第41話  第六巻 決意の徒 談合

 静岡の老舗旅館・岡崎家の鳳凰の間で、森岡は総本山の総務藤井清堂との面談に及んでいた。次期法主が内定している清堂との会談は、実質上これが二度目であった。

 執事の景山律堂は、宗務院に対して総務清堂が下山する理由を静岡にある三大本山の貫主たちとの懇親会と届け出た。宗務院内に栄覚門主の息の掛かった者がいる疑いがあることから、森岡が景山に指示していたのである。

 次期法主が内定している総務清堂が、総本山を補佐する役目を担っている静岡の三大本山の貫主たちと親睦を図ることに違和感は無いという訳であった。

 懇親会とした理由にはもう一つ意味合いがあった。

 この会談に大本山国真寺の作野貫主を引っ張り出すためである。つまり、大真寺と法真寺の貫主たちは隠れ蓑だった。

 作野貫主の同席は森岡の強い要望だった。事情を知った作野は、因縁のある森岡の招きとあって当初は難色を示していたが、華の坊での兄弟子である総務清堂の説得に不承不承応じたのだった。  

 森岡は約束の時間の二時間前に到着していた。

 随行しているのは蒲生亮太と足立統万の二人である。蒲生亮太は警察庁の元SP、つまり要人警護の任に当たっていたが、小指を怪我してしまいSPから外されてしまった。それを機に警察庁を辞したのだが、その際探偵の伊能剛史の仲介で森岡の護衛役兼任の秘書となった。

 足立統万は、森岡の祖父洋吾郎の義弟である足立万吉の孫である。森岡とは再従兄弟(またいとこ)に当たる。今夏、森岡が久々に浜浦へ帰省した折、万吉直々に薫陶を依頼された。

 この二人の他に、神栄会の若頭補佐の九頭目弘毅と若衆三人が影警護として密かに付き従っている。九頭目弘毅は野島真一の高校時代の友人でもあった。

 むろん、鳳凰の棟と一番近い棟に控えていて事が起こらない限り姿を現すことはない。

 森岡が二時間も前に部屋に入ったのには理由があった。

 ほどなくして置屋鈴邑の女将と小梅が挨拶にやって来た。

 森岡は、総本山の材木伐採権に絡んだ神隠し事件の余波で、苦衷に喘いでいた小梅の父親に六千万円を融資していた。

「その後、親父さんはどうかな」

「森岡さんのお蔭で、今は商売第一に励んでいるようです」

「それは良かった」

 森岡は自分のことのように喜んだ。

「お借りしているお金は、少しずつでも必ずお返し致します」

 小梅は神妙な顔つきで言った。

「いや、お金は返済しなくても良いよ」

「え?」

「枕木山の材木を貰い受けることにした」

「しかし、その件はケチが付いているのですよ」

 女将が、大丈夫なのかという顔をした。

 森岡は、過去の神隠し事件も含めて事の顛末を話した。といっても、首謀者が瑞真寺の門主だとは明らかにしなかった。総本山のさる寺院としたうえで、他言無用も確認した。

「ですが、お話ではいつになれば伐採できるかも不明ですし、そもそも森岡さんにとっては無用の長物でしょう」

 小梅が気を遣った。

「それがそうでもない。詳細は言えないが、材木は俺にとっても必要なのだ」

「でも……」

 それでも、小梅は得心しなかった。森岡が神村の法主就任のために材木を必要としていることなど露とも知らない彼女は、どうしてもIT企業家と材木とが結び付かず、自分に対する心遣いなのだと思い詰めているのである。

「やはり、ご返済します」

 小梅は力強く宣言した。

「わかった。じゃあ、君の好きにしたら良いけど、決して無理はしないようにね」

 そう言った後、

「材木が無駄にならないのは嘘ではないし、どうしても駄目なときは、俺が身請けすれば良いのだからな」

「え?」

 小梅と女将が揃って声を上げた。

 森岡が本気で言っているのか、冗談なのかがわからない。

「俺が言いたいのは、返済のために無理をして身体を壊したり、気の進まない男を相手にして身を持ち崩したりしないで欲しいということや。そうであれば、俺が面倒を看る」

「有難うございます」

 小梅は感極まった声で言った。森岡の優しい心遣いが身に染みたのである。

 

