声を上げる。

 確かに部屋の中は煙たい──先程換気したはずなのだが、一体どうしたらこんな事になるんだ?

「私の勝手でしょ? 私の部屋だもの」

 そう言って煙草を吹かす三木谷教官──大河はハルキと共に、再び教官室を訪れていた。

 つい先程ここを出たばかりだというのに、また呼び出されてしまった。

「全員揃ったわね。じゃあ始めるわ」

 三木谷教官の声に合わせ、大河たちは敬礼する。

 三木谷は若干申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、話を続けた。

「残念だけど休暇は終わりよ。問題が起きたわ」

 先の報告を持って大河たちの部隊には休暇が与えられていたのだが、一瞬で撤回される事になる。僅か二時間で、大河の休暇は終わりを告げた。

 それを聞いたハルキは、ウッと息をつまらせる。

「……やっぱりか、そうだとは思ってたけどさぁ」

「だいたい想像は付いてるみたいね」

「あんだけ騒がれてれば、笑えねえことが起きてるってことは俺でもわかるっすよ」

「話が早いわ。今回、貴方たちに与える任務は例の高校生連続殺人事件の犯人をよ」

 それを聞いた大河とハルキは、思わず顔を見合わせた。

「マジかよ」

「排除? 確保ではないんですか?」

 三木谷はそう言い切った。

 確保ではなく、排除──つまり、犯人の生死を問わないということだ。この指令は滅多なことでは下されない。

 それはつまり、敵がそれ程強大であることを示していた。

「俺たち二人だけじゃ、どうしようもないですよ」

 大河は言った。

──恐らく敵は、強い。

 多分、自分よりも。

 だというのに、自ら敵の前に出ていくということは、殺してくれと頼んでいるようなものだ。

 既にASAの工作員が殺られている状況下で、大河とハルキ──わずか二人の戦力で戦えというのは無茶を通り越して無謀としか思えなかった。

 大河が所属する部隊には、一応ハルキの他に一人仲間が居る。しかし彼女は戦闘員ではなく、後方支援が専門だ。戦闘の役には立たない。

「つまり、俺たちが休暇を取り上げられた上に、ヤバい連中の相手をさせられるっていうことっすか? 笑えねぇ」

「残念だけどハルキ、この作戦は再優先事項よ」

「しかし、敵の規模すらはっきりしないこの状況で、俺たち二人で連中を相手にするのは不可能ですよ。敵は一体何者なんです?」

 大河の問いに、三木谷は眉間にしわを寄せた。

「把握しているのはある程度でしかないわ。とりあえず、それを説明する前に……」

 三木谷がそうを言いかけた時、教官室のドアがノックされた。

「来たみたいね……入って!」

 三木谷の返答に、ゆっくりとドアが開かれる。

 そこに現れたのは──一人の少女だった。

 その姿を見た大河は息を呑んだ。

 一瞬で目が奪われる。

 少女の髪が歩く度にふわりと揺れる。

 小柄で、華奢な体型の少女だ。触れれば砕け散ってしまいそうな程、どこか儚さを感じさせる。

 愛らしい顔立ちをしているというのに、その凛とした視線だけが、彼女の意志の強さを大河に感じさせた。

 まるで西洋人形だ──少女が近づいてくるのを視線で追いつつ、大河はそんなことを思った。

「イリーナ・フォン・リソフスカヤ、只今を持ちましてASAの指揮下に入ります」

 柔らかい声音だというのに、事務的な口調。部屋の中に入ってきた彼女は、三木谷の前に立つと、直立不動で見事な敬礼をした。

 大河は確信した。

 身のこなし、表情。そして殺気。

 見た目はまだ中学生程にしか見えないが、全身から隠すことの出来ない気迫──修羅場を潜り抜けてきた者だけが放つ凄みが滲み出ている。

 この見た目でロシアの軍人だということは、彼女もまた能力者であることは間違えない。

「よく来てくれたわね、中尉」

「はっ」

 少女は三木谷の前で背筋を伸ばし、敬礼をする。

 大河は困惑した。

 この年齢見た目で中尉だと? あり得ない。

「紹介するわ。彼女はロシア連邦保安庁所属、イリーナ中尉よ。今回の事件に関連してASAに派遣されたわ。以後、彼女と協力して任務に当たってちょうだい」

「おいおい、冗談でしょ? こんな女の子がなんだっていうんです?」

 ハルキが苦笑を浮かべながら言った。

 その言葉には明らかにイリーナと名乗った少女を馬鹿にしたニュアンスが含まれている。

 だがイリーナは、それを聞いても表情一つ変えようとはしない。

「止せハルキ、この子は──」

 客人だぞ、と大河が言いかけた瞬間、視界の端で彼女が動き出したのが見えた。

 一瞬の出来事。

「ッ!」

 首元にナイフを突きつけられ、ハルキが絶句する。

 目にも止まらない早業──ハルキは身動きも取れないまま、イリーナに突きつけられたナイフを見て顔を青くしていた。刃は頸動脈に向けられている。僅かにでも刃が触れれば、たちまち大量出血を起こすだろう。

