第39話  第六巻 決意の徒 蠢動

 山尾茜と目加戸瑠津が心を通わせていた頃、森岡洋介は北海道の歓楽街である『すすきの』にいた。すすきのは東京新宿の歌舞伎町、福岡の中洲と共に日本三大歓楽街の一つである。

 実は、森岡は松江に出向いたのだが、話の成り行きで北の大地に足を踏み入れることになったのである。

 森岡が松江へ赴いたのは、相良浄光からの呼び出しに応じたものだった。

 相良は静岡大本山国真寺の御本尊の一件で、貫主である作野の妄言を見抜いて森岡に協力した天真宗の若い僧侶である。また瑞真寺の御本尊にも疑念を抱き、策略を提案したのも彼だった。

 その瑞真寺に動きがあったとの報せを受け、繁多の中、時間を割いての松江入りとなった。

 相良と落ち合う場所は松江城にほど近い、観寿庵(かんじゅあん)という老舗の蕎麦屋だった。昼食を共にしようというのである。

 松江が茶所であるのは世に知られている。とくに松江藩第七代藩主松平治郷(はるさと)が『不昧(ふまい)』という号を持つ江戸時代の代表的茶人の一人であったため、良質の茶葉が栽培された。

 その茶葉に隠れているが、実は出雲の蕎麦も長野県の戸隠蕎麦、岩手のわんこ蕎麦とともに三大蕎麦に数えられるほど有名でなのである。

 森岡は約束の時間より一時間も早く松江に到着したため、松江城周辺を散策して時間を潰した。彼は松江高校に通っていながら、この美しい城下町を観光したことが一度もなかった。文化祭に出展した映画のロケ撮影で名勝を数か所廻ったが、ゆっくりと観光する時間もその気もなかった。

 松江城北側の堀沿い、塩見縄手(しおみなわて)と呼ばれる約五百メートルの一角は江戸時代の侍町で、その端に小泉八雲ことラフカディオハーンの旧居が保存されている。

 森岡はその掘割沿いを歩いて観寿庵の暖簾を潜った。

「お忙しいのに、お呼び立てして申し訳ありません」

 僧衣を纏った相良は、その丸刈りの青々とした頭を小部屋に入って来た森岡に下げた。 

「いや、ちょうど良い松江見物になった」

 森岡は笑顔で応じると、

「松江高校は赤山に移ったのだな」

 と訊いた。

 赤山とは松江城にほど近い丘である。

 森岡が通った頃の松江高校は、市内の中央よりやや南部にあった。

「五年前のことです。御存じなかったのですか。森岡先輩ほどの資産家であれば高額寄付の依頼があったでしょうに」

 相良は呆れ顔で言った。

「ああ、たしかに」

 森岡は一千万円を寄付したことを思い出した。

 驚いた学校側から移転の記念式典に招待したいとの申し出を受けたが辞退した。

 五年前と言えばウイニットを立ち上げたばかりで時間に余裕がなく、案内状も碌に目を通していなかった。

「まずは蕎麦を食いながら話を聞いて下さい」

 運ばれて来た碗にそばつゆを落として森岡に手渡した。

「先輩はいったい何をしたのですか」

「何のことだ」

 森岡は、相良の言葉の意味をわかったうえで惚けた。

「日本仏教会事務局から正式に瑞真寺の御本尊を出展するよう要請があったようです」

「そうか」

 森岡は平然として聞いた。禅宗系道臨宗の大本山太平寺の宗務総長は、疑義も抱かずに丹羽秀尊管長の命に従ったということになる。

「まさか、本当に道臨宗の上層部にも人脈をお持ちとは、呆れて物も言えません」

「なに、菩提寺が道臨宗なだけだ」

「お言葉を返すようですが、それは解せませんね」

 相良は穿った目で森岡を見た。

 相良の疑念は無理からぬことだった。彼は、森岡の故郷である浜浦が自坊のある浜田の村と大差ないと知っていた。

 したがって、そのような小さな村の末寺の住職と、道臨宗の上層部との間に交誼があるとは思えなかったのである。むろん、園方寺先代住職の道恵と当代の道仙が、共に権僧正という田舎の末寺の僧侶としては破格の僧位にあることを知る由もない。

「お前が納得しようとしまいと、それだけだ」

 森岡はその話に蓋をするように言い、

「本題に入れ」

 と急かした。

「やはり、思ったとおりのようです」

「瑞真寺の御本尊は不在なのだな」

 相良は、それには答えず、

「どうです、これからそれを確かめに北海道へ行きませんか」

「北海道だと? また突拍子もないことを……」

「あれ、森岡先輩でも驚かれることがあるのですね」

 相良は大仰に言ったが、そこにからかいはなかった。

「一度訊きたかったが、お前は俺を何だと思っているのだ」

「松江高校出身者切っての傑物ですが」

 森岡は呆れ顔になった。

「何を言っている。長い歴史と伝統を誇る我が校からは、竹山首相はじめ大政治家を何人も輩出しているのだぞ。いや政治家などと比べなくても、毎年多くの秀才を帝都大学に送り込んでいるし、現にウイニット(うち)の坂根好之の方が落ちこぼれだった俺よりずっと上だ」

 相良は、それは違う、と何度も顔の前で手を左右に振った。

「成績の上はそうでしょうね。でも、私が言いたいのは人間としての器の大きさです。もちろん、坂根先輩の秀才ぶりも伝説になっているほどですが、政治家は別として、私たち後輩の間では森岡先輩が一番の憧憬の的なのです」

 ふん、と森岡は鼻で笑った。

「こんな俺のどこに憧れるのだ」

「生き様です」

「生き様だと……。一端の坊主みたいなことを言うな」

「むろん一端ではありませんが、これでも坊主の端くれです」

 相良は悪びれずに応じた。

「俺の何を知っているというのだ」

「先輩は御存じないようですけど、高校時代の先輩のことは代々語り継がれていますよ」

「……」

 森岡は首を傾げた。

「映画ですよ、映画」

「映画って、あれか」

「先輩と目加戸家の御令嬢が共演されたあの映画、実は先輩が卒業されてから、文化祭では毎年特別に上映されていたのです」

「誰がそんなことを」

「植島先輩ですよ」

「植島? あいつがなぜ」

 植島というのは、文化祭に映画作品を出展しようと言い出した張本人で、脚本、撮影、監督の三役を熟した同級生である。現在は念願適って映画会社に就職していると承知していた。

「先輩たちの映画が好評だったのは御存知ですよね」

「まあな」

 事実、森岡らの制作した映画は絶大な好評を博した。初めは教室で上映していたが、あまりの反響に急遽、数倍広い 柔剣道場に場所を移したほどだった。

「先輩たちが卒業された後、真似る後輩たちが続出したのです。夏休みになると彼らは一様に、植島先輩の許に出向いて指南を仰いだのですが、すると先輩は決まってあの映画を材料に手ほどきをされたのです」

「だからといって、あの映画だけで俺の何がわかる」

「わかりません。ですが、どのような人物なのか興味は湧きます」

「俺にか、目加戸さんではないのか」

 はあ、と相良は嘆息した。

「先輩は、他人のことは千里眼でもご自身のこととなるとからっきしですね。いいですか、あの映画での存在感は目加戸家の御令嬢の比ではありません」

 悲恋物語であったから、恋愛真っ只中の目加戸瑠津より、不幸を絵に描いたような境遇にあった森岡の方が印象深かったのかもしれない。

「……」

「先輩にはファンクラブまで、できたというではありませんか」

 たしかに後年行われた同窓会で、誰かがそのようなことを言っていたのを森岡は記憶していた。三年次には同級生だけでなく、下級生の間にも広まったほどだという。

「そのうち、良くも悪くも 名物教諭だった藤波先生との交誼や、なぜか用務員と親しくなり、昼休み時間は用務員室でくつろいでおられたこと、親友である坂根先輩のために悪名を轟かせていた上級生と直談判して、屈服させたというではありませんか」

 明日に希望が持てなかった森岡にしてみれば、ただ己の欲するままに淡々と生きていただけであったのだが、不良上級生だろうが名物教師だろうが、何者にも媚びない姿勢がクールに映っていたということらしい。

