第37話  第五巻 聖域の闇 開帳 第五巻・了

  その日、森岡に意外な人物の来訪があった。

 松江高校の後輩の相良浄光が、ひょっこりとウイニットに顔を出したのである。

 森岡が大本山国真寺の一件の謝礼にと、一席設けたことがきっかけで何度か飲食を共する関係となっていた。

 この日も父の代理で、総本山真興寺の宗務院へ出向いた帰りに立ち寄ったもので、大阪で一泊するので馳走して欲しいと言う。

 相良は中肉中背、僧侶らしく髪を短く刈り上げていた。飄々とした性格で、捉えどころのない受け答えをするが、事仏像に関してはマニアックな知識を持っている。

 一般家庭の少年ならばロボット物のフィギュア、少女ならば着せ替え人形等に興味が湧くのだろうが、天真宗寺院に生まれ育ち、仏師でもある父を持つ彼が仏像に心を奪われたのも不思議ではない。

 しかも、その造詣の深さは専門学者に勝るとも劣らないほどで、その見識が国真寺作野貫主の妄言を見抜いたのだから恐れ入る。

 反して森岡はどうだったかと言えば、彼は物欲のない子供だった。

 今では滅多にお目に掛かれなくなったが、メンコやビー玉、ベーゴマといった当時の浜浦の子供が競って集めた玩具にも全く興味を示さなかった。形あるものに執着がなかったのである。資産家となった彼が、高級車や高級時計といった装飾品に興味がないのは今に始まったことではないのだ。

 その代わり、森岡は人の心というものに関心を抱いた。

 きっかけは、祖父洋吾郎の許に陳情にやって来る人々だった。彼らの表情や所作を祖父の胡坐の上に座って観察していると、不思議なくらいに心理が読み取れたのである。本音を語っているのか、お愛想あるいは追従なのか、正直なのか嘘を吐いているのか面白いようにわかるのである。

 いつしか洋吾郎も洋介の異能に気づき、孫の判断に任せるようにもなった。洋介が右手の膝を叩けば『諾』、左の膝であれば『否』という具合にである。

 森岡が人混みを嫌う本当の理由は、あまりに多くの人の心が脳に入り込んできて混乱してしまうから、というのが真実だった。

 だが、その異能も母小夜子の駆け落ち失踪をきっかけにした精神の病に蝕まれたことで、いつしか影を潜めてしまったのである。


 森岡は相良を北新地のすき焼き屋に連れて行った。

 相良は島根県の浜田という漁港の近くに住んでいる。少し内陸部だが、それでも新鮮な魚介類には不自由はしない。そこで、高級肉を食わせようというのである。

「いやあ、こんな美味い肉を食ったのは初めてです」

 などと言いながら、相良は満足そうな笑みを絶やさない。

 あれこれ世間話をしながら、ひとしきり腹を満たした後である。

 相良が真顔になった。

「あれからずっと考えていたんですが……」

「急にあらたまって、なんだ」

「国真寺の御本尊ですけど、ひょっとすると作野貫主の主張は真実かもしれません」

「なんだと」

 森岡の箸を持つ手が止まった。

「どういうことだ」

「国真寺の釈迦立像が、御宗祖様の処女作の可能性があるのです」

「馬鹿を言うな。瑞真寺の御本尊が最古なんじゃないのか」

 森岡は取り合わない素振りをした。

 天真宗開祖栄真大聖人の仏像処女作は、第三回京都巡教の折に製作が開始されたものの、完成したのは総本山真興寺に戻ってからだった。その貴重な仏像を末弟の栄相が強く所望した。

 このとき、まだ栄相の野望に気づいていなかった栄真大聖人は、『一層、仏道修行に邁進せよ』と付言して差し与えたのである。

「文献にもそう記述されていますし、私もそう思っていました。ですが……」

 と二の句を続けようとした相良に森岡が言葉を被せた。

「なら、なぜ作野貫主は沈黙を通したのだ。お前の追及に対してはともかく、僧侶にとっては著しく体面を損ねる規律委員会に諮られる寸前だったのだぞ」

 森岡の画策によって、作野貫主の吹聴が事実だったと悟った総務清堂は、久田帝玄の処罰に目を瞑ることを条件に、作野貫主の規律委員会への告発を中止させたのである。もっとも清堂は、宗門自体に傷を付けかねない久田帝玄の醜聞には、端から言及しない腹ではあった。

「ですから、本物であっても声を上げられない特別な裏事情があるのではないですかね」

「……」

 森岡は視線を落として思案したが、思い当らなかった。

 その様子を尻目に、相良が話を続けた。

「実は、私には以前から別のある疑念がありましてね」

 そこで一旦言葉を切り、勿体ぶるように肉を頬張った。

「肉など食いたいだけ食わせるから、早く言え」

 すかさず森岡が急かす。

「その疑念が作野貫主の言動と重なったとき、ある一つの結論に至ったのです」 

「だから、その疑念とはなんなのだ」

「瑞真寺の出開帳です」

「でがいちょう?」

 と首を捻った森岡に、相良が呆れ顔を向けた。

「先輩。先輩は神村上人という偉大な高僧にお仕えしていて出開帳も御存じないのですか」

「面目ない」

 森岡は素直に頭を掻いた。

 相良は掻い摘んで開帳を説明すると、

「瑞真寺は一七三四年(享保十八年)の大本山澄福寺での出開帳以来、なぜか居開帳すら一度も行っていないのです」

「澄福寺? 目黒のか」

「そうです。先輩はご存知なのですか」

「芦名貫主とは懇意にして頂いている」

 相良は何とも言えない顔をした。

「今更ですが、先輩と話をしていると自分自身が嫌になります」

「うん?」

「芦名貫主は、天真宗では間違いなく十本の指に入る傑物ですよ。そう簡単に懇意にしているなどと言わないで下さい」

 そういうことか、と軽く受け流すと、

「それが国真寺の御本尊とどう繋がるのだ」

「私が導いた一つの結論ですが」

 と、相良は前置きをした。

「瑞真寺の御本尊がどういうわけか国真寺に移っているとしたら、どうです」

 相良は、森岡を覗き込むようにした。

「瑞真寺が開帳しないことも、作野貫主が栄真大聖人作の処女作だと言い張ったことも納得できると言いたいのだな」

 そうです、と相良は肯いた。

「ですが、まさか瑞真寺の御本尊であるとは言えません。そこで作野貫主は、第二回京都巡教という方便を持ち出したのではないでしょうか」

 学説上、栄真大聖人が手ずから彫った最古の釈迦立像は、第三回京都巡教の折というのが定説だった。

「なるほど、考えられなくはないな」

「どうです、面白い話でしょう」

 相良は自慢げに言った。

 だが相良の期待に反して、

「辻褄は合うし、小説の世界では面白いだろうが、それだけではなあ」

 と、森岡はつれない素振りをした。

 別格大本山法国寺の件が決着をみた現在、本妙寺新貫主選出に関係のない国真寺は、すでに森岡の関心の外にあったし、門主栄覚への攻撃材料としては弱いと思ったのだ。

 出開帳をしない理由は、破損して鑑賞に耐えない、あるいは火事で焼失したとでも弁明すれば済むことだからである。全焼するような大火事ならともかく、実際にボヤ程度の火事が有ったかどうかなど、今となってはも検証しようもないのだ。いずれにせよ過失は過失だが、隠蔽の事実を真摯に謝罪、説明すれば重大な責任を負わされることはないだろう。

 だが、相良は自信有り気な表情を崩していない。

「では、どのような抗弁をするか、一つお尻を突いてやったらどうでしょう」

「どういう意味だ」

「瑞真寺が動かざるを得ないように仕向けるのです」

 なるほど、という顔をして、

「あわてさせるのも面白いか。となると、マスコミにでも騒がせて……」

 と、森岡は言ったが、

「無理だろうな」

 すぐに自分自身で否定した。

「なぜですか。有効な手だと思いますが」

 足立統万が口を挟んだ。

 たしかに森岡自身、吉永幹子や国真寺の作野貫主を追い詰める手段として、マスコミを利用しようと考えたし、逆に菊池龍峰のリークによって、過去の傷を週刊誌に暴露されたことで、社長の座から降りようと決断したこともあった。

 然様に第四の権力と言われるマスコミの権は大きい。

 だが、森岡は首を横に振った。

「自分の首を絞めることになりかねんから、マスコミは動かんだろうな」

 こと瑞真寺に対しては全くの無力だと言った。

「自分の首を絞めるのは瑞真寺ではないのですか」

「なんでや」

「マスコミが騒げば、瑞真寺は無視できなくなります。無視すれば御本尊不在を認めたことになりますからね。といって名誉棄損か何かで訴えれば、瑞真寺はそれを証明しなくてはならない」

 統万の理屈は通っていた。

 だが、森岡はもう一度首を横に振った。

「瑞真寺は名誉棄損などで訴えはしない」

「それでは、瑞真寺は記事を認めたことになり、ますます筆力は強まります」

「そうはならないのだ」

「……」

 統万には理解できなかった。

「お前が説明してやれ」

 と、森岡は相良に預けた。

「統万さん、瑞真寺は立国会を従えているのです」

「ああ……」

 と、統万は顔を歪めた。

 立国会とは、会員数三百五十万人を誇る天真宗最大の檀信徒会である。

 天真宗開祖栄真大聖人の手掘りの御本尊に纏わる話である。しかも処女作の御本尊である。中傷記事を檀信徒会が黙って見過ごすはずがない。瑞真寺は、必ずや檀信徒会を煽って記事を書いた出版社にクレームという圧力を掛けさせるだろう。

 ただでさえ、宗教法人はタブー視されているのに、ましてや天真宗は我が国最大級の仏教宗派である。確固たる証拠も無しに、これに表立って刃を向けるということは相当な返り血を覚悟しなければならない。

「相良、そこまでわかっているのなら、他に策があるのだろう。勿体ぶらないで先を話せ」

 森岡の言葉に、相良が顔を突き出した。

「先輩は、二年後のミレニアム年に日本仏教会主催の『日本仏教秘仏秘宝展』というのが開催されるのをご存知ですか」

「いや、知らんが、それがどうかしたのか」

「先輩にしては勘が悪いですね」

 相良が揶揄するように言った。

 普段であればムッとするような態度だが、どういうわけか森岡は相良に対しては気が立たない。

「それで」

 森岡はクイッと顎をしゃくって先を促す。

「その秘仏秘宝展に瑞真寺の御本尊を出展させるのですよ」

「それも無理だな。瑞真寺が拒否すればどうにもならん」

 森岡は手を振ったが、相良は不敵な笑みを浮かべている。

「宗務院からの要請ならそうでしょうね」

「……」 

 さすがの森岡も思いが至らなかった。

「主催事務局に働き掛けて、瑞真寺の御本尊を出展するよう宗務院へ催促させるのですよ」

 森岡は目を見張った。

 日本仏教会事務局からの要請が無いのに、宗務院が瑞真寺に話を持って行けば、拒否されたとき、それ以上強く出ることができない。その後あらためて日本仏教会からの要請を盾にすると、森岡の陰謀が栄覚門主の嗅覚に引っ掛かる危険性があった。

 その点、端から全国仏教会事務局からの要請であれば、宗務院に大義名分が生まれ、瑞真寺が拒否した場合は何らかのペナルティを臭わすことができる。

 そうなれば、瑞真寺はじっとしては居れなくなるというわけであった。

 相良が不敵な笑みを浮かべたまま続ける。

「栄覚門主は、非常にプライドの高いお方と聞き及んでいます」

 ほう、と森岡は目を細めた。

「お前の耳にも入っているのか」

「私だって天真宗僧侶の端くれですよ。それぐらいの情報は耳に入ります」

 相良は不満顔になったが、森岡は気にする素振りもなく、

「今日はやけに謎掛けが多いが、いったい何が言いたいのだ」

「はたして、栄覚門主が素直に謝罪するでしょうか」

「うん?」

 森岡は首を捻った。

「抗弁するとでも……」

 相良は黙って首を横に振った。その目はやはり自信に満ち溢れている。 

「もちろん、仮に火事で焼失あるいは盗難に遭っていたと抗弁するとして、それが何時のことだと説明するのか興味が無いわけではないですが、私はむしろ門主は非常手段に……」

 相良はそこで口を噤み、森岡を見た。

 相良の言葉の先を推量した森岡は、

「良くそのような想像が浮かぶな」

 と、普段とは別人のような顔の相良を見つめた。

 森岡は宙を仰いだ。

 よくよく考えてみれば、なるほど相良の言うとおり、栄覚門主が素直に頭を下げるとは思えなかった。プライドもさることながら、野望遂行の支障となる恐れが全く無いとは言い切れないのだ。

「私も、満更捨てたものではないでしょう」

 相良が胸を張る。

 ああ、と森岡が感心したように頷くのを見て、

「じゃあ褒美に、この後高級クラブを三軒ほどはしごですよ」

 とちゃっかり要求したものである。

 わかった、と苦笑いした森岡は、

「となるとだ、是が非でもその事務局から天真宗の宗務院へ要請させる必要があるんやが、当然お前には算段があっての発言だろうな」

 と訊いた。日本仏教会に伝手があるかという問いである。

「冗談を言わないで下さい。あるわけがないじゃないですか」

 いつもの飄々とした彼に戻って、さも自慢げに言うからおかしい。たしかに相良にこれ以上を期待するのは無理がある。

「後は先輩の仕事ですよ」

「面子はわかるか」

「それならインターネットで検索して有ります」

 と、日本仏教会の役員一覧を記した書類を差し出した。

 日本仏教会は主だった伝統宗派の全てが参加している親睦団体である。当然会長をはじめ役員は各宗派の法主、管長、座主といったトップが名を連ねていた。

 だが、森岡に面識のある人物はいなかった。

 唯一面識のある天真宗の栄薩現法主が副会長の要職にあったが、まさか自宗派の秘仏を推薦するといった厚顔無恥な真似を依頼するわけにはいかない。

「困ったな」

「知り人はいませんか」

「こんな雲上人ばかりじゃ、いるはずがないだろう」

「神村上人であればご存知のお方が入らっしゃるのではないですか」

 相良の言い分はもっともであったが、森岡は醜い暗闘に神村を巻き込む気はない。

 待てよ、と森岡はあることに気づいた。

「おそらく、このお歴々はお飾りだろう。実務を担当している者がいるはずだ」

「実際に秘仏秘宝展を仕切っている事務局長というのは、禅宗系道臨宗の大本山太平寺の宗務総長らしいです」

「道臨宗か……」

 森岡には思い当る人物がいた。

 故郷浜浦の菩提寺である園方寺の先代住職道恵和尚である。道恵は地方の末寺の先代住職に過ぎないが、僧階は権僧正である。大本山大平寺の宗務総長と面識があってもおかしくはない。

