第40話 第六巻 決意の徒 覚醒
翌日、森岡洋介は相良浄光の案内で、仏師で人間国宝の北大路無楽斉の工房を訪ねた。工房は札幌市北区の西の端、手稲区と区切られている新川の辺にあった。
訪いを告げると、奥から無楽斉の弟子と思われる若い男性が応対に出て来た。男性の案内で工房に入ると、無楽斉は背を向けたまま創作に耽っていた。
声を掛けようとした相良を押し止め、森岡は壁の棚に陳列されていた彼の作品集を拝観することにした。
釈迦尊像、大日如来像、阿弥陀如来像、薬師如来像、弥勒菩薩像、不動明王像等々、立像や座像が大小で三十体ほど並べてあった。
一体一体、食い入るように見つめた森岡が観音菩薩座像の前に立ったときである。
異変が起こった。
森岡が他の仏像には無かった強烈な気を全身に感じるや否や、観音菩薩座像の両眼から飛び出た光の環が連なって自身の方へ伸びて来たのだ。
摩訶不思議な現象に、森岡は金縛りにでもあったかのように硬直し、身動きどころか声を発することもできない。
観念した森岡がなすがままでいると、光の輪はそれぞれ彼の両眼からすうーと体内に入り込んだ。
その瞬間、森岡は体内が解毒されたかのように清々しい気分になった。まるでそれは、喉の渇きを潤すために水を飲んだかのように自然な成り行きだった。
しばらくして無楽斉から声掛かった。
「慈水は元気か」
慈水というのは、相良浄光の父浄然の仏師としての号である。
「お陰さまで。先生もお元気そうでなによりです」
無楽斉は七十九歳。年齢のわりに声には張りがあった。
「会わせたいというのはその男か」
「日頃、私が大変お世話になっている森岡さんです」
相良の紹介を受け、
「初めまして、森岡洋介と申します。本日は時間を割いて頂き恐縮です」
と、森岡は丁重に頭を下げた。
「それで用件はなんだ。時間が無いからさっさと済ませてくれ」
無楽斉はいかにも無愛想に言った。
「では、単刀直入にお伺いします。先生の許に、天真宗の瑞真寺から仏像製作の依頼がございましたでしょうか」
その瞬間、無楽斉の目が鋭く光った。
「それが君に何の関係がある」
「特にはございません」
瑞真寺と敵対しているとは言えなかった。
「では、部外者に答える必要はない」
無楽斉は語気を強めて言うと、背を向け再び創作し始めた。
「先生、森岡さんは榊原商店の後継者なのです」
無楽斉の手が止まった。
「榊原さんの親類縁者なのか」
無楽斉は、背を向けたまま訊いた。
「親戚ではありませんが、御縁があって会社を継ぐことになりました」
ふむ、と無楽斉は沈思した。
「榊原さんには大変に世話になった。私の仏像が広く世に出るようになったのも榊原さんのご支援があったからだ」
そこまで言って、無楽斉は振り向いて森岡を見つめると、
「依頼はあった。それで良いか」
「どのような仏像ですか」
思わず相良が口を挟んだ。
「そこまでは言えぬ、申し訳ない」
無楽斉は両手を着いて頭を下げた。
「止めて下さい」
森岡が無楽斉の手を掴んで畳から引き揚げたときである。おそらく試作品だと思われる手掛け始めたばかりの木片が目に飛び込んで来るや否や、見る見るうちに仏像の完成形へと変わっていった。
――間違いない。釈迦立像だ。
そう確信した森岡は、
「この際、榊原さんは関係ありませんし、仏師の世界には仏師の極まり事と言いますか義理立てのようなものがあるのでしょうから、依頼が有ったとわかっただけで十分です」
と言って、相良を促し辞去しようとした。
そのときである。中年女性が入って来た。
「お義父さん、私からもお願いするから森岡さんに詳しく話してくれない」
「貴方はリッチのママさん」
相良が素っ頓狂な声を上げ、
「おとうさんって、先生はママの?」
森岡も眼を丸くして訊いた。
「私は母の連れ子だったから血は繋がっていませんが」