 二人が帰って三十分ほど経った頃、清堂一行が入室して来た。

 ルームサービスで注文したコーヒーが運ばれた後、仲居が部屋を出て行ったのを確認して森岡が口を開いた。

「総務さん、お久しぶりです。宝物の件ではお世話になりました。また、本日はお忙しい中を時間を頂き恐縮です」

「何の、宝物の件は全て君が段取りしたものだ。わしは形式上会っただけじゃ」

 清堂は首を横に振った。

「ところで、景山によると此度は何やら面白い話があるようだの」

 清堂は、瑞真寺あるいは門主という言葉を避けた。

「総務さんの御懸念解消の手立ての一つ、いや切り札になるかもしれません」

「わしの懸念とな?」

「かの寺の主が何やら画策しているようで」

 惚ける清堂に、森岡も斜に構えた物言いをした。

 ほう、と清堂の口元が緩んだ。

「そこまで存じているのか」

「私が申し上げました」

 景山が恐縮して言った。

「君が、か。わしの懸念が良くわかったの」

「かの寺の使いの訪問が有った頃より、総務さんの苦悩が垣間見られるようになりました。そして、あの折の岡崎家(ここ)でのお言葉です。法主就任に障のない総務さんが、森岡さんに協力を求められることと言えば、一つだけと推量致しました」

「さすがじゃ。わしの見込んだとおりだの」

 清堂は景山に満足の笑みを送ると、森岡に視線を移した。

「それで、その話とはこの作野貫主と関わりがあることかの」

「御賢察のとおりです」

「いったい、何のことですか。総務さんの御懸念とか、その解消に私が関わりがあるとか」

 作野は不満顔で嘯いた。

「作野、その態度は何じゃ」

 と、清堂が叱責した。

 一見したところは柔和な物腰だが、さすがに次期法主が内定している男である。怒声には威圧感がある。

「まあ、お持ち下さい」

 森岡が清堂を諫めるように言った。

「今からお話しすることは、作野貫主、いや国真寺の長年の苦衷を解消することでもあります」

「な、なに」

「国真寺の苦衷だと」

 作野と総務清堂が揃って声を上げた。 

「まさか、御本尊の件ですか」

 景山が推量した。

「国真寺の御本尊というと、以前問題になった件か」

 総務清堂の問いに、はいと森岡が答えた。

 作野貫主は、国真寺の御本尊が宗祖栄真大聖人が手ずから彫った最古の釈迦立像だと主張していたが、その一方で開帳は頑なに拒んでいた。松江高校の後輩である相良浄光からその話を聞いた森岡は、彼が虚言を弄していると糾弾したことがあった。