 ただ太平寺は名称こそ大本山だが、天真宗に照らし合わせれば総本山の格式を有している道臨宗の頂点に立つ寺院である。その宗務総長ということは次期管長に最も近い人物であった。したがって、面識があっても仲介の労を執れるかどうかは不明である。


 翌日、森岡は園方寺に連絡を入れ、急遽帰省した。今回は蒲生良太、足立統万の他に南目輝を伴った。

 従兄弟の門脇修二には連絡をしなかった。日帰り予定の森岡は、修二をはじめとする親戚筋の歓待を避けたのである。六年前、米子自動車道が開通したことで、途中で休憩を入れても片道五時間ほどである。早朝に出発すれば十分往復できた。

 車は大阪吹田ICから中国道を西に二時間ほど走った後、米子道へと入った。

――ずいぶんと便利になったものだ。

 この道を通る度、森岡は心からそう思っていた。

 彼が大学進学のために大阪へ出向いたとき、あるいは祖母のウメの葬儀のために帰省した折はまだ旧道で、中国山地の四十曲峠の急勾配を越えるときには恐怖を覚えたものである。


 旧盆に続いての俄かの帰郷に、道恵は何事かと身構えた。

「私に相談事ということですが、何か不都合でも起こりましたか」

「時間がありませんのでいきなりお尋ねします」

 うむ、道恵は頷く。

「付かぬ事をお尋ねいたしますが、御先代は大平寺の宗務総長と親交がおありでしょうか」

「大本山の宗務総長とな」

 道恵は意外という顔をした。

「もちろん面識はありますが、親交というほどの付き合いはありません」

 大本山の宗務総長であるから、当然宗務を通じて面識はあったが、年齢は道恵より一回り下であった。修行においても熟練度が異なるため、一緒になることはなかったという。

「我が宗派の宗務総長に何の用があるというのですかな」

 道恵の目が胸襟を開けと訴えていた。

 森岡は、日本仏教会主催の秘仏秘宝展の開催を説明し、事務局長の要職にある太平寺の宗務総長から、瑞真寺に御本尊の出展要請をして欲しい旨を伝えた。

「何か思惑がありますかな」

 森岡は瑞真寺の本尊に纏わる疑念を話した。

「なるほど、突けば動き出すということですな」

 森岡は黙って肯いた。

 道恵はしばらく瞑目した。

 森岡の耳に浜浦湾の潮騒が届いていた。

 園方寺は浜浦湾の南方にあった。岸壁からは五十メートルほどの距離である。潮騒に交じって海鳥の鳴き声や破れた網を修復する漁師たちの濁声も届いて来る。

 おもむろに道恵が目を開けた。

「残念ながら、総領さんを紹介するほど親しくはありません。しかも、相談事が相談事だけに……」

 無理だと、道恵は仄めかした。

「御先代がそうおっしゃるのでしたら、諦めるしかありません」

 森岡がそう言って腰を上げたときだった。

「まあまあ、そう早合点しないでお座り下さい。拙僧は宗務総長には紹介できないと言ったまでですよ」

 道恵は悪戯っぽい目で笑っている。

「とおっしゃいますと」

「現管長の丹羽猊下は、私の後輩に当たります」

 道恵は十五歳のとき大本山太平寺で得度し、そのまま十年間の修行を満行していた。道恵の得度から二年後、現第百十二世管長の丹羽秀尊(しゅうそん)が十三歳で得度した。したがって修行僧としては二年後輩だが、年齢は四歳下であった。

 どの世界でも先輩後輩という序列は越えがたいものであるが、宗教界はとくに厳しく、得度したばかりの二年というのは天地ほどの差があると言っても過言ではない。いかに寺院の子に生まれ、父親から薫陶を受けていたとしても、大本山での修行となれば全く別物なのである。

 起床後の蒲団の上げ方、洗顔、掃除、食事等々の生活作法一つとっても細かい所作が定められている。それら全ては先輩僧侶から指導を受けることになるのである。肝心の修行に至っては、小学校入学早々と中学生の学力差ほどもある。

 大学の運動部において、四年生は天皇、一年生は奴隷と揶揄されるが、まさにそれぐらいの開きあった。

「管長様から宗務総長に話して頂けるのでしょうか」

「一つ手土産が要りますが」

 道恵が間髪入れずに切り返す。

「手土産? どのような」

「それは管長から直接聞いてもらうとして、とりあえず面会できるよう取り計らいましょう」

 道恵の思惑有り気な顔が気になりつつも、

「宜しくお願いします」

 森岡は頭を下げるしかなかった。


 浜浦を後にした森岡は大阪には戻らず、そのまま米子空港から東京へと向かい、目黒の澄福寺を訪れた。相良浄光の話から、瑞真寺御本尊の最後の出開帳が澄福寺だとわかったからである。

 南目輝は、実家の彩華堂に立ち寄ってから車を運転して大阪へと戻った。影警護の神栄会は九頭目他一名が森岡に付き添い、残る一人が南目と同じく車を運転して帰阪した。

 貫主の芦名泰山が訝り顔で訊いた。

「電話では瑞真寺の出開帳がどうのこうのと言っておられたが、どういうことですかな」

「江戸時代、瑞真寺の出開帳は、此処澄福寺で行われていたとか。そこで何か古文書でも残っていないかと思いまして」

「古文書のう……仔細は話してもらえないのですかな」

「身勝手だとは重々承知していますが、何卒ご勘弁下さい」

 森岡は深々とを下げた。

「古文書はあるにはありますが、調べる必要はありません」

 拒否されたと思った森岡の顔が苦渋に歪んだ。たしかに、理由を述べずに教えろ、というのは虫が良過ぎる。

「致し方ありません。では今日のことはお忘れ下さい」

 森岡は肩を落として言った。他宗派の道恵和尚とは異なり、同門の芦名貫主に、瑞真寺の門主を罠に嵌めるとは言い難い。

 芦名がふふふ……と含み笑いをした。

「誤解しないで頂きたい。古文書を読む必要がないと申したまでで、私がお答えしましょう」

「貫主様が? お調べになったのですか」

「晋山して間もない頃、文庫を整理したとき、歴代貫主の備忘録を見つけましたのでな、暇なときに読んだのです」

「それで、こちらでの最後の出開帳のとき、何かトラブルのようなことは起きなかったのでしょうか」

「何もございません」

「そうですか」

「ただ……」

「ただ?」

「瑞真寺の御本尊様の出開帳は澄福寺(うち)が最後ではありません」

 えっ、と森岡は驚きの眼を向けた。

「では、どこが最後なのですか」

「翌年に鎌倉の長厳寺で行われたのが最後のようです」

「長厳寺、御前様の……」

 怪しい雲行きに森岡の声が自然と低くなったた。

「そうです」

「瑞真寺の出開帳は三十三年に一度のはずでは」

 相良浄光の受け売りである。

「よくご存じですな。ところが、間違いなく翌年に長厳寺でも出開帳が行われたのです。当代の貫主は『いかなる仔細か不明』と記しています」

「では、長厳寺の出開帳が最後というのは間違いないのですね」

 事は重大である。森岡は念を押した。

「間違いありません。当時の出開帳は布施が主な目的ですから、江戸での出開帳となると、澄福寺か八王子の興妙寺ということになりますが、当時八王子は田舎ですからな。わざわざ選ぶはずがありません。かといって末寺では評判になりませんし、他宗派の寺院というわけにはまいりません」

 言外に、長厳寺は例外で、まずは澄福寺以外には考えられないと示唆した。

「では、長厳寺での出開帳のとき、何かが起こったということはないでしょうか」

「それに付きましては何も書き残されていませんし、瑞真寺の公式見解はあくまでも澄福寺の出開帳を最後としています」

 長厳寺での出開帳は無かったことにしたい意向だ、と芦名は言っているのだ。

――栄覚門主と御前様の間には何か深い因縁があるのかもしれない。

 森岡はそう思いながら、アタッシュケースから中国聖人の姿見の墨を取り出した。

「実は中国聖人の墨は十体ではなく十六体だったようです。本日の御礼として追加

の六体を持参しました」

「このようなことで、六体もの品を受け取っても宜しいのか」

 六体で三千万円は下らなかった。

「私の手元にあっても何の価値も生みません。ご遠慮なく」

 恐縮する芦名泰山に森岡は鷹揚な笑みを返した。


 数日後、道恵和尚の計らいで、森岡は丹羽秀尊管長と面会することができた。場所は、道臨宗大本山大平寺の管長室である。面会は仲介人である道恵の他は余人を交えずに行われた。

 秀尊は理由も聞かず、森岡の申し出をあっさりと承諾した。それは、道恵の言った『手土産』が難しい話であることを意味していた。

 はたして、森岡が話の矛先をそこに向けたとき、秀尊は眉間に皺を寄せた。

「是非とも拙僧を、いや愚息をお助け頂きたい」

 秀尊はソファーから立ち上がると、森岡に近づき、藁をも掴むかのように彼の手を握った。

「御子息を?」

「愚息は大阪の正元寺(しょうがんじ)という、先祖代々の寺院を継いでおります」

 この正元寺は、道臨宗開祖道正(どうしょう)上人が、滋賀に太平寺を開山したのと時を同じくして開基された、この宗派においては最も古い寺院の一つである。

 開基したのは同じく道正上人だが、後に丹羽元成(もとなり)が出家して住職となった。丹羽元成は道正上人を献身的に支援した豪族で、本来であれば本山の寺格を授かってもよいほどの名刹だったが、道正上人の遺言で末寺のままとなった。

 道臨宗には、本山は宗門の寺院に限るとの決まりがあった。となれば、住職の座を丹羽一族で継続することが許されないことになるのだ。末寺のままとする代わりに、道正上人は自らの性の一字を授けた。つまり正元寺は、道正上人と元成から一字ずつ取って命名された名刹なのだった。

「正元寺がどうかされましたか」

 森岡の問いに、秀尊は口元を歪めた。

「暴力団に乗っ取られようとしているのです」

「そのようなことが……」

 俄かには信じられない言葉であった。

 二年前のことである。

 正元寺に香取と名乗る二十二歳の若者が訪れた。俳優にしても良いような眉目秀

麗の好青年で、要件は出家したいのだという。

 香取から悩みを聞いた現住職の秀仁(しゅうにん)は得度を許可した。

 得度後、香取は修行に励む真面目な申し分のない男に思えた。秀仁の一人娘との熱愛が発覚するまでは……。

「総領さんは『出家詐欺』というのを御存知ですかな」

 道恵が代わって訊いた。

「いえ、初めて耳にしました」

 だが、言葉から何となく察することはできる。

 従来は休眠宗教法人を買い取り、その税制優遇を利用する暴力団が多かったが、当局の目が厳しくなり思うように行かなくなっていた。

 そこで、出家すれば戸籍の名前を変更できる仕組みを悪用し、多くの多重債務者を出家させて住宅ローンなどを金融機関などから騙し取る新手の詐欺行為を編み出した。最近では暴力団対策法の下、新たな資金源を求める暴力団関係者自身が名前を変えて表社会に進出する手段にもなっている。

「香取は由緒ある正元寺そのものを乗っ取る気なのです」

 秀尊管長はいかにも忌々しげに言った。およそ、伝統仏教宗派の頂点に立つ人物とは思えない俗人の顔である。

 それも無理からぬことなのかもしれない。丹羽家には一人娘しかいなかった。香取がその孫娘と一緒になればどうにもならないということなのだ。

「私にどうせよと?」

「香取が正元寺から出て行くように取り計らってもらえないだろうか」

「私にそのようなことができるはずもありません」

 森岡は即座に断った。香取だけならまだしも、孫娘との関係も清算しなければならない。香取の正体を知らせずに恋心を覚ませるのは難題だった。

 丹羽秀尊管長あるいは秀仁が直接対応しないのには理由があった。

 まず、香取に因果を含めるには交換条件が必要になる。香取を送り込んで来た経緯には深謀遠慮が見て取れ、交渉次第では、却ってさらに窮地に陥る可能性があった。

 といって、問答無用と香取を破門すれば、いかなる報復に出られるとも限らない。さしずめ孫娘の身の上が心配となる。

 丹羽秀尊管長がその身分を利用して政治力を使えば、醜聞は自宗派のみならず他宗派、いや広く世間一般にまで知れ渡ることになるであろう。そうなれば、少なからず脇の甘さを指摘されることは避けられず、著しい名誉の毀損となる。最悪の場合、ペナルティとして正元寺に許された得度許可寺の特典が取り上げられる可能性が高い。これは大きな収入源の喪失となるのだ。

「総領さんであれば、と思ったのじゃがの」

 道恵が奥歯に物の挟まった言い方をした。

「御先代、いくらなんでも買被り過ぎです」

「そうかのう、総領さんはその世界にも顔が利くと聞いておったのじゃが」

「なっ」

 思わず森岡の腰が浮いた。

「今年の旧盆の帰省に合わせて、総領さんに危害を加えんと境港に現れた不審人物を神栄会の峰松という極道者が捕縛したそうな」

「……」

 森岡はぐうの音も出ない。

「峰松といえば神王組でも名うての強面で、将来の組長候補にも名が挙がっていると聞く」

「どこから、それを」

「秋の法要のとき、足立万吉さんから聞かされました」

 足立統万の祖父万吉は、森岡の祖父洋吾郎の義弟で盟友だった人物である。彼は洋吾郎と腹違いの妹の婿に入った。洋吾郎の実父で、万吉の義父だった男は灘屋を出て境港で一家を構えたとき、菩提寺を園方寺としたのである。

