第22話 それぞれの過去、それぞれの思い

 2020年4月13日 7時30分 大宝寺邸


 南雲純樹はセミダブルのベッドに仰向けになり、白い漆喰天井を眺めていた。分厚いカーテンのすき間から差し込む朝日が、疲れ切った眼球を刺激する。

 一睡も出来なかった。肉体的疲れを感じても、精神的高揚が睡魔を阻んでいる。こう言うのをナチュラルハイというのだろうか。たぶん、違う。

 そんなことを考えながら、純樹は右手にある白い携帯に目をやった。

 宮下のジイサンから連絡が入ったのは、一時間ほど前。ぐっさんや岩さん達を連れて、この屋敷に乗り込んでくると言う。本当に大丈夫だろうか? 昨日、銃で脅してきた連中を思い出して、純樹は顔を曇らせた。


「──?」


 その時、僅かなノック音が扉の方から聞こえてきた。体を起こした純樹は、重厚な木製のそれを睨みつける。そうすれば扉の向う側が透けて見えるのだ!

 という特殊能力は持っていないので、誰が来たのだろうかと想像しただけだったが。

 伝十郎とかいう執事だろうかと想像する。

 しかし、脳天気で慌てん坊なあの老人が、あんな遠慮がちなノックなどするはずがない。なにしろ純樹が仲間からのメールを見せた途端、まるで転がるように何処かへ走り去ってしまったのだから。


 そもそも見張りと称して部屋の外で座り込んでいたものの、ほぼ眠り呆けていたっけ。


(あんな執事、オヤジだったら即解雇だろうな)


 一瞬、鬼瓦のような顔を思い出し、純樹は嫌な気分になった。

 再び、扉が叩かれる音がする。どうやら、気のせいではなかったらしい。

 純樹はノソノソと立ち上がると、扉へと近付いた。

 僅かに隙間を空けて覗き見る。始めに眼に入ったのは、黒いフリルだ。それが誰なのか瞬間で理解をした彼は、眼を見開いたまま固まってしまった。


「……入れてもらえる?」


 遠慮がちなのは、ノックばかりではなかった。


「いいですけど……」


 返事が丁寧になってしまうのは、彼自身、“女の子”と呼ばれる人種と話したのは、約三年ぶりなのだから無理もない。その上、何処か大人びた彼女の雰囲気が、彼の茫然自失に拍車を掛けた。

 体をずらした純樹の横を、猫のように足音もなく少女が通り過ぎた。フワリと甘い香りがする。彼女も一晩シャワーを浴びていないはずなのに。やはり女の子というのは不思議な生き物だ。そう思うと同時に、純樹は男臭に満ちあふれた自分の体が少し気になった。