「何をいまさら、また蒸し返すつもりなのか」

 作野が恨みがましく睨み付ける。

「いえ、そうではありません。それどころか、作野貫主にとっても悪い話ではありません」

 森岡はそう言うと、視線を総務清堂に戻した。

「二〇〇〇年に全国仏教会主催の秘仏秘宝展が開催される予定とか」

「まだ内々の話を良く知っているな」

 と言った後、清堂が苦笑いをした。

「いや、君であれば当然のことか」

「天真宗からは瑞真寺の秘仏が出展されるとか」

「そうだ。作野の物言いとは違い、瑞真寺の御本尊様は間違いなく御宗祖様の処女作であるからな。天真宗を代表する秘仏として、これ以上ふさわしい御本尊様は他にない」

「総務さん」

 清堂の嫌味に作野が不満声を出した。

「ならば、国真寺の御本尊を推薦しようか」

 総務清堂が睨み付けた。

「……」

「そうであろうが。であれば黙って聞いておれ」

 総務清堂は一喝すると森岡に問い質した。

「それがどうしたというのかの」

「瑞真寺は人間国宝の北大路無楽斉氏に仏像の製作を依頼しました」

 うん? と清堂は首を捻る。

「寺院が仏像製作を依頼するのは不思議なことではないがの」

「御本尊様のお前立のようです」

 森岡は意味深い音色を滲ませて言った。

「まさか」

 景山が驚きの声を上げた。森岡の言わんとしたことを察したのである。

「森岡さんは、瑞真寺が開帳しないことと関係があると思っておられるのですね」

 森岡は黙って肯いた。景山の言葉に清堂もはたと気付いた。

「もしや、瑞真寺には御本尊様がいらっしゃらないとでも言いたいのか」

「私はそのように睨んでいます」

 森岡が作野貫主に視線を送った。作野は苦々しい顔つきで俯いていた。

 その様子を見て景山が悟った。

「森岡さんは、瑞真寺の御本尊様は国真寺に移っていると言いたいのですね」

「ば、馬鹿な」

 森岡が返事をする前に、総務清堂が驚愕の声を上げた。

「作野貫主に答えて頂きましょう」

 森岡は冷静な声で言った。

「作野、本当なのか」

「……」

 作野貫主は視線を落として無言を通した。

「作野、森岡君がこうまで言うということは、確たる証拠を握っているということなのだぞ」

 言い逃れはできないと示唆した。

 作野は肩を震わせながら首を小さく縦に振った。

「何があったのか全てを話せ」

 清堂は恫喝にも似た口調で催促した。

 作野は、ついに国真寺歴代貫主にのみ申し伝えられて来た秘事を詳らかにした。


 いつ終わりを告げるかもわからない静寂が座を支配した。

 やがて総務清堂が呟くように言った。

「当代門主が久田上人を蛇蝎の如く忌み嫌うのは、それが理由であったか」

「それで、森岡さんはこの件をどのように扱われるおつもりなのですか」

 景山が遠慮がちに訊いた。

「作野貫主。その御本尊を一億円で私にお譲り下さい」

「な、な、何を言い出すのだ」

 作野は狼狽した。

「瑞真寺が御本尊のすり替えを画策しても、本物が国真寺にある限り、異議を唱えることはできません。いや、寺院であればどこであっても無理でしょう」

 寺院であれば、入手経路を問われたとき抗弁ができないと森岡は示唆した。国真寺は無論のこと、他寺院であっても御本尊の正体を知らずに入手したという抗弁は通らない。仮に通ったとしても、今度は入手経路を問われることになる。このような曰くのある仏像が表社会で取引されることは有り得ないのだ。

「私であれば、闇ルートから入手したと言っても問題はありません」

「なるほどな。そして機を見て瑞真寺に突き付けるのじゃな」

 総務清堂が肯いた。

「総務さんに同席して頂ければいっそう効果があるでしょう」

「もしや、全国仏教会事務局に瑞真寺の尻を突かせたのはも君じゃな」

 清堂が確信に満ちた目をして言った。

「はい」

「面白い。実に愉快じゃ」

 破顔する清堂の横で、浮かぬ顔の作野が口を開いた。

「当寺の御本尊様はどうなるのだ」

 森岡は柔和な顔を向けた。

「それは御心配なく。私は最初に国真寺の憂いも晴らすと申し上げました」

「どうしてくれるのだ」

「法国寺の釈迦立像を譲って貰います。ですから、さきほどの一億円というのは現金ではなく値打ちという意味です」

「な、な……」

 作野は口をあんぐりとあけたまま言葉にならない。

「森岡君、いくらなんでも、そのようなことはできないだろう」

「久田上人とは話が付いています」

 森岡は総務清堂の手前、御前様とは言わなかった。

「本当かね」

 総務清堂は目を見張った。

「法国寺には釈迦立像が二体ございます。一体譲っても宜しいかと愚行致しました」

 森岡は、この会談の前に別格大本山法国寺に久田貫主を訪れ、詳細を話し内諾を得ていた。宗祖栄真大聖人が手ずから彫った釈迦立像は五体有ったが、そのうち法国寺には二体が保存されていた。そのうちの一体を五千万円で譲るとの確約を得ていた。

 全国の大本山と本山は天真宗所有の寺院である。

 したがって所有する秘仏、宝物を勝手に売買することはできない。しかし譲渡先が一般人は無論のこと、たとえ宗門であっても末寺では話にもならないが、大本山国真寺となれば総務の承諾さえあれば可能なのである。むろん、形式上は法主にお伺いを立てなければならないが、すでに宗務から離れている法主が総務に異議を唱えることは滅多にない。