 また万吉自身も、現在は境港市民であるが、元は島根半島の多島(たしま)という浜浦の隣村の出身だった。多島は八十世帯の小さな村で、ほとんど家の菩提寺が園方寺であった。

――万吉爺さんも老いたな。

 以前の万吉であれば、いかに道恵といえどもその種の話をしたりしないはずであった。齢九十歳、棺桶に片足を突っ込んだ年になり、口が軽くなったのであろう。

「そこまで御存知とあれば隠し様がありませんね」

 森岡は苦笑いをした。 

 それにしても暴力団というのはなんとも抜け目のないことだろうか、と森岡は思った。正元寺は、道臨宗において世襲と得度儀式執行の両方を認可された数少ない寺院の一つなのだ。もし香取が後を継げば、手あたり次第に暴力団関係者を得度させ、法の目から逃れさせると予想できた。

「香取が極道者だと良く見抜けましたね」

「幸運なことに、偶然にも香取が組らしきところに電話しているところ目撃したのです。その口ぶりに疑念を抱いた秀仁が興信所を使って調べたのです」

「それでは、香取という男はこちらが正体に気づいていることは知らないのですね」

「そのとおり」

 秀尊が厳しい顔つきで肯いた。

「さて、お聞き難いのですが」

 森岡は遠慮がちに言った。

「お孫さんとの関係はどこまで進んでいるのでしょうか」

 秀尊の顔が緩んだ。

「香取は殊勝を装うためか、修行中ということで、まだ深い関係にはなっていないようです」

 秀尊は肉体関係を否定した。

「それは不幸中の幸いです」

 森岡もほっと息を吐いた。仮に妊娠でもしていたら、さらに面倒なことになるからである。

「香取はどこの組かわかりますか」

「興信所の報告では東京の青虎会ということです」

「青虎……」

 森岡の口が滑った。

「総領さんは、御存知かの」

 道恵の声には期待が籠っていた。

「知っているというほどではありませんが、伝手はあります」

 おお、と秀尊は口元を緩め、

「では、何とかなりますか」

 道恵が期待の顔で訊く。

 森岡はしばらく瞑目して沈思した。

「実は、旧盆の前に管長様とお会いしたとき、その苦衷を打ち明けられたのですが、拙僧如きに解決できるはずもない。ところが、十数年ぶりに総領さんにお会いし、また万吉さんから神王組との関係を聞いたとき、もしや総領さんならばとは思ったものの、連絡を躊躇っておりましたのじゃ」

 溜まりかねた道恵が言い訳をした。

「そこへ私からの連絡があり、渡りに船と思われたのですね」

 瞑目を終えた森岡が微笑んだ。

「いかにも」

 道恵はいかにも決まりが悪そうに、つるつるの頭を撫でた。

「さて管長様、青虎会といえば、広域暴力団虎鉄組の中核組織です。その青虎会が周到に準備を重ねてきた計画から手を引かせるには、宗務総長への指示をお願いするだけでは割りに合いません」

 森岡に駆け引きをするつもりなど毛頭なく、実に本心であった。

「金かの。二、三億なら何とかなるが」

「それでは香取個人への手切れ金にしかなりません」

「では、いくら掛かるのかの」

「私が交渉するとなりますと、百億単位の利権を手放すことになるでしょう」

「ひ、百億……」

 秀尊と道恵が揃って悲鳴を上げた。幼少期から森岡を知る道恵は、彼が大風呂敷を広げる男ではないと承知している。

「いくらなんでもそのような大金を、総領さんが肩代わりすると言われるのか」

「現金ではありません。あくまでも利権です」

「どのような」

「それは御先代といえども申し上げるわけにはいきません」

 森岡は道恵に軽く会釈した。

「では、総領さんは百億何某かの利権お持ちなのか」

 森岡は不敵な笑みを浮かべ、

「御先代とも思えないお言葉ですね」

 と少し揶揄するように言った。いくら道恵の頼みでも、全ての利権を手放すはずがない。

だが、道恵は不快になるどころか、

「総領さんの利権はそれ以上ということですな」

「二桁違うとだけ言っておきましょう」

 森岡は平然と言った。

「一兆円?」

「もっとも十年の時を要しますが」

「それにしても……」

 秀尊と道恵は開いた口が塞がらない。

「そこで、憚りながら管長様にはそれに見合う協力をもう一つお願い致します」

「百億の利権に見合う協力など、拙僧にできようか」

 秀尊が不安な顔を覗かせる。

「額面の百億など、管長様の御威光に比べれば何ほどのものでございましょう」

「私に何をせよ、と」

「私の事業に協力して頂きたいのです」

「して、その事業とは」

「そちらの宗派においても損になる話ではありません」

 と、森岡は寺院ネットワーク事業について説明した。

「そういう話であれば、我が宗派にとっても有り難い話です。協力どころかこちらから頭を下げてでもお仲間に入れて頂きたい」

 日本全体で少子高齢化と地方の過疎化が進み、とくに田舎の末寺は経営が成り立たなくなっていた。現に、後継者が見つからず廃寺となった寺院は数知れない。また、そういった廃寺の法人を暴力団が買い漁るため、長閑な集落が突然きな臭くなっている現実があった。

 森岡の提案はそういった貧困に喘ぐ末寺を救済する可能性があった。

 丹羽秀尊管長が率いる道臨宗の寺院数は三千余、森岡の事業推進に拍車を掛けるという意味において申し分のない数であった。

「では、引き受けて下さいますか」

「出来得る限りのことをしてみましょう」

「有り難い。この通りです」

 秀尊は両手をそれぞれの膝に置き、肘を深く追って頭を下げた。これは、目上の者が行う正式な『礼』の所作である。畳に座っているときは胡坐を搔いて同じ動作をする。正座をして、手を畳に着けて頭を下げるのは『謝罪』、または『懇願』である。ただ、同等または目下の者は、いずれの場合も手を畳や床に着いて頭を下げる。

「ただし、手法については一切詮索なさらないように願います。また、本日の事も他言無用を堅く守って頂きます」

 森岡は二人の目を交互に見て言った。

「それはもう……」

「総領さんの言われるとおりに」

 二人は神妙に肯いた。

「最後に、失礼ですが宗務総長さんは信用の置けるお方ですね」

「それは拙僧が保証します」

 秀尊が胸を叩いた。

「とはいえ、瑞真寺の御本尊の件は、万が一にも私の名が出ませんようにお願いします」

 森岡は鋭い目つきで念を押した。

「承知しました」

 さすがの高僧二人も気圧されるように口を合わせた。


 森岡洋介は赤坂の高級料亭・磯松(いそまつ)で宗光賢治と会った。

 帝都ホテルのスイートルームを提案した森岡に、宗光が磯松での密談を希望した。

 青虎会は虎鉄組の構成団体である。したがって虎鉄組の鬼庭徹朗組長と直談判するのが筋道であったが、森岡は鬼庭本人よりも彼の兄貴分の宗光に話を通した方が早いと思ったのである。

 女将の案内で座敷に入った途端、森岡は訝しさを感じた。部屋の両側に隣部屋があったのである。

 通常、料亭は全室が個室である。客の会話が漏れないためには当然のことである。

 人数に応じて六畳から三十畳程度まであり、全室床の間付きである。むろん、政治家や大企業の最高幹部であれば、秘書や御伴の者が控えるための続き部屋があるが、左右両側にというのは珍しかった。

 森岡は学生時代から神村に同伴し、大阪や京都だけでなく、東京や名古屋、札幌、仙台、福岡、鹿児島など数多くの料亭を訪れていたが、このような座敷は滅多になかった。

 しかも、約束時間より三十分も早く着いたのに、宗光はそれよりさらに早くやって来ていた。

 どう考えても、何か仕掛けがあるのような気がしてならなかった。 

「どうかしたかな」

 不審顔の森岡に宗光が声を掛けた。

「いえ、なんでもありません」

 取り繕った森岡は、

「過日は大変お世話になりました」

 と、まずは畳に手を着いて礼を述べた。

「なんのなんの。また会いたいと思っていたが、こんなに早く、しかも君の方から連絡があるとは思ってもいなかったぞ」

 宗光は満足気に笑った。

 宗光賢治は六十五歳。身長は百七十五センチほどで、彼の年代では大柄の方である。目、鼻、耳、口の一つ一つの創りが大きく、唇も厚い。どことなく天礼銘茶の林海徳と容貌が似ている。彼との差異は、豊富な頭髪が見事に白色化していることだろうか。

「少々、面倒なお願いがあって参りました」

 その深刻な口調に宗光から笑いが消えた。

「君ほどの男が、そのような顔をするということは金ではないの」

 宗光は手で顎を撫でると、

「勅使河原が、なんぞ無茶を仕掛けてでもきたか」

 と訊いた。

「いいえ。青虎会のことで」

「青虎?」

 宗光は意外という顔をした。

「先日、手打ちをしたばかりだろう」

 宗光の言うとおり、坂根好之の拉致監禁事件は、森岡が五億円を支払うことで手打ちとなっていた。鬼庭組長は不満げであったが、一度手打ちをした以上、余程どのことがない限り反故にしないのが極道社会の鉄則である。

「その件ではなく、正元寺の件です」

「なんだと!」

 さすがの宗光も動揺を露にした。森岡の用件がわかったのである。

「どうして君が関わっているのだ」

 言うまでもなく、森岡の師である神村正遠は天真宗僧侶である。森岡が修羅道に身を落としてまで献身するのは、あくまでも神村のためであったはずである。宗光の疑念は、他宗派の正元寺とどのような関わりがあるというのか、そのことである。

「知人に頭を下げられまして」

 と、道恵の名は伏せて経緯を話した。

「なんとも奇特なことだな」

――どうやら、この男は揉め事の仲裁役を担うように宿命付けられているようだ。

 宗光は曰く言い難しという顔をした。

「それで……」

 どういう心積もりなのか、と訊いた。 

「宗光様の御要望に沿いましょう」

 一瞬、宗光賢治の頭に空白が生まれた。

 そして次の瞬間、ブックメーカー事業のことを言っているのだと理解した。虎鉄組の鬼庭組長を交えて手打ち交渉をしたとき、宗光は虎鉄組が一枚噛めないか打診していた。そのときは冗談を装ったが、見事に腹の底を見抜かれていた。

――なんとも恐ろしい男だ。

 宗光は震撼した。

「六代目とは話が付いているのか」

 と探るような眼つきで訊いた。

 とんでもない、と顔の前で大きく手を振った。

「殺されてしまいますよ」

 いかに神王組六代目の蜂矢司の覚えがめでたくても、他組織の介入を許すはずがない。だが、殺伐とした言葉を吐いた割りに、森岡の表情は緩んでいる。

「どういうことだ」

「台湾の利権を割譲しましょう」

「台湾だと? ば、馬鹿を言うな」

 間髪入れず、怒声を上げた。

 無理もない。台湾の裏組織は世界最強とも言われている殺戮集団として恐れられていた。その台湾の黒社会に手を突っ込むことなど自殺行為に等しかった。

「こちらは話が付いています」

 森岡は事もなさげに言った。

 数瞬、呆気に取られていた宗光は、

「あはは……」

 と両手を叩き、上半身を前後しながら笑った。

「君という男はなんという……手打ちのときもたいした『いごっそう』だと感心したが、思っていた以上だ」

 いごっそうとは土佐弁で、胆の据わった男、快男児という意味である。

「宗光さんは高知のご出身でしたか」

「自慢じゃないが、先祖は坂本家の遠縁に当たる」

「坂本? 坂本龍馬ですか」

「おう、そうだ」

 宗光が胸を張った。

「それは羨ましい限りです」

 森岡は真摯な態度で言った。歴史上の人物の中で、彼は坂本龍馬の生き様がもっとも好きなのである。

「何を言うか。私こそ君の血筋にどれだけ嫉妬することか」

 宗光も真顔である。彼は、森岡が奈良岡真篤と同じ系譜であることを知っていた。

「お互いに隣家の芝生は緑に見えるようで」

「そういうことらしいのう」

 大きく肯いた宗光は、

「それで台湾はどの筋と話を付けたのだ」

 と探りを入れた。

「それは企業秘密ですよ」

「教えられんか」

「話しても良いですが、それがどうだというのです」

 森岡は、暗に楔は打てないと言った。

「わかった。では条件を聞こう」

「毎年、台湾での総売り上げの〇.五パーセントを上納しましょう」

「〇.五パーセントもか」

 宗光は驚いたように言った。この右翼の頂点に立つ男は、頭の回転も速い。瞬時に計算を終えていた。

 森岡が郭銘傑に説明した、『台湾側から受け取るのは、神王組へ上納する四パーセントと、コンサルティング料の一パーセント』というのは方便だった。実際は、一パーセントを蜂矢個人に、〇.五パーセントを神栄会に上納するつもりでいた。蜂矢とは日本国内での事業しか請け負っていない。日本以外の事業については自由なのである。したがって、蜂矢にとっても一パーセントは望外ということになる。

