第42話  第六巻 決意の徒 飛翔

 その夜、森岡はまんじりともせず一夜を過ごした。

 栄覚門主の目論んだ挫折感に打ちひしがれていたのではない。一時の敗北感から立ち直り、打開策を模索していたのである。

 とはいえ、京都大本山本妙寺の新貫主選出の合議までわずかに三日。とてものこと新たな籠絡など無理な相談だった。

 森岡に残された選択肢は二つ――。

 すなわち座して敗北を待つのか、恥を忍んで栄覚門主に跪くか。

 菊池龍峰に追い詰められ進退窮まったとき、当時政敵だった総務藤井清堂の懐に飛び込んだように、坂根好之が広域暴力団虎鉄組に拉致監禁されたとき、祖父洋吾郎の仕打ちに恨みを抱いているであろう唐橋大紀に救いを求めたように、此度も不倶戴天の敵である栄覚門主に頭を下げるべきかどうか、思いを巡らしていたのである。

 栄覚門主と取引をするということは、取りも直さず総務清堂や景山律堂に対する背信行為である。しかも、たとえ栄覚門主に跪いても彼が取引に応ずる保証はない。

 東の空が白み始めた頃、悩みに悩んだ森岡は、ついに栄覚門主と直談判に及ぶ腹を固めた。


 翌日、森岡は帝都ホテル大阪に泊まった景山律堂にその旨を正直に明かした。

 瞬時、茫然となった景山だったが、すぐさま平静を取り戻した。

「取引材料は、例の御本尊ですか」

 いいえ、と森岡は首を横に振る。

「あれは門主の野望を食い止める切り札ですから、最後の最後まで取っておきます」

「では、他にも何か弱みを握っていると……」

 景山が期待の声で訊ねた。

「貴方に御手数をお掛けしておいて黙っていました。お許し下さい」

 そう言って森岡が頭を下げようとしたのを、

「止めて下さい、森岡さん」

 と、景山はあわてて止めた。

「それで、どのようなことでしょうか」

「その前に、門主と立国会の勅使河原会長とは一枚岩ではないようです」

「と言いますと」

「門主は勅使河原から金銭的支援を受けていません」

「そうなのですか」

「実際に籠絡工作をした私が言うのです。間違いありません」

「わかりました。でも、それでは野望の実現のための金策はどのようにして」

 森岡がにやりと微笑んだ。

「まさに、そこです。実は、枕木山には水晶の大鉱脈があると思われるのです」

「な、なんと。本当ですか」

 はい、と森岡は肯いた。

「これは驚きですが、それで枕木山を探っておられたのですね」

 景山は得心したように肯き、

「しかし、枕木山に目を付けられたのは」

 何故か、と訊いた。

 森岡は、岡崎家での小梅の身請け話の顛末を語った。

 枕木山を探索していた坂根が虎鉄組に拉致監禁され、身代金として五億円支払ったこと。そもそも坂根が枕木山で拉致されたのは、彼の山に秘密があるのではないかと睨み、友人に調べて貰ったこと。そして、実際に栄覚門主に鎌を掛けて反応を見たことを話した。

「開いた口が塞がらないとはこのことですね」

 景山は呆れたように言った。

「貴方の周囲には何かしら災いが起きますが、いつもそれを逆手にとって有意な材料を手にされる」

「偶々ですよ」

「御謙遜を……。やはり貴方は実力のうえに、強運の持ち主らしい」

 景山はあらためて賛辞を贈ると、

「貴方が敵でなくて良かった」

 つい、本音を漏らした。

 もっとも当初は敵対していたのである。景山はあらためて胆の縮む思いをしていた。

「それで、どういう条件を提示されるおつもりですか」

「枕木山の材木の伐採権を門主の息の掛かった業者に譲る代わりに、明後日の会議では神村先生を選出するよう協力を願います」

 景山は首を捻った。

「憚りながら、門主には支援者が多くいますので、水晶の件は致命傷にはならないでしょう」

 と門主が応じない可能性を示唆した。

「そのときは潔く諦めましょう」

 森岡は即答した。

「良いのですか。神村上人は森岡にとって唯一無二のお方のはず。間違いなく取引に応じるであろう、御本尊の件を突き付けた方が良いのではないですか」

「それでは総務さんとの約束を破ることになります」

 厳しい顔つきで言った森岡に、景山は思わず口走った。

「それは私が何とかします」

 ふっ、と森岡は笑みを零し、

「御心遣い感謝します」

 と丁重に頭を下げた。

「そもそも、総務さんとの約束も守れない者が神村先生を法主に押し上げるなど、傲慢にもほどがあるというものです。総務さんは神村先生の向後にとって欠かせぬお方です。裏切ることはできません」

「総務さんがお聞きになれば、さぞ喜ばれるでしょう」

 景山は感謝の頭を垂れた。

 景山から報告を受けた総務藤井清堂は、宗務院の永井宗務総長に命じ、自身の代理として森岡と面談するよう瑞真寺に申し入れさせた。

 このとき、景山は師である清堂に枕木山の水晶の件を話してはいない。瑞真寺の御本尊の秘密を暴露さえすれば栄覚門主の命脈を絶つことができ、水晶の件はおのずと解決されるからである。

