八日目

 【10月27日、木曜日】




 一週間が経った。


 須田はリハビリの合間を縫って、屋上の一角にある、貯水タンクの裏に通うようになっていた。

 彼の安寧の時間は、空を眺めることから一転、エリーと他愛ない会話を交わすことにいつの間にか変わっていた。


「お疲れ様です」


 理学療法士にお辞儀をし、リハビリテーションセンターを出る。今日も変わらず、脚は動かないままだ。ため息をひとつ吐いて、屋上へと歩き出す。


「明彦。いま終わったところか?」


 そのとき、背後から男の声に呼び止められて、須田は後ろを振り返る。


「賢司……」


 するとそこには、スーツ姿の男が立っていた。


 杉村賢司。高校の同級生であり、無二の親友だ。卒業後、地元の印刷会社に就職した彼は、友人であると同時に、選手としての須田を応援するサポーターでもあったのだ。杉村は、たまにこうして見舞いに来ることがあった。


 二人は、一旦病室に向かった。須田は、シーツが替えられたばかりのベッドに腰かける。ドアを閉めた杉村は、来客用のパイプ椅子を引っ張り出した。


「悪いな。いつも来てもらって」


「いや、いいさ……どうだ。脚の調子は」


「なかなか良いよ。今日は理学療法士に褒められたんだ。小指が五ミリ動いたって」


「……そうか」


 杉村は、少し考え込んだあと、毅然とした表情で須田の目を見据えた。


「明彦。おまえ、あまり思いつめるなよ。いいじゃないか、ゆっくりで。少しずつ治していけばいいんだよ」


 須田は、その心を見透かすような目に、少なからず動揺を見せた。窓の外に目を移し、両の手で感覚のないふくらはぎを掴む。


「分かってる。分かってるさ、そんなことは……」


 杉村は、手持ちの黒い革製の鞄を開き、おもむろに中から何かを取り出した。テーブルに置くと、須田にはそれが何かよく分かった。


「色紙?」


「ああ。サポーターの皆が、お前に届けてくれってさ。皆、待ってるんだ。ヒーローが帰ってくるのを。……読んどいてやってくれ」


「ありがとう、賢司」


「どういたしまして。実はな、今日はこれを渡すために来たんだ。仕事があるからもう帰るよ」


 そう言うと杉村は、パイプ椅子を畳んで壁に立てかけた。じゃあな、と呟いて、病室のドアを開ける。


「ああ、またな」


 須田の返答に杉村が手を挙げて返すと、病室のドアは音も立てずに閉じられた。後には、静寂だけが取り残されている。


 須田は、テーブルの上に残された色紙を手に取ると、放射状に綴られた文章に視線を走らせた。


 サポーターからの、嘘偽りない純粋な応援の言葉……。それを眺めていると、次第に吐き気がこみ上げてくる。

 なぜなのかは分からなかった。ただ、その寄せ書きを見ていると、嬉しい反面、胸の奥を締め付けられるように苦しかったのだ。

 色紙をそっと裏返しにしてテーブルに置くと、須田は松葉杖を掴み、病室の外へ出た。


「遅かったじゃないですか、アキヒコ」


 貯水タンクの裏で、むくれ顔をしたエリーが須田を出迎えた。


「悪いな、友達が来てたんだ」


「……アキヒコ?」


 弁解をした須田の顔色が少しばかり悪いのを、エリーは敏感に感じ取った。俯き気味のその顔を、下から覗き込む。


「どうしたのです」


「まだ話してなかったよな。俺の……脚のこと」


「脚?」


「ああ」


 なぜ、エリーにそんなことを話そうと思ったのかは分からない。けれど言葉は、堰を切ったように溢れ出した。


 サッカーのこと。


 事故のこと。


 リハビリを繰り返す、毎日のこと。


 須田は気付けば、自分の内情を包み隠さずエリーに打ち明けていた。

 あるいは、本当はずっと前から話したくて仕方がなかったのかもしれない。

 エリーは、須田の話をただ黙って聞いていた。


「ごめんな。いきなり面白くもない話を聞かせて」


 話を終えたとき、暁の空は灰色の雲に覆われていた。一陣の風が、向かい合った二人の頬を撫でる。


「……わたしはね、アキヒコ。人間が羨ましくて、仕方がないのです」


「……え?」


 須田は思わず聞き返していた。エリーの口から出たその言葉の意味が、よく分からなかったのだ。


「人間は、夢を見ますよね」


 そんな須田に向けて諭すように、エリーは話を続ける。


「生き物の中で唯一、夢を思い描き、その夢を叶えるために、一生を尽くします。それは、とっても美しいことだと、エリーは思うのです」


「夢……」


「はい、夢です。エリーは、神の下僕です。それ以上でも以下でもありません。だからこそ……脚が動かなくなってもなお夢を見る貴方を、美しいと思うのです」


 須田は、そう言った天使の眼を、いつになく真剣な面持ちを、ただ見つめていた。それは決して、軽薄なその場しのぎの慰めなどではない。エリーは本当に、心の底からそう思っているのだと彼は確信をもっていた。


 と、屋上に音楽が轟く。五時の合図だ。


「あらら。もうお別れの時間なのですね」


 エリーは名残惜しそうに、音を鳴らすスピーカーを一瞥した。


「ありがとうな。エリー」


 須田はそう呟くと、急いで出入り口へと向かう。

 エリーはその背中が見えなくなるまで、ずっと、ずっと見つめていた。

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