九日目

 【10月28日、金曜日】




 その日も、曇り空は続いていた。天気予報によると、週末は雨が続くらしかった。

 須田は通路に備え付けられた自販機でミネラルウォーターを買うと、中庭のベンチに腰掛けた。ひと口飲むと、乾いた喉が潤いを帯びていく。


「明彦!」


 そのときだった。

 背後からかけられた声に頭を振ると、スーツ姿の男が、焦ったふうにやってくるのが見えた。


「賢司。どうしたんだ、そんなに慌てて」


「やっぱり、知らなかったのか。これを見ろ」


 杉村は、手に持っていた新聞紙の束を須田によこした。それは、よく名前を耳にする大手のスポーツ新聞だ。


 その一面を見て、須田は自分の目を疑った。


          『千年に一度の天才、契約解除か』

 

 ——でかでかと表示されたその文字の脇には、須田明彦の名前が記されている。


「なんだよ、これ……」


 事故に遭ったその日から、スポーツ新聞は見ないようにしていた。須田のそうした習慣を承知していた杉村は、これを報せるためにやってきたのだ。


「最初はいつものゴシップ記事かと思ったけどな。どうも信憑性が高いらしい。サポーターの間でも大騒ぎだ」


 須田は、身体から力が抜けていくのを感じていた。

 珍しいことではなかった。弱肉強食のサッカー界……戦力としてみなされなくなった者は、淘汰されていく。今まで須田も、そういった選手を何度も見てきた。

 そう……これは自分の番が回ってきた。それだけに過ぎないのだ。


「明彦……」


 杉村は青ざめた面で、新聞を掴んだままの須田に語りかける。


「なあ……うちの社長にお前のことを話したらさ、是非会いたいって言うんだ」


「え——」


「もういいんじゃないか。サッカー以外の人生もあるんだ。もう俺は、お前の苦しんでる姿なんて、見たくないんだよ」


「……」


「小さな会社だけど、最近は業績もいいんだ。脚が動かなくたって、デスクワークならなんとかなるさ。なぁ、どうだ」


「お、俺は……」


 実を云うと、全く考えたことがないわけではなかった。誰しもが夢で食っていけることなど、ないのだから。サッカーとは違う、別の人生——須田の脳裏に、エリーの笑顔が思い浮かぶ。


「考えておいてくれ」


 言葉に詰まった須田に背を向けて、杉村は去っていった。




 ***




 須田は決心して、屋上へ続くドアを開く。

 それでもこの場所を訪れたのは、どうしても言っておかなければならない、と思ったからだった。


「あら、アキヒコ。最近は暗いですねえ」


 その言葉が、自分を指しているのか、徐々に降りつつある夜の帳を指しているのか、須田には分からなかった。返事をすることなく、須田はあらかじめ用意していた句を詠んだ。


「俺、サッカーを諦めることにしたんだ」


 エリーは目を丸くした。それも当然のことだろう、顔を合わせた途端のこれなのだから。


「新しい門出、ってやつでさ。友達の会社に就職することになりそうなんだ。デスクワークだと、足が動かなくても何とかなるから」


「おめでとう。アキヒコ」


 精一杯の笑顔で喋る須田に、エリーは優しく笑いかける。


「実は、わたしもお知らせすることがあるのです」


「エリーも?」


「はい。力の大部分が回復しました。もうじきに、翼の修復が完了するのです」


「そうなのか! やったじゃないか。神様に許してもらえるといいな」


「ありがとう、アキヒコ」


 それが別れを意味するということは、勿論須田も理解している。嬉しく思う反面、どうにも胸を刺す気持ちがあった。しかし、それを表に出すわけにはいかなかったのだ。


「でも、アキヒコはそれでいいのですか? サッカーのために、今まで頑張ってきたのに」


「ああ、いいんだ。これで。もう愛想が尽きたんだよ。サッカーにも、その世界にもな」


 いつもの音楽が鳴るのを確認すると、須田は身を翻した。


「それじゃ。明日はお別れ会だな」


 ええ、とエリーは相槌をうって、もう何度もそうしたように、須田の背中を見送る。


「アキヒコは、嘘が下手ですね」


 誰もいない屋上に、エリーはぽそりと呟いた。

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