 総務清堂にしても、窮地に立たされた森岡が、瑞真寺の御本尊の件を取引材料に使うかもしれないという懸念は抱いていた。だが、それでも申し出に尽力したのは、一色魁嶺の処分を決める会議で、森岡の願う結果に導かれなかったという負い目を感じていたからである。

 瑞真寺門主の栄覚はその申し入れを了承した。

 彼にすれば、今日の明日という緊急要望を拒否することもできたが、予定を変更してまで森岡と会うことにした。

 理由は簡単である。総務清堂の強い要請もさることながら、一度会ってみて、ますます森岡という人物に対する興味が深まっていたからである。

 景山の案内で森岡は瑞真寺の境内に足を踏み入れた。

 瑞真寺は室町時代初期に建立された、宗祖栄真大聖人の末弟栄相上人の血脈寺院である。したがって傍系ではあるが、宗祖の血を受け継ぐ寺院に間違いはない。

 敷地は本山格を与えられた寺院としては狭かったか、総本山から離れた高尾山でも、さらに隔離された伽藍は清浄閑静このうえなく、いかにも宗祖家血脈者の威厳と高徳を忍ばせるに足る佇まいであった。

 森岡は、総本山の本堂とは一味違う霊妙な空気に、身を引き締めて訪いを告げた。

 景山と蒲生、足立の三人は庫裏で待機させられ、森岡一人が応接室に通された。

 十五分ほど待たされた後、いよいよ栄覚門主が姿を現した。

 森岡を見た栄覚は、一瞬、おやっというは顔をしたが、小さく頭を下げ、視線を落として森岡は気づかなかった。

 栄覚が座したのを見計らって森岡が視線を上げた。

「やはり、門主様でしたか」

「見破られていたようだの」

 二人はそう言い合った切り、凝っと相手の目を見合ったまま、口を開かなかった。

「この雪でまた穴が塞がったわい」

 しばらくして栄覚の口から漏れた言葉であった。

「雪が溶けても何も無いでしょう」

 森岡が柔和に返す。

「ほう。何も無いか」

「ございません」

「……そうか、無いか。だが、仮に有ったとしても私は痛くも痒くもないぞ」

「伐採権を手にしております」

 うっ、と栄覚は言葉に詰まった。

「やるな。どのようにして手に入れた」

「伐採権を持つ野津さんの借金の肩代わりを致しました」

「その者とは昔からの知り合いなのか」

 いいえ、と首を横に振った森岡は、勅使河原の奸計が瓢箪から駒を産んだと告げた。

――勅使河原め、余計なことを仕出かしおって……。

 栄覚は苦虫を噛み潰す思いをぐっと押し止め、

「たしかに採掘には君の許可が必要になるが、私としては必ずしも必要なものではないでな」

「枕木山の財宝が無くても、野望は敵いますか」

 栄覚は再び眼を剥いた。

「知っておるのか」

「何となく」

「何となくとは、言いおるな」

 栄覚は複雑な表情で言った。

「だが、幸い私には支援者が多いでの」

「ですが、最大の支援者であるはずの勅使河原は遠ざけておられます」

 くくく、と栄覚は苦笑いをした。

「何という男だ」

 余裕を繕った栄覚だったが、その実は背に冷たいものが伝っていた。

「勅使河原の他にもいるのでな」

「門主様ほどのお方ですから当然でしょうが、門主様は御自身お一人の力で成し遂げたと考えておられるのではないですか」

「いかにもそのとおり」

 栄覚はあっさりと認めた。

「だがの、あくまでもできればであって、どうしてもではないのだよ」

「では、交渉決裂でございますね」

 森岡は腰を上げようとした。

「まあまあ、そう結論を急ぐでない」

 栄覚は思わせぶりな言い方をした。

「せっかくの君の申し入れだから考えてみようと思うが、何せ合議は明日だからの。確約はできないぞ」

「結構でございます。門主様を信じ、もし結果が悪くても枕木山のことは捨て置きます」

「そのように私を信用して良いのかの」

「遠大な野望をお持ちの方が、私如き虫けらのような者を欺かれるはずがございません」

「うむ。君の期待に最大限応えるようにしよう」

 栄覚は厳しい顔つきで言った。


 瑞真寺の応接室を出た森岡は、庫裡で待つ景山と蒲生そして足立と合流し、さらに彼ら瑞真寺の山門を出たとこで、神栄会若頭補佐の九頭目弘毅他三名の極道者が付き従った。といっても、九頭目らは世間を憚り別の一行のように離れて護衛をしている。

 森岡から栄覚門主との会話の一部始終を聞いた景山は驚きを隠さなかった。

「良く門主が応じましたね」 

「私も意外でした」

 森岡も正直な感想を述べた。

「本当に動くと思われますか」

 栄覚は神村選出を確約してはいない。最大限努力すると言っただけである。景山は額面どおりに受け止めるのは危険だと示唆した。

「結果がどうであれ、私は水晶の件は不問に付すつもりです」

「門主を信じる理由は何ですか」

「彼が大いなる野望を抱いているからです」

 なっ……。景山は何を言っているのだ、という眼つきをした。

 栄覚門主は、まさにその野望の障害となる神村正遠を蹴落とすために画策しているのである。

 不審顔の景山に向かって森岡が諭すように言った。

「景山さん。私はね、もし門主が言葉だけで済ますような人間であれば、むしろ安心できると思っているのです」

「して、その心は?」

「法主の座を血脈家の世襲にしようなどという、歴史のタブーに挑戦するような革命児が私程度の男との約束を反故にして、大それた野望が成し遂げられるはずがありません」

 森岡洋介の哲学は首尾一貫している。

 人の上に立つような、あるいは大いなる野心を抱く者は、必ずやその思想には一本芯が通ってはずである。したがって、一旦約束したことは必ず守るという極めて単純なものであった。 

