最終日
【10月29日、日曜日】
その日の空は、どこまでも高く透き通ったようにみえた。
白い雲をなびかせる飛行機。優雅に羽ばたく、名も知らない鳥。空き地で缶を蹴り飛ばす、子どもたち……幾つもの音が、混ざり合っては消えていく。
駅前には、小さな個人経営の花屋があった。その軒下に、ブラウンのビートルが停まっている。
杉村は、喧騒に耳を傾けるのにも飽きて、短くなってしまった煙草をもみ消した。
「おーい、明彦。いい加減にしないと遅刻するぞ」
運転席から顔を出した杉村は、少しだけだと言ったのに、もう十分も悩み続けている親友に向かって忠告をとばす。
「分かってるよ。あ、これ一輪ください」
購入した花を大事そうに抱えながら、須田はビートルの助手席に座る。
「綺麗な花だな」
「ああ。『
笑みをこらえきれないようで、須田は口元を綻ばせながら答える。
その割には幾分哀しそうにみえるのを杉村は訝しく思ったが、突っ込むのは止めておいた。
昔、クラスメイトの女の子に告白して見事に砕け散ったとき、ちょうどそんな表情をしていたことを思い出したからだ。
「喜んでくれるといいな。お前の恩人とやらの……エリーさんだったか」
「……おう」
そんな短い会話のあと、ビートルは目的地に向かって走り出した。
月日は流れ、あれから、一年が経過していた。エリーが消失した翌日から、一日の殆どをリハビリに費やすようになった須田は、周囲のサポートもあって、みるみるうちに回復していった。
そして三月のリーグ開幕戦に間に合った須田は、少しのブランクも感じさせることなく先発で出場。見事その試合でゴールを奪い、天才の復活劇を演じてみせたのだ。
その後も、須田の勢いは止まらなかった。シーズンを通して大活躍した彼の功績は大きく、所属クラブは優勝。メディアは、再起不能と謳われた大怪我を乗り越えて、異例の復活を遂げた須田をこぞって取り上げた。
そして今、須田は友の杉村と共に、優勝記念パーティーの会場に向かっている。ただその前に、須田には寄り道しなければならない場所があった。
「よし、着いたぞ明彦。あまり時間はないからな」
サイドブレーキを引くと、シフトレバーをパーキングに合わせる。杉村は二本目の煙草に火を点けた。
「ああ——ありがとう、賢司」
車を降りながらかけられた礼の言葉に、杉村は何も言葉を返さなかった。ただ口角を上げ、煙草の煙がこもらないよう窓を開けた。それだけで充分だった。
ビートルを降りた須田は、真っ直ぐ歩き出した。彼を、懐かしい景色が出迎える。
毎日通ったリハビリテーションセンター、渡り廊下に、中庭の噴水……そして。
須田は最上階で停まったエレベーターを降りた。脇にある階段を上り、大きなスライド式のドアを開けると、暁に染まった空に、広々とした空間が見える。
その奥——でかでかとそびえ立った貯水タンクの裏側へと、須田は一直線に歩み寄る。
「エリー、どうかな。お前の髪の色と、そっくりだろう」
須田は先程調達した紫苑の花を、網目状のフェンスにそっと差し込んだ。こうしていると、今もそこに……翼を失くした天使がいるような気がするから、不思議だった。
ある日、空から天使が落ちてきて、とある青年の運命はがらりと変わってしまった。
”人間は、夢を見る生き物だ”
とある天使がそう言った。そんな人間がたまらなく美しいと、そんな人間が羨ましいと、そう言った。
須田は誓う。ならば自分は、夢が尽きぬ限り、足掻いて足掻いて……足掻いてみせよう、と。いつまでも、彼女にとって美しいとされるような、そんな存在であるために、この空に誓うのである。
須田は身を翻すと、右足で強く地面を蹴った。
フェンスに差した紫苑の花が、その背中をずっと、ずっと見つめていた。
***
追記。
同時刻のこと。
その病院で、とある若夫婦に、待望の第一子が誕生した。
その赤ん坊はとても美しく、世にも珍しい薄桃色の髪の毛と、エメラルドグリーンの瞳を持っていたという。
「この子の名前、どうしようか」
父親は、赤子を抱いた母親に問う。
「——実はね、たった今、思いついた名前があるの」
特に考える様子もなく、母親は幸せをその笑顔に乗せて、はっきりと言った。
「『絵里』なんて、どうかしら」
〈了〉
ある日、空から天使が落ちてきて 鞍馬 楽 @kurama_raku
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