第38話  第六巻 決意の徒 疑念

 一段と寒さの厳しい師走の夜だった。

 夜の世界にとって、この時期は稼ぎ時である。クリスマスというメインイベントに合わせて歓楽街一帯が華やかな飾り付けをして客を迎える。

 加えて忘年会の二次会に使われることも多く、普段は足を踏み入れることのない若いサラリーマンや女性客も姿を見せる。店側も良く心得ていて、そのような客には時間制の低料金で臨機応変に対応している。 

 開店して間もない大阪北新地の最高級クラブ・ロンドに珍客があった。

 ロンドも一見客はお断りの看板を掲げているが、他店と同様に暴力団関係者を排除するためのもので、一般客であれば大抵の場合が入店を許可する。

 しかし、ドアを開けて店に入ってきた客に、支配人の氷室は思わず、

「どなたかのご紹介でしょうか」

 と訝しい声を掛けてしまった。 

 その客が妙齢な婦人の一人客だったからである。

 しかもただの女性ではない。チンチラのロングコートに身を包んだ彼女は、三十歳手前のようにも二十歳そこそこのようにも映る。

 身長は百五十五センチぐらいで、現代の女性からすれば小柄な方だが、氷室の目には、その凛とした気品から他者を圧倒するほど大きく映っていた。

 さしずめ夜の世界の住人であれば、ロンドにも匹敵するような最高級クラブのママの品格を備えていた。だが氷室は、そのような女性の噂は耳にしていなかったし、そもそもが擦れたところのない全くの無垢である。

 仕事柄、三十年もの長きに亘り数多の女性に接し、目の肥えているはずの氷室も、いったい何者だろうかと判断しかね、訝しげな言葉を発してしまったのである。

「森岡社長のご紹介で」

 女性は高貴な笑みを浮かべて言った。鼻に掛かった声が甘えた感じを醸成し、少し舌足らずな口調が愛らしさを増幅した。

 氷室は思わず胸をときめかせた。客に心が動くなど、実に久しぶりのことである。彼は、これが芝居ならば相当な女(たま)であるし、自然体ならば魔性というのはこのような女性のことをいうのだろうと思った。

「森岡様の? 失礼ですが、お名前は」

 氷室はまたしても訝った声を出した。女性の言葉を疑ったのではなく、彼女の声に親しげな音色を感じたからである。

――森岡社長とはどういう関係なのだろうか。

 と、森岡と茜の行く末に対する不安がチラリと頭の片隅を過った。

「目加戸と申します」

「目加戸様……、どなたかとお待ち合わせでしょうか」

「いえ。茜さんとおっしゃるママさんにお目に掛かりたいのです」

「ママに」

「いらっしゃいますか」

「生憎、今晩ママは同伴出勤の予定でございまして、二十一時頃になりますが」

「では、それまで待たせて頂いて宜しいでしょうか」

 もちろんです、と氷室は肯いて、女性の背後に回り、コートを脱ぐのを手伝った。コートの下は純白のワンピースだった。

 氷室はチンチラのコートとは対照的な装いに目を奪われながら、彼女をVIPルームに案内した。森岡と曰くの有りそうな女性である。茜とは難しい話になる直感が働いた彼の配慮だった。  

「何かお飲みになりますか」

「そうですね。では、シャンパンをお願いします」

「森岡様がお飲みになるのと同じで宜しいでしょうか」

「森岡君は何を飲んでいるのかしら」

――君? 年上の森岡社長を君付けにするこの女性は……。

 氷室はますます訝った。

「ドンペリのゴールドです」

「あら、お高いのでしょうね」

 と言った表情には、懐を懸念した様子は微塵も感じられない。

「御心配なく。森岡様からは友人、知人の来店があった場合、私どもの判断でお飲み物をお出しするようにと言い付かっております」

 これは嘘ではなかった。

 氷室は、女性を森岡の昔の彼女ではないかと推量した。

「では、お言葉に甘えてそれを頂戴します」

 わかりました、と氷室は軽く会釈し、若い黒服を呼んでその旨を指示した。

「失礼ですが、森岡様とは古いお付き合いでしょうか」

「はい。学生時代から」

「学生時代、ですか」

 氷室はまたもや聞き返してしまった。中学、高校時代であれば二歳、大学であれば三歳、浪人を勘案しても最大で四歳しか違わないことになる。

 氷室は、まさか目の前にいる女性が三十歳を超えているとは思えなかった。

「高校時代の同級生です」

「ええ!」

 とうとう氷室は眼を剥いてしまった。森岡と同級生であれば三十六歳ということになるのだ。

「あら、私の顔がそんなに珍しいですか」

「こ、これは大変失礼致しました」

 氷室はあわてて詫びた。額には動揺の汗が浮かんでいる。彼が女性に対して緊張したのはクラブ花園のママ・花崎園子以外では初めてだった。北新地随一の美貌の持ち主である茜の前でもこれほど緊張することはない。

――やはり森岡社長の恋人だったのだ。

 その懸念が増幅した氷室は、自らが接客することにした。言うなればホストクラブのホスト役ということだが、彼の脳裡にはホステスが余計なことを彼女の耳に入れないかという心配もあった。

 そうして三十分後、茜が同伴出勤し、氷室の無難な接客は終わりを告げた。

 黒服から連絡を受けた氷室は、女性に断ってVIPルームから退室し、速足で深紅のロングドレスを纏った茜に近づき、耳打ちした。

 当然のことながら、しばらくは同伴者を接遇しなければならない茜であったが、氷室から待ち人が目加戸という女性と聞いて、同伴者に丁重な断りを入れ、VIPルームのドアを開けて中に入った。