「むしろ、疑心暗鬼なのは向こうでしょう。神村先生の選出に協力したものの、いざというとき伐採権を盾に妨害する可能性があるわけですから」

「なるほど、言われてみればそうですね。ということは、門主も貴方を信じたということですね」

 いや、と森岡は渋い顔をした。

 景山にとっては予想外の反応だった。

「門主は貴方を信じていないのに取引に応じたのですか」

「いえね。一応信じたとは思いますが、それ以外に何か切り札を握っている気がするのです」

「どのような」

「それはわかりませんが、神村先生が本妙寺の貫主になっても、いっこうに困らないような別の材料を手中にしている。門主にはそのような余裕さえ感じました」

 ふむ、と景山は考え込んでしまった。

「まあ、私の考え過ぎかもしれません。まずは、明日の合議の成り行きを見守りましょう」

 高尾山から総本山の本堂前に戻ったところで、森岡は景山と別れた。


 方や瑞真寺でも、執事長の葛城信之が景山と同様の懸念を栄覚に漏らしていた。

「森岡の言うことをお信じになるのですか」

 栄覚は黙ったままだった。

「調子の良いこと言って、いざとなったら約束を反故にするのではありませんか」

 葛城は珍しくも語気を荒げた。

「まあ、聞きなさい。執事長の言うとおり、わしもそのような疑念は抱いた。だが話が進むにつれて、とてものことそのような姑息な男ではないことがわかった」

「さようですか」

 葛城は不満げに言った。

「只者ではないとは思っていたが、どうやらそれだけではないようだ」

「とおっしゃいますと」

「神村をはじめ久田や総務清堂、はたまたあの松尾正之助まで肩入れしているのはなぜかわかったような気がする」

「御門主、森岡は敵ですぞ。そのように御褒めになってどうするのですか」

「そのことだ。あの男、敵に回すと厄介だが、味方にすればこれほど心強い者もいない」

「な、何をおっしゃいますか」

「森岡一人が居れば、勅使河原も虎鉄組も村田や一色、坂東も必要が無い」

「そうまでおっしゃいますか」

「考えても見よ、執事長。彼はオセロゲームのように、次々と敵を寝返らせたではないか」

「……」

 葛城は反論できなかった。なるほど、総務清堂と景山律堂、宗光賢治と鬼庭徹朗も当初は敵対する側にいた人物だった。

「是非とも欲しいのう」

「しかし、あの男は神村一筋、それを味方に付けるのは……」

 無理だと、葛城は言った。

「それはそうだが、神村がいなくなれば、その限りではあるまい」

「神村を害するのですか」

「馬鹿なことを。そのような愚かなことをするはずがないではないか」

 栄覚は語気を荒げた。

「失言でした」

 葛城は肩を窄め、

「では、いったい」

 と、栄覚の顔色を窺った。

「まあ、良い。それはしばらく置いておこう」

 と言った栄覚が首を傾げた。

「それよりあの男、誰かに面影が似ておる」

「初対面の折りにもそのようにおっしゃっておられましたな」

「何やら、懐かしい気分も湧いていた」

「懐かしい……? となりますと、御門主が子供の頃の記憶でしょうか」

「子供の頃だと?」

 栄覚の脳が敏感に反応した。

「ああー、叔母様だ」

 と思わず叫んだ。

「叔母様と申されますと、あの?」

「その叔母、栄観(えいかん)尼様の面影が重なったのだ」

 栄覚は畏怖するように呟いた。

 栄観尼とは、瑞真寺の前門主栄興の末妹で、天真宗が建立した尼寺である真龍寺(しんりゅうじ)の門主をしている尼僧である。

「私は栄観尼様にお会いしたことはございませんが、はたしてそのようなことがありましょうか」

 暗に、気のせいではないかと言った。

「それはそうであろう。叔母様は子供を生むどころか、御結婚されたこともない」

 と言った栄覚の顔はどこか虚ろ気だった。 


 翌日、京都大本山本妙寺の次期貫主を選出する合議が行われた。

 会合場所は京都の別格大本山法国寺だったのだが、これがまた前代未聞の波乱の幕開けとなった。

 まず、相心寺貫主の一色魁嶺が、規律委員会から下された厳重戒告処分を受けて、自主的に半年間の謹慎処分を申し出たところ、宗務院から承認されたと報告し、退席してしまったのである。

