月面の飛翔

 月の裏側に広がる密林に、獣が生息しているという。



 噂の出所は火星だった。1地球年ほど前、太陽系の趨勢を観測する集団が、地球を見続けているうちに月の中に不可思議な影を見つけたのだと、発表した。

 彼らが提出したのは1枚の2次元画像。日の当たらない薄暗い月面に、薄ぼんやりと濃い影が、確かに記されていた。



 たとえて言うならば、馬の姿。

 細長い胴体からは棒のような突起が3カ所伸びており、まるで空を駆けるようにそれぞれが折れ曲がっている。胴体の先に取り付いた首は細く尖っており、空へ向かっていななくよう。

 そして何よりも驚かせたのが、胴体から広く、布のように菱形に伸びた影。

 それはまるで、翼のようにはためいていた。

 


「有翼の幻獣」。翌日から、地球をはじめ火星、金星までもが、月の生態系に夢中になった。金星は月の裏側がよく見えるだけに、とりわけ天馬を見つけだそうとするにわか観測者が増えた。

 翼を持つ馬などいるはずもない、中空を飛ぶには両翼とも小さすぎる、否定する論文が雑誌をにぎわせたかと思えば、月の重力は軽いため翼を持つ獣がいてもおかしくない、という声が世論を駆け抜ける。



 「どう思う?」友人達から真偽を問い合わせるメールが何通も届いた。私が真実を隠していると、少なくとも調べることができる立場にあると、皆考えているらしい。

 真実。

 月に関する情報はすべて閉じられており、ごく少数の人間を除いて知ることはできない。許されるのは、地球にいる限られた人々だけだ。第一、現在誰が月に残された過去の遺物を調べているのかさえも、ほとんどの者に知らされていない。



 「私には見えるわ」仕事から家に帰る時分には、同居人はたいてい望遠鏡をのぞいている。天馬の噂が広まって以来、毎日空を眺めるのが日課になっているようだ。「あなたには見えない?」

 実のところ、翼持つ馬の話は多少食傷気味になっている。「さあ、見たことがないからねえ」適当に言葉を投げる。その態度に、機嫌が悪いとでも思ったらしい。同居人は、もう、とつぶやいたきり口を開かなくなった。



 月に翼馬がいるかという議論が起きるのはもっともなことだ。月はおろか、母星“地球”を中心とするこの宇宙の成り立ちは今もってよく分かっていない。惑星間を行き来できるようになった今でさえ、なぜ全能神が宇宙を作り地球の大地を支えているのか、他の恒星や惑星は誰の意図で空の中をあちこち揺らめいているのか、説明できる者はいない。

 宇宙に関する真実に触れるのは、神にしか与えられていない特権なのだ。



 だがもし。神に触れることはかなわなくとも、神の意思を推し量る。

 もし月に生物がいるのなら、一体どうやって鏡面から転がり落ちずに月の表面にとどまっていられるのか。

 ここ火星は、人が生存できるようあらゆる工夫がほどこされている。力を入れずに立っていられるように、強力な磁場を地下に埋め込んでいる。だが月は表側で大規模な移住が進んだにもかかわらず、裏側の開拓はなされないままだ。錬金術が完成していなかった当時では、日の当たらない裏側で人は住むことはできないと、そう判断してのことだったと聞く。表側と裏側とでつり合いをとる技術も、いまだ確立されていないのだから、妥当な判断ではある。……もっともこの辺りの情報は一般には知られていない。私が彼らが言うところの「特権」を利用して知り得た情報だが。

 どうして月の裏側で生物が存在することができるというのか。生物でないにしろ、何らかの影ができる原因は何なのか。どうしても府に落ちなかった。



 同居人が金星花茶を入れると言い残して居間から姿を消したのを見計らって、私はそっと望遠鏡のガラスに目を寄せてみた。

 薄ぼんやりと白く光る月面が目に飛び込む。鏡のように輝くそれは、目を凝らすと所々黒ずんだ模様を浮かび上がらせる。神が月を作りたもうた時、月の表面となる部分に誤って熱湯をかけてしまったため所々へこんだのだという。表側よりも裏側、火星にいる私たちに向けている側は特に起伏が激しい。よく見れば、凹凸の一つ一つが何かの模様をかたどっているようにさえ見える。



 瞬間、目の前を何かが横切った。



 目を凝らす。

 もう一度、目の前を薄黒い影が横切った。まるで翼をはためかせた馬のような、4本足の何か。



 望遠鏡から目を離し、自らの目で月の方角を見やる。見えるのは、青白く輝く円盤だけで、何も動くものは見当たらない。

 「ほら貴方も気掛かりなんでしょう」同居人の声に、慌てて望遠鏡のそばから離れる。

 「気がかりなものか」口をついて出てくるが、視線は同居人ではなく、我知らず夜空に向けられていた。

 馬鹿ね、無理しなくてもいいのに。笑いながら同居人が窓のそばに立つ。窓を閉めようとするその手の先に、今度ははっきりと見えた。

 幾つも幾つも月の手前側を飛び回る、極小の物体。



 守護天使だ。



 唐突な私の声に、同居人は首をかしげてこちらを振り返った。「……天使?」

 謎が解けた、そういうことだったのだ。だがあえて同居人には全て答えようとはせず、曖昧な笑みだけを浮かべて返した。



 噂には聞いたことがあった。人類が地球から外に飛び出すことなど思い描きもしなかった大昔、神の威光をその身に受けようと様々な策を凝らしたという。その一つとして、翼を広げた機械を地球の上空に周回させ、天空から降ってくる第五元素をより多く手に入れようと画策した時期があったという。今から数千年も前の話。地球の上を回り回り続けた機械はいつしか守護天使とあだ名され、そして人類が地球外に移住できるようになって各惑星に第五元素を集めるアンテナが設置されて以降、役目を終えて顧みられなくなったという。回収したという話は聞いたことがないから、今でもまだ慣性の赴くままに地球の周りを回り続けているのだろう。誰も制御していないのだから、何かの拍子に地球から月に軌道を変える天使が現れても不思議ではない。



 もはや機械が守る者はその存在をついぞ忘れているのに、どこを目指して空を駆けていくのだろう。神の威光だけをその身に受けながら、神が作りたもうた人に忘れられたまま、虚空を回り続ける天使。

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