 白と赤、清純と絢爛 、対照的な二人はお互いを品定めするかのように見つめ合った。

 さしもの茜も客に対する挨拶を忘れていた。

 数瞬後、茜が我を取り戻したように口を開いた。

「はじめまして、目加戸瑠津様」

 はい、と返事をすると、瑠津が立ち上がった。

「はじめまして、山尾茜さん。お会いできて嬉しいわ」

「私もお会いできるような気がしておりました」

「まあ、なぜでしょう」

 瑠津が訝しげに訊いた。

 茜は瑠津に近寄ると、

「立ち話も何ですから、座りませんか」 

 と微笑んだ。

「本当に」

 瑠津も笑った。

「森岡君は私のことを話したのですか」

「いえ何も」

 茜は首を横に振った。

「ですが、藤波先生が目加戸様のことを洋介さんの憧れの君だったとおっしゃいました」

「まあ、先生ったらそのような無責任なことを……」

「いえ。そのときの洋介さんの表情から察しますと、強ち無責任とも言えませんでした」

「あら」

 瑠津は嬉しそうに口に手を当てた。

 その少女のような可愛らしさに、茜は戸惑いを覚えながらも、

「ロンド(ここ)は彼からお聞きになったのですか」

 と訊いた。

 いいえ、と瑠津も首を横に振る。

「私も藤波先生から森岡君の恋人が北新地でロンドというお店のママさんだと聞きました」

「ということは私たちがお会いできたのは藤波先生のお蔭なのですね」

 茜が微笑むと、

「無責任なお節介ですけど」

 瑠津も笑みを返した。

「ところで瑠津様、せっかくお越し頂いたのに恐縮なのですが、私は店が終わるまでゆっくりとお話しする時間がありません」

「そうでしたわね。貴女とお会いできるとしたら、お店に顔を出すしか方法が無かったものですから。でも、いい迷惑ですわね」

「とんでもありません」

 茜は首を左右に振った。

「どうでしょう、今晩時間が取れませんか。私は店を早めに切り上げますので、二十三時頃になれば自由になれますが」

 そうですね、と瑠津は少し考え込むような仕種をした。

「お渡ししたい物もございますし、お待ちします」

「すみません。お詫びの印にこちらでホテルに部屋を用意します」

「いえ。遅くなってもタクシーで京都へ帰ります」

「では、洋介さんと昵懇の個人タクシーを手配しましょう」

 昨今、大阪のタクシー業界にはマナーの悪い運転手がままいた。

 不景気で水揚げが上がらないため、たとえば酔っぱらって客が寝てしまったときなど、わざと道順を間違え運賃の嵩上げを画したりするのだ。また、極まれだが、女性の一人客、特に美人は無体な目に遭うこともあった。世間の目を気にした被害者が告訴しないので、その実態は明らかになっていないだけである。

 森岡は、神村の送迎用として二人の個人タクシー運転手と親交を深めていた。

「お手数をお掛けします」

 瑠津は雅な仕種で礼を言った。

「それまでは、この部屋でゆっくりおくつろぎ下さい」

「いいえ。私一人がこのような部屋を独り占めはできません。せっかくの北新地ですのでどこかで時間を潰します」

「私の方はいっこうに構いませんが、そうですね。では洋介さんと馴染みのショットバーなどいかがでしょう」

「そこは軽い食事などできますか」

 ええ、と茜は怪訝な顔で肯いた。

「仕事を終えて慌ただしくこちらへ参ったものですから」

「マスターは、玄人はだしの料理上手と、北新地でも有名です」

 事情を察した茜が太鼓判を押すと、支配人の氷室を呼んで、ショットバー祢玖樽(ねくたる)に案内するよう命じた。


 二十三時過ぎ、茜は氷室と三浦を連れ立って祢玖樽に赴いた。

 三浦は、森岡が護衛役として神栄会から借り受けた男で、氷室が世話をした形になっている。

 目加戸瑠津は、マスターの東出とすっかり打ち解けた様子で談笑していた。東出は、二人の席をカウンターの端に設け、その隣の二席を予約席としてした。瑠津から森岡の高校時代の同級生であること、これから茜と会うことを聞いた彼の配慮である。