 これにより、九名の貫主による合議となったのだが、さらに刻限の午後二時になっても、桂国寺貫主の坂東明園が姿を現さないという不穏な事態も重なった。

 合議責任者の久田帝玄は、皆の了解を得て三十分待つことにし、その間を利用して、執事長に命じ事態の急変を森岡に伝えさせた。

 一色魁嶺の退出の報を受け、それが栄覚門主の指示であると理解した森岡は、複雑な心境に陥っていた。

 栄覚門主が約束を果たしてくれたことには感謝しつつも、よりによって規律委員会で救った一色魁嶺を説得するとは思ってもいなかったのである。

 しかも、栄覚門主は金銭的な要求をしなかった。それはつまり、一色魁嶺の説得も金銭によるものではないという可能性が高いことを示している。栄覚門主が身銭を切ってまで説得するとは思えないからである。

 あの強欲な一色が、栄覚門主の言葉には素直に従うというのか。それほどまでに、宗祖家の血脈者という威光は大きいというのか――。

 結局、三十分待っても坂東明園の訪山はなかった。

 実はその頃、坂東は京都市内のホテルの一室で、示談交渉に臨んでいた。法国寺へ向かう途中、京都市内の国道で執事が運転する車が接触事故を起こしたのである。

 相手はその風体から暴力団と思われた。

 坂東明園はすぐに警察に通報しようとしたが、相手に封じられた。無理を通そうとすれば、いかなる報復を受けるとも限らない。

 現に、彼らの仲間と思しき連中が、何食わぬ顔で妻と談笑する写真を見せつけられてはどうすることもできない。相手は示談に応じれば、無茶なことはしないと約束したので、ホテルの一室での交渉となったのである。

 ところが、坂東が条件提示を求めても、世間話をするだけでいっこうに話に乗って来なかった。法外な要求や難題を押し付けるといった気配もなく、ただ雑談に興じているだけなのである。

 坂東明園は大事な会合があると、即時の身の開放を求めたが、それだけは頑として受け付けず、また外との連絡は厳しく遮断した。

 坂東は、ようやく彼らの目的が自身を法国寺の会合に出席させないことにあると気づいた。気が付いたが、同時にどうすることもできない現実も突き付けられていた。彼らの指示に従わなければ、己だけでなく家族の身も危ないのである。

 はたして二時間後、坂東は無事開放されたが、とうとう男たちは金を一円も求めなかった。そして去り際に、兄貴分と思しき男が、自分たちは神戸神王組傘下の神栄会の者であると告げた。言うまでもなく、これは坂東の行動に釘を刺したものである。

 男たちが立ち去ると、坂東明園は急いで法国寺へ連絡をしたが、すでに本妙寺の新貫主として神村正遠が選出された後であった。

 これは森岡洋介の謀であった。

 彼は規律委員会の裁定で一色魁嶺を合議から外し、坂東明園には足止めを食らわす計算だったのである。

 一色魁嶺が厳重戒告処分に終わったため、坂東明園への謀は無意味となるはずだったが、栄覚門主を信じた森岡が、当初の計画通り神栄会に実行させたものであった。


 師走とはいえ穏やかな日だった。

 森岡洋介はウイニットの役員に加え、全国から課長職以上を本社に集め、拡大幹部会議を開いた。このような召集は会社創立以来初めてのことで、四十数名の参加者は一応に緊張を強いられていた。

 会議の冒頭、森岡は神村正遠の一件の報告を行い、長期に亘る協力に礼を述べると共に、筧克至と 宇川義実の裏切りを詳細に説明し、自身の不徳を陳謝した。

 そして、

「さて、この場に皆を集めたんは相談のためではない。俺が決めた今後の方針を伝えるためや。これから話すことは俺の命令であり、不服の者はたとえ野島でも容赦はせん。ウイニットから出て行ってもらう。そのつもりで聞いて欲しい」

 と一同を見渡した。

 すでに緊張を強いられていた幹部社員は、恫喝にも似た森岡の言葉に、さらに蒼白となった。

「まず、ウイニットの上場後、俺は速やかに社長の座を野島に譲るつもりだったが、これを白紙に戻す」

「うっ」

「えっ」

 困惑と動揺の入り混じった溜息とも言えぬどよめきが広がった。

 森岡から野島へという既定路線が白紙に戻った。副社長の野島は、こと事業に関しては森岡がもっとも信頼を寄せる片腕のはずである。その彼が外されたことは、皆に波乱の幕開けを予感させた。

