十日目
【10月29日、土曜日】
その日も、いつもと同じようにリハビリは始まった。
決断したからといっても、日課は日課だ。当然それは、こなさなければならない。
「それでは、最初は歩行訓練からいきましょう」
その言葉に頷くと、須田はあらかじめ用意されていた平行棒の間に立つ。歩行訓練は、松葉杖を使わず、平行棒を握って歩きながら、徐々に足に負担をかけていく。もっとも、須田は今まで一回たりとも棒を放すことが出来ていなかった。
今日も、うんざりするような作業をこなすだけ。そのはずだったのだ。
だが、しかし、須田は訓練の開始位置に構えただけで、その『異変』を察知していた。
——違う。
足で床を支えるその感覚が、まるで違っていた。
今までは右足に、何の感覚も感じなかったのだ。それが今は、電気が流れるような、ピリッとした不思議な心地よさが、須田の右足全体を覆っているようだった。
「足をゆっくり、動かしてみてください」
理学療法士の掛け声を合図に、須田は右足を踏み出した。
「……え? 須田さん、いま……」
それは久しぶりの感覚だった。自らの意志で、動かすことが出来る。まるで他人の足を取り付けているようだったのに、今は確かに、そこにあるのが自分の足だということが判る。
須田は、恐る恐る平行棒を持った手を放す。
室内はその瞬間、ミュートボタンを押したテレビのように静まり返った。
何故なら、須田が立っていたからだ。平行棒を使わず、松葉杖を使わず、その両足でしっかりと、立っていたからだ。
「す、須田さん! 信じられない! 立っています——立っていますよ!」
瞬間、ワッと歓声が巻き起こった。途轍もない奇跡に、人々は目を見張る。
須田は、自分の身に起こっていることが信じられずに、しばらくの間茫然と立ち尽くしていた。
***
「エリー! エリー!」
リハビリを終えた須田は、大急ぎで屋上へとなだれ込む。当然、まだ松葉杖が要らないわけではなかった。しかし、このままリハビリを続ければ、足は完全に元に戻るだろう……それが担当医師の見立てだった。
須田には、その喜びを分かち合いたい存在がいた。
雲がかかった空のもと、貯水タンクの裏側へと一直線に向かう。
「エリー?」
そこにエリーはいた。
彼女の背中には、立派な翼が生えていた。力が、完全に戻ったのだ……しかし、須田はエリーの様子がどうもおかしいことに気がついた。
「おい。エリー、どうしたんだ。具合が悪いのか?」
「アキヒコ……」
エリーは、フェンスにもたれ掛かるようにして座っていた。目を惹いたのが、激しい動悸と、蒼白と形容するのがもっとも正しいだろう顔色。焦点が定まらない眼差しは、ここではないどこかを見ているような気がした。
「エリー……まさか……まさか、おまえ……!」
それはまさに、青天の霹靂だった。そのとき須田は気付いたのだ。
自分の足が良くなったことと、エリーが衰弱していること。そのふたつの事柄が、起こるべくして起きたのだ、ということに。
「ばれて……しまいましたか?」
エリーは、まるで悪戯がばれた幼児のように、ぺろりと舌を出してみせた。
「どうすればお前は良くなるんだ。早く言え!」
その言葉に、エリーは力なく首を振る。
「生命力の全てをアキヒコに捧げました。もう、ダメだと思うのです」
「ばかやろう……」
須田は、爪が食い込むのもお構いなしに拳を握りしめる。
「なんで、どうしてだよ。俺は諦めると言っただろう。エリーが犠牲になる必要なんて、ないはずだろう……!」
須田は、エリーの肩を抱こうと手を回した。しかし、その手は無情にも空を切る。
「——わたしは昔から、人間を眺めるのが大好きだったのです」
そんな須田を横目に、エリーは静かに語りだした。
「え……エリー?」
「夢にひたむきな人間たちを見るのが好きでした。そしてやがて、そんな人間たちの中でも一際強い輝きを放つ一人の人間に、エリーは、心を奪われていったのです」
何を……何を言っているんだ?
須田は、ただ黙ってその独白に耳を傾ける。
「その人間は、いつも一生懸命でした。真面目で、サッカーが上手で、ある日不幸な事故に遭ったときでさえ、決して夢を諦めませんでした。やがて、エリーは気付きました。その人のことを……愛しているのだと」
エリーは続ける。
「でも、神様の下僕であるわたしが、人間にそのような気持ちを抱くことは許されませんでした。神様は、罰としてわたしから翼をお奪いになったのです」
「ああ……エリー……」
真実を知った須田は、エリーが愛しくて仕方がなかった。叶うものなら、今すぐ両腕で抱き締めてやりたかった。
「嬉しいのです、アキヒコ。エリーを愛しく思ってくれるのですね」
微笑んだエリーの身体が、指先から光の粉となって舞い上がる。
「ああ……! 愛してる。エリー、お前を愛してる……!」
須田は叫んだ。その言葉がエリーに届くように、必死で叫んだ。やがてエリーの身体は、胴体から頭部、その全てが風に流されてゆく。
「あぁ……エリーも……人間なら……よかったなあ……」
その眼から一粒の涙が零れると同時に、エリーは消失した。光の粉が、須田の身体を包むように取り巻いている。
そのとき、須田は見た。
フェンスの外——町中に浮かぶ、凄まじい数の灯火を。
それはエリーの視界。その存在が消失するほんの一瞬の間、エリーと須田は視界を共有したのだ。
「夢の……灯火……」
須田は、いつか天使が言っていたその言葉を呟く。
世界には、こんなにも夢が満ちている——その美しい光景を見た須田は、時間も忘れて、ただ見惚れていた。
やがて、降り出した雨が須田の身体を打ち付ける。
それでも彼は微動だにせず、ずっとその場に立ち尽くしていた。
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