と、佐伯知草は無楽斉に視線を送った。
「でも、どうして私がここに来ることがわかったのですか」
「それは、私が昨日教えました」
相良が恐縮そうに言った。
昨夜、リッチの後、皆でカラオケに行ったとき知草や綾音も同道していた。そのとき酔っぱらった相良から森岡の予定を聞き出したのだという。
「なぜ、そのようなことを」
「だって、助けて頂いておきながら、ろくにお礼も言ってなかったのですよ」
「礼なら、あの場で言ってもらった。それで十分だ」
「二千万以上も御迷惑を掛けたのです。そういうわけにはいきません」
「二千万とは、どういうことだ」
無楽斉が訊いた。
知草がリッチでの出来事を話した。
「それは、義娘が大変世話になりました。この義娘は親を頼りにしませんので」
と、無楽斉は頭を下げた。
「その義娘の初めての頼み事ですので、聞いてやりたいのはやまやまですが」
と言いつつ、それとこれとは別です、と断った。
「義娘さんの件は成り行き上の事ですから気になさらないで下さい」
森岡はそう言って再び辞去しようとした。
「無駄足だったようで申し訳ありません、先輩」
相良が泣きそうな声で詫びた。
無楽斉がその言葉尻を捉えた。
「ちょっと待て、相良君。先輩とはどういうことだ。森岡さんは僧侶ではなかろう」
「え? ああ、森岡さんは松江高校の先輩なのです」
「松江だと?」
無楽斉の脳裡の襞を何かが突いた。
「ということは森岡さんも島根出身なのですか」
「はい。もっとも、今でこそ松江市と言っていますが、生まれ育った頃は字(あざ)の付く島根半島の小さな漁村です」
「なにっ!」
無楽斉の眼が大きく見開かれた。
「島根半島の漁村で森岡というと、もしや灘屋という旧家をご存知ないかの」
「知っている何も、灘屋は私の生家です」
「な、なんと」
無楽斉は呆然となった。
「先生は灘屋(うち)をご存知で」
と訊いたところで、ああー、と今度は森岡が叫んだ。
「どうしたんですか、先輩」
「まさか、うちの観音様は先生が……」
そうです、と無楽斉が微笑んだ。
「貴方が灘屋さんのお方だと思いも寄りませんでした。森岡さんと伺ったときは、どこかで耳にした名前だと気にはなったのですが、私の記憶には灘屋というのが強く残っていたものですから」
無楽斉が頭を下げた。
彼が気づかなかったのも無理はなかった。島根半島界隈では同姓が極めて多く、浜浦では四つの姓で村の八割の世帯を占めた。したがって、通常は姓ではなく屋号でお互いを呼び合っていたのである。
北大路無楽斉は十六歳で仏師を目指し、十八歳から全国の神社仏閣を参詣して回った。目的は仏像他著名な建築物の拝観である。浜浦へは出雲大社参詣した帰りだった。たが、財布を紛失してしまい路頭に迷った。仕方なく、浜浦神社の軒下で夜露を避けたのだが、季節外れの寒波に襲われたため、風邪を拗らせてしまったのである。
「手厚い看護療養だけでなく、帰りの旅費まで用立てて下さったトラさんは、まさしく命の恩人。その曾孫の貴方に恩を返さないのは人倫の道に外れています。先程のお尋ねにお答えしましょう」
無楽斉がそう言って居住まいを正したとき、
「先生、それには及びません.。お礼としてすでに曾祖母が観音菩薩立像を頂いています」
と、森岡が断った。
「先輩、何を言っているのですか。せっかく先生がおっしゃっておられるのに」
「もう十分だ、相良」
森岡が宥めるように言った。
「どういうことかな」
無楽斉が訊いた。
「先刻、先生の作品を拝観させて頂いたとき、子供の頃の力が呼び戻されたようです」
「何なのですか、その力というのは」
相良が怪訝そうに訊いた。
「それは後でな」
森岡は相良にそう言うと、
「先生、その代わりと言ってなんですが、一つお願いがあります」
「何なりと」
承る、と無楽斉は背を伸ばした。
「先生の作品をお譲り願いたいのですが」