 ここで相良の語調が変わった。

「ああ、あの用務員ですがね。後でわかったことですが、とんでもない人物でしたよ」

「やはりそうだったか」

「気づいていましたか」

「お互いに詳しい身上は黙っていたが、用務員にしては『気』が違ったな」

 森岡は、幼少の頃より祖父洋吾郎の胡坐の上に座りながら、多くの要人と接していた。肌に感じる用務員の気は、彼らと同質かそれ以上だった記憶していた。

「誰だ」

「白仁田邦夫氏です」

「白仁田? どこかで聞いた名だな」

 森岡は遠い記憶を辿った。そして三十年もの昔の若い面影が浮かんだ。

「唐橋大蔵氏の秘書だった人だな」

「名前だけでわかりましたか」

「いや、幼い頃何度か会っている。当時は思い出せなかったが、名前を聞いて記憶が重なった。

――なるほど、俺が灘屋の身内と知って良くして下さったのか。

 森岡は高校時代を想起し、厚情に手を合わせた。

 唐橋大蔵は政権与党の重鎮だった。

 森岡の祖父洋吾郎とは長年の盟友で、洋吾郎は島根半島界隈の票の取り纏めに尽力していた。だが、トンネル工事の陳情に絡み、島根の首領である設楽幸右衛門基法の子飼いで、後に首相を務めた竹山中との板挟みに遭い、不本意ながら唐橋大蔵を引退に追い込む結果を招いていた。

 白仁田邦夫は唐橋大蔵の政策秘書として辣腕を振るっていた切れ者秘書だった人物で、唐橋に随行して灘屋も訪れていたのである。

「何度か会っているですと……。さすがは島根半島界隈随一の名家ですね」

「そんなことまで知っていたのか」

 はい、と相良は自慢げな笑みを浮かべた。

「しかし、大物政治家の秘書だった人物がどうして用務員などに」

「落ちぶれたのか、というのでしょう」

「いや、職業に貴賎は無いと思っているが、あまりに境遇が違い過ぎるだろう」

「唐橋大蔵氏が引退した後、しばらくは息子の大紀氏の秘書していたようですが、奥様が亡くなられたのを機に、余生は誰に気兼ねをすることもなく、ただのんびりと暮らしたいと思われたそうです」

 なるほど、と森岡が呟いた。

「おそらく、ずいぶんと世の中の裏を垣間見て来られただろうから、素性を隠して生きたいという気持ちもわからなくはないな」

「今の校長とは同級生で帝都大学でも一緒だったらしいので、無理が通ったのでしょう」

 と、相良も同調するように言うと、

「そして、極めつけはウイニットを起業し現在に至っている。納得して貰えましたか」

「世の中には物好きが多いというのはわかった」

  森岡は素っ気なく言った。

「もっとも、私のような天真宗に関わる者にとってみれば、そのようなことは些末ですがね」

「何が言いたい」

「御前様や神村上人とお付き合いのある、いやお二人が懐刀と頼りにされる先輩は、憧れの的というより雲上人だということです」

 そう言った相良は大きな溜息を吐いた。

「俺のことはもういい。それより、ずいぶんと話が横に逸れた。お前とはいつもそうだ」

 森岡は自分で話を切り出しておきながら、悪態を吐いた。

「それで北海道には何があるというのだ」

 責めを押し付けられた相良は不服な顔をしながらも、

「人間国宝の北大路無楽斉氏がおられます」

「人間国宝だと、わからんなあ」

「あれえ、これもまた珍しい。先輩にしては勘が鈍いなあ」

 相良は鬱憤を晴らすかの嘲笑した。

 普段であれば立腹する森岡だが、どうも目の前の相良には調子を狂わされて怒る気にもならない。

――これもまた、一種の人徳なのだろう。案外、良い坊主になるかもしれない。

 などと思いながら、

「参った」

 と、森岡は軽く頭を下げて降参の意志を示した。

 相良は得意げな顔で、

「瑞真寺がこちらの期待通りに動き出した節があります」

 と小さく顎を引いた。

 森岡の脳が激しく作動した。もし相良の推量どおり、瑞真寺の御本尊が国真寺に移っていたと仮定すると、瑞真寺が長年開帳を拒んできたのは御本尊が不在だからということになる。それが日本仏教会事務局から出展の要請があった途端、北大路無楽斉という人間国宝の名が出た。

「その人間国宝は仏師なのだな」

 相良は答える代わりに不敵な笑みを返した。 

「御本尊を偽物とすり替えるなど、半信半疑だったが……」

 森岡は何とも複雑な表情で言った。

「面白くなってきましたね、先輩」

 相良が目を輝かせた。

「瑞真寺が仏像製作を依頼した証拠はあるのか」

「それを確かめに北海道へ誘ったのです」

「北大路氏に会えるのだな」

「すでに面会のお願いはしてあります。返事はまだですが、とりあえず行ってみませんか」

 腕時計に目をやった森岡は、

「よし。ではこのまま大阪に引き返そう。夕方発の千歳空港行には間に合う」

 と、相良の提案を即座に受け入れた。

 森岡の本領は迅速果断なことである。大阪に戻ると言ったのは、最寄りの米子空港からも、同じ島根の出雲空港からも千歳空港への直行便が無かったからである。

「そうこなくては」

 傍らに置いていたボストンバッグをポンポンと叩いた相良は、端からそのつもりで準備していたのだと言った。

「統万、あれを」

 と、森岡が声を掛けた。

 足立統万はセカンドバッグから空茶封筒を取り出して森岡に手渡した。

「これは情報料だ」

「とんでもない。まだどうなるかわかりませんし、前回も過分に頂きました」

 森岡が差し出した茶封筒を相良が押し返した。

「邪魔にはならん、取って置け」 

「お金は要りません、その代り頼みがあるのですが」

 相良が恐縮そうに切り出した。

「ほう、お前にしては神妙だな。何だ」

「実は、来年の春に亡き祖父の十三回忌法要があるのですが」

 と言って相良がその先の言葉を躊躇った。

「どうした。本当にお前らしくないな」

「それが、父が申しますにはその法要の導師を御前様にお願いできないものかと」

「親父さんが御前様に、ってか」

「私が父に先輩と御前様の関係を話したものですから」

 相良は肩を窄めて森岡を見た。

 しばらく沈思していた森岡は、

「お前のお祖父さんは天山修行堂で荒行をされていたか」

 と訊ねた。

「一度だけですが、先代帝法上人様にご薫陶を賜ったと聞いています」

「法縁はあるということか」

 森岡は蕎麦を口に入れながら再度思案した。

「わかった。御前様には俺が頼んでみよう」

「有難うございます」

 相良は歓喜して頭を下げた。

「だが、物入りになるぞ」

「承知しています。交通費や宿泊費の他にお礼は五十万用意します」

 森岡が厳しい顔つきで相良を見た。

「甘いのにも程があるぞ」

「はあ」

 相良は思いも寄らない口調に動揺した。

「お前、天真宗の坊主にしちゃあ、御前様の値打ちを知らないようだな」

 森岡は先刻の仕返しとばかりに言った。

「では、いくら包めば良いのですか」

「まず、御前様ご本人には最低でも百万」

「まず?」

「お前なあ、御前様に導師をお願いするとして、脇導師は誰が務めるのだ」

「父では駄目ですか」

「失礼だが、親父さんの僧階は」

「権大僧都です」

 聞こえは良いが、天真宗で言えば上から六番目の僧階でしかない。ちなみに天真宗では、上から大僧正、権大僧正、僧正、権僧正、大僧都、権大僧都、僧都、権僧都……、と続く。