 なお売買と言っているが、現実には秘仏の保管場所の移動であり、その際の金銭はあくまでも布施である。

「よく久田上人が承知したものだな」

 総務清堂は未だ半信半疑の体である。

「久田上人は、菊池の件で総務さんには大きな借りがございます」

「森岡君、先刻も言ったが、あれば君の功績……」

 と言った清堂が、そうかという顔をした。

「先刻、私の尽力の賜物と言ったのは追従ではなく、久田上人には本当にわしに世話になったと報告したのだね」

 はい、と森岡は頷く。

「交換条件として、例の宝物の返還を総務さんに約束して頂くと申し上げました」

「なるほど。宝物を総務さんに預けていたことがここで活きたのですね」

 景山が明るい顔で言い、

「君という男は全く……」

 と、清堂が感心しきりで呟く中で作野貫主一人が不服顔だった。

「しかし、当寺の虚言が世間に知れ渡ってしまうではないか」

「実は、江戸時代に御本尊は盗難に遭っていた。その長年の苦衷を知った法国寺が助力を申し出てくれたと白を切れば良いでしょう」

 森岡は、言外に宗祖栄真大星人の処女作という触れ込みはうやむやにしてしまえと言ったのである。

「それとも何ですか。瑞真寺の御本尊を盗んでいたと公表された方がまだましとでも言われますか」

 森岡が作野貫主を見据えて返答を迫った。

 総務清堂や影の法主とも言われる久田帝玄とも対等に渡り合う森岡である。

 大本山の貫主といえどもたちまち気圧されてしまった。

「作野、森岡君の案に乗れ」

 総務清堂が引導を渡すように言った。

 次期法主内定者で、兄弟子である総務清堂に作野が逆らえるはずもない。

「わかりました。森岡さん、宜しくお願いします」

 と言葉をあらためて頭を下げた。

「ところで森岡さん。貴方は法国寺の仏像の値打ちを五千万と言われました。なぜ、国真寺の御本尊は一億円で買い取られるのですか」

 景山が疑問を呈した。法国寺に譲って貰った御本尊と等価交換ではないのかと訊いたのである。

「あ、それでしたら、残りの五千万円はお二人に布施致します」

 ははは、と清堂が高笑いをした。

「相変わらず、豪気なことじゃのう。そもそも、君にとって釈迦立像など何の価値もないはずなのにのう」

「いいえ。来週の件では総務さんにはお世話になります。一億円など何ほどでもありません」

 森岡は事も無さげに言った。

「一色上人の規律委員会じゃの」

「はい」

「その件は永井宗務総長とも意見を同一におるでな、心配はいらない」

「宜しくお願いします」

 森岡は座布団を外して頭を下げた。

「しかし、君は実に愉快な男じゃの。今後もこの景山と昵懇にして貰いたい」

 そう言うと、総務清堂もまた座布団を横に置いてて頭を下げた。それを見た景山があわてて師に倣うと、やや遅れて作野貫主も同じようにした。

「では、話が纏まったところで、形ばかりの親睦会に移りましょうかな」

 総務清堂がにこやかな顔で言った。


 一週間後、総本山真興寺の宗務院内の会議室で、大本山相心寺貫主・一色魁嶺の処分を決める合議が開催された。

 規律委員会のメンバーは下記の通りである。


 北海道    本山 覚王寺 長 恵心(おさえしん)

 東北・宮城  本山 勝持寺 白洲東伯(しらすとうはく)

 中部・長野  本山 永厳寺 平松籠善(ひらまつろうぜん)

 中国・広島  本山 万塔寺 鶴丸妙亘(つるまるみょうせん)

 九州・福岡  本山 高妙寺 泉 昇蓮(いずみしょうれん)


 以上の五名に、総本山総務の藤井清堂と、同宗務総長の永井大幹を加えた七名である。その他、各人に一人ずつの補佐役が付いた。総務清堂の補佐役として会議に列席した景山は、このメンバーを見た瞬間、

――しめた。

 と心の中で手を打った。というのも、五名の貫主の中に宮城県仙台市の白洲東伯の姿があったからである。

 白洲東伯は、弓削広明の執事長を経て勝持寺の貫主になっていた。日頃から弓削広大とも親交があり、彼の言葉を借りると、

『年の差はあるが、白洲上人とは肝胆相照らす仲』

 ということであった。それが事実であれば、

『本妙寺の件も神村上人支持』

 の意を伝えていることであろうと期待したのである。

 だが、この期待は束の間と消えた。

 冒頭、議事進行を司る宗務総長の永井大幹が、

「申すまでもありませんが、この会議は権大僧正である本山相心寺の一色貫主に対する処分を決定する会議です。貫主に対する懲罰動議の内容に付きましては、事前に送付致しました書類のとおりです。皆様におかれましては、十分に熟慮、検討されたものと推察致します。したがいまして、この場で忌憚のないご意見をいただき、集約したうえで、妥当な処分が決定されることを信じて疑いません」