「ほう。お気に召したのがありましたか」
「ええ、観音菩薩座像を」
無楽斉が目を細めた。
「さすがにお目が高い。実は、あの観音菩薩座像はあらためて灘屋さんにお礼を、と思い製作したものなのです。灘屋さんの立像と対の座像です。ですから貴方の手に渡るのが相応しい」
後年、無楽斉は正式な仏師としての処女作をお礼として灘屋に持参した。だがトラは、すでに礼は貰っていると固辞したのだという。
「では、譲って頂けるのですね」
「喜んで」
「代金はいくらでしょうか」
「それは無用です。仏像は縁のある方の手元にあるのが一番ですし、義娘を救って貰ったお礼としましょう」
と、弟子に梱包するよう命じた。
「そういうことでしたら、有り難く頂戴いたします」
頭を下げた森岡は、
「さあて、市内観光でもしてから定山渓へ行こうか」
と観音座像を受け取り、工房を出た。
レンタカーに乗り込むや否や、相良が佐伯知草越しに訊いてきた。
「子供の頃の力って何なのですか」
帰りは佐伯知草が加わったため、運転は蒲生亮太が、助手席に足立統万が座り、後部座席の森岡と相良の間に彼女が割って入っていた。
「何となくだが、人の心がわかる」
「人の心がわかるって、まるで霊能力者みたいではないですか」
「坊主のお前が驚いてどうするんや。霊力は坊主の本分やろ」
「それはそうですが、でもどうして先輩にそのような力が……」
あるのか、と訊いた。
「俺のひい祖母さんと祖母さんは信心深い人でな、それなりに霊力があったらしいから、その血を受け継いだのやろうな。だが、神村先生のように自在というわけではないで」
森岡は生まれたときから祖母のウメに育てられたため、読経を子守唄代わりに聞いていたと告げた。
「それより相良、今天真宗本山総覧は手元にあるか」
「はい、旅行のときは必ず肌身離さず持ち歩いています」
と鞄から取り出した。
「瑞真寺の御本尊を見せてくれ」
相良がページを捲った。
「これです」
と指差した仏像を確認した森岡は不敵な笑みを浮かべ、
「ふうん、なるほどな」
と一人得心したように頷いた。
「いったい、何がどうしたというのですか」
相良には訳がわからない。
「なんでもない」
と言った森岡がママの佐伯知草に顔を向けた。
「ママも有難うな」
「いえ。助けて頂いたのですから当然です。それで、金のことですが」
「返済はこの観音様で済んだ」
「そういうわけにはいきません。義父は義父、私は私です」
「どないせいと言うんや」
「あのときの言葉通りして下さい」
「言葉?」
「俺の女って言って下さったでしょう」
「ああ、あれは言葉のあややがな。本気にする奴があるか」
「いいえ。彼女にして貰います」
ママの真剣な顔つきに、森岡もまた真顔になった。
「俺には結婚を約束している女性がいるんや」
「それは問題ありません」
佐伯知草は平然としていた。
「私は奥様にして欲しいとは言っていませんよ」
「馬鹿なことを言うもんじゃない。ママほどの女性なら、男は選り取り見取りだろう。何も好き好んで日陰に生きることはない」
ほほほ……、と知草が陽気に笑った。
「日陰だなんて、年に似合わず古臭い言葉をお使いになるのですね」
「そうや、俺は古い考え方の人間や。せやから愛人を作る気はないのや」
森岡は強い口調で言った。
「冗談ですよ。どうせなら私のようなお婆ちゃんより若い娘の方が良いでしょうからね」
知草は皮肉るように言った。
「何や、冗談かいな。ママも人が悪いな」
森岡は表情を緩めた。
「実は、父の家を訪ねた理由は森岡さんにお会いしたかったからなのです」
「俺に何か用があるんか」
「はい。昨晩ご相談するつもりでいたのですが、あのような醜態があったもので言いそびれてしまったのです」
「気が削がれたということやな」
はい、と知草は肯いた。
「綾音ちゃんの力になって頂けないでしょうか」