「……だろう。権大僧正の脇導師を権大僧都が務められると思うか」

「ああ……」

 相良はようやく次第が呑み込めた。

「同じ権大僧正でも、御前様は影の法主とも呼ばれるほど別格なお方。少なくとも他に権大僧正を一人、僧正か権僧正を二人従えなければ格好が付かない」

「ではいくらになりますか」

 相良は恐る恐る訊いた。

「権大僧正に五十万、僧正あるいは権僧正に三十万ずつの、合計二百万ちょっとかな。諸経費を入れると三本にはなるな」

「三百万」

 相良は茫然となった。

「相良、さっき前回分は過分だったと言ったな」

「は、はい」

「ならば」

 と、再び統万に目配せをした。

 統万はセカンドバッグから札束を一つ取り出して森岡に確認した。だが、微かに

首を横に振ったのを見てもう一束掴んで森岡に渡した。三つではないことは、森岡の過分という言葉でわかっている。

「黙ってこれを受け取れ」

 森岡は、受け取った二百万円を茶封筒の上に載せて相良に差し出した。

「しかし……」

「俺に遠慮はするな。ただし情報の裏を話して貰うぞ」

 有無を言わせぬ体で言った。

「わかりました」

「それから相良、お前、御前様に導師をお願いするもう一つの意味はわかっているだろうな」

「はあ?」

 相良は、いかにも間抜けな声を出した。

「それもわからないのか、呑気なものだな」

「何かありますか」

「天山修行堂で荒行を積むことになるぞ」

「私が? ま、まさか」

 相良にとっては青天の霹靂だった。

 相良は、島根県西部の浜田という街の末寺を継ぐ身である。その資格は総本山か大本山・本山での所定の修行を済ませれば得ることができ、荒行は必要なかった。

「この話、親父さんが言い出したのだったな」

 はい、と肯いた相良の顔が歪んだ。

「あちゃあ、親父は端からそれも目的で」

 ふふふ、と森岡は同情とも激励とも付かぬ笑みを浮かべ、

「相良、まんまと嵌められたな。まあ、親心だと思って諦めろ」

 と引導を渡した。


 帰途の車中で、森岡は茜に連絡して予定の変更を伝え、併せて旅行の準備を整えてウイニットに届けるよう依頼した。また大阪からは野島、住倉、坂根、南目を、東京からは中鉢も同道するように命じた。

 そしてもう一人、右翼の首領・宗光賢治から薫陶を任された子息賢一郎も呼び寄せた。この際、森岡の側近たちに紹介しようという狙いがあった。

 蒲生と足立は、帰阪の途中、コンビニに立ち寄って着替えの下着等を購入することとした。

「さて、相良。今回の情報元を明かして貰おうか」

 森岡が横に座る相良に訊いた。

 運転は蒲生が受け持ち、足立統万は助手席に座っていた。

「自慢話にもなりませんが」

 と、相良は苦笑いをした。

「実は父が北大路先生と知り合いなのです」

 ほう、と森岡が相良を見た。

「御本尊でも彫って貰ったのか」 

「まさか」

 相良は、とんでもないという顔をした。

「宝浄寺(うち)のような貧乏寺に、人間国宝の作品が購える金などありませんよ」

 相良の寺坊宝浄寺(ほうじょうじ)は浜田市にあったが、市というのは名ばかりで、平成の大合併と言われた市町村合併によって浜田市に編入された、旧称でいえば字の付いた村落である。人口で比較すれば浜浦より小さかった。檀家の数は百五十軒ほどで、とてもではないが、祭祀儀礼による布施だけでは生活が成り立たなかった。

 そうした骨山といわれる貧しい寺院は、住職はともかく妻女や後を継ぐべき長男も別の仕事に就いて収入を確保するのが常である。

 その点、宝浄寺はいささか事情が違った。

 相良の父浄然(じょうねん)は仏師を兼ねていたのである。子供の頃より彫刻に魅了された浄然は、芸術家になる夢を抱いていたが、寺院の長男に生まれた宿世で断念した。

 ただ、彫刻を諦めきれない浄然は、手慰みで彫った仏像を檀家に無償で贈呈などしていたのだが、あるときそれが、とある仏具店の店主の目に留まり売り物にしようということになった。

「その際、本格的に研鑽を積む話になり、その店主の紹介で師と仰いだのが、後に人間国宝となった北大路先生だったというわけです」

「まさしく仏縁というやつだが、それで」

 森岡はその先を急かした。

「その北大路先生から父に釈迦立像についての相談があったのです」

「人間国宝が、か」

 森岡の口調には疑念が混じっていた。

 師が弟子に相談するとは……。しかも師の方は人間国宝に認定されている達人なのだ。

「そりゃあ、仏像彫刻に関しては、父は北大路先生の足元にも及びませんが、こと栄真大聖人の釈迦立像に関してだけは別というわけです。何せ、父はその模写物しか彫っていませんからね」

 森岡の心中を察した相良が胸を張った。

 北大路無楽斉が弟子である相良の父浄然に教えを請うたのは、瑞真寺執事長の葛城信之から製作依頼された前立仏が、宗祖栄真大聖人手ずからの釈迦立像の模写仏だからである。仏師ではなく、天真宗僧侶としての仏像製作の心構えを問うたのであった。

「なるほど、芸術の世界はそういうものか」

「このタイミングで御宗祖様の釈迦立像についてのお尋ねがあったのです。瑞真寺から注文があったに違いありません」

 だからこそ、それを確認するために北海道へ足を運ぼうと誘ったのだと言った。

「まさかとは思うが、北大路先生は瑞真寺の悪事をご存知ではないだろうな」

「当たり前です。先生はそのようなお方ではありません」

 相良は怒ったように言った。

「まあ、そうでなきゃあ人間国宝の域には到達できんだろうからな。だが、それにしても……」

「人の縁というのは不思議なものですね」

 相良が森岡の言葉を奪った。

「お前は運が良かったな」

「本当に。その仏具店の店主は結構顔が広くて、全国から注文が来るようになりました。そのお蔭で、私は一般サラリーマンになることなく、仏事に専念できるのです」

「浜田という小さな街の仏具店でも、そうそう見縊ったものではないということだな」

 島根県西部の日本海側にある浜田市は、人口が約六万人ほどの小さな街である。とても、全国に販売網を有しているとは思えなかった。

「いえ、そのお方は浜田ではなく大阪の人です」

「大阪だと」

 森岡の脳裡にある男の顔が浮かんだ。

「何か」

「まさか、その店主というのは榊原壮太郎という名ではないだろうな」

 ええー、と相良が眼を剥いた。

「先輩は榊原さんをご存知なのですか」

「知っているも何も、俺の事業経営の師匠だ」

 森岡は榊原との出会いから、彼の会社を受け継ぐことまでを話した。

「い、一兆円……」

 憧れの的だと言った相良もさすがにそこまでとは思いも寄らず、しばし口が利けなかった。


 車は中国自動車道の上月パーキングエリアに着いた。森岡らはそこで暫時休憩し、再び大阪へと車を走らせた。

 森岡が必ず上月パーキングエリアで休憩するのには理由があった。

 かつてこの地に有った上月城で戦国武将の尼子勝久が切腹し、一族は滅亡した。森岡は、自身の先祖は尼子の家臣だったと思っている。たとえ家臣でなくとも、自身の守護霊は灘屋の屋敷に祭ってある尼子の重臣である。故に森岡は、このパーキングエリアで城跡の方角に向かって両手を合わせることにしているのである。

「相良、話を仏像に戻すけどな。仮にお前の推測が当たったとして、偽物だと露見しないものなのか」

「そこですよ、先輩」

 相良が身体を森岡の方に傾けた。

「二百六十年間も未開帳ですから、世間に本物を知る者はいないということです」

「写し絵なども残ってはいないのか」

「あります」

「どの程度だ」

「さすがに写真というわけには行きませんが、かなり精密に描かれています」

 と言って、相良は鞄から天真宗本山総覧を取り出した。

「これです」

 相良がページを捲って指差した。

「なるほど、かなり精緻に描かれているが、専門家が見たら判別できるか」

「どうでしょうか。一口に開帳といっても、間近にまで顔を近付けることを許される場合もありますが、触れられないように一定の距離を置いたり、ガラスケースの中に陳列される場合もあります」

「当然、瑞真寺は一定の距離を置くよう条件を出すだろうな」

「尚且つガラスケースの中に入れるでしょう」

 と言った相良が得意げに顔突き出した。

「お前ならわかるのか」

「百パーセントとは断言できませんが、私は小さい頃から真贋を見抜く目を養っています。何しろ、物心が付いた頃から私の周りは御宗祖様が彫られた仏像の模写物だらけで、それこそ玩具も仏像でした」