 氷室と護衛役の三浦はカウンターの後ろのテーブル席に座った。

「お待たせしました」

 茜が軽く会釈した。

「こちらこそ、お店を早引けさせてしまい、申し訳のないことです」

 瑠津が詫びた。

「何をお飲みになっていますの」

「それが、マスターが森岡君のボトルを出して下さいましたの」

「それは良いわ。ついでに彼の奢りにして貰いましょう」

 茜は茶目っ気に笑うと、マスターの東出も笑顔で肯いた。

 瑠津はハンドバックから茶封筒を差し出した。

「さっそくですけど、これを森岡君にお渡し頂けないかしら」

「何でしょうか」

「過日、彼に依頼された調査報告書です」

「ああー、あの折の」

 茜は思い当ったように言った。

「御存知でしたか」

「何やら、瑠津さんに御相談があるようなことを言っていましたから」

「彼にとっては重要なものです」

「でしたら、瑠津さんから直接お渡しなった方が宜しいのでは……」

 瑠津の顔が物憂げに沈んだ。

「貴女にお会いして考えが変わりました」    

 はあ、と茜は首を傾げた。

「貴女にお会いするまでは、淡い期待を寄せていたのですが、彼のお相手が貴女では勝ち目がありませんもの」

「……」

「会えば辛くなります」

 瑠津は寂しげに言った。

 その刹那、茜にある思いが浮かんだ。

「洋介さんは瑠津さんのお気持ちを知っているのですか」

「知らないと思います」

「今までお気持ちをぶつけたことは」

 ない、と呟くように言った後、瑠津は坂根秀樹との交際に至った経緯を話した。

「彼に坂根君を紹介するよう願ったのですよ。その私がどの面を下げて彼に告白などできましょうか」

 瑠津の目は今にも涙が零れそうに潤んでいた。

「いえ。一度だけそっと告白したことがあったの」

 と彼女は涙を押し止め、懐かしげに話し出した。


 二人が通った松江高校は大変な進学校だった。

 三年次の一学期までに教科書の授業を全て終え、残りの時間は専ら予想問題集を解くことに時間を費やした。夏休みは、前後の二週間ずつが削られ、お盆を跨る二週間余しかなく、修学旅行もなかった。

 その代わりなのだろうか、文化祭は充実していて、十月最終週の金、土、日の三日間に亘り開催された。

 全クラスが何某かの出し物をするのが慣習で、大抵のクラスは演劇、合唱、創作ダンス、縁日、遊興場、お化け屋敷などを定番としていたが、森岡の一年次のクラスは映画を製作して上映した。クラスメートに脚本家志望の男子生徒がいて、映画を製作することになったのである。

 高校生が製作する映画である。必然的に青春純愛ものとなった。

 高校生の恋人同士がいて、彼女の方が不治の病で死ぬというお決まりのストーリーである。

 ヒロインはすぐに決まった。目加戸瑠津である。

 可憐な容姿と圧倒的な存在感がある彼女は満票の支持を得た。反して、相手役の選考は難航した。クラスメートの中に、瑠津と張り合えるだけの男子生徒などいるはずもないのである。

 いや、一人だけいるにはいた。他ならぬ森岡洋介である。

 だが華麗、雅、清楚といった言わば『陽』あるいは『純』の目加戸瑠津に対して、森岡の存在感というのは、群れを嫌う狼のような孤独を身に纏った『陰』、あるいは世の中の全てに対して斜に構えたような『負』に裏打ちされているものだった。

 学級委員長として、担任である藤波の補佐を無難に熟してはいるが、休憩時間や昼休みになると忽然と姿を消し、どこで何をしているか不明という不気味な印象すら植え付けていた。

 あるとき、クラスメートの斐川角学、後の天真宗僧侶・ 雲栄が森岡の後を着けたが、途中で見つかってしまった。そのときの、殺気を含んだような冷徹な視線に、彼は身の竦む思いになり、愚かだったと激しく後悔したという。

 然様に好対照の二人が主役を張って上手く融合するかどうか疑問符が付いた。

 結局、瑠津本人に指名させたらどうかということになったのだが、彼女は迷うことなく森岡を指名した。周囲は驚いたものの、なるほど森岡が唯一親しく言葉を交わしていたのが瑠津であり、また彼女にしてみても、坂根秀樹を紹介されるまでの過程やその後の関係からも、気心が知れているという安心感があったのだろうと推量された。

 ともあれ、撮影が始まると、恋人同士という設定の二人は常に行動を共にした。

 一ヶ月の撮影期間は、それこそ実際の恋人である坂根秀樹より長い時間を共有した。

 さて撮影の締め括りは、宍道湖に沈む夕陽を眺めながら、彼女が息を引き取るという設定だった。

 そして瑠津の唇に、森岡が自身の唇を合わせたところでクランクアップだった。もちろん、本当に唇を合わせたりはしない。森岡は台本に従って、ぎりぎりのところで唇を浮かせていた。

 すると、事もあろうに瑠津が顔を少し押し上げるようにして唇を合わせてきたのである。


「私はそのとき、目を剥いて驚く彼に『貴方の方が良かった』と囁いたの」

「それで彼は」

「たぶん、彼にはその言葉の意味が理解できなかったみたい。いえ、もしかすると言葉そのものを聞き取れていなかったにかもしれないわ。私自身も生まれて初めてのキスの興奮と、後方で撮影しているクラスメートに気付かれていないかと冷や汗ものだったから」

