第23話 自衛隊体操

 2020年4月13日 7:50 秦野市内


 ここは秦野市にあるゴルフ場のクラブハウス。大きな一枚ガラスが並んでいる建物内は、ある一角を除いて、淡い朝陽と清々しい空気に満ちていた。


 自衛隊航空幕僚監部総務課総務部副部長補佐、田神芳雄二等空佐の周辺は、ずっと不穏な空気に包まれている。その主な原因は、彼の隣に座る国安女史だ。

 彼女の両眼がウサギのように赤いのは、徹夜明けといことだけではないだろう。その証拠に、朝陽ですら顔色の悪さを誤魔化し切れていないのだから。

 相当に疲れているようだ。そして精神的にも参っているのだろう。

 彼女を疲労させている原因は推測するまでもない。前に座る二人の男達だ。愉快な仲間にはとてもなれそうもないその面構えは、どちらも白のポロシャツという爽やかな出で立ちにも関わらず、彼女でなくても緊張を余儀なくさせるであろう。


 嫌な雰囲気が漂っている。すぐ脇にある四つのゴルフバッグには、ライフルでも入っていそうだ。実際には急場凌ぎの小道具らしく、中身は空っぽなのだが。

 クラブハウス内のロビーは、豪華ホテルを思わせる内装と、静かに流れるクラシックの効果で、ハイソな会員制クラブといった趣だ。奥には有閑階級らしき連中が屯している。こちらの剣呑な雰囲気など露ほども感じていないらしく、楽しげな談笑を交わしているようだ。もっとも、こうしたゴルフ場では、官僚などの密談に使われることが多々あるので、見て見ぬふりということなのかもしれないが。

 四人はそんなロビーの一角にある応接セットで対峙していた。二人掛けのソファに座っているのは、あのワゴン車に乗っていた男達だ

 あれから田神は、導かれるままに車を走らせた。途中で車を降りるように要求され、彼らとともに別のワゴン車に乗り換え、このゴルフ場へと連れこられた。更にゴルフバッグを持たされて、ここでしばらく待つように告げられたのだった。

 それから既に四時間が経過している。軟禁状態と言ってもいいだろう。何を聞いても、お待ち下さいとしか答えない彼らに、国安女史は半ば呆れ、半ば諦めかけているようだ。何度も長いため息を吐き出しては、不快感を露わにしていた。