「そこいらの学者や古美術商より上と言いたいのだな」

 相良は、はいという代わりに、にやりと笑った。 

「それは心強いことだな」

 感心顔で言った後、森岡はところで、と話を進めた。

「栄真大聖人が彫られた仏像は五体やったな」

「あくまでも確認されたものだけですけどね」

「それらはどこにあるのや」

「最古のものが瑞真寺、ああー今は国真寺だと思いますが、残りの四体のうち二番目と三番目に古いものが法国寺に、四番目が東京目黒の澄福寺に、一番新しいものが本妙寺にそれぞれ保管されています」

「ほう。本妙寺にもあるのか」

 森岡は顔を綻ばせた。神村は、それだけ格式の高い寺院の貫主に就くことになるのだ。

「五体とも釈迦立像なのか」

「いえ、最初の三体は立像ですが、後の二体は座像です」

「じゃあ、法国寺には立像が二体、本妙寺には座像があるのだな」

「そうです」

「総本山に一体もないのはどうしてだ」

「総本山には大聖人の御真骨や御真筆が沢山ありますからね。それに、仏像は御巡教の折に時間を見つけられては彫られたものを寄贈されたのです」

「それで京都に三体もあるのやな」

 森岡は得心したように言った。京の都は栄真が布教に最も力を入れた場所である。滞在期間も総本山に次いで長かった。

 はあ、と相良が思い出したように溜息を吐いた。

「どうしたんや」

「本当に天山修行堂で荒行をすることになるのでしょうか」

「なんや、坊主のくせにそないに嫌か」

「考えるだけでも、憂鬱になります」

 森岡はふっと笑った。

「心配するな。事前に何度か御前様と飲食を共にする機会を設けてやる」

「本当ですか」

「御前様とて鬼ではない。親しくなれば、手心を加えるというわけにはいかないまでも、相応の配慮はして下さるだろう」

「先輩、宜しくお願いします」

 相良は縋るように森岡の手を取って頭を下げた。


 森岡らがすすきのに着いたのは二十時前だった。

 ここでもう一人、道案内役として土門隆三(どもんりゅうぞう)という五十歳手前の男性が加わった。

 土門は、ウイニット北海道支店の支店長である。森岡はウイニットの拡大戦略の一つとして小規模のコンピューターソフトウェア製作会社を買収していた。特に大阪と東京以外の地方都市で積極的に行った。

 その理由はいくつかあった。

 まず、同等規模の会社だと対等合併ということになり、組織の運営上支障が生じる懸念があった。大銀行同士が合併したのは良いが、派閥が出来てしまい、その結果社長を交代で選出するという愚行を犯しているのは周知の事実である。

 また、一度に多くの社員を中途採用すれば、組織内の意思疎通が図れなくなる。

 その点、十名から三十名の会社を買収し、そのまま支店として傘下に入れれば、買収された側の社員の士気も落ちることはない。

 土門は『ダイヤシステム』という、従業員が二十五名規模の会社を経営していた。森岡が土門を知ったきっかけは、ウイニットが受注した仕事の外注先として使ったことだった。

 これは顧客の強い要望であった。顧客はコンピューター一式をすべて一新し、システム開発の発注先をウイニットに変更したのだが、その際前回のコンピューターシステム開発の一端を担ったダイヤシステムを外注として使って欲しい、とウイニットに要望したのである。

 たしかにコンピューターシステム開発というのは、顧客と開発会社の共同作業である。信頼関係が醸成されなければ、良いシステムは生まれない。とはいえ、外注先の一社に過ぎなかったダイヤシステムが、それほど客先から信頼を勝ち取ったとは意外であった。土門という社長が人物なのか、あるいは技術が優れているかということになった。

 森岡はそれを知りたいがために、自ら何度も北海道へ足を運んだ。しかも彼は仕事の話は一切せず、夜な夜な土門を夜の街へと誘った。そして土門の人となりも技術レベルの高さも気に入った。

 だが森岡は、仲間にならないかなどという直接的な勧誘はしない。

 それでは相手の力量を測れないからである。いかに人品骨柄に優れていても、洞察力が無ければ人の上に立つことができないのは自明の理である。

 森岡が大変に忙しい身だということは土門も知っているはずである。それを酒を飲むためだけに、わざわざ大阪から北海道へやって来る。はたして、土門はその意図を見抜いた。

 四度目の訪道のとき、土門は森岡に宜しくお願いします、と頭を下げた。

 森岡はダイヤシステムの従業員をそのまま雇用し、土門を北海道支店長に任命した。現在の人員は五十名余と倍増している。

「さて、食事はどこにしますか」

 土門が訊いた。

「札幌は久しぶりですし、時間も時間なので、例の炉端にしましょう」

 森岡は丁寧な言葉遣いをした。

 組織上は部下であるが、土門は十歳以上年長者で、まだ気心が充分知れた間柄とまでは言えなかった。

「炉端? 社長、せっかく札幌にまで付き合わせておいて、炉端焼きはないでしょう」

 南目輝が露骨に不満をぶつけた。

「大丈夫だよ、南目君。炉端といっても、大衆チェーン店のような店ではないからね」

 土門が笑顔で窘めた。 

 さすがに北海道一の歓楽街、すすきのである。南北は南四条の都通から南六条の間、東西は西二丁目から西六丁目の各通りは人の波でごった返していた。

 森岡が名指した『炉端焼き・どさん子』は南五条西四丁目、つまりすすきのエリアのど真ん中の交差点角に立つビルの二階に有った。店内の広さは百坪余もあり、ほぼ中央に調理場を置き、周囲をぐるりとカウンター席にしている。他にテーブル席と個室部屋もあった。

「おお、たしかに俺が通う炉端とは様子が全く違う」

 南目は目を丸くした。

「本来なら、調理人と対面できるカウンター席が良いのやが、こう大人数では話がし難い」

 森岡はそう言って、テーブル席を要望した。松江に集った森岡、蒲生、足立、相良の四人に、大阪から野島、住倉、坂根と南目の四人が、東京からは中鉢と宗光が加わり、さらに札幌で土門が合流し、総勢十一名に膨れ上がっていた。

 むろん九頭目弘毅以下、神栄会の組員は近くのテーブルに席を取っていた。

 まず最初に、森岡が皆に宗光賢一郎を紹介した。

 野島以下全員が順次自己紹介した後、乾杯となった。

「輝、まずは焼きタラバを食ってみろ」

「私も一度思う存分食ってみたかったのです。ですが、高いでしょう」

「いまさら、遠慮する柄か」

 森岡が嫌味を込めて笑った。

「坂根、統万、お前らは松葉は食い慣れているだろうが、タラバ蟹や毛蟹も美味いぞ」

「社長、灘屋と違って松葉蟹など滅多に口にしていません。せいぜい紅(べに)です」

 坂根が苦笑いをした。

 紅とは紅ズワイガニのことである。生だと松葉蟹と見分けは付かないが、茹でると鮮やかな赤みの掛かったオレンジ色になった。味もほとんど遜色はないのだが、値段は五分の一から十分の一と格安だった。境港はその紅ズワイガニの水揚げ高が全国一位であった。

「何にしても蟹なんて私の口にはとてもとても」

 と首を横に振った野島に、

「せやな」

「そうですね」

「私も」

 住倉、中鉢、蒲生が同調した。

「賢一郎はどうだ。親っさんに同伴して旨いものを食っていたんじゃないか」

「いえ、たまに同伴はしていましたが、別の部屋を用意されていましたので、そのような贅沢は許されませんでした」

 森岡の問いに、宗光が首を横に振った。

「どうせ社長の奢りだ。この際、思いっきり食わせてもらいましょう」

 南目の張り切った声に、

「そうさせてもらおうか」 

 と皆が口々に呼応した。

 ひとしきり腹を満たした後だった。さて、と土門が姿勢を正した。

「社長、私はいつ大阪に向かえば宜しいので」

 森岡が満足げな顔を土門に向けた。

「来年の春頃には」

「承知しました」

 土門が頭を下げた。

 土門は、森岡が野島をはじめ彼の近しい者を全員札幌に集めた意図を見抜いていた。北海道支店を離れ、大阪本社に入れという催促だということを――。

「社長、この後はどこに連れて行ってくれるんですか」

 二人のやり取りが終わるを見計らって南目が催促した。

「土門さん、リッチは大丈夫ですかね」

 森岡が大人数を懸念した。

「十一人ですからね。VIPルームが空いているか確認しましょう」

 土門はそう言って一旦店を出た。

「リッチだなんて、いかにも高そうな店ですね、先輩」

 相良が弾んだ声で言った。

 彼にすれば高級クラブなどまるっきり縁のない場所なのである。


 森岡が初めて北海道を訪れたのは八年前である。

 ウイニットを立ち上げる二年前、彼がシステム開発を担当していた大手空調機メーカーの工場の一つが苫小牧にあった。ブックメーカー事業と関わりを持つきっかけとなった杉浦のいた会社の工場である。