「初めて?」

 茜は思わず訊いてしまった。もちろん個人差はあるが、一九七十年代の地方の小都市における高校一年生の男女交際では、決して珍しいことではない。

「坂根君とは手を繋いで歩いた程度だったの」

 瑠津は俯き加減で言った。頬は赤らんでいる。

 三十六歳にも拘らず、まるで男を知らないかのような恥じらいは、同性の茜でも胸の奥に熱いものを抱かせる。

「でも、なぜ……」  

 茜は昂奮を鎮めるように低い声で訊いた。

「心変わりをしたのか、ですね」

 瑠津は茜の言いたいことがわかっていた。

「ええ、まあ」

 茜は遠慮がちに肯いた。

「なんと言ったら良いのかなあ」

 突如、瑠津はずいぶんと砕けた口調になった。恋話というのはそういうものなのだろう。

「坂根君は申し分がなかったのね。いえ、容姿とか学力ということではないのよ」

「はい」

 と、茜は肯いた。瑠津が外見に囚われる女性でないことは察せられた。

「何と言っても性格が抜群だったわ。優しいし、思いやりがあるし、柔和だし、謙虚だし、思慮深いし、他人に親切だし、少しも奢ったところがないし……」

 と言ったところで瑠津がはたと気づいた。

「あら、嫌だ。私ったらつい力が入っちゃって」

「よくわかります」

「えっ」

 瑠津が怪訝そうな顔をした。

「坂根秀樹さんにお会いしました」

 ああ、そういうことか、と瑠津は事情を悟った。森岡にとって茜は、親友に紹介し得る存在になっているということなのだ。

「彼、元気でしたか」

「お身体のこと御存知でしたか」

「昨年、高校の同級生が集まった折、誰かの口の端に上りましたの。そう言えば、彼の弟さんを預かっているようですね。森岡君らしいわ」

「実は、秀樹さん本人も洋介さんの仕事を手伝っていらっしゃいます」

 瑠津は瞬時にその意味を理解した。

「全く森岡君って人は……」

 一時感慨に耽った瑠津は、

「先ほどの話だけど、要するに坂根君は完璧だったの。だけど、人として完全無欠過ぎて私が入り込む隙がなかった」

 と話を戻した。

「……」

「私の支えが無くても彼は生きて行けるのだ、と思ったわ。その点、森岡君の危なっかしいこと」

「何かありましたか」

「今の彼からは想像もできないでしょうけど、危なっかしいというより、投げやり、行き当たりばったりという感じかしら」

 茜は、現在の森岡を通して高校時代の彼を想像したが、まるっきり像が浮かんでこなかった。

「でも異様に一途で、何かを必死に求めていた」

「それはなんとなくわかります」

 瑠津は軽く肯くと、クスッと思い出し笑いをした。

「どうかしました」

「彼ね、私たちのためにとんでもないことをしたのよ」

 言葉とは裏腹に、瑠津は嬉しそうな表情である。

「あるときね、三年生の男子が私に交際を求めて来たの。もちろん、坂根君とのことを承知していたうえでね。その男子生徒というのは、いわば番長のような存在で、身体も大きく喧嘩が強かったの」

「松江高校でも?」

 茜はいわゆる元ヤンキーである。その彼女にしてみれば、松江高校のような名門進学校に不良学生いることなど想像できなかった。

「茜さん。どのような進学校でも、それなりの不良はいるわ」 

 瑠津は知らなかったが、その男子生徒というのはただの不良ではなく、中学時代は松江市でも極め付けの悪で、警察の監視対象になっていたほどだった。

 それが、である。妙な言い方だが、天は二物を与えたということなのだろう、不良でありながら勉強の方もできた。松江高校の入試成績も上位だったほどだった。 だが、当然内申書は最悪である。そこで高校側は、問題を起こせば直ちに退学処分とする旨を通達して合格としたのだった。