 一方、田神は違っていた。疲労感はあるが意外と平常心と保っていられる。それにはある理由があった。

 前に座る二人が何者かと言うことに気が付いていたからだ。愉快な仲間ではないが、不愉快な敵でもない。彼にとってはグレーな線上にいる連中だった。

 国安女史にそのことを教えようか。

 そう思った田神は、チラリと隣を覗き見る。すると、怯えた彼女の視線とかち合った。


「大丈夫ですよ」


 ここに来て三度目になるその言葉で慰めてみる。

 すると、国安女史の視線は不安そうに彷徨い始めた。まるで、お前では頼りないと言われているようで、田神は内心かなり傷付いた。


「で、でも……」

「心配には及びません。このお二人は……」


 言いかけた田神の言葉を、片方の男が咳払いで静止する。それから、ややぎこちない笑顔を浮かべ、「もう少々、お待ち下さい」と再び丁寧な命令を下した。

 瞬間、何かが切れるような音を田神は耳にした。

 いや、実際は切れたのではなく、破られたのだ。

 見ると、国安女史が握っていたクラブハウスのパンフレットが真っ二つ。充血した彼女の目は、まるで燃えているようだ。

 ヤバいと田神は思った。

 国安隆子という女性は、いざとなると切れる性格だ。公安との一件でそれを知っていた彼は、彼女を落ち着かせようと咄嗟にその肩を叩いた。

 もちろん馬じゃないので、そんな行為など意味がない。国安女史はまるで火を吐こうとする竜の如く、息を大きく吸い込んだ。


「いったい、あなた方は何を待っていらっしゃるんですか? それとも、警察の方なんでしょうか? もしもそうでしたら、警察手帳を提示して下さい」

「いえ、そうではなく……」


 唐突に吠え始めた女史に、男達は戸惑っている様子だ。


「違うんですか? ではいったい誰なんです? 私達を拘束する権利がおありなんですか? 氏名も身分も名乗らないで、何が目的なんでしょうか?」


 甲高い声がロビーに響き渡る。歓談をしていた連中が、盗み見るような視線を送ってきた。


「まあ、まあ、落ち着いて下さい、国安さん」

「私、疲れてるんです。早く解放して下さい」

「我々はお二人を保護しているのですよ」

「保護?」


 驚くのは国安女史の番だった。


「少なくても、あなた方はトラックとの接触事故直後、警察の追跡を振り切りましたよね? それだけでも道交法違反に問われるでしょう」

「待って下さい。あれはトラックの方がぶつかってきたからで……」

「それを証明することは出来ませんよ」

「そうですけど」


 形勢不利となった国安女史のトーンが落ちていく。道交法違反と言われ、不安感がぶり返してきたのだろう。見るに見かねた田神は、割って入ることにした。


「事故に関しては心配いらないと思いますよ。あのトラックも間違いなく、奴らとグルですから」

「グル?」

「公安が考えそうな、姑息な手段と言うことです。事故に関しては、せいぜい運転してた自分が罰金を払う程度でしょうね」


 あの時は頭に血が上って、ついついアクセルを踏んでしまったが、冷静に考えれば逃げる必要ななかったのだ。けれどこの際、それは誤魔化してしまおう。

 そんなことを考えつつ田神が穏やかに説明をすると、国安女史は小さな息を吐き出した。


「やっぱり、逃げる必要なんて無かったんですね」


 瞬間、田神はたじろいだ。

 どうやら判断ミスは誤魔化しきれてないらしい。


「いや、あの時は、つまり、自分も焦っていたもので……」


 しどろもどろになる。

 と、そんな田神に思わぬ援護が入った。


「いや、あの時は“逃げる”が正解ですよ」

「でも、罰金で済んだんですよね?」


 その援護が気に入らないのか、国安女史が反論する。


「公安が強引に車を止めた理由を想像して下さい。運転手が誰なのか確かめ、もしも大宝寺家の誰かなら強引に任意同行させて、別件逮捕という常套手段に持ち込もうという算段だったのでしょうね」

「でも実際に乗っていたのは、私達だったんですよ?」

「国安さんであった場合でも、国税局に対する牽制が出来ればいいと思っていたことでしょう」


 もしくは、昨日彼女が口にした脅しに対する、報復を兼ねての嫌がらせ。

 田神はそちらの方が可能性は高いと思った。


「ですが、田神さんの場合は少々事情が違います」

「どういうことですか?」

「田神さんが彼らと接触すると、困った事態が生じる可能性があるのですよ」

「例えば?」

「協力要請などですね」

「協力要請って?」


 国安の質問を無視し、男は田神に微笑みかけた。


「ですから、逃げるとした貴方の判断は、非常に正しかったと言えるでしょうね」


 褒められたはずなのに、田神は少々複雑な心境になってしまった。

 逃げて正解と言うことは、つまり逃げなければどうなったのかの予想をしていたと彼らは言っているのだ。


「もしも捕まったとしても、自分は機密事項をベラベラと喋るほど口は軽くない。個人的理由であの屋敷を訪れた、そう主張するだけだ」


 責任を押しつけられるのが嫌で逃げたのは確かだが、厄介なことになるのは俺自身であり、本省を困らせることなど起こりえないではないか。

 田神は抑揚のない声で文句を言った。

 男の片眉が僅かに上がる。


「貴方の主張など意味がありません。身分を知られれば、事故案件を処理する為の身元確認だと言って本省へと直接連絡が入るでしょう。その後どうなるかは想像して下さい。たとえ個人的事情だとしても、彼らが我々への協力要請を躊躇う理由にはなりませんよ?」

「あの……」


 今度は国安女史が口を挟む番だった。その表情から、彼女は男達が何者であるか懸念しているようだ。


「あの、あなた方はいったい何者なんですか?」


 同じ穴の貉だよ。

 田神は心の中でそう呟いた。

 男達は正解を言おうかどうしようか迷っている様子だ。余計なこととは思いながらも、田神はそんな彼等にアドバイスをすることにした。


「彼女には話した方がいいのでは? 今後、国税局との絡みも発生するし、早くからこちらとの協力を取り付けておいた方が、公安や公調への牽制になるでしょう」


 滅多にないことだが、田神の言葉は効果的に働いたようだ。男達は互いに目配せをし、やがて決心したように口を開いた。


「分かりました、お話ししましょう。我々は防衛省の者です。氏名等はご勘弁して下さい」

「防衛省?」と言いながら、国安女史が田神を見る。その瞳には明らかに疑念の色が浮かんでいた。


「まさか、田神さん、あなたが?」

「ち、違いますよ。自分はただ食料品を買う為に屋敷を出ると、上司に報告しただけです」

「その報告がこちらに回ってきて、我々がお二人を保護したのです」


 あくまでも保護という言葉に固執する男を、国安女史は睨みつける。


「嘘。計画的だったんでしょ? じゃなかったら、こんな小道具を用意できるはずがないもの」


 片手で空っぽのゴルフバッグを小突きながら、彼女は言った。


「公安らの動きを我々は掴んでいました。ですから、いざという場合に備え、ここを避難場所にと想定していたのです」

「わざわざ、車を乗り換えたのもその為?」

「昨日の連中は公安調査庁ではなく、警察庁の公安課ですからね。捜査能力を侮るわけにはいかないのです。つまり、ナンバープレートから防衛省の人間を割り出されては困るという意味です。あの車は、防衛省とは全く関係のない人物から借り受けたものですが」