 折角の北海道である。滞りなく出張業務を終えた森岡は、この際休暇を取ってもう二泊し、市内観光することにした。もちろん自費である。

 苫小牧から札幌に移った夜、森岡は初めて札幌のすすきの地に立った。

 さて、北新地や祇園を中心に夜の世界には慣れている森岡だったが、すすきのは初見であるから馴染みの店はない。

 とりあえず、ホテルで食事をした際に板長から二、三のおすすめの店を聞いていたが、なんとなくしっくりこなかった森岡は、交差点の角にある案内所を訪ねた。

『歌が歌えて雰囲気の良い店、値段は問わない』

 というのが、森岡が出した条件だった。案内所の職員は上目遣いで森岡を見ると、リッチというクラブを推薦した。

 礼を言って出ようとした森岡の目の端に映った職員の薄笑いが気になったが、問い質すことなくリッチへと向かった。

 店のドアを開けて、森岡は職員の薄笑いの意味がわかった。リッチはすすきのでも五本の指に入る最高級クラブだったのである。値段は問わないといった言葉に職員は、意地悪をしたのだとみられた。

 ご他聞に漏れず、リッチも会員制を謳っていたが、このときの森岡は大きめのセカンドバッグに一千万円を入れていた。カードもプラチナである。

 このときの豪遊ぶりが道産子たちの度肝を抜いた。

 首尾よく入店を認められた森岡は、まずロマネ・コンティを注文した。 

 一本百万円もする最高級のワインである。これには、さすがのママも驚いた。三十歳ぐらいの、しかもスーツ、時計、靴と取り立てて高級な品は身に付けていない若者が涼しい顔で高級酒を求めたのである。

 案内所の職員が森岡を侮った理由も、まさに彼の身形だったのである。

 その後も森岡は、ママやホステスたちが繰り出す要望、つまり各種高級酒やつまみ、フルーツといった催促を全て了解した。ために、料金は七百万円ほどになったが、森岡は何事もなかったように現金で支払を済ませて帰った。

 この噂は、その夜のうちにすすきの一帯に広まり、たった一夜にして森岡の名はすすきのの夜に生きる者たちの胸に深く刻まれたのである。

 森岡が北新地のロンドで馬鹿騒ぎをした理由は、このときの体験が有ったからだった。


「これはこれは森岡様、よくいらして下しました」

 店に入るや否や、ママの佐伯知草が愛想を振り撒きながら近づいて来た。

「久しぶりやな、ママ」

「本当に。三年ぶりでしょうか」

「そないになるか」

 と、森岡は記憶を手繰るように言った。思い起こせば、初回の豪遊の後、土門と何度か遊びに来ていたが、近年はすっかり足が遠のいていた。

「今日は大人数やけどいけるか」

「もちろんです。土門様から連絡を頂戴し、VIPルームを用意いたしました」

「そうか、すまんな」

「とんでもございません」

VIPルームは二十人が座れる広さがあった。

 森岡らが席に着くと、ママと一緒にホステスたちが入って来た。中でも、森岡の横には銀座や北新地の最高級クラブのホステスに勝るとも劣らない美形が座った。

「森岡様、綾音ちゃんと言って、当店のナンバー一ですのよ」

 とママが紹介した。

「森岡です」

 と丁寧に頭を下げた。

「綾音です。やっと、お会いすることができて嬉しいです」

「うん?」

「森岡様の豪遊ぶりは、何かにつけて話に上るものですから、どのようなお方かといろいろ思い描いていました」

「本人を見てがっかりしたやろ」

「とんでもありません。想像以上です」

「べんちゃらでも嬉しいな」

「お愛想ではありません」

 綾音が拗ねた口調で言いながら、森岡の太腿を抓った。

 綾音は二十六歳。北国生まれからか,雪のように白い肌とそれとは対照的な漆黒の黒髪を後ろで丸めていた。端正な顔立ちで、やや太く濃い眉が利発さを、話す折にできる笑窪が愛らしさを醸し出していた。

 とはいえ、すすきので五本の指に入る高級クラブでは、ただ美形というだけではナンバー一にはなれない。

「森岡様、飲み物は何になさいます」

 ママが恐縮そうな顔で会話に入って来た。

「ロマネコンティは何本ある」

「五本ございます」

「全部もらってええか」

「もちろんでございます」

 ママは満面の笑みを浮かべて言った。

「その前に、ドンペリのゴールドで再会の乾杯といこうか」

「ええ……」

 相良は、森岡とママの会話を唖然として聞いていた。高級クラブで遊ぶだけでも夢のような話なのに、なんという豪遊ぶりだろうか。 

「この程度は驚くことでもないですよ。社長は一晩で二千万を使ったこともあるんですから」

 目を丸くしている相良に坂根が吹き込んだ。

「そう言えば、ウイニットは上場されるようですね」

「よう知ってんな」

 森岡は感心顔を綾音に向けた。

「だって、ウイニットというか、森岡様は有名ですもの」

 これは綾音の謙遜である。

 なるほど森岡の名は世間に知れ渡り始めていたが、それは業界紙などの分野に限られていて、一般紙や有名週刊誌には掲載されてはいなかった。つまり、いかに綾音が情報収集に努力しているかということである。

「上場いうても、新興市場やからな。大したことやない」

「ご謙遜ですこと。IT業界の寵児として今や時の人ですのに」

「これ以上、名が世間に知れるのは迷惑な話や。上場の準備なんかせんかったら良かったと思っている」

「でも、それでは数十億とも言われる大金が手に入らないではないですか」

 綾音は疑念の声で問い質す。

「まあ、それはそうやが」

 森岡が言葉を濁したとき、

「社長はな、上場なんかせんでも大金持ちなんや」

 三席離れたところから、南目がしたり顔で口を挟んできた。森岡の両脇はママの知草と綾音が座っていて、その両隣は護衛役の蒲生と足立が陣取っている。南目は足立の隣、坂根は蒲生の隣に座っていた。

「どういうことですか」

「それはな……」

 南目が綾音の方に身を乗り出したとき、

「輝、調子に乗るな」

 森岡の厳しい声が飛んだ。関係のない蒲生と足立までが思えわず身を固くしたほど場が凍り付いた。

「あ、すみません」

 南目が肩を窄めるようにして身体を元に戻した。 

「ごめんなさい。私が余計なことを聞いてしまったから」

 綾音の蒼白の顔で謝った。

「君は謝らんでええ。輝は俺の義弟やから、こんなことは日常茶飯事なんや」

「義弟?」

「そうや、あの男もな」

 森岡が坂根を指差して言ったとき、支配人が強ばった顔つきで部屋に入って来て、なにやらママに耳打ちした。

「津川社長がお呼びです」

 だが、森岡に漏れ聞こえていた。

「大切なお客様に付いていて身体が空かないと申し上げたの」

「何度も。ですが、いっこうに聞き入れて頂けません」

「困ったわね」

 佐伯知草が顔を歪めた。

「俺なら構わんで」

 森岡が気遣いをみせたのだが、ママの知草は却って困惑顔になった。

「いえ。他のお客様であれば、森岡様にお断りするのですが、津川社長の場合は 事情がありまして」

「事情? ママを無理やり愛人にでもしようとしているのか」

 森岡はこの業界の裏に精通している。ママの口調で状況を察した。

「その通りです」

 知草はあっさりに認めた。

「きっぱりと断ったらええやろう」

「 それが……」

 と彼女は口籠ってしまった。

「どうやら、単純な色事というわけではないようやな。どうや、俺に話してみんか。力になれるかもしれんで」

 いつもの森岡の悪い癖である。

「でも、お恥ずかしい話なので」

「じゃあ、向こうへ行ったらええがな。俺は綾音ちゃんが居ったらええで」

 森岡は突き放した言い方をした。彼一流の決断を促す手段である。

 知草は、暫し逡巡した後、

「お金を借りているのです」

「金? いくらや」

「二千万です」

「今は」

「利息を含めて千五百万ほど……」

 残っていると、知草は言った。

 時代は、バブル崩壊後の不景気のどん底だった。不況を真面に受けるのは地方である。その中でも北海道は悲惨を極めていた。なにしろ、主な産業といえば農業、漁業、林業といった第一次産業の他は観光業が中心である。不景気の影響を一番に受ける業種で、中でも札幌のすすきのはその最たる場所だといえた。