「野島の処遇は一番最後に申し渡す」

 そう言われた当の野島は、緊張の中にも達観した落ち着きがあった。森岡のことである。何か思惑の有ってことだと信じていた。

「俺の最後の仕事として、松尾技研と業務提携を行う」

 今度は歓声に近いどよめきが巻き起こった。

「当面、資本提携はしないが、ソフトウェアの共同開発などを通じて、人材の交流は頻繁になるやろ。向こうに侮られんようしっかり頼むぞ」

 森岡はそう言い置くと、 

「次に、住倉」

 と名指しした。

「は、はい」

 住倉は、まさか自分の名が呼ばれるとは思ってもいなかったような顔つきである。

「お前は榊原商店の社長になってもらう」

「榊原商店?」

「全国の寺院を相手にした仕事や。年商はうちより遥かに多い」

「寺院? どうして私が……」

 住倉は戸惑いの表情を見せた。

「寺院相手の商売となると、まずは正直、誠実が重要なんやが、何よりもまして肝心なのは、榊原さんの想いを受け継ぐことなんや」

「……」

 それがどうして自分に繋がるのか、住倉にはわからない。

「住倉、それは無欲に徹するということや」

「馬鹿な、商売をしていて欲を出すな、儲けるなと」

 住倉は、当然の疑問を呈した。

 森岡は、榊原が現在の商売を始めた経緯を話した。

「正直、誠実、無欲という観点から眺めたとき、俺の周りにお前以上の者はおらん」

「そう言って頂けるのは光栄ですが、私にできるでしょうか」

「大丈夫や。五年間は榊原の爺さんの指導を仰ぐことになるがな」

 ここで森岡の言葉があらたまった。

「住倉さん。ここは一つ黙って引き受けて貰えませんか」

 菱芝電気以来の敬語を使って頭を下げたのである。住倉は森岡の二歳年上で、菱芝電気では先輩であった。

「社長、止めて下さい。わかりました。おっしゃるとおりにします」

 住倉は恐縮して頭を下げた。

「しかし、社長。住倉専務が抜けるとなりますと、管理部門は誰が見るのですか」

 野島が不安げに訊いた。

「野島副社長、住倉専務の代わりが見つかったのですよ。そうでしょう、社長」

 中鉢が明るい声で訊いた。

「中鉢、住倉のような好漢がそうそう簡単に見つかってたまるか」

 森岡がにやりと笑った。

「だが、それなりには考えている」

「はい」

 野島と中鉢が耳を傾けた。

「まず、総務部長の荒牧を取締役に昇進させる。荒牧、お前には経理以外の庶務全般を任せる」

「あ、有難うございます」

 荒牧は震える声で言った。

「そして、経理担当専務として、富国銀行梅田支店の池端支店長を招聘する」

「えっ!」

「池端支店長?」

 経営企画室部長である坂根好之と住倉が驚きの声を上げたが、二人の思いは異なる。

「池端さんは、うちの株式引き受けを断った人物です。そんな人間をうちに入れるのですか」

 と不満顔で継いだ。

「住倉、それは誤解や。むしろ池端さんは上層部の決定に異を唱えられ、左遷の憂き目に遭われようとされている」

「それは、本当ですか」

 住倉に代わって坂根が訊き返す。富国銀行梅田支店の支店長池端勲夫は、坂根が交際している敦子の父親だが、彼は娘に何も話していなかったようだ。

「本当や。せやから、俺からお願いした。住倉、そういうことだ」

 森岡はそう言い含めると、話を進めた。

「経理にはもう一人、資産運用担当部長として石飛将夫が加わる」

「石飛って誰や?」

「初めて聞く名だ」

 多くの幹部社員が首を傾げて顔を見合わせる中、

「何であいつが……。いや、どうして石飛が仲間に加わるのですか」

 南目が怒ったように訊いた。坂根と蒲生は困惑の色を浮かべている。

 無理もなかった。石飛将夫は、あわや森岡の命を絶ったかもしれない刺傷事件の加害者なのである。坂根には忸怩たる思いが残っていたし、蒲生は森岡の真実の告白を聞いていた一人だった。


 石飛将夫は、ウイニットで森岡洋介と対峙した後、しばらく大阪の西成で日雇いの仕事をしていたが、秋の彼岸に合わせて、故郷浜浦に戻った。石飛家は廃屋となっていたが親戚は残っている。それに村八分になってはいたが、当人が亡くなっているうえ、葬儀関係に関しては対象外だった。  

 もっとも、その村八分というのも石飛家の誤解で、実際はそのような古い因習はない。その事実を知った将夫は、鹿児島の冷泉寺に預けてある両親の遺骨を浜浦の墓地に納骨したいと欲し、園方寺を訪ねたのである。

  園方寺の当代住職の道仙は、将夫の依頼に快く応じ、先代住職の道恵も、

「それは良いことを思いつかれましたな」

 と感慨深げに言った。

「三十年近くも経ってしまいました」

 将夫も少年時代に想いを馳せていた。

「灘屋の洋吾郎さん、洋一さんも亡くなりました。洋介さんは些末なことに拘るお方ではありません」

「何のことでしょうか」

 将夫は怪訝な顔つきで訊いた。

「はて?」

 道恵もまた訝しげに将夫を見た。

「貴方は、一家が浜浦を追われた理由をご存知ないのですかな」

「知っています」

 と、将夫は自分が実弟浩二の事故死に不審を抱き、洋介に纏わり付いたため、洋吾郎の不興を買ったと話した。

「ふむ」

 と、道恵は考え込んだ。

「そうではないのですか。事実、洋介君も認めています」

 将夫は、洋介から聞いた事故当時の状況を話した。

「なんと、そのようなことがありましたか」

 道恵ばかりでなく、道仙もまた嘆息した。

「何か不審な点がありますか」

「実はの、総領さんは十二歳のとき、弟御が亡くなった同じ笠井の磯で身を投げられておられるじゃよ」

「まさか……」

 将夫は絶句した。

「母の駆け落ち失踪に始まり、洋吾郎さんと洋一さんが相次いで世を去られたでの、悲しみは如何ばかりかと推察しておったが、まさか自殺を図られるとまでは思っておらなんだ。なるほどの、弟御の死の責任に苛まれておられたか」