「ところが、坂根君から相談を受けた森岡君がその上級生に直談判したの」

「まあ」

「彼は何も言わなかったから、詳しいことはわからないけれど、その上級生は周囲に、今後一切、森岡だけには近づきたくないって、漏らしていたらしいわ」

「彼が何をしたか、なんとなくわかる気がします」

 茜は島根の浜浦へ帰省した折の森岡の話を思い出し、おそらく従兄の門脇修二から譲り受けたナイフで、その上級生を恫喝したのだろうと思ったが、胸に仕舞った。

「でも無鉄砲でしょう。彼は親友のためなら自分の身などお構いなしなのね」

 瑠津の、さも愛おしげな表情を見ながら、

――彼は、唯一の希望の光を消されたくはなかったのだろう。それも、彼自身が灯した光なのだから……。

 茜は、瑠津と坂根秀樹との交際に至った経緯を聞いてそう思った。

「そういうところは今も変わっていません」

 そうらしいわね、と瑠津は微笑んだ。

「そんな森岡君って、なんというか護ってあげたいという母性本能が働くのよね」

 はい、と茜も同調した。

「失礼ですけど、それが原因で坂根さんとは上手く行かなかったのですか」

「そうかもしれないわ。彼は私の心の変化を敏感に感じ取っていたのかもしれないわね」

 と、瑠津は嘆息した。

「それが、彼のある決断を促した」

「決断、ですか」

「大学三年生のとき、彼が突然実家に戻る決心をしたの」

「それはプロポーズですね」

「そう」

 瑠津は複雑な顔をした。

「そして、卒業後は田舎で働くって言い出したの」

「でも、それは長男だからではないのですか」

 ううん、と瑠津は首を横に振った。

「彼は東京で暮らす考えだったわ。彼の御両親も納得済みで、田舎は退職後の終の住処だと言っていたの」

「それがなぜ」

「私の心から森岡君が消えることを待っていたんだと思うけど」

「でも消えなかったのですね」

 瑠津は無言で肯くと、

「だから、彼の最後通牒だったのだと思うわ」

 と悲しげに微笑んだ。

「瑠津さんは田舎暮らしがお嫌でしたの」

「いいえ。私は付き従おうと思っていましたのよ。でも……」

 と言って唇を噛んだ。

「御両親が結婚を反対なさったのですね」

 ええ、と瑠津は呟いた。

「過日森岡君は、御両親のお気持ちはわからなくもない。たぶん、祖父や父が生きていた灘屋の俺でも無理だったと思うよ、と慰めてくれたけど」

 坂根秀樹自身は文句の付けようのない好人物に違いないが、何せ家格が違い過ぎる。いや家格というより、生まれ育った環境が違い過ぎた。

「結局、私は両親の反対に乗っかっちゃったのね。ズルい女だわ」

 瑠津はそう言って自嘲した。

「そのことを洋介さんは……」

 と問い掛けて茜は後悔した。

「洋介さんには奈津美さんがいらしゃったのですね」

 はい、と瑠津は虚しく頷く。

「遅かったわ。彼は大学進学と同時に消息を絶っていたし、生家の灘屋も人手に渡ってしまっていた。それでも、ようやく斐川角君から住所を聞き出したのだけど……」

 瑠津が吐息を付くように言ったとき、入口のドアが荒々しく開け放たれた。

 中に入ってきたのは極道者風の男二人だった。マスターの東出の様子から初見の男たちのようだ。

 茜と瑠津を目に留めた若い方の男が、

「兄貴、すげえ良い女が二人もいます」

 と小躍りするように言った。

「さすがは、北新地だな。東北の田舎とは違うようだ」

 そう言いつつ、兄貴と呼ばれた年嵩の男が、予約席の札が立てられた席に座ろうとした。茜の左隣の席である。

「お客様、そちらは予約席となっています」

 マスターの東出が断りを入れた。

 だが、

「予約席だと、関係ないわい」

 年嵩の男が嘯いた。

「無茶を言わないで下さい」

「それなら、この席の客が来るまでにしようか」

 年嵩の男は東出を見てにやりと笑うと、

「なあ、お姉ちゃんらも俺らがいた方が楽しいだろう」

 茜と瑠津を舐めまわすように交互に見た。

 その様子を見て、後方のテーブルに座っていた氷室が立ち上がろうとしたが、茜がだらりと下げた手を振ってさりげなく制した。無用のトラブルを避けようとしたのである。

「マスターブランデーや」

 年嵩の男がそう注文して、茜に何やら話し掛けた。

 さすがに最高級クラブのママである。茜は作り笑いを浮かべながら如才なく相手をした。

 その間、僅かに二、三分も経っただろうか、扉が開いて一閃の風が入り込んだかと思うと、音もなく四人の男が入って来た。

 そして、中でも大柄な二人の男が年嵩の男と若い男の身体をそれぞれ後ろから羽交い絞めにして、ふうっと宙に浮かせた。

 年嵩の男は、何事が起ったかと、首を大きく振って後方を確認しようとした。

「な、何をするんじゃ。俺は仙台の陣内組の者だぞ」

 事態を把握した年嵩の男が精一杯いきがった。だが、四人の男は無言のまま、粛々と二人を外に運び出した。

 店に残された茜らは、あまりの手際の良さに茫然としていた。

 とくに、神栄会から派遣された三浦の驚きは尋常ではなかった。彼は陣内組と名乗った男たちが、茜と瑠津に目を付けた瞬間、携帯電話を操作し、仲間に緊急連絡を取った。神栄会の事務所が北新地の外れのビルにある。森岡の影護衛を任されている神栄会が駆け付けるはずであった。

 ところが、今の四人は見たこともない男たちだったのである。

 三浦は氷室に目で了解を取り、店の外へ出た。

 すると、祢玖樽が入居してる商業ビルと隣接するビルの間に、先刻連れ出された男たちがいた。彼らを五人の屈強な男が取り囲んでいた。どうやら頭分が下で待ち受けていたようだ。

 耳を欹てた三浦に、その頭分と思しき男の声が微かに伝って来た。

「わしらは神王組本家の者や」

 三浦は腰を抜かさんばかりに驚愕した。

 というのも、そもそも神王組というのは、大阪の神栄会や京都の一神会のように構成員がいる実体のある組ではない。傘下組織の集合体の呼称なのである。事実、神戸の竜神組組長だった蜂矢司は、その座を若頭に譲り、身一つで本家に入っている。

 つまり神王組本家とは、三代目の田原政道以来、普段の住居となし、今また蜂矢が住まいする家、または蜂矢本人を指すことになる。江戸時代で言えば、徳川幕府あるいは将軍家は存在しても、徳川藩が無いのと同じである。八代将軍吉宗も紀州藩の藩主を譲って江戸城に入来している。

 それを神王組本家と言ったということは、蜂矢の直属の部隊ということなる。これまた徳川幕府で言えば直参旗本ということだ。

 だが三浦は、神王組本家に直属部隊があることなど耳にしていなかった。承知しているのは、護衛役も担う修行極道の存在だけである。彼らは、全国の神王組傘下組織から、選び抜かれた極道界のエリートたちだが、彼らの本分は組長である蜂矢の護衛であって、蜂矢または六代目姉が命じた雑用以外の理由で、本家から外出することは許されていないのである。

 つまりは、今眼下で陣内組の二人の相手をしているのは謎の部隊ということになった。

 三浦が大きな息を吐いたとき、神栄会の組員が階段を駆け上がって来た。

「何事や」

 事情を問うたのは、かつて森岡を拘束した若頭補佐の窪塚である。後方に同じく二人の大男が付き従っていた。

「先ほど、神王組本家を名乗る男たちが現れ、仙台の陣内組と思われる男たち二人を連れ出しました」

 三浦はそう言って、眼下を指差した。

 彼らは話が付いたようで、北新地の永楽町通りを西、つまり四ツ橋側に歩き出していた。そして、ふっと姿が消えた。窪塚らが姿が消えたと思われた場所に行ってみると、そこは高級すき焼き店・スナガの勝手口だった。