 資金繰りに窮した佐伯知草は、下心を承知しながらもやむなく津川から金を借りたということだった。彼女は、森岡より二、三歳年上の四十歳手前といったところだろうか。目を見張る美貌の持ち主ではないが、成熟した女性の色香を漂わせた男好きのする肉感をしていた。

「坂根、手元にいくらある」

 森岡が唐突に訊いた。

「千二百万ですが、ホテルに二千万預けてあります」

 坂根は、アタッシュケースを膝の上に置いて答えた。

「合わせて三千万も」

 綾音が驚きの眼で呟いた。それを他所に森岡が続ける。

「輝は」

「私は三百万です」

「蒲生と統万は」

「二百万です」

「私も同じです」

 蒲生と統万が答えた。

「俺が三百やから二千二百万か。丁度やな」

「先輩、借金は千五百万ですから、余裕でしょう」

 森岡の意図を察した相良が怪訝そうに口を挟んだ。

「表の世界だとそうやが、裏だとそうはいかんのや」

 森岡はそう言うと、ママに視線を戻した。

「ところで、津川というのは何者かな」

 灰色紳士だろう、という口調で訊いた。

「表向きは建設会社の社長さんということですが、実態は北神(ほくしん)会の企業舎弟なのです」

 佐伯知草は顔を曇らせて言った。

「北神会というのは、どこの系列かわかるか」

 と訊きながら『神』が付いていることから、想像はしていた。

「神戸の神王組だと思います」

「そうか、それなら話は早い」

 やはり、と森岡が明るい口調で言った。

 はあ、とママの知草は呆れ顔になった。  

「何を言っているのですか。相手は日本最大の暴力団、神王組の傘下組織なのですよ」

 彼女の呆れ顔は不安なそれに変わっていた。

「まあ、俺に任せてくれるか」

 森岡はそう言うと、視線を支配人に向けた。 

「俺らが入った後、店にやって来た四人組がいるやろ」

「森岡様の口利きで入店を許されたお客様方ですね」

「そうや。その中に九頭目という人がいるから、ここに呼んできてもらえるかな」

「九頭目様ですね。承知致しました」

 すぐに支配人が九頭目を連れて戻ってきた。

「森岡さん、何か御用でしょうか」

 九頭目は両手をそれぞれの膝に置いて腰を屈めながら訊いた。

「店の客で、津川という北神会の企業舎弟がママを寄こせと煩いので、私の女だと言って黙らせて下さい」

 森岡は、坂根のアタッシュケースに集めた二千万を詰め込んだ。

「ママが借りた残金の元利一千五百万と手切れ金五百万の、合わせて二千万です。津川に渡して下さい」

 森岡はアタッシュケースを九頭目に渡すと、さらに二百万円をその上に置いた。

「これは仕事代です」

「いえ、峰松に叱られます」

 九頭目は二百万円を手に取り、森岡に差し出した。

「峰松さんには、前もって時折金を渡すと断ってあります。せっかくの北海道ですから皆さんで美味いものでも食べて下さい」

「しかし」

 尚も逡巡する九頭目に向かって森岡は、

「貴方ほどの男に、男女のいざこざを収めてもらうのは心苦しいのですよ」

 と、森岡が苦笑いをした。

「そのようなことは、少しも頓着していません」

 九頭目はそう言うと、

「それに初めてではありませんから」

 と、野島を見た。

 野島も苦笑している。

「そうでした。あのときの礼もまだでしたね。まあ、長い付き合いになりそうですし、峰松さんに預けてある金に比べれば然したる額ではありませんよ」

 これ以上の遠慮は却って非礼になると思った九頭目は、

「そういうことでしたら、遠慮なく」

 と、ようやく二百万円を内ポケットに入れた。

「受け取りはどうしましょうか」

「要りません。貴方が証人なのですよ。津川に反故にする度胸がありますか」

「まさしく」

 九頭目はにやりと笑うと、小さく頭を下げて部屋から出て行った。 

 数分後、九頭目が津川を連れて戻って来た。四十代前半の大柄な男である。ママと綾音が緊張に身を固くした。

 だが、津川は直立不動のまま、

「初めてお目に掛かります。津川と申します。九頭目さんからお聞きしまして、まさか知草ママが、若頭が頼りにされている森岡様の女性だと知りませんでした」

 と言って深々と腰を折った。

 そして頭を上げ、

「この金は受け取れません」

 と五百万円をテーブルの上に置いた。

この若頭というのは、峰松重一ではなく六代目神王組若頭である寺島龍司のことである。

「いや、受け取って貰わんとけじめがつきませんのや」

 森岡は金を津川ではなく九頭目に手渡した。因果を含めよという意味である。

「借用書は後日ママの方へ送ってもらえますか」

「それは間違いなく」

 津川は低頭して言った。

 この様子をママと綾音は呆然を見ていた。彼女らだけでなく相良、土門も同様だった。野島、住倉、中鉢の三人は、神王組との詳細な関係を承知していなかったが、森岡であれば驚くことでもないと平然と構え、宗光賢一郎も父賢治と対等に渡り合う森岡であれば、さもありなんという顔をしていた。

「いったい、どういうことですの。あの津川社長が平身低頭で詫びるなんて」

「何でもあらへん」

 森岡はさらりと受け流した。

「何でもないことはないでしょう。かしらって誰のことなの」

 佐伯知草にしても、まさか神王組の若頭に伝手があるとは思いも寄らないことである。

「神王組の幹部の中に、ちょっとした知り合いがいるだけや」

 と、森岡は煙に巻くと、

「さあ、せっかくのすすきのや。賑やかに行こうか」

 話に蓋をするように言った。


 それから二時間後、

「さて、俺は明日大事な用があるから、そろそろ失礼するわ」

 と、森岡は腰を上げようとした。

「もうお帰りですか。この後カラオケにでも連れて行って下さい」

「カラオケは皆と行ったらええ」

 森岡は、甘える仕種をした綾音にやんわりと断りを入れた。

「俺と蒲生と統万はホテルへ帰るが、皆はゆっくり飲んだらええで。賢一郎もな、せっかくやさかい皆と親睦を深めろ。それと、明日は自由行動とするが、夜は定山渓温泉で騒ぐから、夕方には集合するようにな」

 定山渓温泉は、札幌から車で四十分ほどの場所にある。

「私はどうしたら良いですか、先輩」

 相良が名残惜しそうな顔で訊いた。

「好きにしたらええけど、二日酔いで明日の朝、起きれないということがないようにな」

 森岡は言い含めるように言い、坂根にプラチナカードを渡してリッチを出た。

 

 同じ夜、大阪の南森町にある神栄会本部では、若頭補佐の窪塚の報告に、峰松重一が衝撃を受けていた。山尾茜と目加戸瑠津の目の前に現れた神王組本家と名乗った男たちの存在である。

 神王組本家というからには、当然当代組長である蜂矢司の命令ということになる。森岡の護衛役は神栄会が担っているが、蜂矢自ら乗り出してきたというのであろうか。彼の不安は、神王組の中核と自負している神栄会の若頭である自分にさえ何も知らされていないということだった。