 森岡は此度のような場合を想定し、残りの二.五パーセントの利権を確保していたのである。

「台湾の裏野球賭博の賭け金総額は年に一兆円を上回っていると聞く。この牙城を崩すのは容易ではないと思うが、いずれ一割ぐらいは何とかなるかもしれないな」

 一千億円の〇.五パーセントということは年に五億円である。宗光にとっても悪い条件ではない。

「宗光さんの指定口座に振り込んだ後は、私は……」

 と、森岡は目を瞑り、口をぎゅっと閉じ、両手で左右の耳を塞いだ。

「見ざる、聞かざる、言わざる、だな」

 森岡は、宗光がその金をどのように分配するか関心がないし、聞きもしない。また、仮に鬼庭徹朗から宗光への上納総額を問われても堅く秘匿すると言っているのである。

「よかろう。正元寺の件は手を引かせる。だが……」

「タイかスリランカにでも仏道修行に行き、十年ぐらいは帰国しないということにして下さい」

 宗光の胸中を察した森岡が助言した。

「なるほど、それは良い。それだけ時間があれば、入れ揚げたお嬢さんの熱も冷めるであろう」

 納得の表情をした宗光の口調が,

「ところで、どうして私のところに話を持ってきた」

 と詰問口調に変わった。

「おっしゃる意味が分かり兼ねますが」

「出家詐欺は青虎会が考えたこと。鬼庭徹朗に話を持って行くのが本筋だろうが」

「宗光様は鬼庭組長の兄貴分でしょう」

 当人より、その上の立場にある者と話を付けた方が手っ取り早い、と森岡は言った。

「だが、私に話を持ってくれば、余計に金が掛かるだろう。事実、鬼庭であれば十億ほどで済んだものを、台湾の利権を割譲する破目になり、トータルすれば何十倍にもなった」

「正直に申し上げて宜しいですか」

「許そう」

「今度の策略ですが、言い難いことながら、とてものこと鬼庭組長には考えも付かないことでしょう」

 その瞬間、宗光は眉を吊り上げた。

「鬼庭をそう馬鹿にするな。出家詐欺など当世の極道者であれば誰でも思い付く」

 不肖の教え子でも、いや世間では出来の悪い子ほど可愛いとも言う。宗光も例外ではないらしい。

「誤解しないで下さい。出家詐欺そのものではありません。正元寺は道臨宗でも特別な寺院です」

 森岡は、少しも動じることなく弁明した。

「そっちか。なるほどの」

「いかに極道組織が情報通であっても正元寺の縁起は別物です。おそらく檀家組織からの情報でしょう。天真宗における立国会と同じ伝手が道臨宗にもある。そのような高度な情報網を持つ人物は宗光様の他に考えられません」

「買被り過ぎだ。第一、私と勅使河原にしても、それほど深い付き合いではない」

「そうでしょうか。あの手打ちの席で、宗光さんは五億全てを勅使河原に渡すようにと鬼庭組長に言われましたが、組長は折半したと私は思っています。当然、勅使河原は文句の一つも言ったでしょうが、そこで組長は宗光様の御意志と伝え、納得させたはずだと推察しています」

「く……」

 宗光は言葉を失った。まさしく森岡の言うとおり、勅使河原から鬼庭の発言の裏を取る連絡があったのである。

「君は未来が見えるのか」

「とんでもない」

 森岡は顔の前で手を振った。

「ただ、人となりと人間関係から推し量っただけです」

「一度会っただけで、そこまで見通すのか……さすがは奈良岡先生の血筋、実に恐ろしい男だ」

 宗光は畏怖するように言うと、

「君の言うとおり、正法会(しょうぼうかい)の会長と昵懇でな。以前、何気に耳にしていた。会長には悪いと思ったが、利用させてもらった」

 正法会とは道臨宗の最大檀信徒会で会員は約百二十万人である。

「宗光様は他の宗派の檀信徒会ともお付き合いがございますか」

「他にも三つ四つの宗派の檀信徒会幹部と懇意にしている」

「さすが、以前『情報は右翼の因』とおっしゃったのは伊達ではありませんね」

 と感服した表情で言った森岡がビール瓶を手にして酌をした。

「そこで御相談があります」

「あらたまって、なんだ」

「それらの最高幹部または責任者を私に御紹介して頂けませんか」

 宗光は射抜くような目で森岡を見据える。

「今度は何をするつもりなのだ」

 森岡は寺院ネットワーク事業を説明し、各檀信徒会から宗門への働き掛けをして欲しいのだと言った。

「ITの世界と宗教界、対極にある二つを結合させるのか。何とも良いところに目を付けるのう」

「御協力頂ければ、憚りながら一団体に付き二億の御礼をいたします」

 そう言って頭を下げようとした森岡を、

 いや、と宗光は手をかざして止めた。

「礼は良い。その代わりと言っては何だが、私事の願いがある」

「はて、それは……」

 森岡は、右翼の首領が自分にどんな願い事があるのだ、と訝った。

「実は、私の息子を傍に置いてくれないか」

「ご子息を……それは御勘弁下さい」

 森岡は即座に断った。

 なに! と宗光の顔が見る見るうちに険しくなった。

「私の頼みを断るか」

「いつ寝首を搔かれるか、しれたものではありませんので……」

 表情一つ変えない森岡を凝っと見ていた宗光は、やがてふふふ……と笑った。

「冗談か。本当の理由は何だ」

「私などより、宗光様御自身の傍にいた方が余程糧になると思います」

 うーん、と宗光が頭を掻いた。

「こう見えても、私も人の子なのだよ、森岡君」

「御子息を崖下に突き落せませんか」

 獅子は我が子を崖下に落とし、這い上がって来た子のみを育てるという。

「恥ずかしながら」

 と言った宗光の顔は、右翼の首領から一人の父親のそれになっていた。

「何せ、四十歳を過ぎてからの恥じ掻きっ子でな。どうしても甘くなってしまう。そこで他人の釜の飯を食わそうという魂胆なのだ」

「では、一度ご本人と会ってからにしたいのですが、それで宜しいですか」

「それならば、今会ってやってくれないか」

 そう言って宗光は襖に向けて声を掛けた。

「賢一郎、森岡さんに挨拶しなさい」

 失礼しますと応じ、襖を開けて若者が座敷に入って来た。

――なるほど、この座敷にしたのはこういうことだったか。

 森岡は、賢一郎と呼ばれた息子に会話を聞かせ、自分の値踏みをさせたのだと推察した。

「宗光賢一郎です。以後お見知りおき下さい」

 と言って平伏した。

 今時の若者にしてはしっかりとした挨拶と所作だった。

「どうだ、私の言うとおりの男だろう」

「いえ、お父さんの言われる以上かと思います」

 賢一郎は平然と答えた。

「ほう、なぜだ」

「これまでお父さんと正面切って話のできる者がいましたでしょうか。言葉に詰まるか、追従する者ばかりでした」

「だな」

「お父さんには悪いですが、ただいまの交渉は森岡様の方が上だと見ました。この貫録で、私より一回りしか違わないとは、嫉妬心や劣等感などを超えて、己の将来に絶望感さえ抱きます」

 ははは…、と宗光賢治は高笑いすると、

「良く言った。それでこそ私の息子だ」

 満足顔を森岡に向けた。

「まあまあだろう」

 はい、と森岡は肯いた。 

「失礼ですが、今は何をしておられますか」

「大学を出た後、父の許で修行をしています」

「大学はどちらを?」

「関東大学の政治経済学部を出ました」

 賢一郎は、大学を卒業したばかりの二十三歳だった。

「ほう。あそこは帝都大学受験者が併願するところ。なかなかに優秀ですね」

 森岡は素直に褒めると、

「スポーツは」

「スポーツではありませんが、空手と合気道を少々修練しています」

 賢一郎の背格好は森岡と似かよっているが、鍛え上げられた肉体は森岡の比ではなかった。

「どうかの」

 宗光賢治は覗き込むようにした。

 森岡は数瞬間を置いた後、

「いまさら申し上げるまでもありませんが、私の仕事は危険を伴います。御子息の命の保証はできません」

 と念を押した。

「むろん、承知している。そのうえでの頼みだ」

 つい先頃、弟分の鬼庭徹朗率いる鬼庭組が、森岡の部下の坂根好之を拉致監禁したばかりである。また今後、ブックメーカー事業は全世界に展開されることだろう。であれば、各国の裏社会との折衝は不可避となる。その過程において、万が一森岡が的になるようなことがあれば、身近にいる賢一郎は巻き添えを食う可能性が高い。

「ならば、お引き受けいたしますが、一旦私の手許に置いた以上は、どなた様の縁者であっても遠慮はいたしません。そのように心にお留め置き下さい」

「わかっている。むしろ、それこそが私の望むところなのだ」

 宗光賢治はきっぱりと言った。

「賢一郎も良いな」

「はい」

 と言った賢一郎の面には覚悟の程が顕れていた。

「良し、決まった。では固めの盃といこう」

 宗光賢治は破願して森岡に酌をした。

 森岡にとって宗光賢一郎を手許に置くという決断は大きな賭けであった。

 賢一郎は言わば『堂々たるスパイ』である。森岡の傍にあって彼に集まる様々な情報を父賢治に漏らすことができる。そうなれば、今後宗光賢治との交渉において駆け引きができなくなる。また場合によっては、賢一郎は森岡を殺害、あるいは罠に嵌める先兵としての役割も果たすことができる。

 一方森岡にとってみれば、宗光賢治の掌中の珠を人質に取ったようなものである。賢治の溺愛が真実であれば、反対に彼の持つ情報を利用する道が開ける。しかも、これが最も重要なのだが、もし賢一郎を一人前に薫陶したうえで、将来彼が父賢治の後を継げば、日本の右翼の世界にも顔が通用することになる。

 むろん、子息だからといって、必ずしも右翼の首領の座が受け継げるものではないが、それでも心の絆で結ばれた者がその世界にいるといないとでは雲泥の差である。

 森岡は、瞬時に両方を天秤に掛け、前に出ることを選択したのだった。


 半月後、宗務院からの使者を見送った栄覚門主は、貫主室に執事長の葛城信之を呼んだ。

 貫主室に入り、栄覚の顔色を見た葛城は、彼の心の陰りに気づいた。

「何か新たな不都合が生じましたか」

「困ったことになった」

 葛城は栄覚が見せた渋面に事の重大さを悟った。

「もしや、例のことでございますか」

 うむ、と栄覚が肯いた。

「私の代で憂いを取り除いておきたいと思っていたが、この二年の間に解決しなければならなくなった」

「宗務院が何か言って来たのですね」

「寄りによって、全国仏教会の事務局から、二年後の日本仏教秘仏秘宝展に当寺の釈迦立像を出展して欲しい旨の要請があった、と告げられた」

「なんと。断ることはできませんか」

「断れば、間違いなく疑いを招く」

「そうでございましょうな」

「もし、紛失の事実が明らかになれば、何らかの処分対象になる」

「御門主の野望にも支障が出ますね」

「支障どころではない、大きな痛手となる」

 紛失したことより、隠蔽し続けて来たことの方が罪が重い、と栄覚は苦い顔をして言った。

 瑞真寺の御本尊は、江戸享保時代、長厳寺での出開帳後に盗難に遭っていた。しかも、犯人は長厳寺が雇った警護の侍と下働きの小者であることが濃厚だった。

「こうなれば手段を選んでいる暇はない。大抵のことは腹を括るつもりだが、何か良い方法はないものかのう」

 栄覚の吐息混じりの呟きに、葛城が眦を決して口を開いた。

「実は、御門主様がいつそのお言葉を口にされるかと待っておりました」

「その口ぶりでは、すでに腹案があるのだな」

 栄覚が期待の籠った声で訊いた。

 栄覚から御本尊の紛失を聞いた葛城は、まず久田帝玄が稲田連合に渡した法国寺の宝物の中に、その御本尊を加えていなかったかどうかを調査した。

 その結果、法国寺から持ち出された五点の宝物のうち、四点は稲田連合傘下の極東金融へ、残り一点は菊池龍峰の手元へ流れたが、いずれも森岡の尽力で総本山へ戻っていた。

 問題は、それらとは別に御本尊を稲田連合に差し出したかどうかであった。帝玄が別格大本山法国寺の宝物に手を出すくらい追い込まれていたのだとすれば、瑞真寺の秘仏を手放したのではないかと推察したのである。

 だが極東金融からの返答は、菊地龍峰に譲ったものも含めた五点限りで、他にはないというものだった。

 つまり、瑞真寺の御本尊の行方は、依然として不明のままであった。

「御門主、いっそのこと開帳をいたしたらどうでしょう」

「ば、馬鹿なことを」

 栄覚の身体が小刻みに震えた。狼狽しているのが一目瞭然だった。

「む、無茶にも程があるぞ」

「いえ。起死回生の良策だと思います」 

 と間髪入れずに応じた葛城の自信顔が、栄覚には尊大に映った。

「良策だと? 何を言っているのだ。当寺の恥が、いや罪が世間に知れ渡るのだぞ。第一、御本尊様はどうするのだ」

 今にも飛び掛からんばかりに怒鳴った。

「落ち着いて下さい。声が外に漏れます」

 葛城があわてて宥めた。

 瑞真寺は、宗粗栄真大聖人の末弟栄相上人の血脈者が代々貫主を務める本山格の寺院である。栄真の遺言により血脈、血縁者が不当に排斥されて来た歴史の反省に立ち、室町時代に建立された。 