 部屋の中央に起った彼女は、キョロキョロと部屋中を見渡す。


「建物もだけど、部屋も豪勢ね」


 言いながら、調度品の一つ一つに視線を走らせた。それらは全てヨーロピアンアンティークと呼ばれる代物で、触ることすら躊躇わせるほどの高級感があった。


「一つ百万は下らないらしいよ。だからオレも使う時はいつもビクビクだったんだ」

「いつも?」

「えっと、この部屋は大宝寺大先生が生きてた時に、オレが使ってたから……」

「ふぅん」


 それからたっぷり三十秒ほどかけて、少女は純樹を上から下まで、それも四回眺めていた。


「な、なに?」


 堪りかね純樹がそう尋ねると、小首を傾げた彼女はスーツを指さし、「ヒドいわね」と呟いた。その意味が分からず、自分の服を見下ろしてみる純樹。


「借り物なんだ」


 似合っていないという意味だと受け取り、返事をすると、少女は軽く首を振った。


「違うよ。膝は穴あき、上着はヨレヨレ、ネクタイはグチャグチャってこと。借り物なら、買って返した方がいいかもね」

「あ、うん」


 責められているような気がして、純樹は身をすくめた。

 その間にも少女の名前を思い出そうと必死になる。別に名前を呼ぶ必要など無いけれど、覚えてないと知られた途端に噛みつかれそうな気がしたからだ。


「で、本当に設計図を持って来るって言ってるの?」

「うん」

「何時頃?」

「九時二十三分って、メールに書いてあったよ」

「二十三分って、なんか中途半端な時間ね、どうして?」

「たぶん、例の連中に狙われないようにだと思う」


 純樹の心配をよそに、少女は話を先へ先へと進めていく。矢継ぎ早に来る質問に、純樹は答えるだけで精一杯になっていた。


「あなたはその設計図を見たことある?」

「中身まではないけど」

「まさか、マニュアルみたいに印刷ってことはないわよね?」

「ううん、データファイルだよ」

「そう」


 ようやく納得したのか少女は小さく頷くと、無言でベッドに近づき、その端にちょこんと腰を下ろした。

 その姿を見ながら、純樹は何か既視感のようなものを覚えた。何処かで会ったことがあったろうか。それとも似た人物なのか。服や髪型に見覚えがある。それが何処だったのかはさっぱり分からないが。


 少女はベッドの表面を指で撫でている。何か物思いに耽っているのか、注視されていることなど気にも止めていない。それをいいことに、純樹はジロジロと彼女を眺め、己の物忘れを解決しようとしていた。

 やがて、彼女が顔を上げる。

 少し半眼気味に細めたその瞳に見返されると、自分の無礼を咎めているようにも思い、純樹は慌てて顔を逸らした。

 怒られるだろうか、それとも嫌味でも言われるだろうか。

 眉根を寄せながら待っていると、思いがけない言葉が聞こえてきた。


「なんか眠くなって来ちゃった」


 純樹が視線を戻すと、少女は両手を上に伸ばし、大きな欠伸をしている最中だった。


「もしかして、徹夜?」

「そうよ」

「何でそんなに一生懸命に……」

「あんただって一生懸命よ。銃で追われても、絵で殴られてもここにいるじゃない?」

「それはそうだけど」

「一生懸命じゃないのはあの男だけだわ。本当は一番真剣に考えなければならない人間だって言うのに、ガキみたいにクダクダと文句ばかり。逃げていたって何も始まらないのが分からないんだから」


 彼女が罵っている相手が自分でないことは、純樹も承知している。しかし、“逃げる”という言葉を聞いて、どうしても自分が批判されているような気分を拭い去れない。


「逃げたくなる時だってあるんじゃないのかなぁ……」


 天井を見上げながら思わず呟いた純樹は、少女の視線を頬に感じた。

 彼女がどんな表情をしているのか怖くて見られない。反論されたと思い、怒り出したりしないだろうか?

 ついつい思ってしまうのは、昨日、大宝寺空人と言い争う彼女の姿が脳裏に焼き付いているからだ。

 しかし、またしても純樹の予感は外された。


「あんたも逃げたいの?」


 その声は想像していたよりずっと穏やかだった。なので、思わず正直に答えてしまった。


「逃げ込んだ先が、ここなんだ」


 天井から目を放した彼は、真顔のまま少女を見た。

 カーテンの僅かな隙間からでも、太陽はちゃんと朝を届けてくれる。伝わる温度が、今日はとても暖かく、晴れやかな一日であると教えてくれる。

 純樹は、絨毯を照らしている三角の光彩を視界に見とがめ、いっそカーテンを開け放し、闇を全て取り払おうかと考えた。

 しかし、そうすることで少女を不快にさせてしまう恐れもあった。


 沈黙は続く。

 純樹の言葉を待っているかのように、少女は彼を見つめている。その瞳には、朝日よりも優しい光が宿っているように感じられた。

 純樹がつい、話す必要もない過去を語り始めてしまったのは、たぶんそんな瞳にいざなわれたせいだろう。浮かべた微笑みや何気ない口調は、弱い自分を見せたくないという、僅かな抵抗だった。