 と所見を述べるや否や、広島・万塔寺(ばんとうじ)の鶴丸妙宣が満を持したように口を開いたのである。

「私は、厳重戒告が相当だと考える」

 その低音は重厚な響きを伴っていた。

 鶴丸は八十歳。このメンバーの中では最長老であり、長年に亘って中・四国地区本山会会長を務め上げ、昨年その役職を退いたばかりの、天真宗における重鎮の一人であった。

 この意見に、北海道・覚王寺(かくおうじ)の長、和歌山・永厳寺(えいげんじ)の平松、福岡・高妙寺(こうみょうじ)の泉が、つぎつぎと同意した。

――妙な雲行きになった。

 思い掛けない展開に、その場に居合わせた景山の面が引きつった。

「厳重戒告では軽過ぎます。私は、一年間の職務停止処分にすべきと考えます」

 残る一人、宮城県勝持寺の白洲東伯が声高に言った。白洲は六十八歳、昨年の春に貫主になったばかりの新参である。その彼が、大先輩の鶴丸に反駁する意見を述べるのは勇気のいることであった。

 景山の期待通りの発言であったが、五名の貫主の意見は一対四と一方的になった。景山にしてみれば、想像もしなかった劣勢である。

 通常、総務と宗務総長は意見を控える。特に、次期法主の内定者とも言える総務が発言してしまうと、他者が意見を述べ難くなるからである。

――少なくとも、五名が二対三の状態にならなければ、総務さんと宗務総長の発言が無意味になる。

 景山は、固唾を呑んで成り行きを窺った。

「一年間の職務停止は重い。此度の事は、彼の不注意に過ぎないのであるから、厳重戒告が妥当だろう」

 鶴丸は穏やかだが、しかし鋭い眼つきで白洲を睨んだ。

 白洲は、目を逸らさずに抗するのが精一杯だった。

 たしかに問題発覚後、一色はすばやく修正申告を済ませていたため、悪質性が少ないと判断され、刑事問題になっていなかった。

「一色貫主は、適切な事後処理をされましたが、他方で貫主の脱税行為は十数年前から行われており、確信犯の臭いが散見されます。これを軽い処分で済ませるとなると、他の者に示しが付きません」

 白洲は、鶴丸に怯むことなく述べた。

「他の者に示しだと? ならば先の久田上人はどうなるのだ。あの処分で他の者に示しは付いたのか!」

 鶴丸が怒声を上げた。

 その舌鋒の鋭さに、一同は思わず身を竦めた。総本山の宿坊の次男に生まれた鶴丸は、やむなく在野に下っており、久田の天山修行堂の権勢を忌々しく思っている人物であった。

――拙い。御前様の処分が軽くなるよう謀ったことを逆手に取られた。

 このとき、景山は背後に門主の影を垣間見た気がした。

「お待ち下さい。今回の件と、久田上人の件を絡ませて貰っては困ります」

 永井宗務総長が、鶴丸を宥めるように牽制した。

「ではなにか。案件毎に公正、不公正が有っても良いと宗務総長は言われるか」

 鶴丸は、今度は永井を睨み付けた。その眼光に、永井は一瞬言葉に詰まった。永井は宗務総長という、天真宗におけるナンバー三の立場にいる権力者である。

 だが、一般の組織とは違い、宗教界は長幼の序が歴然として残っている世界でもある。たとえば、共に荒行に入れば、後輩は先輩から指導を受けたりすることから、僧階、役職とは離れた上下関係が生まれるのもしばしばなのである。

