第11話 笹吉の逃走劇
2020年4月12日 14:45 神奈川・大宝寺邸
「早く、早く、早く、早く……」
肩で息をし、地団駄のように足踏みをし、右手に握る玄関ノッカーを激しく打ち鳴らしながら、純樹は何度も呟いていた。見ようによっては用を足したい情けない青年のようだが、本人はそれどころではない。
掌が汗で滲んでいる。焦りは募るばかりだ。再び玄関ドアを五度六度打ち鳴らしてみたが、誰かいるような気配は感じられなかった。
敷地内に入れば、奴らも追いかけては来ないだろうと思っていた。しかしあろうことか、立木の向こうから奴らがやって来るではないか。慌ててノッカーに取り付いて打ち鳴らした純樹だが、待てど暮らせど誰も出てこない。もうこれ以上無理だと判断した彼は、我慢しきれず走り出した。もちろん何か考えがあったわけではない。
ちなみに彼は知らなかったことだが、ちょうどその時、伝十郎は彼の直ぐ後ろにいた。しかし、その尋常ならざる純樹の様子に、チキンな執事は身を潜めて姿を現さなかった。
「裏の窓を割って入るしかないか」
言いながら、建物の角を左へと曲がる。残念ながら純樹に『表の窓を割ればイイじゃん』とか、『むしろ玄関は施錠されてないから、勝手に入ればイイじゃん』とか、そんな心の神様の横浜弁は聞こえては来なかった。彼の頭にあるのは、ただその場を離れるのみ。
だが、竹林をぬって建物の裏手に辿り着いた時、ようやく自分の失態に気がついた。
屋敷裏の一階部分には窓ガラスがない。
遙か頭上に、明り取り用の嵌め殺し窓はあるが、竹を登ってそこへ到達しようなどとは忍者でも考えないだろう。
結局は窓を割るなら、屋敷の表しかないというわけだ。
「つぅか、何でさっきそう考えなかったんだ、オレ?」
純樹は思わず頭を抱えた。
しかし失敗は成功の母とは良く言ったものだ。多少意味が違うかも知れないが、それはともかく。自分の失態に気付き、ようやく純樹にも冷静に考えようという余裕が生まれた。
「今来た道を戻ったら、捕まるよなぁ」
けれど建物の反対側へ抜けて、再び正面に出るとしても、二人いる奴らの片方が待ち伏せしていたら、これもアウトだった。
純樹は追っ手が来るであろう方向に目をやった。まだ彼らの姿は見えてこない。足音を聞こうと耳をひそめたが、サラサラと風に揺られる竹の葉達の声しか聞こえなかった。
実は純樹が知らぬことだが、伝十郎が庭にいたことが彼にとって幸いした。
つまり、こういうことだ。
純樹が思ったとおり、追っ手達は二手に分かれて彼を挟み撃ちにしようしていたのだ。しかし、一人が動きだそうとしたその時、涙目状態の伝十郎が転がるように屋敷内に入って行くのを目撃した。
このことが後々、とんでもなく重大な事態を引き起こし、空人に“チキン野郎どもの大失態”と罵られるのだが、純樹もそして伝十郎も今は知る由もない。とにかく彼らは純樹捕獲を諦めて、次なる作戦へと切り替えというわけだった。
純樹はというと、いつ現れるともしれぬ敵にビビりながらも辺りを見回した。
近くに隈笹の群生がある。身を隠すには十分すぎるほど葉が生い茂っていた。純樹は直ぐさま潜り込むようにその中に腹這いになった。
尖った葉に頬を突かれ、少々痛い。それに耐えながら、俺は笹だ俺は笹だと念じ、隈笹と一体になる。息を殺して待つこと数分。やがて足音が近付いてきた。葉のすき間からそっと覗くと、竹藪の向こうにスーツ姿がチラチラ見えた。
(頼む、オレを隠してくれたら、明日から笹山笹吉って改名するから助けてくれ!)
溺れる者は藁をも掴むとはいうが、正しくそんな心境だ。
やがて男達が直ぐ近くを通り過ぎていく気配。
(うわっ、来たよ)
目を瞑り、顔を笹枝に擦りつけ、息まで止めた純樹は、心臓音が聞こえてやしないかとそればかりが気になった。
そうしてひたすら耐え続けていた結果、南雲純樹は笹山笹吉と改名した。もとい、男達は竹藪の奥へと姿を消していった。
それから更に数分後、笹吉、いや便宜上改名はややこしくなるから純樹とするが、彼は建物正面へと戻ってきていた。
その手には拳大の庭石を握り締めている。目の前には窓がある。それらが意味することはただ一つだ。
窓の高さは約一メートル半。よじ登れないほどではない。あわよくばガラスの割れる音を聞いて、家の者が出てきてくれるかもしれない。
あれこれ悩みながら、純樹はガラスの一つに狙いを定めると、力任せに石を投げつけた。
だが期待に反して、ガラスには蜘蛛の巣のようなヒビが入っただけで、石はこちら側へと跳ね返されてしまった。どうやら防犯用フィルムが貼られているようだ。その上、凄まじい音がどこからともなく鳴り始める。
「やべっ! 防犯装置が付いてるの、忘れてた!」
しかし、このまま引き下がれるはずはない。
純樹は大きく深呼吸をすると、数発の正拳突きで窓ガラスを破壊した。警備会社への通報システムが起動していることは、どうやら忘れていたようだった。
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