「オレ、逃げてきたんだ、実家から。オヤジやお袋が乗せようとしてるレールが、どうしても我慢が出来なくなって。オレは兄貴達のように、それが素晴らしい人生に繋がるなんて思えないんだ。それにさ、オヤジ達の虚栄心は兄貴達で十分満たされてるはずなんだ」

「お兄さん達は何をしているの?」

「上の兄貴は代議士秘書、下は医者、今は研修医だけどね」

「あら、エリートなのね」


 純樹は不愉快な顔を作り、その言葉を受け止めた。少女自身は嫌味のつもりは無かったかもしれないが、今まで何度も誰かにそんな表現をされるたびに感じた苦々しさだった。


「それが嫌なんだよ」

「なんで?」

「兄貴達はオヤジの操人形なんだ。それをまるで偉いみたいに勘違いして、オレが同じ場所に行かないことをバカにする。オレはただ、オレが望む未来を手に入れたいだけなのに」


 少女の瞳に、それまでにない哀れみに似た色が僅かに滲む。それを見た純樹は、今まで誰にも話したことがない本心を、こんな名前も思い出せない年下の少女に話してしまったことを後悔した。


「オレの愚痴なんて聞きたくなかったよな、ごめん」

「人生ってさ、わりと思い通りにいかないよね」

「え?」


 思いがけない少女の言葉に、純樹は逸らしかけた顔を再び戻した。


「わたしも、親とか、それ以外の人達に振り回されて、誰もわたしにどうしたいのかって一度も聞いてくれなかったんだ。あの人だって、私を産まれなければ良かったのに……」

 語尾を濁して、少女は寂しげに目を伏せた。


「それって、お母さんのこと?」

「そうね、そういう感じの人。実際は赤の他人ってことらしいけど……」


 母親を表現するには、およそ相応しくない単語が並んでいる。

 純樹は、悲しみという波動が、急速に彼女を包んでいくのを見たような気がした。

 その波動を振り払うかのように、少女は明るく微笑んでみせる。そんな儚げで気丈な姿に、いや、彼女の言葉そのものに純樹は強い興味を覚えずにはいられなかった。


「私がパパと出て行っても、なんにも思わなかった人よ」


 どうやら彼女も、家族のことに思いを馳せているようだ。その言葉の端々で、複雑な環境で育ったことだけは純樹にも感じ取れた。だたし、かける言葉が見つからない。彼自身がそうであるように、家族のことを口にしたのはきっと、答えなど求めていないに愚痴に違いないから。


「時々ね、わたしがパパを殺しちゃったのかなって思うことがあるんだ」


 父親が死んだ原因は自分だという意味なのだろうか?

 それとも殺したかどうか思い出せないという意味なのだろうか?

 浮かんできた疑問を尋ねようかした純樹だが、やはり止めてしまった。何故なら、少女の表情は真実を語らせるに忍びないほど、辛そうに見えたからだった。


「先生は、君のせいじゃないよって何度も言ってくれたんだけどね」

「大宝寺先生?」


 ようやく尋ねられる質問に行き着き、純樹は思わずホッとする。

 彼女は小さく頷いた。それから、右手の甲を顎に当てながら、何も無い部屋の片隅へと顔を背ける。まるで、その場所に誰かの幻影を探しているかのようだった。

 純樹もまた、大宝寺という名の科学者に思いを馳せた。



 大宝寺との出会いは、ちょうど一年前のことだ。

 あの日何も持たずに家を飛び出した純樹は、多摩川に架かる鉄橋の下でうずくまっていた。


『外で寝るには、まだちょっと寒いなぁ』


 純樹を見下ろし、暖かい笑顔を浮かべた彼はそう言った。

 皺くちゃのスーツを着込み、櫛という存在がこの世に無いかのような髪型をした老人だった。そのくせ、背筋だけは真っ直ぐに伸び、どこか気品がある。

 初めは外国人なのかと純樹は思った。と言うのも、老人の手足がやたら長いことと、顔立ちや肌の色が東洋人とは違っていたからだ。後に聞いたところによると、ロシア人とのハーフだという。確かに初見にして、日本人離れした雰囲気は感じたが、どちらかというと人間離れしたと言った方が正解だったかもしれない。