「まさか、盗難車?」

「犯罪者集団じゃないですよ、我々は」


 苦笑いを浮かべ、男はそれ以上の説明を拒絶した。たぶん、機密事項の一つなのだろう。


 男達の説明で一応は納得したのか、国安女史は両肩に入っていた力を抜いて、ソファの背に寄りかかった。

 しかし、何かを思い出したのかハッと顔を上げた彼女は、刺すような視線を田神へと投げかけてきた。


「でも、変です」

「変? 何が?」

「だってあの時、あなたは迷いもなく、この人達に付いて行きましたよ。何故、あんな短期間で味方だと判断したんですか? 本当は知っていたんじゃないんですか?」


 裏帳簿でも見つけたような口調で、国安女史が追求する。


「それは……」


 真実を言ったところで信じてくれるだろうか。そう思いながら男達を見ると、彼らもまた困惑した表情を浮かべ、田神を見返した。


「それは?」

「それはですね、手の動きが内輪ネタだったからです」

「なんの話をされているんでしょう?」

「分かりませんか? 分かりませんよね……。つまり体操なんです」

「はぁ?」


 彼女の素っ頓狂な声に、田神も男達も苦笑いを浮かべるしかなかった。


「昔から、通称『自衛隊体操』と呼ばれるものがありまして、朝や訓練前などの準備運動として、隊員が必ずやる体操なんです。いわば、ラジオ体操のようなものでしょうか。それが十年前、ヨガを取り入れたバージョンが新たに導入されたんです。あの時、ワゴンから出てきた手の動きがその体操と同じだったので、ピンと来たんのです」


 もっとも、その時点では自衛官かもしれないという想像にしか過ぎなかったのだが、このゴルフ場に導かれた段階で、確信することが出来た。ここは、防衛省幹部、特に野木空将が好んでくる場所だ。大っぴらには出来ないが、軍需品を扱う連中や、米軍関係者と密談する、いわば防衛省の秘密基地と言っても過言ではないだろう。


「苦肉の策というやつですよ」 


 田神に同調して、男が頷きながらそう言った。


 しかし、国安女史はまだ納得がいかないようだ。男三人を吟味するように一人一人見据えている。田神はこの場で体操しろと言われたらどうしようかと、内心焦っていた。もちろん、彼女に言ったことは真実ではあるが、このセレブリティな雰囲気の空間であれを披露するのは、悶絶に値する行為だ。

 男達も同じ気持ちでいるのだろう。身悶えするように体を動かし、何か誤魔化す手段はないかと思案しているようだった。

 すると、誰かの携帯電話が鳴り響く。それはまさに、天の助け。

 男の一人が立ち上がり、携帯を耳に当てながら遠くへ行く。それを見送りながら、国安女史が田神へと囁き尋ねた。


「防衛省にも、公安部のようなところがあるんですか?」

「情報本部ですね。軍事情報を分析する機関で、警察庁や調査庁などと連携して活動しています。ですが、省庁同士にありがちな縄張り争い、小競り合いというのが実情ですよ。彼らが“協力要請をされては困る”と言ったのは、今回の件に関して公安と連携などしたくないということです」


 小声で答えた田神を、残っていた男が冷たい視線で睨みつける。さすがは諜報員の端くれ。劣化盗聴器程度には耳が良いらしい。


「彼らを信用しても良いんでしょうか?」

「そうですねぇ……」


 何とも答えにくい質問だ。立場上、信用できないとは言えないが、信じなさいと天啓を与えられるだけの信頼度も限りなくゼロに近かった。


「悪いようにはしませんよ」


 田神に代わって前の男がそう答えた。


「では、いったい私達は何を待っているんでしょうか?」


 男が「それは」と言いかけた時、離席していた片割れが戻ってきて、田神の顔を真っ直ぐ見据えた。


「リストにあった食料品は全て入手したと、部下から連絡が入りました。それと、待ち合わせしていた男性とも接触をし、国安さんのマンションへ同行していただき、必要な着替えなどを彼に選んでもらったと、連絡が……」


 男が言い切る前に、国安女史の絶叫が響き渡った。


「な、な、なんですって!」

 立ち上がった彼女の両拳が震えている。今にも正拳突きで攻撃を始めそうな様相だ。


「田神さん、貴方が頼んだんですか?」

「自分達が目的を達成できない以上、彼らにお願いするしかないですからね」


 実は、国安女史が一度トイレに行っている間、田神は彼らに今回の外出について、ある程度は話していたのだ。


「だからって、いくら何でも酷すぎるわ!」

「な、何か問題でも?」

「大問題に決まってるじゃないですか! よりにもよって、あの人が私の着替えを。まさかと思うけど、下着まで選ばせたんじゃないでしょうね?」

「そこまでは報告がありませんでしたが……。彼はあなたの婚約者だという話でしたが、違うんですか? 合い鍵まで持っていたそうなので、部下も信用したようです」

「婚約者ではなく元許嫁よ。それにしても、あいつがまだ合い鍵を持っていたなんて……」


 何やら複雑な事情がありそうだ。

 田神としては、これ以上ややこしくならないようにと祈るばかりであった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る