 だが、宗務自体は宗務院の関与から免れたものの、その代償として貫主の補佐、身の回りの世話をする執事は全て宗務院から派遣されていた。

 言わば、公然たる監視役である。したがって、歴代の瑞真寺貫主は、隠忍自重して己の本心を直隠しにしなければならなった。

 その点、栄覚は恵まれていた。執事長の葛城は、先代門主栄興上人の縁の者だったのである。といっても、味方は葛城ただ一人、他の執事は宗務院の監視員に違いはなかった。

「贋作すれば良いかと」

「ば、馬鹿な……」

 あまりの進言に、さしもの栄覚も二の句が継げない。

「よくよくお考えになって下さい。当寺の御本尊様を最後に開帳したのは、二百六十年以上も昔のことなのですよ」

「……」

 栄覚がしばらく沈思した。

「本物は誰も知らないということか」

 にやりと葛城が肯いた。

「そのとおりでございます」

「とはいえ、確実ではあるまい。学者や古美術に造詣の深い者の中には看破する者がいるかもしれない」

「ですから、そいつを抱き込んでしまえば宜しいのではないでしょうか」

「なに……」 

 鋭利な頭脳を持つ栄覚が首を捻った。動揺が完全に収まっていないのである。

「当代一の見識者からお墨付きを貰うのです」

 栄覚がそういうことかと、小刻みに何度も顎を上下した。

「金で偽物を本物とせよ、と言うのだな」

「これで御門主様の、そして御宗祖様の血縁寺である瑞真寺の暗雲は払い除けられます」

 葛城は両手を畳に着いて頭を下げた。

「誰か当てはあるのかの」

 葛城が頭を上げるを待って栄覚が訊ねた。

「帝都大学の海老沼名誉教授は、私の遠縁に当たります」

「海老沼? 確か、古美術品真贋鑑定の権威だな」

「右に出るものはおりません」

 葛城は胸を張ったが、栄覚の面は沈んだものになった。

「そのような大家が、悪巧みに加担するはずがない」

「それが有り得ますので」

 葛城は口調は揺るぎないものだった。

「海老沼名誉教授の弱みを握っています。ですがご容赦を」

 詳細は話せないと葛城は言った。

 わかった、と眼で答えた栄覚は、

「間違いないか」

 と念を押した。

「ご懸念無く」

 葛城は寸分の迷いもない口調で言った。だが、それでも尚、栄覚は厳しい表情を崩さない。

「もう一つ懸念があるぞ」

「どのようなことでござましょう」

「長厳寺が異論を挟んだらどうする」

「これは御門主のお言葉とも思えません」

 葛城の言葉に、あっと栄覚が自分の間違いに気づいた。

「久田自ら墓穴を掘ることになるか」

 はい、と葛城が肯いた。

「長厳寺はわかった。だが、他の者の手に有ったときはどうするのだ。下手をすれば真贋論争になるぞ」

 ふふふ、と葛城は不気味に笑った。

「それは、さらに勿怪の幸いでございます」

「なんだと」

 初めて見る葛城の一面に、栄覚が思わずたじろぐ。

「御門主様は何もご存知ない方が宜しいでしょう。そのときは全て私にお任せ下さい」

 葛城は乾いた声で決断を迫った。

 それでも栄覚は逡巡した。

 彼は大いなる野心家で策謀家でもあるが、決して悪党、悪辣漢ではない。勅使河原公彦と一定の距離を保ち、虎鉄組に必要以上の暴力を振るわないように戒めているのがその証拠である。

 宗祖栄真大聖人の血縁者である彼の念頭にあるのはただ一つ。不当に排除されて来た瑞真寺の歴代門主、つまりは祖霊方の名誉回復である。とくに現法主・栄薩大僧正をも凌ぐ力量と謳われた父栄興ですら、法主の座を断念せざるを得なかった理不尽な状況に憤っているのである。数々の謀略は、心に鎧を纏って実行しているだけなのだ。

 そのような彼にしてみれば、天真宗教義と同等の重きをなす、秘仏の御本尊を蔑ろにする行為など容易に決断できるはずもなかった。

 やがて栄覚はゆっくりと口を開いた。

「少し考えさせてくれないか」

 虚ろな目をして言った彼の眉間には、深い皺が刻み込まれていた。 


 天真宗開祖栄真大聖人の処女作と言われている瑞真寺の釈迦立像は盗難に遭っていた。

 一七三五年(享保十九年)に、時の瑞真寺門主栄経(えいきょう)が鎌倉の長厳寺で出開帳を行った後に紛失した。

 本来、前年に三十三年周期の出開帳を目黒の大本山澄福寺で済ませたばかりで、二年連続での出開帳には難色を示した栄経門主だったが、長厳寺の住職帝蓮(ていれん)上人の断っての要望を断り切れず、不承不承応じた。

 というのも、前年の澄福寺の出開帳の仲介役をしたのが帝連だったため、無下に断れなかったのである。

 事件は二ヶ月に亘って行われた出開帳を終え、その帰路の途に着いた直後だった。長厳寺側が警護のためにと付けてくれた侍の一人と下働きの小者が、金二百両と釈迦立像を持ち逃げしたのである。

 このとき警護役の侍は五名いたが、持ち逃げしたのは新規に雇われた者ではなく、長年長厳寺の警護を勤めていた侍だったため、栄経は帝蓮の騙り、つまり警護侍と謀ったのではないかと疑った。

 だが確証がないうえに、御本尊が盗難に遭ったなどという噂が広まれば、瑞真寺の威光は地に落ち、自身は門主の座から降りなければならなくなる。いやこの際、我が身はどうなろうとも、宗祖家の名誉が傷つけられることは回避しなければならなかった。

 故に、栄経は盗難の事実を隠匿せざるを得なかったのだった。

 幸いというべきか、他の執事や警護の侍は、金銭の紛失に目を奪われていたので、 栄経は己一人の胸に留めることにした。

 瑞真寺に戻った栄経は、密かに人を雇い長厳寺を調べさせたが、御本尊を持ち去った侍と共謀した事実は浮かび上がらなかった。もっとも、大胆不敵な暴挙をを行ったのである。証拠を残しておくとも思えなかった。

 確証はないものの長厳寺への嫌疑は晴れなかった。当代門主栄覚が久田帝玄に憎しみを抱く理由がそれであった。

 以降、瑞真寺の秘仏である釈迦立像の開帳は封印された。

 

 さて釈迦立像の行方だが、実は持ち逃げした小者によって国真寺へと運ばれていた。というのも、この小者というのは、時の国真寺貫主・栄隆(えいりゅう)上人の元執事をしていた僧侶だったのである。栄隆の元執事がこのような暴挙に出た理由は、ひとえに瑞真寺門主栄経に対する恨みであった。

 それは、鎌倉長厳寺での出開帳の三年前だった。 

 その年の春、京都の別格大本山法国寺の次期貫主を選出する合議が行われた。場所は、静岡の本陣岡崎家である。出席したのは、総本山の宗務総長と各大本山の貫主たちである。

 現在とは違い、当時には総本山に総務という役職はなかった。

 本山末寺制度が敷いてあることで上納金は滞りなく収められたため、全国寺院の宗務報告を総本山に上げる必要がなかったからである。したがって、当時は宗務総長が次期法主の第一候補であった。また、現在と同じく、宗務総長と全国にある九大本山のうち当該の法国寺を除く八名の貫主の合議で決した。

 滞りなく新貫主の選出を終えた九名の高僧たちは、そのまま岡崎家で慰労の席に付いた。当時は現在より戒律は厳しかったが、大本山の貫主が一堂に介する機会など滅多にあるものではない。親睦と各地域の情報交換を兼ねて宴に興じたのである。

 もちろん、羽目を外すことはない。料理も精進料理に毛の生えた程度のものであるし、般若湯も一人当たり三合ほどである。それでも、日頃の己を律した生活から離れ、温泉に浸かり、風雅を愛でる一時は気分を高揚させるに十分だったのであろう、しだいに皆が饒舌になって行った。

 このとき、宗務総長は栄経を同道していた。瑞真寺門主の栄経に法国寺貫主選出の任はないが、このときの宗務総長は室町時代の瑞真寺建立に尽力した子院の生まれだったため、縁のある栄経を世に出そうと思ったのである。

 これがある諍いを起こすきっかけとなった。

 宴もたけなわになった頃、誰かが自坊の御本尊の謂れを話した。総本山は別格としても、集まったのは皆大本山の貫主たちである。各寺院は秘蔵書、秘仏に事欠かなかった。

 各々がひとしきり秘蔵物を披瀝した後、最後に栄経の番になった。当然のことながら、栄経は宗祖栄真大聖人が最初に彫った釈迦立像を自慢げに話した。

 極め付けの秘蔵仏である。

 総本山の宗務総長以外の貫主たちは一様に溜息を吐いた。とくに国真寺貫主栄隆の落胆ぶりは目を覆うばかりであった。国真寺は大本山の中では、とりわけ栄真大聖人の真筆、遺品が少なかったのである。

 他の大本山の貫主たちは、国真寺を気の毒に思い、栄隆と目を合わせることを憚ったが、日頃不遇にあった栄経門主は、その鬱憤を晴らすかの如く、ここぞとばかりに勝ち誇った態度を取ってしまった。栄隆と目が合った途端、薄笑いを浮かべてしまったのである。

 侮辱されたと受け取った栄隆は腸の煮え返る怒りを覚えたが、座を考え、その場は耐えた。しかし、国真寺へ帰途の途中、随行していた若い執事につい愚痴を漏らしてしまった。

 当時は現代と比べようもなく師弟の絆が深い時代である。師の話に憤慨した若い執事は、その数日後に国真寺を出奔した。

 若い執事は還俗し、名を駒吉とあらため、寺院の下働きをする小者になった。出奔した目的は瑞真寺の御本尊の強奪である。当初は、瑞真寺へ忍び込もうと考えたが、厨子は施錠されているうえ、そもそも高尾山に隔離された瑞真寺へは近づくことさえ容易ではない。

 そこで、二年後の目黒澄福寺での出開帳に狙いを付けた。駒吉は首尾よく澄福寺の下働きに入り込むことに成功した。だが、思っていた以上に警護が厳しく、駒吉は成す術がなかった。

 落胆した駒吉に吉報が届いたのは、それから三ヶ月後のことだった。翌年、鎌倉の長厳寺でもう一度瑞真寺の御本尊の出開帳があるというのだ。

 駒吉は天の配剤に感謝した。

 この機会を逃すと三十二年後の出開帳を待たねばならなくなる。そのとき、五十歳を超えている自身の生死はともかく、瑞真寺門主の栄経、つまり師の栄隆に恥を掻かせた張本人は間違いなく亡くなっている。

 駒吉は、栄経に煮え湯を飲ませる最後の好機だと腹を括った。

 伝手を頼って長厳寺の下働きに入り込んだ駒吉は、まずは仲間になりそうな者を探した。そうして浮かび上がったのが、鏑木新右衛門(かぶらぎしんえもん)という侍であった。

 鏑木新右衛門は、長年に亘り長厳寺が催す祭礼の際の警護役を務めていた。仲間として警護役ほど最適な者はいない。開帳の間は常に御本尊の傍らにいるのだ。しかも鏑木は長厳寺から信頼を得ていた。いわば警察官が泥棒をするようなものである。また、病弱の妻女を抱え、相当な借財を負っていたのも都合が良かった。

 駒吉は鏑木に仔細を話し、金と御本尊の強奪を持ち掛けた。

 鏑木は悩んだ末に企みに乗ることにした。鏑木は、親戚から資金援助があったと偽り、療養と称して前もって妻を長厳寺の長屋から箱根の温泉宿に移して置き、奪った二百両を持って西国へと逃避した。二百両というのは、妻の薬代を入れても、夫婦二人が十年以上は暮らせる額であった。

 一方、御本尊を手に入れた駒吉は、まっしぐらに国真寺へと向かった。

 仔細を聞いた栄隆は、思いも寄らぬ仕儀に困惑したものの、すぐに駒吉、いや元執事の忠誠に感激した。

 しかし、栄隆が難しい立場に立たされたのも事実である。宗粗栄真大聖人の彫った御本尊を強奪する所業はこのうえない蛮行なのだ。

 といって、いまさら瑞真寺へ返還するわけにもいかない。世間の知るところとなれば、国真寺の名誉は地に落ちる。むろん、元執事の悪事だなどという抗弁は通らない。

 おそらくは、大本山の寺格を剥奪される処分が下されるに違いない。

 悩んだ末に、強奪した釈迦立像を国真寺の御本尊とする腹を固めた栄隆は、その由諸を栄真大聖人が第二回京都巡教の折りと、史実を偽ったのである。

 この秘事は国真寺の歴代貫主のみに受け継がれ、決して外に漏れることはなかった。

 そういう次第で、大本山国真寺の当代貫主作野の、

『宗祖様が手ずから彫った最古の御本尊』

 という言は間違いではなかったのである。


 その日、天真宗瑞真寺執事長の葛城信之は、高尾山を下りて東京都内のホテルにいた。栄覚門主から下された密命を果たすためである。

 室町時代、宗粗家の血族寺院として建立された瑞真寺の御本尊は、宗祖栄真大聖人が手ずから彫った処女作とされる釈迦立像なのだが、実はこの御本尊は江戸時代の享保年間に紛失していた。

 故に御本尊紛失という大失態を隠蔽するため、それ以降開帳は行われていなかった。

 これまでの歴代門主は、苦しい言い訳をして開帳を拒んできたが、ここに来てそうもいかない事情が浮かび上がった。

 二年後の二〇〇〇年、ミレニアムの年に合わせて開催される全国仏教会主催の日本仏教秘仏秘宝展に、その釈迦立像を出展して欲しいとの要請があったのである。いかに、瑞真寺所有の秘仏とはいえ、天真宗を代表しての出展要請である。いい加減な理由で拒むことはできなかった。

 もし、この要請を拒めば法主直々の命で、秘仏の所在確認が実施されると予想された。その結果、御本尊が紛失したことが明るみになれば、何らかの処罰対象になることは明白である。

 最も考えられる処罰は、宗務院による瑞真寺の宗務管理である。宗祖家の寺院である瑞真寺は、室町時代の開山から今日まで、唯一宗務院の監査を受けない不可侵の聖域である。宗務院にとっては苦々しいことこの上なく、虎視眈々と付け込む機会を狙っているというのが実情であった。

 栄覚にとってこの特典を剥奪されることは、ある意味で生きて死を宣告されたのも同然であった。なぜなら、経理、つまり金の入支出経路が筒抜けになれば、彼の野望は根底から瓦解してしまうのである。

 栄覚に心酔する葛城はこの問題解決のために、悪に手を染めようと覚悟を決めていた。そして熟慮の末に、単純にして大胆不敵な秘策を導き出した。

 不遜にも御本尊のすり替えを決断したのである。僧侶にあるまじき蛮行ながら、葛城には外に思い付く手立てがなかった。

 まず、釈迦立像の模倣仏を製作する。

 本物は享保時代に紛失しているので誰も実物を知る者はいない。御真影を写したものが『天真宗本山総覧』に載っているので、これを当代一流の仏師に模写させ、そうえで堂々と開帳しようという企みだった。