「鶴丸上人は、先の久田上人の一件は処分が軽かったと申されるのですか」

 永井は、気を取り直して訊いた。

「いや、そうとは言っておらんよ」

 鶴丸は一転、柔和な笑みを浮かべると、

「久田上人の処分が厳重戒告ならば、此度も同程度ではないかと申しておるだけじゃ」

 と言って退けた。

――負ける……。

 景山はそう直感した。

「総務さんと宗務総長さんのお考えをお聞かせ下さい」

 議論の流れを変えようとして、白洲が水を向けた。

「私は、半年間の職務停止が妥当と考えます」

 永井は、鶴丸と白洲の折衷案を提案すると、横の席の総務清堂の顔を窺った。

 会議の冒頭から瞑目していた清堂は、永井の視線に気づいたようで、ゆっくりと目を開けた。

「私は、皆の意見が拮抗したときに、所見を述べる所存です」

 つまり、三対三となったときに裁定を下すという意であった。当を得た発言だったが、それを潮にしばらくその場を沈黙が覆った。

 景山は、趨勢は決したと失望した。

 そして、

――事前に情報が漏れていたのではないか。

 と唇を噛んだ。

 おそらく、この会議の前に規律委員会の委員五名の貫主の名が、栄覚門主に洩れたのではないか。久田帝玄の醜聞による規律委員会のとき、永井宗務総長が擁護に廻ったこと、また別格大本山法国寺の宝物の件で、総務清堂が久田に力を貸したことから、永井と清堂は当てにならないと踏んだ栄覚門主は、同じく森岡洋介と弓削広大との関係から、白洲東伯を除く四名に圧力を掛けたに違いないと景山は推察した。

 そのような力技ができるのは法主、総務、門主そして久田の四人ぐらいである。むろんのこと、門主を除く三人はそのような行為はしない。

 通常、このような会議においては、委員が自ら発言したりはしないものである。同門に対する処分の発言など気が引けることであるし、万が一にも発言が処分対象者に漏れて、逆恨みをされたりすればたまったものではないからだ。

 したがって議事進行役、今回で言えば永井宗務総長の発言を元に、衆議一決されるのが自然の流れのはずであった。

 それを、鶴丸がいきなり自らの意見を披瀝するなど、いや重鎮である鶴丸はともかく、残りの三名までが同様の態度に出ることなど、栄覚門主の指示でもあったと考えない限り有り得ないことであった。

 景山は、総務清堂もまた同様に推量されたのだと悟った。だからこそ、この期に及んで意味のない発言は控えられたのだと理解した。

「議論も出尽くしたことであるし、そろそろ採決したらどうかの」

 鶴丸が永井に余裕の催促をした。もはや永井宗務総長と白洲東伯に反論する気力は失せていた。

 採決の結果、四対二となり総務清堂の意思を問うことなく、本山相心寺貫主・一色魁嶺の処分は厳重戒告と決した。

 結果を受けて、総務清堂と永井宗務総長は、憤然としてその場から立ち去った。


 総本山真興寺の宗務院内で行われた一色魁嶺の処分決定の報を、森岡は自社の社長室で待っていた。そして景山律堂から届いた一報に、悄然として言葉を失った。

 総務藤井清堂と永井宗務総長の実力者二人が同意見であれば、他者はとうてい逆らえないだろうとの彼の思惑は見事に裏切られたのである。

 景山は真っ先に、総務清堂からの、力になれず深くお詫びしたいとの言伝を口にした。

 森岡は、

「お気にされませぬようにとお伝え下さい」

 と先ず以て返答した後、

「いったいどういうことなのでしょう」

 と不審の体で訊いた。

「どうやら、五名の貫主の名が事前に洩れたようです」

 景山は陰鬱な表情で言った。

 彼は規律委員会の処分決定の報を入れた後、急遽大阪入りし、その夜の密談となっていた。

「情報が洩れるようなことはないと伺っていましたが」

「もちろん、厳格な守秘義務は課されていますが」

 景山は口を濁した。

「五名の名を知ることができる立場の人間は誰ですか」

「今回は中原宗務次長が厳選し、永井宗務総長が承認されました」

 森岡は少し考えを巡らし、

「どちらかといえば、中原宗務次長の線が濃いですね」

 との見解を示した。

「同感です。規律委員会のメンバーに、宮城県勝持寺の白洲貫主が含まれていましたからね。永井宗務総長は、私どもと弓削上人の親密な関係を知っておられます。もし、裏切っているのが宗務総長であれば、当然メンバーから白洲貫主を外すように指示をされるでしょう」

