ある日、空から天使が落ちてきて

鞍馬 楽

初日

 【10月20日、木曜日】




 神様なんていない。

 奇跡なんて、起こらない。

 彼にとって、それがこの世界の常識だ。


「須田さん、今日はこのぐらいにしておきましょう。だいぶ歩けるようになってきたじゃないですか。明日にはきっと、もっと——」


 隣で、理学療法士がいつもと同じ言葉を紡ぐ。


「ありがとうございます。また明日」


 それに空返事で返すと、彼——須田明彦は松葉杖をつきながら、もう別荘同然に思えるほどとなったリハビリテーションセンターの出入り口をくぐった。


 こうしてリハビリを続けて、もう一年になる。

 須田にとってそれは、毎日の日課であり、義務であり、そして最大の苦痛でもあった。

 またサッカーをやれる……そう信じてリハビリを重ねても、一向に良くなる気配はない。賽の河原で、延々と終わる事の無い石積みをしている……ときにはそんな気分にもなった。



 須田が選手として頭角を現したのは、高校三年のときだった。チームのエースストライカーとして活躍を認められた須田は、卒業と同時に国内リーグで一、二を争う強豪チームとプロ契約を交わす。


 その勢いは、まさに圧巻だった。


 千年に一度の天才——各チームのベテラン選手は、口を揃えて彼をそう呼んだ。自慢の脚力、天性の得点感覚を活かし、須田はゴールを量産する。


 やがて須田は、十九という若さで日本代表に選ばれた。

 本人も意識しないうちに、いつの間にかその将来を渇望される存在になっていた。


 そんなとき、事は起きたのだ。


 自宅前の路上で、須田は信号を無視して走行してきた車に撥ねられた。

 幸い命を脅かされることはなかった。……しかし、後遺症として、須田の右足は太腿から足首、その指先に至るまで全体が麻痺し、動かなくなってしまった。


 例え自由に動かせられるほど回復したとしても、もうトップレベルに戻ることはないだろう……それが、専門家の出した結論だ。


 世間は残酷なものだった。

 最初こそ哀しまれ、嘆かれる。しかし、時が経つにつれ、人々は須田に関心を抱かなくなった。


 次に現れたスターに目移りする。それは、ある意味至極当然の流れである。一体、脚が動かなくなったサッカー選手に、どれほどの価値があるというのだろう。


 この状況から脱却し、再び返り咲くには、脚を完全に治すしかない。その頃には、自分は何歳になっているのだろう、と彼は思う。いや——そもそも、本当に元通りになるかだって分からないのだ。



 ふっ、と自虐的な笑みを浮かべ、須田は最上階で停まったエレベーターを降りた。脇にある階段を上り、大きなスライド式のドアを開けると、暁に染まった空と広々とした空間が見えた。


 須田が入院しているこの病院は、夜間以外は屋上を一般開放している。

 外に出ることを禁じられた患者が気を病まないようにと施された措置である。しかしながら風が肌に冷たくなってきた昨今、須田以外の患者は居ないようだ。


 彼はこの場所が好きだった。

 今もボールを蹴っているだろう、かつてのチームメイトたちと同じ空の下に居られる、この場所が好きだった。


 石を積み上げる毎日の中で、ここで空を見つめることだけが……須田にとって、心に安寧をもたらす唯一の手段だったのだ。


 三メートル近くの高さにそびえ立つ、網状のフェンスにまで歩く。

 下を見ると、人々が、車が、木々が、途轍もなくちっぽけに見えた。

 もしもここから身を投げたら……一瞬で、逝けるのだろうか。


「あの……そこ、危ないですよ?」


 そんな物騒なことを考えた須田の耳に、鈴が鳴るような声が届く。

 反射的に左方——声のしたほうを向くと、思いもよらない光景がそこにはあった。

 貯水タンクに隠れるようにして、女の子が座っていた。


 肩まで届く薄桃色の髪に、エメラルドグリーンの瞳。身体に純白の布をぐるりと巻いただけの、単純な恰好——そして何より印象的なのが、人形のように愛らしい相貌だ。それはある種、異様なまでの存在感、高潔なヴェールを纏っているようにさえ感じる。