「だから、それは……」
森岡は話の繋がりで愛人の件だと早合点した。
佐伯知草は再び、ほほほと笑った。
「誤解なさらないで下さい」
彼女は綾音の転職先を世話して欲しいのだと言った。
佐伯知草は、四年前に綾音を他店から引き抜いたのだが、そのときの条件が五年間という期限付きだった。
綾音はいずれ東京へ出て自分の店を持つのが夢なのだという。約束の期限まであと半年、綾音本人は銀座へ飛び込むつもりでいたらしい。
「森岡さんの噂を聞き、また実際にお会いしたことで大阪も選択肢に加えたようです」
「俺の噂?」
森岡は懐疑的な目を向けた。
「彼女の高校時代の友人が大阪の会社に勤めているらしいのですが、給料が安いので週に二日、ラウンジでホステスのアルバイトをしているのです」
「俺がその店に顔を出したのか」
「いいえ。森岡さんが足を運ばれるような店でありません」
「なら、何でや」
「何やら、大盤振る舞いをされたそうで」
佐伯知草は揶揄するように言った。
「ああー、あの馬鹿騒ぎか」
「しかし、一介のラウンジまで噂が広がっただなんて、余程の武勇伝だったのですね」
今度は嫌味が混じっている。
森岡は佐伯知草が経営するリッチでも羽目を外していたが、それをも上回る豪遊ぶりの噂が癪に触るのである。
「友人の話を聞いて興味を持ったところに、昨夜お見えになったのですよ」
「それで彼女は待ちかねた口ぶりだったのだな」
はい、と佐伯知草が顎を引いた。
「森岡さんのお人柄もさることながら、津川社長を黙らせた貫禄が駄目を押したようです」
「そうだとしたら、余計なことをしたのかな」
森岡は苦笑いをした。
「でも、私は助かりましたよ」
「後悔しているんやないで、人助けは俺の業のようなものやからな」
「業って、なんです?」
「それは、聞き流してくれ」
つい口を滑らせてしまった森岡は、
「それで彼女は何と」
と誤魔化した。
「森岡さんがお世話下さるのなら是非大阪へ行きたいそうです」
「世話って、さっきも言ったが彼女にする気はないで」
「わかっています。北新地随一の美形ママさんと一緒になるのでしょう」
「それも、彼女の友人からか」
「夜の世界は話が伝わるのは早いですからね」
確かに、と同調した森岡は、
「世話するだけでええなら、なんぼでも紹介するが」
「口利きだけではだめですよ。口座、それも大口になってあげなくては」
「口座ってか」
森岡は当惑気に言った。
口座とは、ホステスの個人営業の客のことである。口座の客が上客であればあるほどホステスの実入りは多くなる。
「一緒になるママさんは、店を引けられるのでしょう」
「その予定だが」
「でしたら綾音ちゃんの相談相手にもなって、名実共に後見役になってやって下さい」
「俺にそんな甲斐性はないで」
「また、御冗談を……。それに」
「なんや」
「そのうち、抜き差しならなくなったりして」
知草は意味ありげな笑みを零した。
「そんな関係にはならん」
森岡は動揺を押し隠すように言うと、
「そんなことより、綾音ちゃんは習い事はしてるか」
と話を逸らした。
「お茶とお花は講師の免許持ちだと聞いています」
「ほう、なかなかのものやな。それやったら、北新地でも指折りの名店のママに話をしてみよう」
森岡は北新地でも一、二を争う名店花園のオーナーママ・花崎園子に相談しようと考えていた。先頃、彼女が茜を後継者にと考えていたことを知ったからである。
綾音に茜の代役が務まるかどうかは不明だが、彼女は茜に劣らずホステスとしての華と素養があると森岡が思っていたのは確かだった。
「ああ、良かった。これで綾音ちゃんとの約束を果たせます」
「せやけど、彼女はリッチのナンバー一なのやろ。店は大丈夫かいな」
「心配ですか」
「そりゃあ、縁のある店はどこも気になる」