 窪塚らは急いで表玄関から中に入って見たが、それらしき連中はいなかった。顔見知りの支配人を問い質したが、知らないと首を横に振るばかりだった。

 七人の男たちが、目の前で忽然を姿を暗ましたのである。神栄会の極道たちは何やら手妻を見たような心持ちになっていた。


 祢玖樽に戻った三浦に、氷室が茜と瑠津は場所を変えることになったと告げた。

 話の腰を折られたことで瑠津が言い出した。

 それならばと、茜は自宅マンションに誘った。

 茜は都島の高層マンションに住んでいる。三十二階建ての二十八階で、広さは百二十平方メートル、間取りは四LDKである。

 室内を見渡した瑠津が、

「さすがに北新地の最高級クラブのママだけのことはあるわね」

 と感嘆した。その声に皮肉の色などなかった。

「瑠津さんだってその気になれば、いつでもこれ以上のお家にお住みになれるでしょう」

 茜はコーヒーをテーブルの上に置いた。

 彼女は、藤波芳隆 から目加戸瑠津が観世流茶道の家元を継ぐ身であると聞いていた。

 瑠津はそれには答えず、

「そうだわ。うっかりしていたけど、私が居てはお邪魔じゃないの」

 と遠慮深げに訊いた。

「心配いりません。洋介さんは今夜と明晩は北海道泊まりです」

「あら、また遠いところへ……。ということは、もしかしてまた野暮用なのかしら」

「彼にとってはウイニットの方が片手間のようで」

 嫌味口調の瑠津に、茜も軽い皮肉で返した。

「なんでも、せっかくの北海道なので、皆も呼んで慰労しているみたいです」

「向こうも羽目を外しているというわけね」

 はい、と言った茜が目を輝かせた。

「どうです。瑠津さんさえ宜しければ、私たちも飲み明かしませんか」

「迷惑じゃないの」

「明日は土曜日ですから、私はお休みなので何も問題はありません」

 ロンド自体は開店しているが、差配は全てちいママが仕切り、収支もまた彼女の責任となった。土曜の営業は、いずれ独立するちいママの学習の場でもあったのである。

「じゃあ、二人で彼の悪口でも言い合いましょうか」

「向こうでくしゃみをするほどに」

 茜の無邪気な誘いに、瑠津が屈託のない笑顔を返すほど二人はすっかり打ち溶けていた。

 森岡の悪口を言って共鳴しあったり、今後は姉妹の付き合いをしようと誓い合うまでに親しくなっていった。

 そうした中、茜がキッチンから新しい氷を入れたボールを手に戻ってきたときだった。

 突如、瑠津が意を決したように茜を見た。

「森岡君が精神の病に罹っていたことは知っているわね」

 はい、と茜も神妙に答えた。    

「原因も」

「本人から聞きました」

「どのように」

 茜は、瑠津の意味深い声の響きに戸惑いながら、

「お母様の失踪に、お祖父様、お父様の死が重なったことが原因だということでした」

 黙って肯いた瑠津だったが、その眼はまだ他にあると訴えていた。

 茜も覚悟を決めたように口を開いた。

「八歳のとき、釣りに出掛けた磯で、海の落ちて溺れている幼馴染を見殺しにしたことも彼を苦しめていたようです」

 だが、瑠津は意外な言葉で応じた。

「それだけ」

「えっ、他に何かあるのですか」

 茜は驚きの声で訊いた。

 瑠津は茜の反応に、一瞬戸惑う仕種をした。

「何かあるのでしたら教えて下さい」

「実は、森岡君の心を蝕んだ本当の原因は他に有ったの」

「……」

 茜は息を呑んで次の言葉を待った。

「彼はね。自分はお父様の子ではないのではないかと疑っていたの」

「ま、まさか」

 茜にはあまりに予想外の告白だった。

「洋介さんは養子ということですか」

「落ち着いて、茜さん。私はお父様の子では、と言ったはずよ」

「ああ、そうでした。ではお母様の連れ子ですか」

 ううん、と瑠津は首を横に振った。それがどういう意味か茜にもわかった。彼女は、森岡の母の失踪が駆け落ちだったことを知っていた。もしかして、その男性との間にできた不義の子ではないかと想像した。