 しかしながら、二百数十年も途絶えていた瑞真寺の御本尊を開帳するとなると、否が応でも世間の注目を浴びることになる。実物を知る者はいないが、造詣が深い者の中には、真贋を見抜く者がいないとも限らない。そのうえで、科学的検査が必要などという話になれば万事休すである。

 そこで葛城は、先手を打って仏教美術界の権威である帝都大学名誉教授の海老沼英悟のお墨付きを得ようと、彼を籠絡にすることにした。

 籠絡は難しいことではなかった。海老沼の遠縁に当たる葛城は、彼の弱みを握っていたのである。

 葛城は人目を憚り、東京都内のホテルの一室に海老沼を呼び出した。

 海老沼は六十八歳、帝都大学文学部から同学部博士課程を経て、同じく宗教学科の講師から名誉教授にまで上り詰めた博才であった。

「英悟兄ちゃん、ご無沙汰しています」

 葛城は親しげに声を掛けた。

 葛城は五十歳。彼の父と海老沼の父が従兄弟の関係にあり、幼少の頃より面識があった。

「信ちゃんも元気そうだな」

 一方で、海老沼は緊張の声で応じた。久方ぶりに会いたいとの連絡が有ったときから、嫌な予感を働かせていた。

「学長選挙の方はどうですか」

「な、なぜそれを?」

 いきなりの問いに、海老沼はたじろいだ。

「知っているか、なんて驚くこともないでしょう。英悟兄ちゃんが、学長の椅子を狙っていたことなどお見通しですよ」

 葛城は事もなさげに言った。

 海老沼は浮かぬ顔をした。葛城に心を見抜かれていたからではない。

「その様子では劣勢のようですね」

「う、うん」

「玉不足ですか」

 金欠なのかと、葛城は当たり前のように訊いた。宗教界にせよ極道世界にせよ、はたまた教育界にせよ、猟官運動は世の常である。

「……まあ」

「用立てましょうか」

「な、なんだと」

 思わぬ申し出に海老沼は当惑した。支援の申し出は願ってもないことだが、ただであるはずがない。

 思惑を推し量りあぐねる様子の海老沼に、葛城はさらに意外な言葉を掛けた。

「この世は万事金ですよ」

 うっ……と一瞬言葉に詰まった海老沼は、

「御仏に仕えるお前の口からは聞きたくない言葉だな」

 と、精一杯の皮肉を言った。

「宗教の世界とて同じことですよ。重要な役職は、いや役職だけでなく僧階だって金で買える時代です」

 そう言って海老沼を見据えた葛城の口調が、がらりと変わった。

「それで、金はいるのか、いらないのか」

「い、いるといえば、いくら用立ててくれる」

 海老沼は気圧されるように訊いた。

 葛城は不敵に笑った。

「いくらでも」

「なに……」

  海老沼とて頭の回転が速い男である。その言動で、葛城が何かの悪巧みに引き込もうとしているのではないか、と疑念を抱いた。

「見返りは何だ」

「ある仏像の鑑定をして欲しい」

 海老沼はその一言で悟った。

「瑞真寺の御本尊に偽物の疑いがあるのか」

「さすがだな。たった一言でそこまでわかるか」

 はぐらかすように言った葛城に、海老沼が畳み掛けた。

「開帳しない理由なのだな」

 葛城は一呼吸置いて、そうだと認めた。

「実は、御廟の中は空なのだ」

「はあ?」

 海老沼は間の抜けた声を出した。

「御本尊様は盗難に遭っている」

 葛城は栄覚門主から聞いた経緯を話した。

 なるほど、と肯いた次の瞬間、海老沼の顔からサァーと血の気が失せた。

「ならば、先刻の鑑定というのは、私に嘘を付けということだな」

「察しが良いな」

「馬鹿なことを言うな。犯罪に手を貸せるか」

 海老沼は声を荒げた。

「貸してもらわねば困る」

「お断りだ」

 海老沼は腰を上げようとした。

「まあ、待て」

 葛城は宥めるように押し止めた。

「どうしても駄目か」

「ああ、駄目だ」

 海老沼は強硬な態度を崩さない。

「仕方がないな。そこまで頑ななら、あのことを世間に公表するしかないか」

 葛城は捨て台詞のように言った。

 な、な……海老沼の顔が見る見るうちに紅潮ゆく。

「いまさら蒸し返すのか」

「そちらに誠意の欠片もないのであれば、こちらも容赦はしない」

「……」

 葛城の冷酷な視線に、海老沼は思わず身を竦めた。

「孫の不祥事を不問に付したうえで、金まで提供しようというのだぞ」

 葛城は冷たい目で海老沼を睨んだ。

 彼の言う孫の不祥事というのは、不正入学であった。

 一口に不正入学といっても方法は色々ある。入試問題の漏えいや大学幹部への裏金等であるが、海老沼が行った不正は理事長枠というものであった。

 私立大学というのは、言わば商売であるから、教育陣以外に経営陣が存在する。その筆頭の理事長は数人の合格者枠を有していて金銭で売るのである。

 言うまでもなく、金額の多寡によって判断するのだが、それ以外の判断材料として親戚縁者や親しい知人に売却することもある。いわゆる縁故入学である。縁故入学は公然の秘密であり、いまさら取り立てて騒ぎ立てることもないのだが、当事者が学長選挙の立候補予定者であれば、マスコミの格好のネタになるのは間違いない。

 入学後に偶然裏事情を知った当人が、遠縁でもあり僧侶でもある葛城に悩みを打ち明け、救いを求めた過去があった。

 黙考していた海老沼がおもむろに口を開いた。

「確認したいことがある」

「どのようなことでも」

 答える、と葛城は言った。

「本物の御本尊の行方は」

「はっきりしたことはわからない」

「話からすると、鎌倉の長厳寺にある可能性があるが、異議を唱えることないか」

「先祖の罪を公に認めることなど絶対にない」

 葛城が強い口調で断言すると、

 それはそうだな、と肯いた海老沼だったが、すぐに栄覚と同じ懸念を吐露した。

「他の者の手に有った場合は拙いことになるのではないか」

 ふふふ、と葛城は不敵に笑った。

「それこそが、私の望むところ」

「……」

 わけがわからない様子の海老沼に向かって葛城が言葉を継いだ。 

「こちらには、立国会の資金力と虎鉄組の暴力がある」

 そう言うと、葛城は顔を海老沼に近づけた。

「この意味がわかるだろう」

 栄覚門主は両者に頼ることを必ずしも良しとしているわけではない。つまり、葛城のはったりなのだが、事情を知らない海老沼には大きな効力があった。 

「まずは買取交渉をして、相手が応じれば良し。不調に終われば……」

 葛城が不敵に笑った。

「不調に終われば、どうすると思う」

「まさか、無茶をするのではないだろうな」

「やるさ」

 葛城は躊躇いもなく即答した。

「おいおい、坊主が殺生するというのか」

「安心しろ。いくら何でも殺したりはしないが、脅迫や恫喝、暴行ぐらいはするだろうな」

「じゃあ、間違っても真贋論争が巻き起こることはないと信じて良いのだな」

 海老沼は念を押した。

「無論だ。そうなればこちらも墓穴を掘る」

 海老沼は暫し考え込むと、

「では、段取りを聞こうか」

 承諾の意を表した海老沼に、葛城は御本尊のすり替え計画を話した。

「仏師は誰だ」

「北大路無楽斉(きたおうじむらくさい)を考えている」

「当代一の仏師だが、受けるとは思えんな」

「いや、受ける」

 葛城は強い口調で断言した。

「まさかお前、北大路氏の弱みも握っているのか」

「そのまさかだ、と言いたいところが、残念ながら弱みなど握っていない。いや、必要がないのだ。彼には正当な仕事を依頼をするつもりだからな」

「企みは一切隠すということだな」

 葛城は軽く肯くと、単なる仏像製作を依頼するだけだと言った。

「ただ、どうせなら前立仏として可能な限り御本尊様に似させて欲しいと御真影を渡すつもりだ」

「もし、北大路氏が開帳した御本尊を拝観したらどうなる」

「それはない」

「なぜ言い切れる。仏師だぞ、瑞真寺の本物の御本尊には興味があるだろうが」

「開帳の期間は一週間と短いものにする。そして、その期間を含めて彼には数体の仏像製作を依頼する」

 と言った後、葛城は反論しようとした海老沼を抑えるように言葉を被せた。

「怪しまれないように、瑞真寺ではなく他の寺院から注文させる」

「なるほど。だが、それでも彼が拝観したらどうするのだ」

「たぶん、真贋は付かないと思う」

「……」

「北大路無楽斉には白木で製作を依頼し、出来上がったものに細工を施す」

「年代ものに見せ掛けるのか。だが、相手は当代一の仏師だぞ。しかも自らが製作したものだ」

 見破るのではないか、という懸念を示した。

「そのときは因果を含めるさ」

 葛城が冷徹な声で言った。

――それに応じなかったときこそ、口を封じるつもりだな。

 背に冷たいものが伝った海老沼は、自身の悍ましい推量から逃れるように話題を変えた。

「お前がそこまで門主に肩入れする理由は何なのだ」

 葛城が眉を顰めた。

「い、言いたく無ければ言わなくても良い」

 とたじろぐように言った海老沼に、

「いや。この際だ、俺も腹を割ろう」

 葛城が神妙になった。

「門主様は俺の希望の光なのだ」

「希望?」

「帝都大学の学長の椅子まで狙えるお前にはわからないだろうが、名門宿坊出身でもなく学才もない俺は、天真宗においてはとうてい出世など望むべくもない路傍の石ころのようなものだった。それが、ひょんなことから瑞真寺の執事長という役目を担うことになった」

 総本山の四十六子院は、天真宗開祖栄真大聖人から第十八世法主の栄静(えいせい)上人までの時代に建立されたものである。

 主に宗祖栄真大聖人の高弟たちが建立したものだが、第二世以降は総本山に自坊を持たない法主がその座を辞した後に建立した。

 栄真大聖人から栄静上人までは法主による後継指名だったため、全国寺院の全ての僧侶が対象であった。そこで地方から総本山の法主へ上がった者は、その座を辞して後、自坊に戻らず総本山に留まったのである。

 第十九世法主の選出から、総本山四十六子院のみが後継指名の対象となり、現在のように四十六子院による合議となるのは明治以降のことなのである。

 当然のことながら、この子院の中に栄真大聖人の末弟栄相上人はもちろんのこと、彼の関係者の子院もない。

 栄相上人が仏門に帰依したのは三十歳。このとき、三人の男子を儲けていた。

 栄相上人は、浄土真宗の開祖親鸞上人が妻帯し、その子孫が信者から生き仏のように崇められているを観て、自らの子孫による法統継承を企てた。

 しかし、この企みを看破した栄真大聖人は、栄相上人とその子孫に対し、総本山敷地内の子院創建を許さなかった。

 そのため栄相上人は、妙顕山の西方に連なる枕木山に粗末な草庵を建て、以降彼の子孫はこの地で住まいすることとなった。

 時は流れ、室町時代の初期、一人の偉人が出現した。栄相上人から数えること十一代目の子孫栄羽(えいは)上人である。栄羽上人は、総本山の妙顕修行堂で荒行を成満すること十度、天真宗史上初の千日荒行到達という快挙を達成し、まさに宗祖栄真大聖人の生まれ変わりと、周囲から畏敬の念を集めていた。

 総本山の宗務執行部は、栄真大聖人の、

『後継は一等優れた者にすべし』

 との遺言を堅く守り、それまで栄相上人の子孫を悉く排斥してきたが、この栄羽上人の偉業だけは見て見ぬふりができなかった。栄真大聖人の真意は血脈者排除であるが、言葉を厳密に捉えれば、栄羽上人は、まさしく『一等優れた者』なのである。

 そこで妥協案として、総本山の護山である高尾山に、本山格の瑞真寺を建立し、栄羽上人の子孫の世襲を認めたのである。むろん、世間に堅く秘匿したことは言うまでもない。また、その代償として枕木山の廃庵は、人々の心から忘れ去られて行くことになったのである。

 ただ、一言付しておかなければならないのは、総本山の宗務執行部は、それまでも明白に栄相上人の血脈者だと断定はしていなかった。

 栄真大聖人から、栄相上人の野望を阻止する旨の命を受けた高弟たちが、自分たちの後継者に代々引き継いだものであり、栄相上人が建てた枕木山の草庵に住まいするのは栄相上人の末裔だと推定していたに過ぎなかったのである。

 一方、葛城信之の生家『藤の坊』は、第十六世法主の栄慈(えいじ)上人が開基した四十六子院の中では最も歴史の浅い寺院の一つだったので、明治以降においては、法主はおろか宗務次長の椅子さえ届くことがなかった。

 戦後、その藤の坊にも俊才が現れた。

 葛城執事長の実父栄念(えいねん)上人である。彼は総本山の妙顕修行堂で六度、久田帝法導師時代の天山修行堂で二度の、合わせて八度の荒行を成満した傑物だった。

 いかに末席の子院であっても、これほどの逸材であれば、『法主に……』との声が上がらなくもなかったのだが、運の悪いことに同世代に現法主の栄薩大僧正がいた。しかも彼に合力しているのが、総本山でも一、二を争う名門子院である滝の坊の中原是遠であれば、とうてい栄念に勝ち目はなかった。

 栄念上人は、潔く法主への夢を諦め、人生目標を仏道の神髄を極めることに変えた。

 その栄念上人に思わぬ人物から声が掛かった。

 瑞真寺先代門主の栄興上人である。

 彼は稀有な才能が有りながら、日の目を見ることのない不遇の宿命を背負った栄念と、己の運命を重ね合わせていたのだろうか、それならばと、自身が栄薩現法主から密教奥義伝承者の栄誉を譲られたように、神村から教示された九度目以降の荒行修法の指導を買って出た。