 道恵は得心したように言った。

「だがの、将夫さん。そのとき、総領さんの心に巣食ったのは悪魔ではなく、仏様やもしれませんぞ」

「……」

 将夫は言葉の意味がわからなかった。

「弟御の御遺体は、一時当寺へ安置されましたが、その折事故現場を検証した捜査員たちは、口々に総領さんが良く無事だったと言っていました。もし、弟御を無理に助けようとされていれば、間違いなく二人とも溺死したということじゃった」

 道恵は、そのとき灘屋の祖霊が、洋介の心に邪気を生ませたのだろうと言った。

「現場を確認して、私もそのように思いました。しかし、当時の私はそれでもなお納得が行かず、また灘屋の権力も頭に入っていませんでした」

「いや、そこが違うのです」

「どこが、どう違うのですか」

「言い難い話ですが、貴方の一家が浜浦を追われた真の理由は、定治さんが灘屋の金を横領していたからなのです」

「なんと……」

 将夫は茫然自失となった。

 道恵は、止むを得ず定治の首を切った苦しい胸の内を洋吾郎から聞いていたのである。

「では、私は逆恨みをしていたのですね」

「逆恨みと申せば逆恨みでしょうが、弟御の死に関しては、至極当然のことでしょうな」

 道恵は庇うように言った。

「しかし、洋介は私に何も言いませんでした。事実を知らなかったのでしょうか」

「総領さんの性分からすれば、たとえ知っていても話されないでしょうな」

 将夫は道恵の言葉に納得したように肯くと、

「それにしても、彼もずいぶんと辛い目に遭っていたのですね」

「心に重い十字架を背負って生きておられるようです」

 そう言った道仙は、はたと気づいた。

「仏教徒の私が口にする言葉ではありませんでした」

 と苦笑いをした。

「良いお話を伺いました。お陰様で心の霧が晴れました」

 将夫は明るい顔で園方寺を後にした。

 それから十日後、身辺を整理した石飛将夫は再び森岡の前に現れ、申し出を受ける旨を伝えたのである。


「石飛は証券業務に精通している。ウイニットの上場作業に役立つし、その後のM&Aや資産運用業務にも力になってくれるやろう」

「しかし……」

「南目、もう決めたことや。本人も心を入れ替えると言うてることやし、いつまでも過去に拘っていては先に進めんやろう」

 森岡は宥めるように言った。

「兄、いや社長がそれで良ければ、これ以上私に言うことはありません」

 南目は、不服顔をしながらも最後は折れた。

「さらにウイニットの監査役として鴻上智之を登用し、併せて彼には寺院ネットワーク事業推進会社の社長に任ずる」

「鴻上智之とは誰ですか」

 野島が訊いた。

「元、富国銀行にあって将来の頭取候補と嘱望されていた男だ。事情があって今回俺と縁を結んだ」

「なるほど、優秀な元銀行マンでしたら会計監査は打って付けですが、システム開発はできるのですか」

「いや、システム開発と保守はウイニットでやる。別会社は取引寺院の開拓や商品の販売を担当する」

「それであれば異論はありません」

 野島は納得したように言った。

 森岡はさらに話を進めた。

「中鉢、お前を大阪本社勤務に戻し、俺の後のウイニットを任せる」

「うおー」

 再び怒号のような呻きが充満した。

「な、なぜ私なのですか。野島副社長を差し置いて社長などできません」

 中鉢は困惑の体で断った。

「お前の返事は、俺の話が終わってから言え」

 森岡は中鉢を睨み付けた。

「は、はい」

 中鉢は魔物にでも気圧されたかのように弱々しい声で答えた。

「ただし、二年間は別の仕事をしてもらう。つまり、その二年間は俺が引き続き社長をするということや」

「別の仕事ですか」

「それも後で話す」

 森岡は一旦話を切り、

「桑原、お前を常務取締役に昇進させ、中鉢の後の東京を任せる」

「私が……」

 桑原は思わず席を立った。

「桑原、東京は支店から支社に格上げし、人員も大阪並みに増強する。しっかり頼むぞ」

 森岡の激励に、

「はい。ご期待に沿えるよう頑張ります」

 と深々と腰を折った。

「次に土門、お前を専務取締役に昇格させる。中鉢を補佐してくれ」

「私がいきなり専務取締役に」

 土門は驚いたように訊いた。

「東京支店長の任にあったとはいえ、中鉢は経営経験が浅いから宜しく頼む」

「承知しました。御期待に添えるよう力を尽くします」

 緊張の声で言った土門は、

――松尾技研との業務提携とは恐れ入った。思った以上の大物だ。

 と心の中で呟いた。

「三宅、船越も取締役に就ける。そして坂根もや」

「え?」

 坂根は唖然として言葉が無かった。

 彼はまだ二十九歳の若さであったし、コンピューターシステムの技術者でもなく、営業に従事した経験もなかった。だが、浪速大学を優秀な成績で卒業した頭脳を持ち、大手広告代理店に勤務していたことから、事業経営ということには長けている。