 だが、茜の想像を根底から覆す衝撃の言葉が瑠津の口から漏れた。

「森岡君は、本当の父親はお祖父様ではないか、と悩んでいたの」

「……」

 茜は絶句した。

 瑠津は近親相姦だと示唆したのである。義父と嫁であるから血の繋がりこそないが、不道徳の極みであることに違いはない。

 それでも茜は気を取り直して訊ねた。

「何か証拠のようなものがあるのですか」

「決定的なものは何もないらしいわ」

 瑠津はそう言った後、

「でも、状況証拠は有り余るほどあると彼は言ったわ」

「状況証拠?」

「まず、顔がそっくりなの」

 いえ、と茜は即座に否定した。今夏の盂蘭盆に帰省した折、茜は森岡家の仏壇に回向していた。その際、仏壇の上の鴨居に掛けてあった洋吾郎の遺影を見ていた。

「森岡君のお祖父様は、丸顔で目がギョロとされていたはずです」

「それは晩年のお顔でしょう。子供の頃の写真は生き写しだそうよ」

 しばらく押し黙った茜は、

「でも、隔世遺伝ということだって考えられます」

 そうね、と瑠津は肯いた。

「これも隔世遺伝ということで片付けられそうだけど、性格も瓜二つらしいわ」

 実直、潔癖、不義不正が大嫌い、私利私欲がなく他人の世話を焼くといった点が共通している言った。

「それはお父様に代わってお祖父様に育てられたからでしょう」

「まさにそこなのよ」

 瑠津は我が意を得たりという顔をした。

「森岡君はお父様と遊んだ、というよりお父様に可愛がられた記憶があまりないらしいの。反してお祖父様の可愛がりようは尋常ではなかった」

「待望の初孫、しかも嫡男誕生というのを超えているということですか」

「そういうこと」 

「お父様は、それを疑っていらしたというのですね」

「だからお母様への暴力が酷かったのではないか、と彼は言っていたわ」

「でもそれは」

「不漁の捌け口じゃあなかったのか、というのでしょう」

 瑠津が茜の言葉を奪った。

 はい、と茜は肯いた。

「そうじゃないらしいの。お父様の暴力はあるときを境にして突然始まったらしいの」

「……」

 瑠津は戸惑いを見せる茜を他所に話を続けた。

「元はといえば、お父様がお母様に一目惚れをされて求婚なさったの。ですから、当然お母様を慈しみなされたそうよ。それが、突然……」

「お祖父様との関係への疑いがきっかけですか」

 と言った茜が、

「あっ、そう言えば……」

「何か思い当ることでもあるの」

「灘屋の菩提寺の先代御住職様がおっしゃっていたのですが」

 茜は、同じく浜浦へ帰省した際に、道恵から聞いた洋介の行方不明事件の顛末を話した。

「なるほど、お祖父様は蒼白となられたのに、お父様は平然をしていらしたのね」.

「洋介さんの推量が正しければ、お二人の反応の違いも理解できます」

 茜は嘆息すると、

「しかし、なぜお祖父様とお母様は……」

 と口走った。

 瑠津は茜の疑問がわかっていた。

「お祖父様が無理強いされたということではないらしいわ」

「まさか、愛し合っておられた」

 茜の声が震えていた。

「そういうことでもないらしいの」

 えっ、と首を傾げた茜に、

「森岡君が生まれたのは結婚してから七年後、そしてその後は一人として生まれていない」

 と、瑠津は謎を掛けた。

「それは偶然とも考えられるでしょう。お母様のお身体の具合だって……」

「お母様は、郵便配達をして一日に二十キロもお歩きになるほど健康な方だったの。森岡君が生まれたことでもわかるように、生殖機能に問題があったとは考え難いわ」

「たしかにお母様は、再婚されてすぐにお子様をお産みになっておられます」

 茜は自らの考えを否定した。お盆に、浜崎屋の佐々木利二らの懇願を思い出したのだ。

「そうですの。では、ますますお父様の方に原因があったということになるわね」

「不能ということですか」

 茜が気まずそうに訊いた。

「いえ。そうであれば、結婚する前にわかるでしょう」

「そうですね。となると」

「無精子病だったかもしれないと森岡君は言っていたわ」

「お祖父様はそれを知っておられた」

「最初は御存知なくても、なかなかお子さんが出来ないので、お父様が子供の頃におたふく風邪を患っていらっしゃったことを思い出されたのではないかということらしいわ」

 現実には子供の頃におたふく風邪に罹っても無精子症になることはない。

 大人になって病に罹り、睾丸が腫れた場合が少々問題なのだが、それとて必ず男性不妊になるというわけではない。

 だが、昭和四十年代の島根の片田舎においては、そのような風聞が実しやかに流布されていたのである。

「でも、それが理由で」

 茜は懐疑的な眼差しで訊いた。

 現代人である彼女にすれば、相愛の他は売春か強姦以外に男女が性交に及ぶとは思えなかった。

 瑠津は噛み砕くように説いた。

「茜さん、昭和三十年代の灘屋は、それはそれは相当な権勢家だったのよ。その旧家のお嫁さんに子供ができないということが、どれほど不都合なことだったか。むろん、お父様に原因があるのだけれど、灘屋の総領に子供を作る能力がないことなど、世間に憚れることだったのね」

 名家に生まれ育った瑠津には容易に理解できることだった。

「お母様に明確な原因があれば、おそらく離縁して新しい奥様を迎えられたのでしょうけど、もし離縁して再婚されたお母様が子供を生んでしまわれたら、それこそお父様に原因があったと知らしめることになるでしょう」

「それで、お祖父様とお母様が相談し、苦渋の決断をされたということですか」

 と言った茜が、そうかと呟いた。

「洋介さんを連れて行かなかったお母様の心情が初めてわかった気がします」

「そうね。森岡君が傍にいれば、ずっとご自分の不義を後悔して生きることになるわね」

 と言って瑠津が茜を見つめた。

「彼は、俺は生まれてはいけなかった悪魔の子かもしれない、と苦しんでいたの」

「悪魔って、そんな……」

 茜は言葉を継ぐことができなかった。

「たしかに悪魔だなんて思い込みが激し過ぎるけど、実は彼には思い当る節があったらしいの」

「……」

「彼は、幼い頃不思議と人の心が読めたらしいの」

「霊感ですか」

「そうかもしれないわね。彼はお祖父様の胡坐の上に座って来客を見ていると、不思議と本心なのか嘘を言っているのかがわかったと言っていたわ。お祖父様はたいそう可愛がられたようだけど、親戚や村人の中には気味悪がって近づかない者もいたらしいの」