「でしたら、月に一度……、とまでは言いませんから、せめて二月に一度、北海道に来て下さい」
佐伯知草が森岡の腕に両手を絡めて頬を肩に押し当てると、甘酸っぱい香りが鼻腔に広がった。
「義理とはいえ、ママが無楽斉先生の娘とわかったからには、できるだけ売り上げに協力するとしよう」
知草の甘えるような声に、森岡はついそう言ってしまった。
後日、茜から受け取った目加戸瑠津の報告書には重要な記載があった。枕木山には、良質の鉱物が埋蔵されている可能性が高いというのである。
その鉱物とは金ではなく水晶だった。
武田信玄が放った乱破からの文に、
『枕木山の中腹に、金にはあらねど、良質の(はり)あり』
と記されているというのである。はりとは水晶のことである。
「ねえ、洋介さん。宍道湖での瑠津さんの言葉、あれ本心だったのよ」
「宍道湖での言葉? 何のことや」
森岡は心中を押し隠すように惚けた。
「もう、聞こえていたくせに」
茜は森岡の腕を抓った。
「あの頃の俺には未来への希望などなかった。その俺が目加戸家のお嬢様とどうこうなろうなどとは考えられるはずもない。しかも、彼女は俺の大親友で恩人でもある坂根秀樹の彼女だったのだからな」
「その言い方だと、洋介さんも瑠津さんのことが好きだったのね」
「そうかもしれんな」
「まるで他人事ね」
茜の口調には棘があった。
森岡は委細構わず、
「そう、人並みの恋愛など、生きる希望の無かった俺には他人事だった」
「瑠津さんは今でも貴方を想っていらっしゃるわ」
「俺には、お前がいるんやで」
森岡は咎めるように言った。
「それとも瑠津さんに鞍替えしてもええのかな」
「それは、嫌……」
蚊の鳴くような声である。
「聞こえないな」
森岡は手のひらを耳に当てた。
「それは、困るう」
茜は駄々っ子のように言った。そのふくれっ面に、森岡はクスッと笑った。
調査を継続していた景山律堂からも、かつて枕木山には栄真大聖人の末弟・栄相の草庵があり、彼の子孫が代々隠遁していたのだが、瑞真寺が建立された後に廃庵となり、今では総本山でも忘れられた存在だったとの報告があった。
これで裏付けも強固なものになった。
これらの情報を元に森岡は推量した。
栄相の、いずれかの代の子孫が、枕木山には良質の水晶が埋蔵されていることを知ったのであろう。そして今日まで固く秘匿してきた。
現門主の栄覚もまた秘匿しなければならなかった。誰かに疑念を抱かれてしまえば、宝を失いかねないからだ。枕木山は天真宗が所有する山であり、採掘の権限は宗務院に帰しているのである。
自身の野望実現に役立てたい栄覚は、法主になったあかつきに宗務院に圧力を掛けて、枕木山の草庵跡を含む一帯、あるいは山全体を買い取る気なのだ。むろん瑞真寺ではなく家門が所有する単立寺院に、である。
元々、宗祖家縁の草庵地が絡んでいるのだ。立国会を絡めて瑞真寺の護山にでもすると説明すれば反対の声は小さい。
その後、水晶を発掘する。良質の水晶は金魁に匹敵する価値がある。そうして得た潤沢な資金は、法主の座を宗祖家の世襲とする工作に使われる。
法主にさえなってしまえば、土地の買収、水晶の採掘の過程に関して問題視する声が上がっても撥ね付けることができる。
洞窟のような痕跡は草庵跡を採掘したものなのだろう。
三度の失踪者は、伐採中に他の作業員の目から逃れてその洞窟に一旦身を隠し、深夜に山を降りれば良いのだ。子供騙しだが、古い史跡という威光が隠れ蓑になったと思われた。
坂根好之らが枕木山を訪れたことを宗務院から知らされた栄覚門主は、坂根らの行動を監視していたに違いない。そして、一人で再度枕木山に入った坂根を拉致した。
他方で栄覚門主が勅使河原公彦と一線を画していることも確認できた。水晶発掘は時の定まらない企てである。したがって、勅使川原の資金援助を受けた方が得策のはずである。