 純樹は目を白黒させ、その外国人らしき老人を見上げていた。


『君は、外で寝るのが趣味なのかね?』


 嫌味を言われたのかと思い、反論しようと口を開きかけた純樹だったが、好奇心がたっぷり含まれた相手の目に戸惑い、小さく頭を振っただけに終わってしまった。


『それにしても、今日は清々しい朝だね?』


 もう昼過ぎだった。


『少々腹が減っているが、こうして散歩をしていると自然の恵みというものを感じることが出来る。君もそう思わないか?』


 自然の恵みがヒドすぎて、前の晩は雨に悩まされていた。


『しかし、空腹はこうした感動すらも薄めてしまう。そうだろ?』


 それは同感だった。


『マフィンを食べたいが、もう一人の僕がソバを食べたいと訴えている。マフィンとソバでは一緒に食べることは叶わない。いや、それとも一緒に食すという挑戦をすべきだと思うかい?』

『あ、あの……』


 とうとう耐えきれなくなり、純樹は口を開いた。黙っていると、わけのわからない老人の独り言に延々と付き合わされそうな予感があったからだ。


『ん、なんだい?』

『何故あなたはここにいるんですか?』

『君、それは何故この草はここに生えたのかと言うぐらいに、難しい質問だよ。あの土手を越え、こちらへ歩いてきたら君が居たというのが正解なのだが、あの土手のあの場所を選んだのは、数分前の僕に立ち戻らないと分からないな。しかし、その時に僕が何を思ってそんな選択をしたのか、僕自身が覚えていないのだから答えが見つかるはずがないだろう?』

『いえ、そうではなく、オレのそばで喋っているのは何故ですかって意味です』

『話し相手が欲しいからだ、決まってる』


 きっぱりと言い切られ、純樹は返す言葉を失ってしまった。


『この際、じっくりと僕の話を聞いて欲しいな。そうだ! ソバとマフィンの食い合わせについて、これから協議しようではないか』

『は?』

『うん、それがいい。美味いマフィンを売っている店を知っているし、美味いソバ屋も知っている。問題は解決に向かってるようだ』


 戸惑っている純樹を強引に立ち上がらせた老人は、有無を言わさず歩くようにと催促した。

 その時の純樹は、寝不足と空腹と寒さで朦朧として、老人に歯向かうほどの元気など無く、言われるがままにソバ屋にマフィンを持ち込むという暴挙に付き合わされた。

 それが大宝寺直太朗との出会いだった。


 数分間の時間旅行から戻ってみると、少女もまた何かを思い出しているような表情を浮かべていた。

 純樹に遅れること数秒、現実へと戻ってきた彼女は、ふぅと溜め息を吐きながらそのままベッドへと横倒しになった。


「ここで寝ていい?」

「別にいいけど……」

「ありがとう」


 静かにそう言った少女は淡淡とした声で更に続けた。たぶん、それは純樹へ話したのではなく、独り言の類なのだろう。


「先生がね、もしも自分に何かあったら、その時は頼むって仰ってたの。その時はわたしに何が出来るんだろうって思ったけど、あのマニュアルを見て分かったわ。きっと、あれを解読するのがわたしに託されたことなんだって」


 言いながら、少女はゆっくりと瞳を閉じる。本気で寝る気のようだ。


「君も先生が好きだったんだね」

「そうよ、あんなイイ人いない。それを、あのバカ男は……」


 まるで消えていくように、夢の中へと落ちていく少女。最初の印象とは違い、実に少女らしい寝顔に、純樹は微笑ましい気持ちになった。

 しかし、次の瞬間、あることを思い出し、慌てて彼女に声を掛けた。


「あ、あのさ、君、名前はなんて言ったっけ?」


 ほとんど意識が無くなっているらしい少女が、小さな声で返事をする。


「……ひより……」


 純樹はその名前を、心の中で何度も反芻した。

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