 森岡の想いは別として、それが周囲の評価であった。

「坂根には三年ほど台湾へ行ってもらう」

「台湾、ですか」

 坂根が訝しげに訊いた。

「台湾にウイニットの子会社を設立する。詳細は後で話すが、お前には社長をやってもらう」

「私が社長だなんて、とても無理です」

「何を言うとんのや。お前は三十歳になるやろ。俺がウイニットを立ち上げたのも三十歳やったんやで」

「社長と同列に扱わないで下さい」

 坂根は抵抗したが、

『厳命である』

 との森岡の言葉には逆らえなかった。

「後は、俺に代わって他の者の昇任を発表しろ」

 森岡は野島に命じると、書類を渡した。

「長谷川・システム開発部第三課長を同部長に、風間・ゲーム開発部第一課長を同部長に、兵頭営業部第一課長を同部長に、度会総務部課長を同部長にそれぞれ昇任させる。次に……」

 野島の昇任内示の発表が終わったとき、血の気を全く失った者たちがいた。インターネット開発部次長の棚橋と、主任にも拘らず、出席を命じられていた萩原と宇都宮である。彼らは、筧からウイニット造反を持ち掛けられていた三人であった。

 彼らの胸中には、

――とうとう、この日が来たか。

 という共通の失意があった。

 ウイニットを解雇にこそならなかったものの、筧克志の誘いに乗っていたのは事実である。森岡の、裏切り者には一切容赦ない苛烈な性格からして、そのまま無罪放免というのは引っ掛かりがあった。

「さて、最も重要な案件に移る」

 森岡の決意の迸った声に、一同は再び背筋を伸ばした。

「棚橋、萩原、宇都宮の三人には、向こう五年間英国勤務をしてもらいたい」

「はあ?」

 三人の口から一様に息が洩れた。

「安心しろ、決して左遷やない。俺の話を聞いて、なお納得が行かない場合は、最初に言ったとおり辞めてもらっても構わん」

 森岡はそう言うと、ブックメーカー事業について縷々説明した。

 事業のために新会社を設立するが、日本の法規により、本体を国内に置くことができないため英国に設立すること、当面は森岡自身が社長に就任するものの、日本国内に留まることを付け加えた。

「社長、野島副社長はこの事業を任されるのですね」

 住倉の得心したような発言に、皆も揃って肯いた。ブックメーカー事業が大事業であることは誰の目にも明らかだった。そのような事業は野島しか任せられないだろうというのである。

 しかし、皆の推量に反して森岡は、

「いいや」

 と首を横に振った。

「この新事業は、五年後を目途に南目部長に引き継ぐ。だが、それまでの最初の二年間、お前に英国へ行って欲しいのや」

 と、森岡は中鉢を見た。

「先ほどのお話ですね」

 中鉢は察したように言った。

「資金繰りは俺が日本にいて段取りするが、それ以外のことはすべてお前に任せる」

 森岡の言葉に、中鉢は黙って肯いた。

「新会社とウイニットとの資本関係は全くない。したがって、事業が失敗してもウイニットに影響がないようにする」

 森岡はそう言って、一同を安心させると、

「ただ、技術面での協力をお願いしたい。そこで、新会社の技術統括責任者として棚橋を借り受けたいのや」

 と、野島に顔を向けた。

「萩原と宇都宮は棚橋の両腕ですね」

 野島が確認した。

「ウイニットからは、彼らの他に十名程度出向させて欲しい」

「十名で宜しいのですか」

「人事募集を掛けて、とりあえず三十名ほど採用するつもりだが、中核はあくまでもウイニットの社員にしたい」

「では、私と棚橋で十名の人選をしましょう」

 と、野島が請け負った。

「棚橋、萩原、宇都宮どうする。いやなら、断っても良いんやで」

「五年で良いのでしょうか」

 野島の問い掛けに棚橋が訊き返した。

「お聞きしていますと、インターネットの普及と共に、将来は携帯電話を使った投票も広がりを見せるでしょう。ソフトの開発は止め処が無いと思いますが」

 先見性のある意見だった。

「さすがやな。時代の流れはそうなるやろうな。しかしだ、海外勤務なんて三年が限界や。俺は五年も駐在してもらうことに負い目を感じている」

 森岡はそこで溜息を一つ吐いた。

「そうは言ってもなあ、ソフトウエア技術レベルにおいて、うちにはお前以上の者はおらん。しかも、お前は英語が堪能ときてる。向こうにいる五年の間に、出来得る限りのソフトを開発して欲しいのや」

 と言うと、

「そこでや、中鉢。棚橋が帰国したら、役員にしてやって欲しい」

 森岡が頭を下げた。

「お気持ちはわかっているつもりです。萩原、宇都宮他十名の昇進、昇給も考慮します」

 中鉢が強い口調で請け負った。 

「社長……」

 棚橋は感涙に咽ぶような声を上げた。

 懲罰どころか、森岡が人生の浮沈を掛けた大事業の中核に据えてくれただけでなく、その後の出世を約束してくれるなど望外のことだったのである。

 萩原と宇都宮も潤んだ目を隠すように俯いていた。

 二人の様子を見た棚橋は、

――筧の誘惑に乗る前に、社長が気づいてくれて本当に良かった。

 と心の中でつくづくそう思っていた。

「さて待たせたが、最後に野島の案件に移る」

 森岡の凛とした声が響き渡った。

 再び、その場に緊張の波が押し寄せた。ウイニット起業成功の大功労者の処遇が言い渡されるのである。皆が息を呑んで森岡の言葉を待った。

「野島には味一番の取締役になってもらう」

「な、なんですと……」

「まさか……」

 野島の社長就任を白紙に戻した発言のときより、大きなどよめきが起こった。

 あまりに意外な申し渡しだった。

 味一番は年商約九千億円、この三十数年間増収増益の、我が国を代表する食品会社の一つなのである。それをいかに野島といえども、役員に据えるなど常識では考えられなかった。