だが、今のところ坂東明園や一色魁嶺に対して高額の賄賂を渡した形跡はない。というより、そもそも栄覚門主が水晶の件を勅使川原に秘匿していたからこそ、勅使河原は野津が所有する材木伐採権の奪取を図らなかったのだ。
これらはあくまでも森岡の推量に過ぎなかったが、ともあれ瑞真寺の敵意が鮮明になった今、当寺の秘事と悪しき企みの尻尾を掴んだことは、森岡にとってこの上ない反撃材料の手掛かりになった。
総本山に戻った景山律堂だったが、草庵跡の調査とは勝手が違い、さっそく宗務院へ足を運び、森岡からの新たな依頼に着手というわけにはいかなかった。森岡の話から宗務院の中に敵、すなわち栄覚門主への内通者がいる可能性が高いとわかった以上、迂闊な行動は控えねばならなかった。
景山は総務清堂と相談し、総務の特命で臨時の会計監査を行うと、宗務院に通達した。
総本山の宗務院には主に二つの役目があった。
一つは、総本山の宗務の管理監督である。この役目の長官は宗務総長であり、現在は永井大幹が務めている。
もう一つは、全国寺院から集約される事務報告の管理と監査である。総本山の宗務院も含めたこの役目の最高責任者は総務で、同じく藤井清堂が務めている。
景山は、総務清堂の許可証を持って宗務院に乗り込んだ。
宗務院は社務塔と呼ばれる建屋にあった。
社務塔は東門の奥に位置している。東門の前には広大な駐車場があり、全国からの参拝客は東門の直前まで車で登って来ることができた。一方、正門から入山する場合は麓から徒歩ということになった。
社務塔の入り口に社務所があり、参詣客等の受付事務はここで行われた。
宗務院は社務所の奥にあった。宗務総長と二名の宗務次長には個室が与えられているが、その他の一般僧侶は大部屋で職務に当っていた。その数、三十名である。その他、各子院で得度してまだ数年しか経たない学僧が一般雑務を交代で担当していた。
景山は、周囲の目を気にしながら本山相心寺と無明寺の会計報告を調べた結果、二寺院ともに揮毫料の記載が森岡の報告より極端に少ないことがわかった。
ほどなくして、伊能剛史の調査により無明寺の脱税行為が明白となった。伊能は帝都大学時代の友人である東京国税局の主任査察官を通じて、京都東税務署の署長に話を通してもらっていた。学閥、とくに我が国最高学府である帝都大学閥は、この国のありとあらゆる分野、階層に根を伸ばしている。
京都東税務署の署長としても、願ってもない申し出であった。
脱税の摘発、とくに税務上の聖域にある宗教法人の摘発は、昇進出世のための大きな得点となるからである。
そのため、逆に強引な摘発を法廷に持ち込まれ、敗訴して左遷に憂き目に遭う署長もしばしばいた。
森岡は十分な証拠を確保したが、すぐには糾弾行為に移らなかった。栄覚門主が相手となれば、首尾良く一色魁嶺の停職に成功しても、合議まで間を作ってしまうと、いかなる逆襲を受けるとも限らないからである。
森岡は合議の日の三日前に、規律委員会が開催されるように逆算して行動することにした。
その間に、景山は森岡が懸念を示した『瑞の坊』の縁起も調べようとしたが、これもまた、おいそれとはいかなかった。全国寺院の縁起資料は、総本山の文庫資料館に保管されているのだが、この管理も宗務院の支配下にあるため、同院の許可が必要なのである。景山は、再度総務清堂の協力を仰ぎ、華の坊の縁起を調べると偽って文庫資料館に入った。
総本山の護山である高尾山に建つ瑞真寺では、執事長の葛城信之が栄覚門主への注進に及んでいた。
「何やら華の坊の景山がいろいろと嗅ぎ回っているようです」
「総務の懐刀が何を調べているというのかな」
柔らかな口調だが、眼つきは厳しい。
「一つは寺院の会計監査だそうで、もう一つが華の坊の縁起だそうです」
ほう、と唸ったきり栄覚が沈思した。
「中原宗務次長からの報告じゃな」
「そうです」