「なっ──!」

? ASA──日本の特殊部隊はこの程度ですか。口だけの男は嫌いです」

「ナイフを降ろせ!」

 大河は腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。

 イリーナに向けて構える。安全装置は外していない。

 正気じゃない。大河は思った。こいつはイカれてる。

「正気か!? 何を考えてるんだ!」

「先に挑発してきたのはそちらでしょう?」

「いいから早くナイフを降ろせ! 降ろすんだ!」

 言葉の応酬。その場の空気が殺気を帯びていく。

 今にも戦闘になりかねない。

 大河は既に安全装置は外していた。初弾は装填済みだ。

 後は引き金を引くだけでこの女を撃てる。

 大河の指は既に引き金に掛けられている──

「いい加減にしなさい! ナイフと銃を降ろして! 殺し合いなら私の目の届かない場所でやってくれる?」

 三木谷の怒鳴り声で、大河は我に返った。

「と、とりあえずナイフをなんとかしてくれ」

 冷や汗を浮かべながら、ハルキが言う。 

 ようやくイリーナがナイフを降ろした。それを見て、大河もホルスターに拳銃を戻す。ハルキは顔を引きつらせながらイリーナから離れて、

「おっかねえ女……」

 彼女に睨まれてすぐに目を逸らした。

「……冗談が過ぎたようです。三木谷少佐」

 イリーナは無表情のまま、何事もなかったかのように言った。

「私は1佐よ。それも元、ね。二人共、争いごとなら外でやりなさい」

 三木谷は大河とイリーナを一瞥すると、親指でドアを指して見せる。

「ヤー」

「はっ!」

 大河とイリーナはすぐに直立不動の体制に戻る。

「これからチームを組むっていうのに、どうしてそんな争ってるんです?」

「失礼ながら少佐、この二人の能力には疑問が残ります。足手まといが居るのは、作戦の成功率を下げるだけです」

 イリーナの言葉に、大河は苛立った。

「お互いに意見が合うな。俺たちも味方に突然ナイフを突きつけるような奴は信用出来ない。いつ裏切られるかわかったもんじゃない。背中を預けるのはゴメンだ」

「そうだそうだ!」

 先程まで顔を青くしていたハルキが、ここぞとばかりに大河に乗っかった。

 大河は内心舌打ちした。バカ野郎、空気を読め。

「そもそもなんでロシア人がこんな所にいるんです?」

「えっと、それは──」

「それは機密事項につき、答えられません」 

 答えようとした三木谷の言葉を、イリーナが遮った。

 大河は再びイリーナを睨みつける。

「機密? 冗談じゃない! ここはロシアじゃない、日本だ! 君の思い通りになると思うな!」

「私は貴方を信用していません、如月大河。貴方が情報を漏らさない保証は無い」

「お前……」

 再び、一瞬即発の雰囲気が大河とイリーナの間に漂い始める。

 視界の端で、殺気を探知したハルキがそそくさと物陰に隠れていくのが見えた。

「……なんだか、めんどくさい展開になってきましたね」

 まるで人事のように、三木谷がため息を付いた。だが、睨み合いは収まらない。

 いつ戦闘が始まってもおかしくない。そういう空気だった。

「じゃあ、こうしましょう。模擬戦をやって、勝った方の言い分を聞く。そういうことで、どう?」

「構いません」

 即座に、イリーナが頷いた。そして、大河に視線を──僅かに挑発的な笑みを浮かべてみせた。

「貴方、無能力者なんですよね? 今のうちに謝ったらどうです? 能力者相手に粋がっていたら死にますよ?」

「悪いが、イカれたロシアのガキに下げる頭は持ち合わせてないんでね。三木谷教官、それで構いません」

 再び言葉の応酬を始めた大河とイリーナを見て、三木谷はため息を付いた。

「……わかった、じゃあそういうことにするわ。二時間後に第二演習場に移動しなさい。そこで決闘を行う、ってことで」

「ヤー」

「了解」

 敬礼をして、大河はハルキと共に教官室を後にした。

 イリーナとは、視線も合わせない。

 廊下に出た途端、ハルキは大河の顔を覗き込んで、心底楽しそうに、

「頑張れよ、大河」

「お前いつか痛い目に遭わせてやるからなこの野郎」




 

 

 

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