 峰松は親分の寺島龍司に報告に上がった。

「やはりな」

 寺島は冷静だった。

「やはり? 親父さんは知っていたのですか」

「六代目から、相談は受けていた」  

 峰松は凝っと寺島を見つめ、先を促した。

「蜂矢の親父は、御自身の護衛部隊とは別に直属の部隊を創りたがっておられた。まあ、護衛部隊が盾だとすると矛の役目の遊軍をな」

「森岡はんを護衛するためですか」

「いや、森岡はんはうちが護っとるから、彼の近しい人ということになるな」

「それで、ロンドのママを」

 そうや、と寺島が肯いた。

「六代目はそれほど森岡はんにご執心なのですか」

「そういうことやろうな。せやから、大阪にいるときは、密かに坂根と南目という部下にも人を付けてはる」

「……」

 峰松には返す言葉見つからなかった。

「それにな、新しい組織は色の付かない独立したものにしたいということやった」

「どういうことですか」

「これまで、何かあれば歴代の親分は出身組を頼られた」

「気兼ねがありませんから」

 峰松は当然という顔をした。

「それでは依怙贔屓になると親父は考えられたんやな。せやから、本家に修行に入った者の中から、優秀な男たちで組織されたんやろう」

 なるほど、と峰松は肯いた。

「修行の人数を多くしたのはそのためだったのですね」

 例年に比べ、十五名ほど多く修行極道を本家に招き入れていた。それに伴い、神栄会からは例年の二名ではなく三名を送り出していた。

「不足分のみ竜神組から選んでおられる」

 竜神組は蜂矢の出身母体である。

「公正無私の六代目らしい配慮ですね」

「だが、本来厚遇されて良いはずの竜神組の不満は、うちに向かって来るぞ」

「十分に気を配ります」

 峰松は神妙の面で言った。

「ところで、親分。本家の者には誰が連絡したのでしょうか」

「店のマスターに決まっているがな」

「店?」

「おそらく、森岡はんの馴染みの店には、因果を含めてあるということやろうな」

 寺島は、祢玖樽の東出が連絡を取ったのだと示唆した。

「では、スナガの件は」

 峰松は、蜂矢六代目直属の組員が忽然と消えた謎を問うた。

「スナガも竜神組の息が掛かっとるからな。おそらくカラクリがあるのやろう」

「……」

「隠し部屋や」

「なるほど、六代目はさすがですね」

 と感心する峰松に、

「なるほど、やないがな。森岡はんを護衛するとなれば、神栄会(うち)もスナガのような基地を早急に数ヶ所作らなあかんぞ」

 珍しく寺島が咎めた。

「気が付きませんで、すみません」

「まあ、ええわ。それより肝心の森岡はんは北海道らしいな」

「相変わらず、忙しい人ですわ」

「付いとるのは九頭目やな」

「そうです」

「あいつなら安心や。武道に通じ、頭も切れる」

 と納得顔で言った寺島が、急転厳しい目を峰松に向けた。

「この際や、はっきりと言っておく。森岡はんの護衛は蜂矢の親父の命令ではない」

「はい」

「したがって、表向きには何の功績にもならん」

「そのようなこと期待してはいません」

「それでええ。だが間違いなく親父の心証は良くなる。それがどういう意味かわかるな」

 峰松は黙って肯いた。

「逆に言えば、もし森岡はんになんぞのことがあれば、お前の先は無いということにもなる」

 寺島は、峰松の八代目の芽は無くなると示唆した。

「承知しています。しかし手を拱いていれば、同じ組から続けて組長を出さないという暗黙の不文律に従わざるを得ません。私としては一か八かの掛けでした」

「それはわっかとるつもりや。せやから、森岡はんの護衛を命じたんやからな」

「有難うごさいます。私の行く末を想っての親心だと感謝していました」

 うむ、寺島は肯き、

「しっかり目配りせなあかんぞ」

 と喝を入れるように言った。

「しかし、考えれば考えるほど六代目の森岡はんに対する思い入れは相当なものですね。それほどブックメーカー事業に期待されているのでしょうか」

「一度下手を打っているからな。相当な意気込みなのはわかるが……」

 寺島は、一旦言葉を切った。

「どうかされましたか」

「わしにはな、どうも違うような気がするのや」

「親父さんには何か他に心当たりがありますか」

「ひょっとしたらだが」

 寺島が再度躊躇した。

「ひょっとしたら、なんです」

「あくまでも俺の推量なのやが、森岡はんは親父と血の繋がりがあるのかしれん」

「血って、まさか父子ってことですか」

 峰松の声が裏返った。

 そうや、と寺島が肯いた。

「馬鹿な……」

 峰松は開いた口が塞がらない。

「可能性は無くはないんや」

「親父さん、いくらなんでもそんな突拍子もないこと」

 あるはずがない、と顔を左右に激しく振った。

「それが、有り得るんや」

「何かご存知なのですか」

「蜂矢の親父が極道の道を選ばれたとき、三代目は二年の本家修行の後、他人の釜の飯を食えと外に出しはったことがあるんや」

「そのようなことが……。それで、いったいどこへ」

「島根の石動(いするぎ)組や」

「あんな小さな組へ」

 峰松が思わず口を滑らした。

「お前、親父の前でその言葉は厳禁やぞ」

 寺島は厳しい声で叱責した。

「お前の言うように石動組は組員わずか二十名の弱小組織だが、先々代の組長は三代目の兄貴分だったお人や」

「本当ですか」 

 峰松は初めて聞く話だった。

「軍隊で一緒でな、階級は石動組長の方が上だったこともあって、ずいぶんと面倒をみて貰ったらしい。しかも、何といっても戦地やからな」

「生死の運命を共にした戦友ということですか」

「三代目が跡目を 継ぎはってすぐに、まだ立ち上げてまもない石動組長を舎弟頭補佐に大抜擢されたのもそういう事情がったからや」

「それを伺って石動組が神王組内で重用される理由がわかりました」

「それだけやないで。二人きりのときはな、三代目は石動組長を『兄貴』と呼び、石動組長は三代目を『政』と呼び捨てにしてはった」

「そこまで……」

 峰松には言葉が無かった。

 三代目田原政道は伝説の大親分で、神王組組員にとっては神のような存在である。徳川幕府で言えば、神君と謳われた徳川家康のような不可侵の聖域なのだ。

「だからこそ、三代目は石動組に教育係を任せはったんや」

「たしかに森岡はんは島根出身ですけど、ただ同郷というだけでは無理がありませんか」

 峰松は懐疑的な口調で言った。

「まあ聞け。松江の石動組と境港の足立興業とは古くから親交があるんや」

「それは叔父貴から聞いています」

 峰松の言う叔父貴とは足立万亀男のことである。

「その足立興業の万吉さんと森岡はんの祖父の洋吾郎さんとは義理の兄弟やったというのは知っているな」

「それも、今年の盆に知りました」

「それならわかるだろうが」

「足立興業を介して石動組が灘屋と関わりを持っていたとしても不思議ではない、ということですか」

「当時の灘屋は、島根半島界隈一の分限者で権力者でもあったから、石動組がその恩恵に与っていたと考える方がむしろ自然やろ」

「お言葉を返すようですが、いくらなんでもそれだけでは」

 無理があるという顔を峰松は見せた。

「むろんや」

 寺島も峰松の疑念を認めた。

「わしも気になって仕方が無かったのでな」

 寺島が決まりの悪そうな顔をした。

 寺島は筋金入りの武闘派極道である。男女の仲を調べるなど、本来であれば沽券に係わることであった。

「実はな、足立の兄弟にそれとなく確かめたんやが、兄弟もわしと同じことを考えていたらしい」

 足立の兄弟というのも万亀男のことである。

 寺島はこの夏のお盆に、浜浦で森岡を急襲した男を足立万亀男が神栄会へと連行して来たとき、飲食を共にしたのだと言った。


「兄弟、付かぬことを聞くようだが、ええか」

「なんですか、あらたまって」

「ちょっと、聞き難いことなのやが、六代目が若いとき、松江の石動組で修行してはったのは知ってるやろ」

「もちろんです。私もあちこちお供をして出掛けました」

「遊びにか?」

 はい、と万亀男は肯いた。