 景山も納得の表情で言った。

「ただ、弓削上人の行動は中原宗務次長の耳にも入っている可能性がありますから、彼が裏切っているのであれば、事前に外すはずですがね」

「それもそうですね。そう考えると訳がわからなくなりますね」

 景山は首を捻った。

「それとも、他の四人が磐石なので、カモフラージュとして、わざと白洲貫主をメンバーに入れたのかもしれません」

「ふむ」

 景山はますます混乱した。

「いずれにせよ、洩らした先は栄覚門主でしょうね」

 森岡が憎々しげに言った。

「私もそう思いますが、二人が門主と与する理由に心当たりがありません」

「もし、中原宗務次長だとすれば、自分が法主になるためでしょう」

「え? 門主と与すれば、自身は法主にはなれないことをご存じないのでしょうか」

 景山は訝しげに訊いた。

「あるいは、知っていても、神村先生が居られれば同じことだと考えたか……先生が法主になられれば、同年代の中原宗務次長は年齢的に絶望となります。もし、門主が彼を先に法主に就かせると約束したら……」

 と言ったところで、森岡に別の考えが浮かんだ。

「もしかすると、滝の坊を例外的に瑞真寺の縁戚家とする約定も交わしたのかもしれませんね」

「まさか」

「いえ、門主であればやりかねません」

 懐疑的な顔をした景山を森岡が言い含めた。 

 明治以降、瑞真寺においては後継者以外の男子は必ず在野寺院へ下り、決して総本山の子院に入ることはなかった。各子院が後継者を在野寺院に求める場合も、瑞真寺の血縁者は徹底的に外されていた。

 もし宗祖の血脈家である瑞真寺と、血の交わりを得る唯一の子院となれるのであれば、総本山で一、二の有力子院である滝の坊にとっても悪い話ではなかった。

 滝の坊は宗祖栄真大聖人の一番弟子で、後継者にも指名されていた栄招上人が開山した子院であり、瑞真寺と比較しても遜色の無い由緒正しき家門である。

 それが、口でこそ名門と崇められているとはいえ、時代の流れと共にその影響力は低下の一途を辿り、その扱いは四十六子院の一つに過ぎなくなりつつあったのである。したがって、中原遼遠が宗祖血脈家と手を組んで、他の子院との差別化を謀ったとしてもおかしくはなかった。

「滝の坊は総本山に於いて、さらに一段格式の高い子院となるのですね。一方、門主の方は法主に上がるのが少々遅れても問題はないと考えた」

 景山も森岡の言いたいことは理解したが、

「森岡さん、お言葉ですが、中原遼遠上人は神村上人の弟弟子ですよ。法主を巡って、直接対峙したのであれば止むを得ないでしょうが、現時点で神村上人に対して、敵意を鮮明にするでしょうか」

 と疑問を呈した。

 神村は、滝の坊の中原是遠から薫陶を受けていた。遼遠はその是遠の実子である。

「だから、余計に先生に敵対したのかもしれません」

 森岡が苦々しく言った。

「……」

「中原是遠上人は、実子である遼遠上人より、神村先生を可愛がられ、心血を注がれたと聞いています。いつか御前様がおっしゃっておられましたが、帝法上人の先生への薫陶振りに嫉妬されたそうです。御前様ほどのお方でもそうなのです。遼遠上人が嫉妬のあまり先生に恨みを抱いたとしても不思議なことではないでしょう」

「御前様がそのようなことをおっしゃっておられましたか」

 景山にも思い当たる節があった。総務清堂から可愛がられた彼自身、兄弟子たちから妬みの視線を感じたものである。

「景山さんは、以前瑞真寺の葛城執事長が華の坊を訪れていたと言われましたが、案外この手の話を、まずは清堂上人に持ち掛けたのかもしれません」

「総務さんに? しかし、総務さんは法主に上がられることが確実です。いまさら門主との取引も何も必要ないでしょう」

 景山は否定した。

「失礼ながら、華の坊は滝の坊と並ぶ名門宿坊ながら、輩出した法主の数では大きく水を開けられています。総務さんは良いとして、その後はどうでしょうか。門主は、華の坊の長年の焦燥と屈辱に付け入ろうとしたのかもしれません」