 仏道の神髄に迫りたい栄念上人にとってみれば、それはこの上なく有り難い申し出だったに違いない。

 しかし栄念上人は、十度目の荒行中に体調を崩しこの世を去ることになった。

 葛城信之は、病床にあった父からその恩を何度も繰り返し聞かされていた。

 そこで、瑞真寺執事長の役職が決まったとき、息子の栄覚門主に忠誠を尽くことで父が受けた恩を返そうと決意したのである。

「それとて、本山格の寺院の執事長というだけで、従来であれば明日の光も無い、言わば閑職のような御役目だったのだが、御門主に仕えてみて驚いた。何と、御門主は法主の座を欲していらっしゃるという」

「馬鹿な。栄真大聖人の血脈者たる瑞真寺の門主は、法主の任の埒外にあるはず」

 そのとおり、と葛城は肯いた。

「だが御門主は、その不文律を打破すべく、着々と手を打っておられた」

「先刻の立国会と虎鉄組だな」

 それだけではない、と葛城はゆっくりと首を左右に振った。

「全国の大本山・本山の貫主や、驚くべきことに敵陣の本丸ともいうべき宗務院の中にも気脈を通じた者を作っておられた」

「ほう。宗務院の中にもか」

 海老沼は感心したしたように顎を摩った。

「ただ、そうして外堀は埋められつつあったが、内堀は手付かずの状態だったのだ」

「内堀?」

「肝心要の瑞真寺内に味方が一人もいないということだ」

「それで、お前が内応したのか」

「むろん、それだけで宗務院を裏切ったのではない。実際に御門主にお仕えしてみて、その知力、胆力に驚いた。間違いなく、天真宗の頂点に立つに相応しい器であられる。いや、日本仏教界と言い換えても良い」

「それほどの器か」

 葛城は無言で肯くと、

「そして、御門主の野望はこの私がいてこそ成し得る偉業なのだと悟ったとき、命を懸け てみる気になった」

 と揺るがぬ決意を語った。

「そうまでしてお前が得る見返りとは何だ」

「見返りなどない。亡き父が先代御門主様から受けた御恩返しだ」

 ふん、と鼻で笑った海老沼は、

「表向きはいい」

 とにべもなく言った。腹を割れと促しているのだ。

「御恩返しというは嘘ではない。半分は本心だ」

「で、残りの半分はなんだ」

 数瞬、葛城は躊躇った。

「天真宗の裏支配」

「裏?」

「天真宗には、総本山の妙顕修行堂と久田帝玄が所有する天山修行堂があるのは知っているな」

「天山修行堂の方が圧倒的だな」

 海老沼は仏教美術界の重鎮である。この程度知識は持ち合わせていた。

 海老沼の皮肉を葛城は黙って受け流し、

「その天山修行堂の運営を任せて貰えるよう御門主にお願いする」

「しかし、あそこは久田個人が所有する寺院だぞ」

「そのようなこと、御門主が法主になられれば如何ようにでもなる」

「仮にそうなったとしても、お堂は荒行の場……」

 高僧でもない者に務まるはずがない、と疑義を唱えようとしたのを葛城が遮った。

「だから、導師など望まないし、できもしない。あくまでも運営責任者となる」

 経理と人事の権限を獲得するというのである。たしかに、この二つを掌握できれば、畏敬の念こそ抱かれずとも、半ば支配したのも同然であった。

「大それたことを……」

 そう呟いた切り、しばらく押し黙った海老沼は、

「そのような大事を私に話して良かったのか」

 と今更ながら訊いた。

「いいさ。これでお前の孫が裏口入学したことを知る俺と、俺の野望を知ったお前とは五分になった」

 言外に、お互い抜き差しならない関係になったのだと示唆した。

「そうするために、わざと話してくれたのか」

「英悟兄ちゃんとは親戚じゃないか」

 葛城の口調が元に戻った。

「段取りはわかった。それで、私はどうすれば良い」

「さっきも言ったように、一般の開帳に先駆け、関係者を招いてお披露目する。英悟兄ちゃんも招待するから、そのとき感嘆の声を上げて称賛してくれれば良い」

「ただ、それだけか」

 そうだ、と葛城が顎を引く。

「あまりやり過ぎると、却って疑念を抱かれかねない」

 そうかもしれないな、と同意した海老沼が急に煮え切らない態度になった。

「それで、その……」

 と口籠った。

「最初に言った金ですね。いくら欲しいですか」

「できれば、二億」

「二億? 学長選など一億、いや五千万もあれば十分じゃないですか」

「いや、それが、なんだ……」

 海老沼が視線を逸らした。

「また愛人でも作りましたか」

 葛城は海老沼の好色を知っていた。

「まあ、そのようなものだ」

 海老沼は気まずそうな顔を向けた。

「わかりました。二億用意しましょう」 

 少し間をおいて発した声には侮蔑の色を含んでいた。


 瑞真寺に戻った葛城は、海老沼の懐柔成功と見返りの金銭要求を報告した。

「二億とは足元を見られたな」

 葛城が頭を下げた。

「申し訳ございません。足が出た一億は私の失策ですので、私の方で用意いたします」

 栄覚は首を横に振った。

「執事長にはこれからも力になって貰わなければならない。それを金のことまで面倒を掛けるわけにはいかない」

「しかし、御門主様には何かとご入用がございます」

「二億や三億の金で心の棘が取れるのであれば安いものだが、そうは言ってもたしかに、これから先、何かと物入りになるのは目に見えているのでな、出来得る限り出費は押さえたい」

 そう言った栄覚は、何か言いたそうな葛城に気づいた。

「執事長、前にも言ったが、勅使河原を頼ることはできないのだ」

 はい、と葛城は肯いた。

「では、他の支援者を当たりますか」

「金の使い道が使い道だからのう」

 帝都大学学長選の賄賂に使うとは言えなかった。

「とはいえ、使途目的を問われたら、財界人に嘘を吐くような真似はできないし……」

「となりますと、寺院に求めましょうか、たとえば九州の菊地上人あたり……」

「たしかに冷泉寺は肉山だが、今は無理だろう」

 森岡に痛めつけられたばかりである。金の無心は憚ろうと栄覚は言った。

「では、村田上人か一色上人、坂東上人は……」

「奴らは金を貰うことには血眼になるが、決して差し出すことはしないだろう」

 栄覚は嘲笑するように言った。

「雲はどうでしょう。雲の自坊は相当な肉山ですし、御門主に忠誠を誓っています」

「雲はもっとも拙い。森岡に気づかれでもしたら、元も子もなくなる」

 と言った栄覚の口元が、次の瞬間不敵に緩んだ。

「そうだ。その森岡からせしめよう」

「えっ、たった今森岡に気づかれたら元も子もなくなるとおっしゃったばかりでは」

 葛城が驚きの眼で言う。

「そう思ったが、森岡に気づかれずに奴の金を巻き上げる方法が浮かんだ」

「はあ」

「執事長、こちらへ」

 首を捻った葛城を手招きして近くに呼び寄せた栄覚が、耳元で何やら囁いた。栄覚の言葉を聞いていた葛城の顔が見る見るうちに気色の色を帯びていった。


 数日後の夜のことである。

 森岡がくつろいでいたロンドに神村がふらりと現れた。連れはなく一人だった。

 森岡は驚愕した。たしかに彼の知らないところで、幸苑やロンドで飲食はしていたが、その場合は谷川東良をはじめとして必ず随伴者がいた。森岡が知る限り、神村が一人で夜の街をうろつくことはなかった。

「先生、どうされたのですか」

「ロンドに来れば、君に会えると思ってね」

 森岡は再び目を丸くした。なるほど茜と将来を約束して以来、森岡は連日のようにロンドに顔を出していたが、そうであれば連絡をくれれば良いのだ。

「何か緊急の事態でも起こりましたか」

「いや、そうではない」

 神村がそこで言葉を切った。

「先生、なんでもおっしゃって下さい」

 言葉を躊躇う神村を森岡が促した。

「折り入って君に頼みがあってね」

 その深刻な表情に、森岡は人払いをした。

「どういったことでしょう」

「いや、なんだ。金を融通して貰いたい」

「ああ、そのようなことですか」

 森岡は安堵した顔をすると、

「承知しました。いくらでしょう」

「それが、二億ほど」

「いつまでに用意すれば宜しいですか」

「できれば二、三日中に」

「では、明後日の午前中に、経王寺へ現金を持って上がります。それで宜しいですか」

「それはありがたいが、何に使うか聞かないのかね」

「そのような些末なことはどうでも良いことです。前にも申しげましたが、今日(こんにち)私があるのは先生のお蔭です。私の金は先生のお金です。どうぞ、ご自由にお使い下さい」

 これは森岡の本心である。

 森岡が経王寺に寄宿していたとき、神村は一切の金銭を受け取っていない。その後、結婚してからは月に一度、自宅の御本尊に、さらにウイニットを設立してからは同じく会社の御本尊にそれぞれ読経を依頼し、五十万円ずつの布施をしていた。

「いや、済まない」

 神村が頭を下げた。

「やめて下さい、先生」

 森岡はあわてて止める仕種をした。

「実は、私の方も先生にお願いしたことがあったのです」

 そう言うと、森岡は茜を手招きした。

「先生の本妙寺貫主就任が決まりましたら、彼女と結婚をしようと思っているのですが、また先生に仲人をお願いしたいのです」

「ほう。それは喜ばしい」

 と頬を緩めた神村だったが、

「だが、仲人は遠慮する。今度は財界人のどなたかにお願いしなさい」

 いえ、と食い下がろうとした森岡を神村が制した。

「まあ、聞きなさい。今の君は、以前の君とは違う。自ら興した会社を上場しようとしているばかりか、榊原さんや福地さん、そして世界の松尾正之助氏らと共同事業を始めるというではないか。先々のことを思えば、私よりその松尾氏の方が適任だ」

 神村は有無を言わせぬ目をしていた。

「わかりました。仲人の件は諦めます。ですが、式は今度も経王寺でお願いします」

「それも、断ろう」

「えっ」

 森岡は真っ青になった。仲人を断られたうえ、結婚式の導師も拒絶されたのである。

「おいおい、そのような暗い顔をするな。私は経王寺での式を断っただけだぞ」

 神村が微笑んだ。

「私の貫主就任が決まった後であれば、本妙寺で挙式したらどうかね」

 ああ、と森岡は安堵の溜息を吐いた。

「宜しいのでしょうか」

 経王寺は神村個人所有の寺院だが、本妙寺は天真宗所有の寺院である。勝手なことが許されるのか、と訊いたのである。

「問題ない。ついでに披露宴会場にしたら良い。今度は招待客も多いだろうから、幸苑では無理だろう」

「重ね重ね恐れ入ります」

 森岡は恩師の配慮に感謝の頭を垂れた。

 神村の金策は栄覚門主の策略だった。栄覚の命を受けた葛城は、宗務院宗務次長の中原遼遠に会い、神村に二億円の借用を指示した。神村は義理人情に弱い。恩師である中原是遠の嫡男で、弟弟子でもある遼遠の願いであれば、理由も聞かず調達に奔走するであろう。

 むろん、調達先は森岡だということもわかっていた。

 森岡は神村に心酔している。彼もまた、何も聞かずに用立てるに違いない。そして、神村も森岡も返済の催促などしないだろうから、実質的に贈与されたも同じであった。


 首尾良く海老沼英悟を取り込んだ葛城信之は、その足で北海道へ飛び、札幌市の郊外にあるホテル・ルネッサンス札幌の寿司店で、ある男と会食していた。当代一の仏師との誉れの高い北大路満兼(みつかね)である。号を無楽斉(むらくさい)と称した。

 無楽斉は七十九歳。高齢のためか、酷く痩せている。頬は痩け、両眼は窪んでおり、一見したところではまるで髑髏である。だが、そのせいでもあるまいが、僧侶の間では、無楽斉の彫った仏像には仏が納まり易いとの高評価を得ていた。

 仏像を御本尊として奉る場合、僧侶が読経して仏の魂を込めるのだが、粗末な仏像だと上手く入魂できないのである。再々読経に詰まったり、一旦入魂した仏が出て行ってしまったりすることもあるのだ。

 その点、無楽斉の彫った仏像は、読経を始めるやいなや、仏自ら進んで納まるのだという。

「実は、無楽斉先生に仏像の製作をお願いしたのですが」

「どのような仏像をご所望でしょうか」

「当寺の秘仏である釈迦立像の前立仏をお願いします」

 前立仏とは、普段は公開することのない秘仏の厨子の前に身代りとして安置され、礼拝者にその尊容をしのばせる仏像のことである。お前立ちともいう。

「秘仏と言いますと、栄真大聖人の処女作と言われている仏像ですか」

「そうです」

「ほう、それはまた願ってもない申し出ですが、前立仏とはどういう仔細ですかな」

 無楽斉は怪訝そうに訊いた。

「久しく世に隠れていた瑞真寺も近年は参拝客が多くなりまして……とはいえ、当寺の御本尊は開帳をしておりません。それを知らない参拝客は、一様に肩を落として帰られるのです。御門主はそれを気の毒に思われ、せめて御本尊を模した仏像を拝観して頂ければとお考えになったのです」

 葛城はさらりと言って退けた。

「なるほど、仔細はよくわかりました。そういうご趣旨でしたら喜んで受けさせて頂きます」

 ありがとうございます、と頭を下げた葛城はにやりと口元を緩めた。

「それで、時間はどれほど掛かりましょうか」

「最優先で取り掛かりましても、物が物だけに時間の猶予を所望したい。そうですね、来年のお盆前までには仕上げたいと思います」

「それで結構です」

 秘仏秘宝展は二年後の春である。来年の夏にまでに出来上がれば、その後年代物に見せるための細工を施しても、晩秋から年末の開帳に持ち込める算段が付く。

「失礼ながら、お礼は五千万を考えていますが、足りるでしょうか」

「五千万? それは過分に過ぎます」

 無楽斉は、恐縮して答えた。

 いかに人間国宝とはいえ、依頼した釈迦立像は全長五十センチほどの仏像である。相場で言えば二千万円でも高額と言えた。もっとも、美術品というのは値段があるようでないものである。三千万円といえば三千万円であるし、一億円といえば一億円なのである。