「修行言うても本家のそれとは違い、他人の釜の飯を食うことが目的だったらしく案外と自由だったようです」

 そうか、と寺島は思案顔で返事した。

「兄貴、それが何か?」

「いやなあ、その……」

「どうしたんですか、兄貴らしくもない」

「そのとき、浜浦へは行かれなかったか」

「浜浦? 夏に海遊びで何度も行きましたよが、それが何か」

「灘屋へは行ったか」

 寺島は、万亀男の口元を注視した。

「もちろんですよ。お袋と洋吾郎さんとは腹違いの兄妹、つまり私にとっても伯父ですから船も出してもらいましたし、海遊びから帰ったときの風呂や飯も馳走になりました」

「うう……、そうか」

「やはり今日は、何かおかしいですね」

 万亀男は怪訝そうに寺島を見た。

「いや、その折やが、六代目の様子はどうやった」

 寺島は相変わらず煮え切らない口調で訊いた。

「どうやったって、何がですか」

「その、なんだ、森岡洋介はんのお袋さんを見初めたということはなかったか」

「あっ!」

 と、万亀男が凍り付いた。

「そういうことですか」

 万亀男は寺島の推量を悟った。

「もしかして、兄貴も洋介さんが六代目の実子ではないかと疑っているのですね」

「俺もって、まさか兄弟もか」

 寺島が驚きの声で訊いた。

「はい」

「理由は何や」

「お盆に東京から不審な男たちが境港へ流れて来て、その対応に峰松が直々にやって来たとき、今兄貴が言われた夏を思い出し、その思いに駆られたのです」

「その夏に何かあったというのやな」

「そこまでは断言できませんが、六代目が洋介さんの母親に熱い想いを抱かれたのは事実です」

「横恋慕か」

 そうです、と万亀男は肯いた。

 

「しかもや、灘屋の洋吾郎さんは万吉さんに、うちの息子夫婦には子ができん。わしは孫を抱くこともできんかもしれんと嘆いていたということや」

「奥さんの方が子供の出来ん身体だったということはないのですか」

「それやったら、離婚して新しい嫁を迎えるやろ」

「なるほど。それはそうですね」

「それに、あるときから洋一さんの奥さん対する暴力が酷くなったということや」

「それはつまり、森岡はんの親父さんが六代目との不倫に勘付いたということですか」

「辻褄は合うやろ。挙句の果てに他の男と駆け落ち離婚や」

 峰松が、そこではたと気づいた。

「なるほど、六代目が親父に万亀男の叔父貴との兄弟盃を勧められたのも、裏にそういう事情があったからというのですね」

 寺島は黙って肯いた。

 神栄会は神王組きっての看板組織である。その組長が一地方都市の、それも極道の看板を掲げていない会社の者と兄弟盃を交わすことなど異例中の異例であった。

 二年前、蜂矢がそれでも盃事を勧めたのは、背後に森岡洋介の存在があったからではないかと寺島は推量していたのである。

「なぜ六代目は、そんな回りくどい事をされたのでしょうか。いっそのこ名乗り出られれば良かったのではないですか」

「阿呆。森岡はんは堅気やぞ。しかも今をときめくIT企業の社長さんや。自らが名乗ったら、また森岡はんに迷惑が掛かるやないか」

 すんまへん、と峰松は肩を窄めた。

「それが運命の糸に手繰られるように巡りあったのですね」

「そう考えると、親父の森岡はんに対する厚遇が理解できるやろ」

「プラチナバッジですね」

 六代目の蜂矢は、初対面のときのときお守り代わりとして、神王組最高幹部の証しであるプラチナの徽章を森岡に送っていた。

「それに、ご自身の出生秘話まで口にされた」

「正直、六代目にあのような過去があったとは、私も驚きました」

「おそらくそれは、子としての父母への愛惜の念ではなく、父としてのそれだったとは考えられんか」

「それで初対面にも拘わらず『親父』と呼ばせはった……。あれは任侠世界の親父ではなく、実父の情からだったということですね」

「あくまでも俺の推量に過ぎんが、もしそうだとすると、峰松、お前の任はいっそう重大だということになるぞ」

「はっ」

 峰松は緊張の面で頭を下げた。

「それとな。もう一つ言っておくことがある」

「何でしょうか」

「必要以上にブックメーカー事業に首を突っ込むのは控えろ」

「えっ」

「お前の気持ちはわかっているつもりだ。わしも同じ考えだからな」

「……」

「ただ可愛いというだけでお前を八代目にしたいでも思っていたのか」

「では親父も」

「お前の後は九頭目を、と考えている。そして神王組の跡目は代々神栄会の世襲にするのだ」

「親父……」

「せやから、森岡はんの意に沿わぬことはするな」

「お言葉ですが、ブックメーカー事業は巨額の利を生みます。手を拱ねいていて宜しいのですか」

「だからこそ、だ」

「……」

「森岡はんの気性を考えれば裏目に出る。それにな何もせんでも、今の関係を保ってさえいれば彼は協力してくれるはずだ。そうは思わんか」

「たしかに親父のおっしゃるとおりです。これからは、さらに親身になって協力することに専念します」

 と言った峰松の口調が変わった。

「ですが……」

「なんだ」

「一つだけ気掛かりなことがあります」

  寺島が意味有りげな笑みを零した。

「六代目は森岡はんを八代目にする気ではないか、というのやろう」

  峰松が目を丸くした。

「どうしておわかりに」

「それくらい読めんで七代目が狙えるか」

「はっ」

「心配せんでええ。それは絶対にない」

「しかし、あれだけの器量です。親父さんも初めて面会したとき、ええ極道になるとおっしゃいました」

 霊園地買収の件で神栄会に拘束された際、極道者を前にしても微塵も委縮することのなかった森岡に、寺島も峰松も舌を巻いたものである。

「そうやった。俺が、もしや六代目と父子ではないかと疑った根拠は、あのときの印象が心の隅に残っていたからや」

「でしたら、六代目も同じように受け取られたはずです。そして、そのための布石としてブックメーカー事業を任せはったのではないでしょうか」

 寺島は片手を上げてひらひらと振った。

「逆や、跡目を継がせる気がおありにならないから任せはったんや」

「……」

「もし六代目がその気なら、彼が天涯孤独になったとき、引き取っておられたはずや。それが三代目と昵懇だった神村先生には預けられたと知って諦められたんやと思う」

 神戸灘洋上での面会のとき、森岡は自身の生い立ちを語っていた。

「それにだ。もし実子である森岡はんを八代目にするためにブックメーカー事業を任せてみろ。いかに六代目とて周囲が黙っておらん」

 寺島はそう言うと、

「お前のためにも、まずこのわしがお諌めする」

 はっ、と峰松は頭を下げた。

「ですが六代目のことです、ブックメーカー事業をお任せになったのは、純粋に森岡はんが有能だからという理由だけではないでしょう」

 そうや、と寺島が目を細めた。

「六代目はな、森岡はんをキングメーカーにするおつもりだとわしは睨んでいる」

「キングメーカーですと」

 峰松が怪訝な声を上げた。

「昔、政界を田上角蔵が支配していただろう。あれや」

「そ、そんな馬鹿な。仮に六代目の実子であっても、極道者でもないものが神王組の人事を支配するのですか」

 峰松は怒りに任せて声を荒げた。

「まあ落ち着け、峰松」

 寺島が宥めた。

「キングメーカーというのは言い過ぎだが、森岡はんを味方に付けた者が優位に立つことは間違いない」

「それは私もそう思います」

 森岡の年齢から言えば、峰松から向こう四代に亘り影響を及ぼすことが考えられた。

「そういう意味では、キングメーカーというよりジョーカーというべきだな」

「それなら納得できます」

「森岡はんが親父の実子でなくても、かつて想いを寄せた女性の息子さんや。子の無い親父にとっては我が子同然に可愛いのかもしれん」

「同じく子の無かった三代目が六代目を可愛いがられたのと同様ですね」

 そうだ、と寺島は肯いた。

「せやからな。森岡はんの心証は六代目の心証やと思わねばならんぞ」

「心に深く留めておきます」

 峰松は神妙な顔つきで頭を下げた。

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