「なるほど。ところが、総務さんに断られたため、中原宗務次長へ鞍替えしたということですか」

「それとも。端から華の坊を隠れ蓑に使ったか」

「隠れ蓑?」

「永井宗務総長であれ中原宗務次長であれ、宗務院に内通者がいることを気付かれたくなかったとも考えられます」

「なるほど、瑞真寺の当代門主と次期法主が接触すれば、周囲の目を引き付けられる」

 景山も森岡の推量を理解した。

「一方、裏切り者が永井宗務総長の場合ですが、自身の後のことはどうでも良いとの考えなのではないでしょうか」

「しかし、永井上人が我々を裏切れば、妙智会が黙っていないでしょう」

 妙智会とは、天真宗における四十歳以下の青年僧侶の親睦会である。以前、総本山の法主と別格大本山法国寺の貫主の座を、藤井兄弟が独占することに反対の署名運動をしたことがあった。森岡は、その過程で妙智会会長の弓削広大と宗務総長の永井大幹が親交を深めたことを知っていた。

「いえ、妙智会は使えません」

 森岡は即座に断言した。

「まさか、弓削上人も裏切ったと」

 と、景山は目を剥いた。

 そうではありません、と森岡は首を横に振る。

「前回、妙智会が一致結束したのは、憚りながら藤井兄弟の専横に対する異議という大義名分があったからです。しかし、今回はそれがありません。永井宗務総長は、一応私たちと歩調を合わされたのですから、表面上は裏切ったことにはなりません」

「そう言われれば、たしかにそうですね。となると、仮に宗務総長が我々を裏切っていたとしても、彼は痛くも痒くもないのですね」

 景山の虚しい呟きに、森岡は歯軋りしながら、

「どちらが裏切ったにせよ、悔しいですが、私の完敗です」

 と絶望の声で呻いた。

 本妙寺貫主を選出する合議まで、残り僅かに三日。

 策士、策に溺れるとはこのことで、今となっては一色魁嶺に対する規律委員会を合議の直前に開催させたことが裏目に出た格好となった。

 栄覚門主に反撃する暇を与えないつもりが、まるでブーメランのように自身に跳ね返ってしまったのである。

 かつての岡崎家での総務清堂との密会を、あるいは坂根好之の枕木山での行動を漏らしたのは宗務院ではないかと疑っていた。それはつまり、宗務院の中に瑞真寺への内通者を認めていたはずである。

 その後、総務清堂との密会は、岡崎家の女将がやむなく勅使河原に漏らしたものだと判明したが、宗務院への疑念は残ったままだった。

 だが、まさかそれが永井宗務総長か中原宗務次長のどちらかなどとは思いも寄らないことだった。永井宗務総長とは、久田帝玄の醜聞事件を通じて気脈が通じていると信じていたし、中原宗務次長は中原是遠の実子で、神村正遠の弟弟子なのである。

 中原遼遠に関して、景山には賢しらに言った森岡だったが、彼もまたこのような事態に陥って、初めて久田帝玄の言葉を思い出していたのである

 しかしながら、事ここに至っては一切の言い訳は通らなかった。

 景山律堂には注意を促しながら、万が一の情報漏れの危惧を予見できなかった詰めの甘さの代償を払わされる結果となったのである。

 完全なる森岡の敗北であり、彼が描く神村の将来計画が足元から瓦解した瞬間でもあった。神村の僧階は『僧正』であり、久田帝玄の後を継いで別格大本山法国寺の貫主に上がるには、まず大本山または本山の貫主を務め『権大僧正』の僧階を得なければならなかった。

 今回、大本山本妙寺の貫主の座を逃すことになれば、またいずれかの大本山か本山の執事長から始めるか、貫主に欠員が出て、しかもその執事長が無資格者で選挙になった場合しか機会が無かった。現栄薩法主や総務藤井清堂、あるいは久田帝玄が心を砕いたとしても、それなりの時間を覚悟しなければならないのである。

「そうそう」

 と、森岡の心中を察して、景山が話題を転じた。

「先日の瑞の坊ですが、森岡さんの勘は当っていました」

「因縁があったのですね」

「瑞真寺は室町時代に建立されたのですが、その懸案を推進した時の総務が瑞の坊の三輪円尚(えんしょう)上人だったのです」

「なるほど、それで一字貰い受けたのですね」

「当時は興寿院という子院でしたが、後に宿坊を開いたとき、一字を授かり瑞の坊と名付けたそうです」

 景山は謂れを説明すると、

「ですが、現在の三輪円乗(えんじょう)上人が瑞真寺に加勢をしている気配はありません」

 と最後に一言付け加えた。

――しかし、何か引っ掛かる。

 森岡にはわだかまりが残ったが、もはやその原因を突き止めるだけの気力は残っていなかった。

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