第5話 消しゴムを拾わせろ! ④
――私が目を離した一時。
藤堂彩芽の机には唐草史郎のノートが存在していて、藤堂彩芽は教師の問いかけに何とか答え、その様子を見た教師は「唐草に感謝しろよ」と言った。
全てを、理解した。
唐草史郎は――問題に答えられない藤堂彩芽を見越してノートを藤堂彩芽に渡したのだ。いくんよ日露戦争と書かれていた、そのノートを。
しかも、それだけではない。
藤堂彩芽は、自身のノートだけではなく唐草史郎のノートにも何かを書いていた。ここまでの一連の流れが全て作戦通りだとしたら、唐草史郎のノートに書かれているであろう内容が間違いなく重要であることが容易に想像できる――!
「ノートかしてくれてありがとう助かっちゃったありがとうついでに床に落ちてる消しゴム拾ってくれない?」
勢いで書いた文章にしては綺麗な字で書かれていた。句点読点お構いなしのとっちらかった文章ではあるが、それでも唐草史郎にちゃんと通じる文章になっている。
私は藤堂彩芽の手腕に感動している。
彼女の誘惑に全く反応しない朴念仁に対してどう仕掛けるかと思っていたら、まさかこんな方法を使ってミッション遂行に向けて動くとは。確かにただ単純に唐草史郎に触れて喋ろうとしたところでそれが成功する保証はない。何よりも、唐草史郎に伝えようとする間、教師に対する注意を全く向けることがないであろう唐草史郎がずっと横を向くことになる。
――藤堂彩芽は注意を払っていた。
壇上で日本史について語る教師の視線に注意を払い、きちんと確認した上で唐草史郎を誘惑していた。
そうか。
藤堂彩芽はその技術を――逆手に取ってみせたのだ。
思わず私はかけ布団の中でガッツポーズをする。ここまでの流れは完璧であった。この方法ならば、教師に気づかれることなく確実に唐草史郎への頼み事が伝わり、唐草史郎が消しゴムを取り、ミッションをコンプリートすることが出来るのだ。
「……あれ?」
そういえば。
何故、唐草史郎は藤堂彩芽に対してノートを貸したのだろう。
何故、教師は唐草史郎が藤堂彩芽に対してノートを見せたことに対して何のお咎めも出さなかったのだろう。
何故、クラス内の生徒が、穏やかな笑顔で唐草史郎を眺めているのだろう。
もしかして、私は何か勘違いをしているのではないだろうか。
唐草史郎は無口故に友達がいない。だから教室では腫物扱いされ、教師からは厄介な生徒であると思われていると考えていた。
けれども、これは。
この様子は、違う。
こんな教室の風景は、常にこのような良い行いをしている人間でなければ作り出すことが出来ないものだ。
もしかして。
私は、何か勘違いをしているのでは――
「…………」唐草史郎が。「…………」真顔で、藤堂彩芽から返してもらった自身のノートに書かれた内容を読みふけっている。「…………」唐草史郎は顔を上げ、藤堂彩芽の方に向ける。「…………」床を見た。藤堂彩芽が落とした、藤堂彩芽の能力発動のきっかけである消しゴムを見る。「…………」唐草史郎が、動き出した。
その動きは間違いなく落ちている消しゴムを拾おうとするそれであり。
藤堂彩芽がニヤリと笑い、私は慌てた頭を冷やす努力をする。
ようやく、この段階に来た。
そうだよ、何も深く考えることはない。例え唐草史郎のプロファイリングが間違っていたとしても、それはこのミッション内で重要なものだ。このミッションが終われば最後、唐草史郎には用はなく、そこで全てが終わるのだ。
そう。
全てが終わる。
唐草史郎の手が、消しゴムを拾おうと地面に向かい始める。
再び流れる時間がスローに感じ始めた。私は止まらない心臓の音を感じながら、小型テレビに映し出されたその一瞬一瞬を目に焼き付けるが如く必死になって凝視する。息が荒げる。そのことに気づかないまま、私は唐草史郎の一挙一動の虜になった。
終わる。
ミッションが、終わる――!
「ったく鬱陶しいなあお前。唐草の邪魔すんなよ」
突然。
声が聞こえた。
誰のものかわからない声が私の思考を途切れさすと同時に、小型テレビに信じられない光景が映し出される。
――男子生徒が。
藤堂彩芽の席と唐草史郎の席の間に鎮座している。
「さっきから黙って見てりゃあ何が何でも唐草に消しゴムを拾わせようとしやがって。なあ藤堂。唐草はお前と違って授業を真剣に受けてんだよ。そんな唐草の邪魔をするなら――俺が許さねえ」
この男子生徒が元々どこに居た人物なのかを断定することが出来た。
藤堂彩芽の左隣の席が空いている。
唐草史郎の左隣の席である藤堂彩芽の左隣の席が空いている。
そこに座っていたのは、男子生徒であった。
――私は先日の私の能力が役に立った場面を思い返す。
あの時私は、私を含めた能力者五人が唐草史郎の周りに座れるような位置に配置した。
つまり、唐草史郎の周りには三組の女子全十五人中六人の女子が配置されることになる。
これ以上の女子を唐草史郎の周りに配置することは流石に不自然であろうと考え、能力者達の周りを男子で固めた。
当時の私はそれでも何の問題もないと考えていた。
無口故、友達がいない。
こんな唐草史郎の二つ左隣に男子がいたところで、何も起きないであろうと軽く考えていたから。
でも。
こうして失敗してしまい、もうこの失敗は取り返しのつかないものになってしまっている。
その男子は。
床に落ちている消しゴムに素早く手を伸ばし、難なく拾った。
――瞬間、能力が発動する。
『教室の床に落ちた消しゴムを拾った隣の席の人物を自分に惚れさせる能力』。
条件は、全て満たしている。
男子の表情が先ほどまでのそれとは一変する。顔を真っ赤にし、ぶっきらぼうに「ほらよ」と藤堂彩芽の席に置き、そそくさと自分の席に戻る。教師は板書をしていて気付かなかったようである。だから、何のお咎めもなく男子は自身の席に戻る。
どうしようもない罪悪感と無力感で、絶望する私。
残ったのは。
無用の長物と化した消しゴムを俯きながら見つめる藤堂彩芽の姿と。
一生懸命板書の内容をノートに写している唐草史郎の姿だけであった。
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