「そんなことが……。でも、彼なら有り得ることかも」

「何か聞いているの」

「彼のお祖母様と曾祖母様も霊感がお有りになったらしいのです」

「なるほど、血筋ということね」

「しかも灘屋は、先の真言宗金剛峰寺の座主であられた堀部真快大阿闍梨様とは先祖が同じとか」

「本当なの」

 瑠津は信じられないという顔をした。

 はい、と茜は洋一の遺言書の内容を明かした。

「そうだとしたら、ますます彼に霊力があっても何の不思議もないのに、それを不義の末に生まれた悪の産物に結び付けてしまったのね」

「悲しい不幸が続きましたから、悪い方、悪い方へと考えてしまったのでしょう」

「でも、中学へ上がった頃からその力は消えたらしいの」

「霊感自体は今も消えているようですが、彼の洞察力と推理力はその名残の産物なのでしょう」

 そうかもしれないわね、と瑠津は肯いた。

「もう一度言いますが、あくまでも森岡君の推量ですよ」

 瑠津は念を押した。

 茜は黙って軽く顎を引いた。

「ただ、そう考えるとすべての辻褄が合うと彼は言っていたわ」

「確かめることはできなかったのですか」

「お父様がお亡くなりになったのは、彼が十一歳のときよ。少年の彼は何も疑ってはいなかった。彼が疑念を持ったのは中学を卒業する頃だったということよ」

 茜は、そうだという顔をした。

「お祖母様は? お祖母様なら、何かご存知ではなかったのではないしょうか」

 ううん、瑠津は虚しい目をして首を振った。

「森岡君にそのような酷いことはできないわ。もし、お祖母様が何もご存知なかったら、唯一の肉親であるお祖母様まで苦しめることになるのよ」

「そうですね」

 茜も力なく肯くと、

「彼が疑念を抱いたきっかけは何だったのですか」

 と話題を戻した。

「一つは、お祖父様とお母様の不義の噂が村中に広がって、彼の耳に入ったらしいの」

「まあ……」

 茜は顔を歪めた。

「幸いにも、まだ幼かったから、そのときは意味もよくわからず、すぐに忘れてしまったらしいけど、中学卒業を間近にしたある日、衝撃的な言葉を耳にしたらしいの」

「どのような」

 茜はごくりと唾を呑んだ。

「卒業式の直前、坂根君のお家で同窓会が開かれたのね。そのとき彼は、酔い潰れて青色吐息だったらしいけど、誰か大人の男性の『彼が灘屋の総領さんか。さすがに若き日の洋吾郎さんに生き写しだの』という侮蔑の響きを伴った声を聞いたそうなの。軽い急性アルコール中毒症のせいで意識が朦朧とする中、そのときは夢か現かわからなかったらしいけどね。ともかく、その一言がお祖父様とお母様の醜聞を思い出させるきっかけとなってしまい、ついには己の出生に疑念を抱いたということなの」

「そして発散できないわだかまりが、彼の内面を少しずつ蝕んでいったのですね」

「そういうことになるわね」

「神村先生には、そのどん底から救って頂いた恩義があるということですか」

 茜は誰に言うのでもなく呟いた。

「私はお目に掛かったことがないけれど、大変に偉いお坊さんらしいわね」

「それはもう」

 と言った茜が、

「浜浦で言った言葉はそういう意味が込められていたのね」

「どういうことかしら」

「彼は故郷の浜浦に帰省したとき、お母様の御兄弟の前で、この世には血の繋がりより大切なものがあると断言したのです」

「そう、彼がそんなことを言ったの」

 瑠津は森岡の心情を汲みながら、

「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世という諺があるでしょう」

「絆の強さ、深さを現したものですね」

「これには続きがあってね。師弟は七世というの」

「つまり永遠ということですね」

 瑠津が肯くを見て、

「洋介さんを見ていると納得します。とてものこと私の入る隙間がありません」

 茜は苦笑いをした。そして、ふいに寂しげな目で瑠津を見つめた。

 瑠津には茜の心情が手に取るようにわかった。

「心配なさらないで、茜さん。彼が打ち明けないのは、貴女を深く愛しているからなのよ。愛する女性に、自分は不義の末に生まれた子供だとは言えないでしょう」

 茜は小さく頷いた。そして鳥取での夜、自身が的屋稼業の子供であること、輪姦された過去があることを告白しても、微塵も動揺しなかった理由がわかった気がした。

――彼はきっと『自分の身体にはもっと汚い血が流れている』と思っていたのだわ。

「それに、私に話したのは私たちが『友人以上恋人未満』だったからだと思うの」

「……それはどういう意味でしょう」

「私にとって、森岡君は何でも相談できる相手になっていったのね。それこそ坂根君との関係も相談したわ。そのときは、ただ話し易いとしか思わなかったけれど、今になって思えば、彼はとても心が広くて深くて、何でも包み込んでくれる心の持ち主だったのね。だから、ほとんど私の方が一方的に喋っていたのだけれど、あるとき彼がポツリと心の澱を吐き出すように悩みを打ち明けてくれたの。彼が悩みを打ち明けたのはそれが最初で最後だった」

「……」

 茜の心は乱れた。

 愛する人だからこそ告白できない、との瑠津の言葉に頷いたものの、唯一打ち明けられた女性を前にしているのだ。

 むろん、過去の二人の関係には嫉妬のしようもないし、瑠津が嫌がらせを言ったのでもないことはわかっている。わかってはいるが、そこは女心である。思春期の森岡が深く想いを抱いていたであろう瑠津を目の前にすると、やり場のない感情が込み上げて来るのである。

 瑠津がいきなり茜の手を取った。

「茜さん。なぜ、このような話をしたかというとね、今は神村先生がいらっしゃるので大丈夫だけれど、もし先生の身に何かあれば、そのとき心の支えになれるのは、茜さん、貴女しかいないからなの」

 その吐き出すような物言いに、瑠津は今もなお森岡を深く愛しているのだ、と茜は思い知らされた。









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