「会計監査のう……」
「何か心当たりがございますか」
「景山が動くということは、当然森岡の指示であろうな」
「おそらくは」
葛城が忌々しげに肯いた。
「となれば、本妙寺の貫主の座に久保上人を押している寺院の瑕疵を探しておるのだろう」
「傷を探していると」
栄覚は苦々しい顔で頷いた。
「情けなきことながら、坊主も修行より金勘定というのが当世であるからな。脛に傷を持つものもいるだろう」
「寝返りの脅迫のネタに使うと言われますので」
「それも手だが、あの男ならば嫌味をするかもしれないな」
栄覚は東京ビッグサイトでの面談を想起して言った。
「嫌味、と言われますと」
「ほれ、こちらが使った手だ」
「規律委員会ですか」
「目には目を歯には歯を、ということだろう」
と言った栄覚が口の端を歪める。
「仏教徒が口にする例えではないがな」
「なるほど。では、縁起の方はどういうことでしょうか」
「華の坊というのは方便で、こちらのことを探っているのだよ」
「当寺院の縁起はすでに知っていると思われますが」
「だから、当寺そのものではなく、当寺と関わりのある寺院を、という意味だ」
「なるほど」
「これもまた森岡の指示なのだろうが、こちらの方は、奴の能力からすればようやくというところだな」
「とてもそうとは思えませんが」
葛城にしてみれば、森岡の着眼点の鋭さに驚くばかりなのである。
「しかし、何のためでしょう」
「さしずめ、瑞の坊あたりかの」
「あっ、そういうことですか」
と気づいた葛城の顔が歪んだ。
「では、雲も……」
いいや、と栄覚は首を横に振った。
「さすがの森岡も、まだそこまでは気づいていないようだ」
「さて?」
葛城は、なぜにという顔をした。
「あそこはほれ、呼び名が違うであろうが」
ああー、と葛城が思い当った。
「『音読み』ではなく『訓読み』だからの。まあ、以前に名刺でも渡していれば視覚的に残っているかもしれないがな」
いかにも、と葛城は唸った。
「どういたしましょうか」
「放っておけ」
栄覚はつれなく言い放った。
「えっ?」
葛城が呆気に取られた。
そもそも、数日前から栄覚門主の機嫌が良いことに疑念を抱いていた。
森岡に枕木山の草庵跡を勘付かれたことで、御本尊のすり替え行為にも神経質になっていたはずであった。
葛城は語調を強めた。
「下手をすると、神村上人が本妙寺の貫主になってしまいます」
「良い、良い」
それでも栄覚は不敵に笑った。
「……」
葛城は狐にでも化かされたような顔をした。
それもそのはずである。栄覚門主にとって神村は、野望の障害となる最大の仇敵であったはずである。だからこそ、まずは出鼻を挫くため、神村の本妙寺貫主就任阻止へ向けて様々な策を巡らしてきたのではなかったのか。
それを、肝心要の合議間近になって、放って置けとはどういう意図なのか。
顔色を失った葛城に栄覚が問い掛けた。
「葛城執事長、私にとって神村の脅威とは何だね」
「言うまでもなく、御門主様の法主就任への障害でございましょう」
「そのとおりだ。ならば、本妙寺の貫主など畏怖することもないであろう」
「しかし……」
葛城には栄覚門主の謎掛けが解けなかった。
神村は、まさにその本妙寺貫主の座を足掛かりに、法主の座へと駆け上がって来るかもしれないのである。
「今はわからずとも良い、執事長」
栄覚は意味深い言葉を掛けると、
「そうだな、放って置いても痛くも痒くもないが、森岡に吠え面をかかせるのも面白いな。いや、一度奴に挫折という苦みを味あわせてやろう」
栄覚の眼が鈍く光った。
「執事長、近くへ」
栄覚は近づいた葛城に、
「中原宗務次長に伝えたいことがある」
と断ってから、一段と声を低めて何やら囁いた。
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