「実はな」

 森岡は持ち株会社の全容を打ち明けた。

 今度は、うおーという津波のような大歓声が巻き起こった。

 坂根と南目は、浜浦へ帰省の帰途で聞いていたし、蒲生と足立は森岡の傍らにいて耳に入っていたが、当然のことながら四人とも口外はしていなかった。ただ、その彼らにしても、森岡が野島を役員に送り込む腹でいたとは知る由もなかった。 

「何と、驚きました。社長は、年商一兆円企業群のトップになられるのですね」

 住倉が言うと、

「松尾会長の個人会社も参画するということは、松尾技研との業務提携以上に、うちと松尾電器グループは密接な関係となるのですね」

 と、中鉢も顔を綻ばせた。

 だが野島は、その顔に不安の色を滲ませていた。

「私がいきなり味一番の取締役など、受け入れてもらえるとは思えないのですが」

 味一番は非上場とはいえ、創業五十年を迎える歴史を持つ企業である。創業時の役員も残っており、いかに元娘婿の片腕とはいえ、いきなりの異分子流入には反発が予想された。

「たしかに通常であれば、お前の言うとおり難しかったかもしれんが、ある事件のお蔭で、味一番の大半の役員は福地社長の意向には逆らえないのや」

 森岡は他言無用を前置きし、初めて娘婿の須之内高邦による、拉致監禁事件の顛末を打ち明けた。

「そのようなことがありましたか」

 野島が唸った。

「福地社長の解任動議には、数名の古参役員以外は皆賛成の意向だったようだからな、面倒なことはない」

「しかし、私は味一番で何をするのですか」

 当然の懸念だった。野島は菱芝電気、ウイニットとコンピューターシステム開発しか経験がなかった。

「味一番は、将来の上場に向けて、関連企業も含めコンピューターシステムを一新する。そのシステム開発の責任者に任ずる。むろん、システム開発はウイニットが受け持つ」

「上場? 味一番は上場しないはずでは……」

 なかったのか、と野島が疑問を呈した。味一番は社内留保金だけでも一兆円を有に超えていた。上場しなくても資金繰りに困ることはなかった。

「これまで上場しなかったのは、福地社長の眼鏡に適う後継者がいなかったからや」

「それが、社長という後継者を得たので、上場も視野に入ったということですか」

 そういうことだと言った後、またしても森岡がとんでもないことを口にした。

「そこでだ。日原さんは五十八歳やから、頑張って貰っても十五年というところやろ。その後はお前が社長をやれ」

「わ、私が味一番の社長ですと」

 空いた口が塞がらないとのはこのことだ。

「いくらなんでも味一番の役員連中が認めるわけがありません」

「十五年もあるのだぞ。今言ったように役員の大半は福地社長には逆らえんし、古参の役員は引退しているか、すでにこの世にはいない」

「お言葉ですが、役員たちが福地社長に逆らえないと言っても事と次第によると思います」

 そのとおりだ、と森岡は笑みを浮かべた。

「ます、福地社長の持ち株の大半は俺に相続される」

「えっ! ということは上場後の筆頭株主は社長となるのですか」

 野島が驚愕の声で訊いた。いかにかつての娘婿とはいえ、今は法律上の縁は切れているのである。

「そういうことやが、もう一つ駄目を押す」

「はあ」

 野島は首を傾げた。

「取締役に就くに当たって、松尾会長と東京菱芝銀行の瀬尾会長にお前の推薦状を書いてもらった」

「推薦状?」

「昔で言えば、神君と言われた徳川家康のお墨付きみたいなものやな」

 そう言って笑った森岡に対して、野島は落胆を隠し切れなかった。

「本当にシステム開発が終わってもウイニットには戻れないのですね」

「当り前やがな。その頃ウイニットは中鉢が仕切っている。お前の帰る場所などない」

「しかし、システム開発が終われば味一番などあまりに畑違いでしょう」

 尚も逡巡する野島に向かって、

「何を言うとるんや。お前は大学院まで行って何を学んだんや? コンピューターシステム開発の方が畑違いだったんやないか」

 と、森岡は言ったものである。

 あっ、と野島が口を半開きにした。

 野島の京洛大学での専攻は化学だった。大学、学部そして修士課程までもが福地正勝の後輩でもあった。

 さて、と森岡が足立統万に目配せをした。

 統万は部屋を出て行くと、しばらくして三人の男性を連れて戻って来た。

「皆、今俺が言った新しい仲間や」

 森岡は池端律夫、石飛将夫、鴻上智之を紹介した。

「それにしても、えらいことになりそうやなあ」

 住倉が他人事のように呟いた。

「ええか、よう聞いてくれ。上場を境にして、うちは大きな飛翔のときを迎えることになる。皆も人生を掛けて協力して欲しい」

 森岡はあらためて決意の程を示した。




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