 葛城は御本尊の御真影を無楽斉に手渡して瑞真寺に戻った。


 森岡は東京で懐かしい人物と会った。

 東京国祭展示場、通称『東京ビッグサイト』で開催されている、東京国際グラフィックフェアーへの招待を受け、七年ぶりの再会を約束していたのである。

 招待状を送付したのは、菱芝電気の柳下であった。森岡の元上司である。

 菱芝電気はコンピューター機器の製造販売と各種ソフトウェアーを製作する会社だが、近年はコンピューターグラフィックを駆使した映画やドラマの製作にも進出していた。その一環としてブースを確保し、自社作品の展示を行っていた。

 森岡は元上司の熱心な誘いを受け、忙しい合間を縫って参じたのだった。

 もちろん今後のウイニットの事業展開に参考にするための視察も兼ねていた。

 森岡が待ち合わせ場所に指定された会場内の応接室に到着したとき、柳下はすでに同伴者と談笑していた。応接室といっても、会場の一角を簡易のパーティションで間仕切ったもので、入り口側の正面はガラス張りとなっていた。

「お待たせしましたか」

 森岡は声を掛けながら中に入った。

「おう。森岡君、私たちも今着いたところだ」

 と、柳下は笑顔で応じた。

「ご無沙汰をしております。常務に昇進されたとか、おめでとうございます」

 祝意を述べた森岡に、

「いやいや、常務など柄ではないが」

 柳下は謙遜し、

「それより、君に紹介しよう」

 と同伴者の二人を引き合わせた。

 一人は菱芝電気の営業部門担当副社長の草野、もう一人は取引先企業の社長で『甲斐』と名乗り、それぞれが名刺を差し出した。

 森岡は甲斐と目が合った瞬間、

――これは……。

 と何やら胸の奥に怪しいざわめきを覚え、甲斐は甲斐で、

――はて、この面差しは誰かに似ているような。

 と記憶の襞を手繰っていた。

「貴方が噂に名高い森岡さんですか。いつかお会いしたと思っていました」

 草野が何やら思惑のある目で追従した。

「私が名高いなどと、ご冗談は止めて下さい」

 真顔で否定した森岡に、

「いいえ。この柳下常務などは、貴方のことは誉めそやすことしかしません」

「副社長、そうおっしゃいますが、私が役員になれたのは、明らかに彼の業績があってのものでしょう」

 柳下は悪びれずに言った。

「ところで、ウイニットの上場の方はどうだね」

「それが、様々な事情がありまして、少し遅れそうです」

「様々の中には、富国のことも含まれておりますか」

 草野が口を挟んだ。

「良くご存知ですね」

 森岡は感心したように言ったが、心中には疑念が渦巻いていた。

「昨今のITブームの中、関西が本拠の御社は注目の的ですからね。動向は耳に入ります」

 如才なく答えた草野が探るような眼をした。

「代わりの引き受け先は決まりましたか」

「松尾電器の松尾正之助会長に一任しておりますが、今のところ確定はしておりません」

「えっ、松尾会長?」

 草野は上ずった声を上げ、

「森岡君、君は松尾会長と懇意なのかね」

 柳下も驚きの眼差しで訊いた。

「懇意というほどではありません」

 森岡はやんわりと否定した。余計な勘繰りを避けるためである。

「会長から松尾技研さんとの提携話を持ち掛けられまして、不釣合いを理由に一旦はお断りしたのですが、どうしてもと頭を下げられたものですから、仕方なく受けたという経緯があります」

 森岡はどこまでも泰然としていた。

「おいおい、一旦断っただの、会長が頭を下げられただのと、よく平気な顔で言えるな。相手は世界の松尾会長だぞ」

 柳下は呆れ顔になった。むろん彼らは、森岡が松尾から実の孫娘のように寵愛されている山尾茜と結婚する予定であることなど知るはずもない。

「はあ、どういう巡り会わせなのか、私も当惑しているのです」

 まるで他人事のように言う森岡に、

「そうすると、松尾会長は持ち株会社設立にも絡んでおられるのですかな」

 草野が気を取り直したように訊いた。

「持ち株会社のことまでご存知とは、これは恐れ入りました」

 森岡は目を丸くして驚きを表現したが、心の中では、

――仕組まれていたのか。

 との意を強くしていた。

「そのうえ、持ち株会社にはあの大手食品会社である味一番も参画するそうじゃないですか」

「何やら、身上調査のようですね」

 森岡はとうとう苦笑いを浮かべ、

「福地社長は亡き妻の父、つまり私の岳父だったお方でして、その関係から参画されますが、私が経営に口出しすることは一切ありません」

 と強い口調で否定した。

「いや、立ち入ったことをお聞きし、気を悪くされたのなら謝ります。ですが、後継の第一候補と目されていた娘婿の須之内君が解任されたようで、他社(よそ)のことながら気になっていたのです」

 草野はそう弁明すると、

「福地社長の後はどなたが継がれるのでしょうな」

 とさり気なく核心に触れた。

「それが、福地社長の悩みの種でして、適任者が見つからず困っておられます」

 森岡は何食わぬ顔で嘘を吐いた。

 実は、三友物産専務の日原淳史からは正式に受諾の返事を貰っていた。

 しかも、当初の五年後ではなく、決断したからにはできるだけ速やかに任に当りたいという前向きなものだったが、その日原にどのような影響が及ぶかわからない、と配慮したものだった。

「どなたか信頼できる方がいらっしゃいましたら、ご推薦下さい」

 森岡は甲斐の目を見て言った。

 甲斐が黙ったまま、ただ会釈を返したのを受けて、

「さて、世間話はこれくらいに致しまして、折角ですから私はブースを見て回ります」

 と席を立った森岡が、一旦掴んだドアノブから手を離した。

 森岡はやおら振り返りながら、枕木山の秘事と御本尊開帳のどちらを示唆するか瞬時に判断した。

「そうそう。甲斐さん、御山はもうすっかり雪景色でしょうね」

 一瞬、面を強張らせた甲斐だったが、すぐに笑みを作り、

「先日、かなりの積雪がありました」

 と答えた。

 だが森岡の、

「それでは、穴も塞がったでしょうね」

 との問いに、顔面から笑みが消え去った。

 森岡は、確信に満ちた笑顔を覗かせ、

「ますます、寒くなるでしょうから、風邪など引かれませんよう、お身体には十分お気を付け下さい」

 と言い残して退室した。


「どうでしたか」

 草野が甲斐の表情を窺った。

「想像の遥か上を行く男ですな」

 甲斐は腹の底から搾り出したような声で言った。

「曰くのある問いにも、全く動揺を見せない泰然自若とした態度、眼つき、風格、気力……全てが聞きしに勝る男ですな。端倪すべからざる人物とは、まさにあの男を形容するためのものだと思いました」

「そ、それほどまで、ですか」

 草野は恐れるように訊いた。

 うむ、と肯いた甲斐は、

「いやはや、この目で確かめたのは正解でした」

 と嘆息した。

「去り際の言葉はどういうことでしょうか」

「すでに私の正体を見抜いていたのでしょうな。これもまた空恐ろしい」

 むむむ……と草野が唸った。

「では、仕組まれたことと察知していながら、敢えて飛び込んで来ましたか」

「おそらくは……」

「穴がどうのこうのと言っていましたが」

「それは、放念して下さい」

 甲斐の厳しい目付きに、

「あの三人の男は、護衛でしょうか」

 と、草野は森岡の傍らに寄り添う者たちに話を転じた。

「そうでしょうな。神王会の蜂矢とも接触があったようですから、そのあたりかもしれません」

「蜂矢? そうなりますと、ますます厄介なことになります」

 草野は苦々しげに言った。

「副社長、どういうことですか」

 柳下は当惑の声で訊いた。

「森岡の力量のほどを探ったという話だ」

「力量? いったい何のためですか」

「君は知らない方が良い」

 草野は、語気を強めて言った。

 部屋を出た森岡を、すぐさま南目と蒲生そして足立が取り囲んでいた。そして、森岡があるブースの前に立ち止まったところで、蒲生が耳元に口を近づけ、

「真ん中に座っていた体格の良い男性は誰ですか」

 と訊いた。

「甲斐という取引先の社長と紹介されたが、違うだろうな」

 森岡が吐き捨てるように答えた。

「私は、一度あの男を目にしたことがあります」

「どこでだ?」

 森岡は、周囲から怪しまれぬよう身動き一つせずに訊いた。

「監物照正氏の警護に当っていたとき、プライベートとで飲食していました。遠目でしたが、間違いありません」

 蒲生は強い口調で断言した。

 彼はまだ若く、配属されたばかりだったので、監物の近くに居て警護していたわけではなかったが、周辺警護としてチームの一員だったという。

――やはり瑞真寺の栄覚門主だったか。

 ついに姿を現した黒幕に、森岡は武者震いを禁じ得なかった。


 瑞真寺に戻った栄覚の許に執事長の葛城が掛け付けていた。

 森岡の評価を聞くためである。

「いかがでございましたか」

「とんでもない男だ」

 栄覚の口調には畏怖が感じられた。葛城は人に対して怯えるような門主を初めて見た。

「あの男は当寺の秘事まで知っておった」

「秘事とおっしゃいますと、例の?」

 栄覚は黙って肯くと、ふっと息を吐いた。

「この際だ。執事長にも話しておこうか」

 葛城は目を皿のようにして栄覚の口元を注視した。

「実はな、枕木山には水晶の鉱脈があるのだ」

「水晶、でございますか」 

 葛城は意外という顔をした。鉱物であれば金ではないかと推量していた。

「なあんだ、と思っているな」

 葛城の心底を見抜いた栄覚が言った。

 いえ、と恐縮した葛城に、

「水晶は馬鹿に出来ないぞ。しかも良質の大鉱脈が眠っているらしい」

「確かなのですか」

「江戸時代の中期、第十八世門主の栄日上人が戦国時代の備忘録を発見され、代々門主に申し送りとなった」

「僭越ですが、いかほどの価値があるのでしょう」

「栄日上人が残された古文書には、密かに山師に調査させたところ、最低でも二万両、場合によっては三倍の六万両の値打ちがあると記してある」

 葛城は首を捻った。

「現在ではいかほどでしょうか」

「江戸時代初期の一両は、現在の八万円から十万円に相当するようだ。だが、物価が違うから単純には比較できまい。それより、当時は一両あれば庶民の親子四人がどうにか一ヶ月間生活出来たようだ」

「当時とは家賃が随分違うでしょうから、現在ですと三十万円ぐらいでしょうか」

「そのようなものかな」

「となりますと、六十億から百八十億ということになりますか」

「水晶の値打ちそのものが当時と今日では違うだろうから、そう単純ではあるまいが、その半分としても最低三十億の値打ちということになる。諸経費や税金を引いても十億程度は手に入る。私にはそれで十分だ」

「いかにも十億もあれば、御門主の野望を実現するための費用として事足ります」

「だが、森岡に尻尾を掴まれた」

「真実(まこと)のことでしょうか」

「鎌を掛けられたとでもいうのか」

「私にも秘匿されていた大事です。あの者が知る道理がありません」

「あれだ」

「あれ?」

「何と言ったかな、森岡の部下を虎鉄組が拉致監禁をしたことがあっただろう」

「確か、坂根とか言いました」

「恫喝で済ませば良かったものを、拉致監禁などしたものだから、却って森岡に疑念を抱かせたのではないかな」

「たったそれだけで、ございますか」

「あの男、そういう直感は人並み外れているようだ」

「しかし御門主。森岡が枕木山に疑念を抱いたとしても、水晶の件まで把握しているかは未知数でございます。こちらが慌てふためけば向こうの思う壺になるかもしれません」

 栄覚はしばらく沈思した。

「たしかに執事長の言うとおりかもしれないのう。良し、この件は静観するとして、それより例の件はどうなっている」

「御本尊様のことでしたら御心配には及びません。すべて順調に運んでおります」

 葛城は胸を張ったが、栄覚の面には憂いがあった。

「何か、御心配な点でもございますか」

「森岡だ」

「まさか、いかな彼でもこの件には気づいておりますまい」

「わからぬぞ。国真寺の事もあるでな」

「あれは作野貫主の吹聴が原因です。対してこちらに情報漏れはありません」

「それはそうだが、こちらに全く動きがないわけではない」

 栄覚は、北大路無楽斉への仏像製作依頼と海老沼帝都大学名誉教授への鑑定依頼を示唆した。

「二つとも私が極秘裏に進めております。それを森岡が知るとなれば、相当な強運の持ち主、いや霊力が備わっていることになります」

 葛城は有り得ないことだと言ったが、

「そこだ、執事長。このあたりがチクリと痛んでならん」

 と、栄覚は胸のあたりを摩った。

「考え過ぎでございます。水晶鉱脈の件は虎鉄組の失点が端を発したもので、私はそのような愚行は犯しません」

 うむ、と栄覚は頷いた。

「水晶の場合は金を失うだけだが、御本尊様の件は私を含め瑞真寺の未来を失うことになる。くれぐれも慎重にな」

 栄覚は悲壮な表情で念を押した。

 その栄覚に朗報が舞い込んだ。

 葛城が貫主室から退室した直後、携帯電話が鳴った。

「なに! そ、それは本当か」

 栄覚は、らしからぬ驚愕の声を上げた。そして、それまでの憂いが嘘であったかのように表情が一変した。

――やはり私には天運がある。

 ふう、と安堵の吐息を一つ吐いた栄覚は、襖を開けて縁側に佇むと、感慨深げに西の空をいつまでも見続けていた。

 








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