 普通じゃない、と須田は思った。この中世ヨーロッパの絵画にでも出てきそうな恰好が、昨今の渋谷のトレンドだとはどうも思えなかったからだ。


「君は……ここの患者?」


「いいえ、違います。エリーは天使なのですよ」


 須田が恐る恐る尋ねると、思いがけずはきはきとした口調で少女は言う。どうやら、エリーという名前のようだ。


「はあ。天使だって?」


「はい。今、空から落ちてきました。エリーが悪い子でしたので、神様を怒らせてしまったのです。翼を失ってしまって、途方に暮れている最中なのですよ」


 ……どうも要領を得ない。

 ははあ、これは面倒なやつに当たったな……と、須田は一人で納得した。とはいえ、この寒空の下にこの恰好では寒いだろう。放っておいて風邪をひかれても寝覚めが悪い。


「ちょっと待ってな。誰か呼んでくるから」


 須田は身を翻すと、ちょうど干していたシーツを回収している看護婦に声をかけた。

 精神科の患者が、こっそり抜け出してこんなところに来ているぞ。

 その言葉は彼女を動かすには十分だった。須田は急ぎ足で、看護婦を貯水タンクの影に案内する。


「ほら、ここに」


 天使のエリーは依然、目を丸くしてそこに座っている。きょとんとした緊張感のない表情から察するに、どうもマイペースな子のようだ。

 しかし次の瞬間、須田が聞いたのは、耳を疑いたくなるような言葉だった。


「……あのねぇ須田さん。こういう悪戯はよしてくださいよ」


「え?」


「誰もいないじゃないですか。今日も仕事がたんまりとあるんですから、邪魔してもらっては困ります。それとも、精神科の受診が必要ですか」


「い、いや……すみませんでした」


 面食らったはずみで、謝罪の言葉が口を滑り出る。

 まったくもう、と肩を怒らせながら、看護婦はシーツの回収に戻った。

 須田は、開けっ放しになった口を閉じられないまま、恐る恐るエリーのほうに目を向ける。

 目が合うと、にこっと笑って、彼女は言った。


「言ったでしょう。エリーは、天使なのですよ」




 ***




 それから、須田はエリーと腰を据えて話をした。

 色んなことが分かった。天使は、人間には見えない存在であること。

 天界と呼ばれる場所で、神のために働いているのだということ。


 そしてエリーは、その神を怒らせてしまい、翼をもがれてしまったのだ……ということ。

 信じがたい話ではあった。しかし、先の看護婦の件に加え、触れようとしても、まるで3D映像のようにすり抜けてしまうその体を目の当たりにしてしまうと、否定するにも無理があるのだ。


「だいたい事情は分かったよ。……まだ半信半疑だけど、信じるしかないもんな」


「そうですか! それは、喜ばしいことです」


 エリーは、両の掌をぱんっと合わせて笑みを弾けさせた。そういう仕草は、まるで子供だ。


「名前は、エリー……でいいのか」


「はい。わたしはエリーといいます。あなたは?」


「須田明彦。見ての通り、脚の怪我で入院してる」


「スダアキヒコ? 人間の名前は、長いのですね」


「……明彦、でいいよ」


 苗字のことを説明するのも億劫だったので、須田は適当に話を変えた。


「でも、神様を怒らせちまうなんて、いったい何をしたんだ?」


「それは……秘密です」


「なんだよ、それ」


 須田がそう尋ねたのは、純粋な好奇心からだ。けれどエリーは自らの失態を暴露するのが恥ずかしいのか、唇を尖らせてそっぽを向いた。


「まぁ、言いたくないのなら構わないさ。それでエリーは、これからどうするんだ。翼がないと空に帰れないんだろう?」


「そのことなら、お構いなく。これは、そのうち元通りになるでしょうから」


「そうなのか」


「ええ。わたしたちの力の源は、夢です。人間が夢を思い描くときに生まれるエネルギーが、夢の灯火となって、わたしに力を与えてくれるのです」


「夢の灯火……?」


 何故か強く惹かれるものがあり、意味もなく、須田はその言葉を反芻する。


「ここは良い場所です。エネルギーが、満ち溢れているのです。ここなら、しばらくじっとしていれば翼は回復すると思います。あ、でも……」


 黙って説明を聞いていた須田に、エリーは白磁の頬をさっと火照らせて、申し訳なさそうに言った。


「ときどき、お話に来てくれると助かります。その、一人は……寂しいので」


「……ああ、いいよ」


「本当ですか!」


 須田が頷いた途端、エリーは笑顔を咲かせる。そのころころと変化する表情に心臓が鼓動を速めたのは、勿論偶然ではなかったはずだろう。


 彼がエリーの要望に応えるのは、その胸の内に芽生えた、仄かな想いが影響していたことは確かだ。しかしそれ以上に、須田は目の前の少女を、翼を失くした天使を、無意識的に自分の姿と重ねていたのである。


 そのとき、屋上の出入り口に備え付けられたスピーカーが、音楽を掻き鳴らした。五時の合図だった。


「——っと。中に入らないと」


 屋上が解放されるのは、朝十時から夕方五時までの間だ。それ以外の時間帯は、原則として出入り口に鍵をかけられてしまう。


「わたしのことはお気になさらずに。大丈夫ですから」


 須田がちらりと視線を向けたのを知ってか知らずか、エリーはえへんと胸を張る。


「でも寒くないのか? その、そんな恰好で……」


「天使は寒さなど感じないのですよ。エネルギーの仕組みが、ヒトとは違うので。食事も要りません」


「ふうん。便利なもんだな」


 それなら大丈夫か、と須田は出入り口に向かって松葉杖を繰った。


「明日、また来てくださいね。絶対ですよ、アキヒコ」


「リハビリが終わったらな」


 背中にかけられた声にふっと笑って、屋内への階段を下る。

 彼が気付くことはなかったが、その足取りは、先刻上ったときよりもずっと、ずっと軽かった。

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